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葉舟
嘘を吐かれるのはいい。次を信じないだけだ。おかあさんはかなを産んでから死んだ。だからかなは嘘だった。 ずうっと一緒やで。 言葉が、日に透く葉の裏表のように嘘をつくると思った。指でさせば通じる。からだは土でできていて、嘘がない。 にい、にいよお。 聞かないふりをする。まってぇ、まってぇや。 いつも、弱さが俺の目の前で指図する。弱い者が、強い者のようになり、強い者は、弱い者を佑けていい顔をした。どちらでもない者は、どちらかのふりをした。いや、嘘だ。どちらでもある者しかこの世にはいない。 振り向くと、かなはもう半ばべそをかいていた。足を止め待つ。待つ姿を見、口元をひきむすんで、肉と骨にまとわれた一歩。すべて愚かに思えた。 にい、やっぱりまだ早いんとちゃん。 南中をおわらせた陽が竹藪を透いて、薄暗い山路をひかりで動かす。これから山は閉じてゆき、冷たい匂いの立ち込める懐になる。それまでにはまだ幾らもあった。 にい。 振り返って撲りつけることを思う。撲れば、かなは臆面もなく顔をつぶれて、泣くだろう。それこそ嫌だった。 言うように、木の子の育つには、早かった。向かうのは墓だ。かなの母親。場処は知っていた。何度も父に伴われた山筋を辿る。だが、それが木の子のように、匿れるように眼の端に、さがしている。 墓は山のかたちに列び、奥の区は来る者もいないように荒れ朽ちた竹が倒れかかる。誰ともわからない墓の側をあけて埋めたそのときかなは乳飲子で、親戚の小母さんに抱かれてこの世にあるものがみな綺麗で、正しく組み立てられているから何も心配はないとでもいうようにちいさな拇指を吸い眠った。 だれの? わかるくせに聞くのだと思った。 だれの? 母さんや。お前の。 どんな顔をしたら胸がすいたのか。だが午前の遮光布のようにくちもとをゆるめた。 にい、お父が言うとったで、お祈りしよ。 両手を組んでいる。いつ習ったのか知らない。ただ倣っただけか。指のいっぽんいっぽんが互い違いに組み合わされて、力をなくす。促されても手は組めない、組んでも、組めない。何度祈っても奇蹟のひとつもしない神に祈りなどいらないと、思うことはやめられない。 おまえひとりでせえ。 斜めに塞ぐ竹をくぐった。褪せて湿った竹の葉が散り敷いた道なき道が見える。細い獣らの踏跡を途切れるとみえてもかそけく延びる撚り糸。進むほどに、身体はほどける。腐ってあたたかく積もる葉の匂いが濃い。どこかで竹が倒れ鳴る。鳥が沈黙で歌を歌った。知った歌。山に風が吹き、ざわめきが胸に弁を通り抜けるいま、眼に入るものが身体になって、おれは、おれでなくなるかのように、地をめぐる。 どこまでも行くつもりで、わざと径すじを覚えない。陽が傾いて木々の奥がくらがりを滲みこぼすように、もう時を数えない、戻る陽はなくした。 かなは今ごろ山を下り、そして父に泣きつく。父なら一晩を待つ、と思う。そして、さがす。 おかあさんとかなが居間で座りこんで何かをしている。ままごと。いま母はわらった。かなが何かを表したいように諸手をあげる。顔は見えなくとも上機嫌とわかる、性の同じ名前できっとおれが出ていけばやめてしまう、そんな飯事で、ふたりして、戯れているのは夢だった。おかあさんはかなが乳飲子の頃に、朝、起きなかった、それをいま幼子がみる悪い夢として忘れていることもできると思う、かなの丸い背、いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾。 大事にしたらないかんぞ、父が言った。わかっていることだった。だから信じもした。だがあんたが、信じていたなら、どこに言うことがいった? 祭りに行こうと呼ばわるのを無視した。行けという声に腰をあげる。花火が上がる。ひとが行き交い、交う、声が輻輳しゆらぎはみだす幻に中らないようにもした。手をつないでいてやれ。先へ先へゆこうとする。押し留めるようにはんたいの力をこめる。それでもふたりして押し流されていった。提灯が川岸に列んだ。かなは気に留めずどんどん行く。きのうにちぎった小笹は一葉欠けたままか。ほんの少しで手が解ける、行った先の側溝の上でかなはあの時も半べそをかいた。見つけるなり、なんでどっかいったん、と責めてやはり泣いた。行ったのはおまえだった、先へ先へ。おれはどこへもいかなかった。それをまた忘れて花火に燥ぐ。おれは誰とも花火を見られなかった、おまえがいたために。 土は冷たい、いつでも土は、手のひらほど温かくはない、精液が一条注がれただけで、胎に自分が生まれたとはどうしてもわからない。なぜ血ではなかったのか、泪ではいけなかったか。 鳥が三度鳴いた。背を地につけ息を鎮めると、そこらじゅうで枝葉が擦れた。風がまわった。 にいよお。 黒く艶めく土で指を汚す、抉る、膚との境は少しも溶けてゆかない。 土にならないものに目をくれてはならない、行って、行って、知らないと言え、そうして行った先の、沈みかかる納屋、黙りつづける農具の傍では。いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。
葉舟 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 5572.2
お気に入り数: 3
投票数 : 9
ポイント数 : 0
作成日時 2024-06-30
コメント日時 2024-07-27
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
此の度は、歌誌「帆」自由詩掲載欄へとご応募を賜り、允に有り難うございます。 先日御知らせを致しました通り、ご応募受付期間までは暫し時間がございますので、その折にご投稿を復、賜りますと嬉しく存じ上げます。 肝心の御作を拝読をさせて頂きました。 物語形式の散文詩でございますね。 筆致、修辞の基礎体力が有り、面白く拝読をさせて頂きました次第でございます。 実存的な生の在り様をなかなか、強かにも露見をなされていらっしゃる。 結句の締め方と申しましても、堂に入っていらっしゃられると感受を致しました次第でございます。 虚実の揺らぎ(と、申しましても此の方向の散文詩では表現の難を極めるかもしれませんが)が泛びあがる様な側面がございますと、 一層に深みの方が増されになられるかも知れません。 評者の趣味ではございますが、虚には実を、実には虚を越境する瞬間がございますと、眩暈の様な感覚を包括された作品になられるのでは、 と存じ上げます次第でございます。 それでは、復のご挑戦をお待ち申し上げております次第でございます。 此の度は、ご投稿を賜り、ありがとうございました。
1完璧だなとおもった。内容についてはそれぞれの見解があればよいだろうし、まず美文としてこの筆力に呑み込まれてしまうものとしてあるべきだとおもった、久々にガチ好みの良いものを読んだ、全文舐めるように喰らいたいなーとそんな気持ちでいます まあ文体をみて誰だかわかったので一年ぶりですねと置くが。ざっと読んで前作が思い出されて、あれ?関係ある?と勘ぐった、ほど、流れが似ているのだがコレは手癖なのかこのテーマの形式なのだろうとおもった。 >いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。 すこぶるカッコいい、〆。正直震えたwwwソレでいいじゃんなんて思ってしまいたくなるのだが、この最後の一文が難しすぎる、いやここが大事なんだよなとわかる、だからこそ私には解けなかったのがただただ悔しいので。しばらく見つめてる気がした。
1お読みくださりありがとうございます。 すみません、応募の受付期間外であることを知らず、確認不足でした。 ご助言ありがたく頂戴します。 虚と実(の越境)、という示唆をいただいて考えました。 「目眩の様な感覚」、読字におけるずれの快楽のようなものは、自分なりに追求してきたつもりでいました。ご助言をうけて改めて気づいたのですが、私はどうもそれを修辞のレベルでばかり追求していたようです。 虚実というのも考えてみれは色んなレベルでの虚実があり、それぞれの混ざり方がある。考えることは多そうです。 近頃行き詰まり気味で、気づけてよかったことが多々ありました。 コメントくださりありがとうございます。
1たのしくお読みいただけたことがわかり、ありがたい限りです。一年ぶりとなってしまいました。 前作と流れが似ているのは、仰る通りです。 本当に語るべきテーマは人間そんなにたくさん持っていない、同じテーマを何回書いてもいい、という言説をどこかで目にし、確かめたくなっていました。 説明しても言い訳のように聴こえますね。 いや実際言い訳なのです。 最後の一文、言及いただけて嬉しいです。カッコいいでしょ?と自分でも言いたくなります、目の前で話させていただいていたならそう返していてもおかしくない。 しかしそう言えてしまうのが、決定的に自分に、自作に足りないところがある証左でもあると思うのです。 しかし愉しんで頂けたことがわかるのが一種の救いです。 コメントくださりありがとうございます。
1どうしても内容を読ませてしまうとその分、物語の追求になってしまうことは仕方ないのかなとは思います。んで前作に比べて大分隠したなと難しい印象を持ちました。確かに幾筋もの読み手による分岐を誘いますが、それが必要かどうか、この詩において活かされているかどうか疑問が残ります。物語の分岐を誘うのではなく、この物語のキャラクターの心情を、様々な憶測を呼ぶ方向へ、持っていったほうが、詩としての強さを持てる気がしました
2一個目のコメントは小説として、二個目のコメントは詩として読ませていただきました。わたしはそうおもうというだけです
1ふたたびコメントありがとうございます。 小説とも詩とも、どちらとも読めてしまうものを読み手に委ねわたすことについて、もっと考えてもよかったのかなとまたコメントをいただいて感じました。つまり散文詩、散文体とその意義について。 詩としての強さ、あるいは仮に小説ですと言って開陳するための強さ、必然性をじわじわ考えていきたいです。 この詩(と言ってしまいますが)の各要素がのつながりが活きているかどうか疑問符がつくのも、そこを考えると糸口が掴めそうな気がしています。 前作に比しての所見、とても有難いです。 ありがとうございます。
1言葉の織絲がこまやかすぎて もはや 創作、とは思えないくらいのリアリティを感じました。
1これは傑作ですね。構造はいわゆる父殺しだが、殺されるのが「父に類する自分」でもあり「アベルに擬えられた妹」でもある(とわたしには思われる)点に圧倒されました。すばらしい修辞です。かなりの難文なので評価を得るのは難しいかもしれませんが、ぜひ挫けずこの作風のまま研鑽してほしいです。 読解は説明が厄介ですので、後日推薦文にまとめます。その内容が作者様にとって不本意な誤読であったら、不本意を回避できるよう改訂することをおすすめします。とりあえず投票コメ。
2リアリティのなさ、薄っぺらさはこれまで自覚してきたことでしたので、そう感じていただけたとわかりひとつ安堵しています。 コメントありがとうございます。
1励ましのお言葉、ありがたいです。 やはり構造や筋を逃さず追う形で読まれるところは、むしろこちらが勉強になります。 修辞にばかり興味がある期間が長かったのですが、ようやく筋や一貫性といった部分を意識するようになりました。そのことでかえって修辞が活きていることはあるかもしれません。 楽しみでなりません。誤読歓迎です。別様の可能性、作品のポテンシャルとして捉えます(そも真なる読解なるものがあるとも思っていません)。 とはいえ私の技量不足により読者を不要な混迷に導いてしまうことも当然考えられます。その場合は申し訳ない限りです。 今のところ改訂はしないつもりです、万が一不本意を感じるようなことがあれば次作にてリベンジすると思われます。 結局のところただただ自作がどう読まれたかの一端を知るのが楽しみなのです。 コメントありがとうございます。
2ある種、超然としたところもあり、 中性的な魅力もあり。 空間に独特な狭さがあって、 アイデンディティをめぐる問いの物語ということで、、 80年代文学的な艶もあって、 そのほかにも、 きっとわたしには読解できなかった、 多くの要素が含まれていると思います。 読むのが愉しかったですね。
1濃密な関係性が、真実を明かしながら展開していきます。家族。人。どちらもいいものです。
1読むのが愉しかったとのお言葉、いただけてありがたく思います。 空間の狭さ、という表現が興味深いです。描写するのはこの世のことなので空間と狭さひろさの尺度が付随するのも当たり前といえば当たり前なのですが、あまり意識していなかったことに気づきました。 コメントありがとうございます。
0>家族。人。どちらもいいものです。 軽い一言のようで本当は重いような、いややっぱり軽いような、不思議な気持になりました。 !がありました。何に驚いたのかまだよくわかりません。 コメントありがとうございます。
1こんにちわ。 だれかさんが推薦批評のようなものを投稿されていたので どんな詩なのかと読んでみました。文体からすれば、 これは(わたしの感覚では)詩ではなく小説の分類に入るものです。 幾ら長くても古井由吉や小川国夫のように、幾らでも切り取れる詩が あふれていますが、 他のコメント者の方々のような明晰な頭脳と鋭い感性がないからよほ どの文体でないと頭に入ってこない。結局最後まで頭に入らずじまいでした。 前の投稿の詩はそれなりに読ませるものがありましたのに、今回はちょっと わたしの無能に残念な気がしました。
1有無ですね。澤さんの推薦選評文として挙がっていたので、葉舟。?いつの作品と思ってたら、takoyo2爺爵が上げてくれてましたね。で、眼を通せば、!ああ、これか、一度眼を通してかけて黙読をやめてましたね。わたしもいま、ザアッと眼を通してみて、これは小説だな、一歩譲って散文詩とも言えるのか、いう感想をもったのですが、ごめんなさい。歳かな。集中して読み辛い。内容的には全体を通してよく書けてもいるのでしょうが、ハッとこの惚けた眼が覚めるような表現に乏しさを感じて、やはり読解までいかなかった。同じく爺には難しいのかな。笑。まあ好みの問題でしょうね。
1根っから百性のくせして 土に嘘はなく、妹は嘘と呼ぶ その口ぶりは船乗りのように乱暴者だ。 かなしいかな妹が錨になって 奴は丘に取り残されている。 百性育ちで得た悟性は もはや埃をかぶることを望んでいるかのようだ。 今は錨をあげる合図を見ることは叶わぬが いつかその時を待っているのかもしれない。 澤 あづさ氏の推薦文よりこちらの作品を読みました。 序盤、中盤は主人公の考え方は分かりやすいのに、最後の章の読解には難しさを感じます。 あえてのとてもわかりにくさを感じる。 もちろん、そんな単純に誰かに分かってもらえる感情や考えじゃないんだよ。という主人公の声にも聞こえてきますし、作者の品位の高いの修辞と言われたら、理解できないわたしという読者がいけないのかもしれぬと思わせるほど読ませる作品でございました。そう、とても読ませるものがありました。 父親の命令に従い、主人公のあとをついてくる妹という存在が花火の章のところでは兄より前に妹が先に行ってしまう、兄の方が妹を目で追うばかりで、おいていかれてしまったという弱さを見せたとき。嘘の存在として扱っていた妹が現実味を帯び、主人公の立場のゆらぎと彼の行場のないやるせなさを感じさせます。 そのゆらぎは兄にとって妹は母を失ったことを憎む矛先としての逃亡先だったが、妹はいつか兄をおいていく、旅立ちを感じさせるものがありました。 最終章にはこの家族に投影した読者の光が最終章で跳ね返ってくるように設定されているようにも思えます。 私にとっては母の墓前でさえ祈らなかった主人公が「納屋と農具の前での静かな祈り」とも取れるものを感じました。埃をかぶるというのは兄の考え方や哲学は変わらぬままでいるかもしれないという暗示にも思えます。それは言葉や自分以上の存在(存在)を信じる器は持てねど、いつか妹と言葉を交わさない不器用な対話をそこに見つめているような気がいたしました。 大変面白い作品でした。
1スパムーチョさんのコメント読んで思ったのだが。この作品を読解するにあたり必要な鍵は、土壌と言の葉なのかなと思った。土壌に対しての納屋や農具の意味。言の葉に対しての嘘。竹や木の子にあてる成長の証。後半にはいり夢と現が読まれるように書かれていると思っていたが、これは物語としての展開ではなく言葉一つ一つの意味を絡ませているのではないだろうか。
1そうですね。いま乏しいあたまを捻りながら噛みしめるように、しかしながら、読み取り難いのは、その息継ぎや句読点による文体の流れに、民話的に土着から得られた古墳な物言いに現代風な語りが入り混じっている。そのことがわたしには捉え難く思われたのかな、という印象はします。ですが、よく読めば少し迷うような口振りの書き方もされておられるが、なかなかどうして描写に独特な表現を用いておられる。 AOIさんがコメントされているように、わたしもこの散文詩?を読み解く鍵は土だと思う。それは土着信仰から生じる民話的な要素を絡めながら、いまは亡き母と娘(妹)の面影を慕う兄の無念憐憫さ。 不穏に墓が描かれている。母親と娘の死には不審な自殺ともわたしには読み取れくる。 森羅万象と自然を崇拝する。その霊的な民話志向から物語はこの親子をイメージに巻き込み複雑ですね。森に土に木霊とか信仰。葉舟とは死の河を渡りながら三途を越えていく。いやあ、複雑怪奇な読み物には受け取れます。
1私はこう思うってだけですけど書いていく(・・; >ずうっと一緒やで。 >にい、やっぱりまだ早いんとちゃん。 >どんなときも秘密ではない。 思わずスルーしがちがこの言葉たちだけど これ、示し合わせて失踪を装ってる。そうすると辻褄が合う >大事にしたらないかんぞ、父が言った。 女は道具という古い風習に囚われているこの場から一度、長男がいなくなることによって、妹の立場を一時的に良くすることができる(婿養子など) >ずうっと一緒やで。 言葉が、日に透く葉の裏表のように嘘をつくると思った。指でさせば通じる。からだは土でできていて、嘘がない。 >行って、行って、知らないと言え、そうして行った先の、沈みかかる納屋、黙りつづける農具の傍では。いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。 この家があとに続くためには婿を取らなくてはいけない。だからその時期(器に積もった砂埃に妹がゆびで指し描く合図)をみてお兄は返ってくる(秘密ではなくなる) 大筋としてはこうかな?すべてが意味あって書いてると思うので、もっともっと細部にわたって読み取れるのではないでしょうか。
1A.O.I様の言葉に影響されて 消化しきれない部分がひとつ ストンと落ちたようです。 わたしもこの詩に漂流仲間として書き流してみます。 突然出てきた器は誰のものか。 使われずに埃が積もるということ。 使われていない農具は何故そこにあるのか そういうことを考えたとき、言葉には出ていないが納屋にあるもの。このふたつに共通する登場人物は「母」以外にいるのだろうかと考えます。
1ググったときにメモったやつです。 沈みかかる納屋 (納屋)家庭内の消耗品や現在使わない道具を収納しておく物置小屋。 黙りつづける農具 (農具)道具(妹のこと) 器の成り立ち この四つの「口」は、神への祈りの言葉を入れる箱。「犬」は、祭祀や儀礼の際、神に捧げられたいけにえ。古代中国において「犬」は祓いや清めの力をもつ特別な存在だった。そこから、祈りの言葉を入れた箱を並べ、その真ん中に横たわる犬を描いた「器」という漢字は、清められた神聖な「うつわ」を意味するようになったのです。 この辺が意味としてかかっているのではないかなと思いました
1火垂るの墓や、宮沢賢治、などを想起しました。描写が繊細で妹に対する屈折した感情の吐露であろうかと思いました。
1今一度眼を通せば、どうしても普通ではない語りの言い回しが気になりますね。そして不気味だ。何が不気味かといえば、このはっきりと描かれていない気配が不気味なのです。書かれている人称に実在感がない。この一見架空化して読めるとりとめのない文体。まるでこの世に在らざる者が風化して記憶となった出来事を、風や土に水、木の葉といった万物の精霊を通して言わしめているような神秘性。地方に土着する歴史の因習。あの横溝正史の物語に描かれる因果的な背景を帯びた事象。といったものがどうしても浮かんできますね。
1こんにちは、 小説と散文詩の違いについて考えていました。 当面の答えとして、対話あるいは劇を成立させていれば小説、内省的語りが揺らぐことなく一貫すれば詩に近づく、というくらいでしょうか。 もっと考えなければと思います。 また、構造の部分でもっとスマートにできたのではないかといま思っています。それが可読性にも繋がり得たのではないかと。 小川国夫、存じませんでしたが面白そうです。かなり興味を惹かれております。 コメントありがとうございます。
0小説寄りに同じく一票ですね。 仰るように好みの問題はあるのかもしれません。 書き手としてはもっと書かねばならないなあと思っております。 コメントすべて拝読しております。 色んな読みを開示してくださっています。ありがたいことです。 第一感で読みにくいと思ったものに取り組んでくださる営為、尊いものだと思います。 コメントありがとうございます。
0もう意味わからんくらい、かっこいい作品。いまのわたしにはそれしか言えません。
1お読みくださりありがとうございます。 推薦文のパワーとありがたみを痛感しているところです。 丁寧に受けとめて下さっているのがわかり、感謝です。 わかりにくさは志向してしまうところでもあり、自分で自分を満足させる書き方を他に持ちませんでした。 また、わかりにくさは悪く言うなら書き手の臆病と自信のなさの表れです。読者が悪いことはありえません。読ませる、という評はありがたい限りです。 さらけだすことと隠すことをそれぞれ上手くやりたいです。 感情に沿って丁寧に読みすすんで下さっているのがわかります、感謝です。 読者の光が跳ね返る、うつくしい喩えですね。 そうあれかしと思いましたし、そうあったのならやはり読者の力に依ったのだと思います。 コメント冒頭の返詩もありがとうございます。その文化を通ってきていないのですが、これがそうかと納得できるほどすんなり咀嚼できました。 楽しんでいただけて何よりでした。 コメントありがとうございます。
0火垂るの墓もたしか兄妹でしたね。宮沢賢治もそうでしたね。思い出しました。あめゆじゅとてちて、とか。 コメントありがとうございます。
0作者の力の及ばないところで働く大きな読者の力があることを実感しています。自分も読者としてこの力を持っていたんだなと。 コメントくださりありがとうございます。
1そうなのです。 わたしも読んでいるときに、A.O.I様と同じく「器」に何か感じるものがありました。 私達が共通して、答えとして納得する、理解することを助けるものとして、感じたものは、それは多分「神聖さ」なのじゃないかなと思いました。 わたしはその「器」に何故神聖さを感じたかといえば、納屋にしまわれている生前母が使っていた器と農具だからだと感じました。 もちろん農具も古い時代では器と同じく、祭礼器具として使われていたのですから、なにか神聖さを感じてもおかしくないかもしれませんよね笑。 そして、ありがとうございます。 何に対しての感謝といえば A.O.I様とこうしておしゃべりしながら 詩について書いていたらひらめきました。 最終文は、かっこいいのですが、なにか文が抜けているように感じていたのです。文章に空白があるような感じといえばいいのてしょうかね。 その空白をうめる必要なイメージがやっと頭にうかんだのです。エウレカです笑。
0追記。 何度も読み直している仲だから、 思ったことをわたしも伝えておきます。 沈黙の鳥の声って変な言い方ですよね。直感では遠藤周作の「沈黙」が考えるヒントになるかもしれません。よかったらwikiってみてください。 そして、それか、鳥が三度鳴くへと続くことに想像を巡らせるのも楽しいかもしれませんね。 ではでは
1遠藤周作の「沈黙」wikiってみました。ここにかかるんですね、納得です。 >いつも、弱さが俺の目の前で指図する。弱い者が、強い者のようになり、強い者は、弱い者を佑けていい顔をした。どちらでもない者は、どちらかのふりをした。いや、嘘だ。どちらでもある者しかこの世にはいない。 >鳥が三度鳴く これに関してググっても、3日経つという意味の語呂と、「鶏が鳴く前に三度知らないという」このへんも意味あんのかなーと浅はかな頭のわたしにはわかんねえっすね >鳥が沈黙で歌を歌った。 それらを踏まえても正確な答えは見えてこないですねー 作品だけで読んでみても、妹を本当に妹としてみているのか。真実に兄妹なのか、とか。「葉舟」このtitleの意味とか、ただ挟み込まれた情景描写のようにみせて他の意味があるだろうと、ひっかかりますけどわからない。それはやはり下地が重要なのかなと、批評文の方を見ていると感じますね。
1釈迦に説法かもしれませんが、 澤あづさ様への作者様のコメントがあったように真なる読解なんてあるのだろうかということにわたしも賛同しているのです。 最初に下地があったから我々は感動したのではないのですからね。 もっと恐れずに好き勝手楽しんでいいじゃありませんか。もちろん感想で作者様に唸らせたい、悲しませたくない、踊らせたい、酔わせたい、そんな気持ちもよくわかります笑 遠藤周作をご紹介し、お調べいただいたことに感謝いたします。 鳥に関してはこんな風に思っています。 まず最終段落で、主人公は何かの合図(サイン)を待っています。 派手に言い換えると神を信じないくせに、神を信じてる人々と同じように何らかの「兆し」を信じている。それを合図と言い換えることが出来るかもしれませんね。 それをふまえてもとに戻しますと 鳥が沈黙で歌を歌った(聞こえぬ声がある。) ↓ 鳥が三度鳴いた(時間経過の意味だけでなく合図の意味もあるかも!?) ↓ 合図を待っている主人公 とつなげられるんじゃないかなと思った次第です。
2ふと思ったので書きます >きのうにちぎった小笹は一葉欠けたままか。 title 「葉舟」 コトノハの舟。笹舟、七夕、旧暦、お盆祭り 笹の葉に願いを書く、二人が別れて出会うというところからなのかなと? 墓に祈りに来たのも、まあうまいように行方をくらますのに必要だったといえばそうだけど、神に祈らないけど、墓前にこの策略の成功を見届けてくれとそういう意味合いもあったのかも知れませんね あと合図に関してはわたしの見解は違いますね。最初から決め事していると思います。 >言葉が、日に透く葉の裏表のように嘘をつくると思った。指でさせば通じる。からだは土でできていて、嘘がない。 >器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの――どんなときも秘密ではない。 器は土できている(嘘がない)、埃を被るほどの年月(三年)を経て妹がゆびで指し描く合図で(埃をはらうのかな?)、すべては明るみになる(日差し)=どんなときも秘密ではない。 こんなかんじなのかなとおもいます。 下地が何であれ読解に関しては自由だと思いますね。むしろ下地を知らなければ楽しめないのなら、それは作者がヘタクソなだけですから。この作品は一読して惚れ込んだ、めちゃ解きてえと思わせたのでね、正直こんなに読み込んだことないですわ、とても楽しんでいます、純粋にねwww
1おぉ!今さっき、わたしも最初と最後やっとつなながりが見いだせたとこです。 最終段落の「秘密」というクセ強、作者のこだわりをバッチバチに感じる単語ですが、最初の段落と最後を、並べるとやはり発見がありますね!ありがとうございます! そして器(焼物)と農具(鉄+木)も土から生まれたものって考え方はなにかしら読み解くヒントになりそうですね。面白いですね! 実は埃を払うという合図に近いものでわたしは読みすすめています。 もちろんそれは器、農具が 母親のものとして解釈した結果 肉や骨、芋虫呼ばわりした妹が成長を続け、 いずれ器や農具を受け継ぐ妹という姿を 将来の日差し(南中関係あるかも?)のなかに兄は納屋にて見出している。 私の悪い癖で、どんな詩もなんとか希望が持てるお話にしたがるのですよ。 ちょっと無理があるかもだけど 今のところの私の中で私のために満足できる到達点はそこらへんかなぁ。 といった感じででまとめている途中ですw終わったら載せますね。 そちらも進展があったら是非またここに書いてくださいね。
1>土を起点においているのだとしたら、骨も肉も、芋虫も、循環にあたるものなので、兄にとっては生命として自然に思われることで。その循環自体が愚かであると、言っているのではないかと、私は感じます。言葉のうわべを狙った、そもそもの意味を隠したひっかけのようなものかなと。(匿名投稿『葉舟』読解一例 自分のコメント) そもそも元ネタとしてなにがあるのかに関わらず、世界観として田舎にある農家の風習土地柄、土壌に根付いたもの(土壌:比喩的な物事が発生したり育ったりする基盤)として、この作品は隅々まで完璧に書かれているように思う。農家であれば 土は嘘をつかない というのも普通に考えられることで、そもそも芋虫だとしてそれは蝶になるのではないかと、深読みも可能。神を信じないというのは奇跡を信じない、死んだものに手を合わせるのは生まれながらの習慣みたいなもの。この日本においては。雑に神に仏に祈ったりしますよね、そういう一般的なものだと解釈しました。……最後兄が家に戻るのか、妹が家を出るのか。二人の関係もな、じっさいのところどうだか解けないので。まだまだなぞだらけですよね。はい
1感想をいつもわたしの前に立って 勇気をしめしてくれる姉(ネェ)に捧ぐ。 人は嘘をつくときにすることといえば、だいたいは自分にとって都合の悪いことを秘密にしたがるだろう。彼にとって妹はとても都合の悪い存在でなかっただろうか。 彼の土への狂信的な信仰は母の死によって生み出されたものであり、その信仰を占めているもの嘘のない土と、その存在をうとまわれる妹によって構成されている。わたしは宗教的な知識はないのでこの時点で妹を罪と呼ぶべきかどうかは私には分からない。 ただ肉や骨、百姓にとっては害虫でしかない芋虫と呼ばれたそれは、当たり前だが本当は妹という存在であり、兄の前では「虚(秘密)」でありつづける、これも当たり前だが彼は母の死を上手く消化出来ていない。 そんな彼が身体を土にすることは、彼にとって心身をリラックスさせる、鎮静することができる表現が本文から読み取れる。それを大胆に言い換えるならば、悲しみの快楽に心身を委ねている状態のように見えてこないだろうか。人間は悲しい事があったとき、あえて悲しさに包まれるときもあるものだ。 もちろん私の専門は心理学でもなんでもない、彼の行動を逃避と呼ぶほど私は人間が出来ていない。ただ文面からあんちゃん、つらそうだなとここで斟酌することしか浮かばない。 ゆえに鳥が沈黙の歌を歌う。知っている歌だ。とは、それは失った母が聞かせてくれた歌を思い出させるものとわたしは解釈する。 葉舟というタイトルと、笹をちぎった、妹は側溝で泣いていた。先へ先へいった。 笹舟を追いかける妹と私は読んだ。 兄はかつての自分を思い出させることはなかっただろうか。そして兄は誰から笹舟を習ったのだろうか。祭りに離れ離れになる同じ苗から生まれた木の子のふたり。母の亡き身体は土に還ってゆくにつれ妹の身体はだんだんと大きくなるだろう。兄の後ろをついてきたそれは、兄をおいてゆくほど、それは嘘が誤魔化しきれないように。 「にいよお。 黒く艶めく土で指を汚す、抉る、膚との境は少しも溶けてゆかない。 土にならないものに目をくれてはならない、行って、行って、知らないと言え、そうして行った先の、沈みかかる納屋、黙りつづける農具の傍では。いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。」 最終段落は読者の光が跳ね返ってくると私はかつてのこの作品へのコメントに寄せた。 最初読んだときはさっぱりわからなかった。 でも、読んでるとすごい興奮を覚えた。なぜだ? なんで興奮したのか、ずっと考えていた。納得できる答えが欲しかった。 今はだんだんと浮かび上がるものがある。 妹の兄を呼ぶ声によって、 悲しみの沼に浸かれなくなった兄。 強情に知らないってまるで自分が認めたくなかった嘘(秘密)から逃げているようだ。けれど、いった先の納屋にある農具の傍では。もう兄は逃げられないのです。きっと母の使っていた農具でしょう。母の前で妹を知らないと言えるでしょうか。 強情な態度からどんなときも秘密ではない。嘘ではない。つまり存在を認める。妹への態度を軟化する兄をわたしはそこにみます。自分が妹の存在を妹としてあつかわず、芋虫よばわりして「自分の妹という存在」を隠していた、嘘をついていたことを認める。すごく変な言い方ですが、あやまっている姿と書けばいいのでしょうかね。 一緒に想像してほしいのだが、強情な人が態度をあらためるときはどんなときだろうか。 私はこんなふうに思う。 何かいいことがあったとき。 反省して、自分が悪かったと認めるとき。 相手との和解があったとき。 これから突飛なことをここにかきます。 鳥が三度鳴いた。背を地につけ息を鎮めると、そこらじゅうで枝葉が擦れた。風がまわった 鳥の声を想像します。 沈黙の歌を、わたしは母の歌と解釈しました。 では、鳥(母)の声とは? もしこれを読むあなたが鳥となって妹を恨む息子にかける声があるならどんな声をかけるでしょうか。わたしはこんな風に声をかけると思います。 ひとつ、ずうっと一緒やで。 ふたつ、妹を大事にしてね。 みっつ、大変な思いをさせてごめんなさい。 以上、わたしの解釈になります。 作者様に不愉快な、望まぬ解釈であったとしたら申し訳なくおもいますが。 どうだ、ちょっとはやるでしょ。笑 とてもよみがいのある作品でした。ありがとうございました。
2こんにちは。感想まで。 個人的にはにいちゃんが、結局いもうとさん?のせいで誰とも花火が見られなかった、という 事実がでかいかな、と思っています。 その、にいちゃんのパーソナリティをグッと引き寄せれば、お母さんを亡くしていて且つ そのお母さんを亡くした原因っていえばやるせないってか他人事ですけれど いもうとさんをちょっと距離として遠い父親というか、それはにいちゃんいもうとの世界が 山のようにでかく、その原因もまた母親が亡くなったことに起因するんですけれど その父親と育てていかなければならない。一方で農家の問題もあって。 早々、にいちゃんは詰んでいるというか、私も長兄ですけれど、早々壊れている といいますか、トラウマだよな、と思いました。 聖書にまつわる解釈も面白かったんですけれど、個人的には心境小説の系譜に属する 敢えて言えば、ブンガクな詩、といったところに落ち着きそうです。
1すいません、何か褒めたいんですけれど、うまく書けない。 例えば、心境小説というと、志賀直哉がいますけれど 個人的にはこの作品にはかなり志賀直哉的な手法が配してありますね。 その、写生文から出発して小説へ移行した場合 それが仮に「私小説」だった場合、そもそも写生文というのは 奥行に乏しい欠点がありました。 加えて、私が語る、として、日記的なタッチから抜けられなかったわけです。 そこで、志賀直哉は主観に徹する事にした。 自分の事実と照らし合わせて、強調すべきところのみを書く。他を排する。 そうすると事実が読者に対して大きく誇張されたように届く、という手法ですね。 この作品が、作者の何パーセントが配合されているのかどうか。 詩、の場合、告白として書かれるところを、この作品は大きく距離をとっていますね。 それでいて、作者のパッションみたいな部分とは、わりと、距離がない 書きたいことを書いている、という印象もあります。 結局、「わたくし」というか、エゴの扱い方みたいな問題になると思うんですけれど やらしい感じもしなくて、素晴らしいものを読ませていただいたな、と思いました。
1田中new先生やらかしたね。笑。 これはやっぱり幻想小説風ですな。小説風に読めるが小説でもないですね。目でつながる描写を感じない。 まあ、澤さんとか一部の方々の深読み解説に惑わされてる部分があるかな、とも思う。 はじめから変な書き方でした。特に終わりの二行などはそうですね。~いつか積もった砂埃に指で描くおれは~。かな、と語り手の会話らしきものとずいぶん同調の開きがある。わざとタイムラグさせているように読めてくる不気味さ。~促され手、を組めない、組んでも、組めない~。~斜めに竹をくぐった~ おれは、おれでなくなるかのように、地をめぐる。 全体が空気に、濃霧のようにぼやかされている。何かもとになるお話しはあるのでしょうが、葉舟。これは亡霊(木霊(精霊)が地に呼びかけてくる。という神秘性。つまりオカルト的な幻想詩なのでした。
1あ、幻想詩、カルト的に?と読めるのならば構想的な解釈としては一連のシェークスピア劇にも当て嵌まるんだな。澤氏お見事だ。
0あっ、嘘。やらかしてる?私、マジで?w そもそも論、小説以前に物語というものがあって、その、物語です、って言った方が 近しい印象がありますね。 ただ、個人的には本当は、この作品は詩ないし物語だと思うけれど そんなジャンルうんぬんの細かな定義には、私はあまり関心がありませんね。 ただいいもの読んだな、という。 あとごめんなさい、 ×個人的にはこの作品にはかなり志賀直哉的な手法が配してありますね。 〇個人的にはこの作品にはかなり志賀直哉的な手法が配していると感じますね。 です。失礼しました。 なんか空気読めない奴だったようなのでドロンします。ドロン!
1いいえ、うんうん、頷けても宜しいのかと思う次第でしたのであり、志賀直哉も詩人だ。あの頃の旧家の如き大家主を取り囲む貧しき部落にての至妙独特な表現はよき処に眼を配られましたねと、感服いたした所存でありやんす。
0やはりこの作品において聖書との記述の一致、もしくはオマージュがみられるのは確かで、それは「深読み」でも「誤読」でもなく、作品文中の記述のひとつひとつを聖書に記載されたそれぞれの箇所と照らし合わせて調べるなら、ああ、なるほど! と頷かずにおれない‥‥。ただ、作品への読者の受け取りかたは「誤読」も含めてまったく自由であり、読める読めないもけして強制されるものではない。また、イデオロギーや宗教に対して中立性を保つことは作品を選考する運営の立場としては極めて正しい姿勢であるとボクは思います。また、この作品において読者へのある種の心象操作があるかといえば、あえて「わからない」と答えておいたほうが無難かも知れない。作品へのあまり「親切」すぎる解説は、ネタバレ同様に鑑賞する側の自由な読解を削ぐものだからである。そうした意味で、善悪を曖昧にして主人公のある種異様な心の動きを淡々とクローズアップして繋げてゆく作者の手法はとても優れているとボクは思った。
2聖書と言っても「旧約聖書」から「新約聖書」とあわせて66巻もある。あの膨大で難読な書物のどこをどう照らし合わせたのだろうかと思うのです。
0とりあえず注釈付きの聖書ならある程度、新訳と旧約との関連がすぐ探せます。たぶん、聖書を読むことが日常の人とボクたちとでは違いはありますが、黒澤の「隠し砦の三悪人」を観た人が「スターウォーズIV」を観て、あ、同じ! って思うのと似ています。何章の何節とかまでは信者じゃないとムリでしょうけど、、
2thanks!I'm afraid it's not possible. アリガトウゴザイマシタ
0感じたことを惜しみなく開示して下さりありがたいです。 言われてみればやはり私も、詩、は告白として書かれることが多いという感覚をたしかに持っています。 しかし仮に、告白であると感じさせるような詩であっても、語る時点で選別、作為、仮構性が立ち上がることは避けられないでしょう。ならば仮構の上で、つまり文字でしかできない在り方で真実であるにはどうすればよいかと(矛盾するようですが)思っていた気がします。 どうしてもガワの話をしてしまいます。でも本当に、ジャンルの話も畢竟そこまで重要ではないのかも。 そもそも物語、たしかに。しっくりきました。 コメントありがとうございます。
1聖書との対応について、改めて考えています。書き込むことには発見への期待が含まれているわけで、盛り込んだことはその時点では最善だったのですが、いまそれをもっと考える余地がある、と感じています。既にある強大な物語を援用することとそのやり方について。 言及して下さるおかげで、色んなことに気づけております。 >淡々とクローズアップして繋げてゆく 「淡々と」という印象を与えられていることがわかり嬉しいです。間違いなく過去作からの変化ですので。 月並みですが、既存の言葉ではわかってもらえないものをこそ、書けたらよいと思っています。 書けていないことが山のようにあると思います。 コメントありがとうございます。
0前回のコメントがパッション溢れまくりだったので、書き直します。 【頭で理解する『わかる』ではなく、情で理解する『わかる』】 岡潔 人は嘘をつくときは、自分にとって都合の悪いことを秘密にすることが普通であると思う。 主人公ににとって妹はとても都合の悪い存在として登場する。 ただ、彼は妹が嘘だという言葉をうそぶくことは彼自身が嘘をつくことに気づいているのだろうか。 まるで「妹なんて俺にはいないんだよ。」そんな悪態を私には感じることができた。 それは母の死が引き金となり、言葉への不信と強い悲しみから思考が歪んでしまったようにみえる。いつか言葉への不信は経験則に従って行動するようになり、他人からの言葉に耳を傾けなくなってくるだろう。 彼の土への狂信的な信仰をどこで培ったものかは書かれていないがその思想は母の死が関係しているのは間違いない。 そこにはふたつの思想が根幹にある。 ひとつは「身体は土で出来ていて、嘘はない。※」そしてもひとつは「ずぅっと一緒やで。」という母が守れなかった約束を嘘と断定し、妹を嘘とよぶ。 (これを視点を変え、自身の身体を土に置き換えようとする思想は、母とずぅっと一緒にいようとする、死を受け入れられないことのあらわれ。 もしくは虚実を生み出す言葉をもう喋らぬ母、身体が土になった母を神聖視していると読むことできるかもしれないがここでは判断しない。) なんにせよ、酒が人を酔わせるより強く、感情が悲しみが彼を酔わせ、思想が人を象るように土への思想が過度に彼を狂わせているようだ。 もちろん普通に母への愛憎や哀惜の暴走とも読める一方、肉や骨、百姓にとっては害虫でしかない芋虫と呼ばれるそれは兄の前では「妹は成長する虚」でありつづけるでしょう。 (※身土不二(しんどふに)という仏教の教えの影響があるかは不明。「身(からだ )」と「土(生まれ育った土地や環境)」 は切り離せないという意味。その土着の仏教の思想をキリスト教によって破壊、吸収された歪みが兄を歪ませているとも考える事も出来ますが、想像を拡散させないため私はあくまでも母の死が彼を変えたとしてよみすすめています。) 先へ進むと、彼が「目に見えるものが身体になって地をめぐる」という部分からは、彼にとって心身をリラックスさせる表現が本文から読み取れる。それを大胆に言い換えるならば、地をめぐることは、「土に埋もれる母に近づく」というようにもみえる。それは悲しみの快楽に心身を委ねている状態のように見えてくるようだ。 人間は悲しい事があったとき、あえて悲しさに心身を包ませるときもあるものだ。感情は人を酔わせる。 「鳥が沈黙の歌を歌う。知っている歌だ。」 失った母が主人公に聞かせてくれた歌を思い出させるものとわたしは解釈する。 葉舟というタイトルと、笹をちぎった、妹は側溝で泣いていた。先へ先へいった。 これを笹舟を追いかける妹と私は読んだ。 さらに詩に想いを馳せるとする。 兄は誰から笹舟を習ったのだろうか。 妹が兄を忘れて笹舟をおいかける姿や花火にはしゃぐ妹をよそに彼は「誰とも花火を見られなかった、おまえがいたために。」と恨めしさを隠さない。 ただし、それは主人公がかつて母に言われた言葉や過去の自分が母にした行動と読むことに誤読と断定できるものはないだろう。 不思議なことにそのように詩に情緒をめぐらすことでわたしにはやっとタイトルのテーマが浮かび上がるようではある。 にいよう。 最終段落の兄を呼ぶ声は様々な想像ができますが、私には弱さの象徴である妹が家に帰って父を呼んでくるだろう。と考えていた兄に対して妹が予想を裏切りずっと兄を探して近くまできた声。勇気を見せた声。妹が兄に大人を見せた瞬間と読むことにします。 【土にならないものに目をくれてはならない、行って、行って、知らないと言え、そうして行った先の、沈みかかる納屋、黙りつづける農具の傍では。いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。】 多くの人々を混乱させた言葉だとおもう。 もちろん言葉を不信する彼だからこそ、こういうものの言い方になるのは仕方ないとわたしはえる。 まさに【言葉は虚実をつくる】 それは、言葉は土にならないとでも言っているようにもおもえる。土にならないものに目にくれるな。これは妹に言っているのか。もはや読者に呼びかけているのか分からない。ただ、彼を言葉で理解しようとしたり、知ろうとすればするほどここで拒絶させられるのが面白い。 (最終章をストレートに理解できる方はどんな方法でもいいので解説おねがいします。いや、ほんとにお願いいたします。マジで。) 情では理解できる(気がしている。)頭で理解してないと不安なのも現代人の癖だから仕方ない。 ただこういう経験則でいきてる分からず屋の主人公にそれでも追いかけてくれる妹には弱いと思う気がする。態度を変えているのがその証拠だ。 そして、かつて母が使っていたであろう農具や器はいつか妹が受け継ぐ未来をわたしはこの最終段落から想像します。 誰かの読解の足しになればとおもい、兄の言葉をならべかえて文章にしてみる。それはつまり、言葉に不信を持つ主人公はレベルの高い修辞なんぞ使わずに、言葉にあえてせず、相手に伝えるようなナゾナゾに似た言葉で伝えるんじゃないかなと思いました。 【そうして行った先のおまえが人差し指で描くのは日射しの沈みかかる納屋、いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは黙りつづける農具の傍ではどんなときも秘密ではない。】 妹が追いかけてきてくれたというのも 母が死んでから孤独だった主人公には特別なことだったとおもいます。 強情な人が態度をあらためるときはどんなときだろうかということです。 わたしはこんなふうに思います。 何かいいことがあったとき。 反省して、自分が悪かったと認めるとき。 相手との和解があったとき。 これから突飛なことをここにかきます。 誤読かもしれませんが、悪くないので残しておきます。 鳥が三度鳴いた。背を地につけ息を鎮めると、そこらじゅうで枝葉が擦れた。風がまわった 鳥の声を想像します。 沈黙の歌を、わたしは母の歌と解釈しました。 では、鳥(母)の声とは? もしこれを読むあなたが鳥となって妹を恨む息子にかける声があるならどんな声をかけるでしょうか。わたしはこんな風に声をかけると思います。 ひとつ、ずうっと一緒やで。 ふたつ、妹を大事にしてね。 みっつ、大変な思いをさせてごめんなさい。 おしまい。 まさに名前通りのスパムのような感想でございましたが、賛同や反発関わらず誰かの読解の喜びに貢献できたらいいなと思います。
2「鳥が三度鳴いた」 イエス・キリストの復活も処刑後三日後ですね。「三」という数字の特別さ。
2ペテロ「鶏が鳴くまえにあなたは三度わたしを知らないと言うでしょう」とイエス様は言われた。 マタイ福音書。これは有名だな。三度が引っかかるなら、たぶんこのことじゃないかな。
2ふむー。そうですか。
0聖書や「父親殺し」という解釈から少し離れて、詩の内容をもう一度読み返してみると、兄が妹に対して虐待を行なっている可能性も排除できないと思った。この詩には感情的な葛藤や複雑な家族関係が描かれており、その中で虐待の可能性を深く探ることもひとうの解釈として成り立つ。「振り返って撲りつけることを思う。撲れば、かなは臆面もなく顔をつぶれて、泣くだろう。それこそ嫌だった」という部分では、兄が妹を殴ろうと考えたことが示唆されている。このことから、兄が妹に対して暴力的な感情を持っている可能性は十分示されているわけだし、「おまえひとりでせえ」と言って妹を放置する場面や、「斜めに塞ぐ竹をくぐった」という場面では、妹を孤独にさせる意図が感じられ、感情的な圧力をかけているような描写にも感じられる。また、「芋虫のような痣」という表現は、兄による暴力の結果として解釈することもできる。痣が自然にできたものでない限り、兄が原因である可能性は否定できない。作品中では父親の存在があまり強調されていないことから、家庭内での父親の役割が欠如している可能性も考えられる。このような状況では、兄が父親代わりとして過剰に責任を感じ、妹に対して厳しく接することがあるのかも知れない。もうひとつ、主人公が「かな」に対して感じている感情が非常に強く複雑であることから、【単なる兄弟愛以上のもの】が含まれている可能性も考えられると思った。このことについては誰も触れていないので、あえて【悪役】を引き受けることにするが、「土は冷たい、いつでも土は、手のひらほど温かくはない、精液が一条注がれただけで、胎に自分が生まれたとはどうしてもわからない。なぜ血ではなかったのか、泪ではいけなかったか」というフレーズは、まさしく性的な行為の結果やその行為自体を強く暗示しているようにも受け取れる。作品全体に流れる感情の混乱や疑念が、このフレーズにも表れているため、あくまで解釈のひとつではあるが、「複雑な家族愛」が主人公の心の中で大きな問題となっていることを示しているようにも読めなくもない。くどく話せば、「精液が一条注がれただけで」という具体的な表現と、その後の感情的な疑念や痛みを象徴する「血」や「涙」との対比が、家族内でのそうした行為を示唆していると解釈することができるのである。もちろん、詩は多義的であり、必ずしも一つの解釈に固執する必要はなく、この作品が持つ象徴性や感情的な重みを考慮すると、「複雑な家族愛」というテーマも一つの有力な解釈ではあるが、他の視点や文脈も含めて幅広く理解することが正しいのであろう、、
2「読解一例」のところで、個人的な感想の大枠は語りましたが、 中上の「地の果て至上の時」のラストは、「遠くに来てしまった」。あきゆきは海外のどこかで彷徨っているという幻想部分で、完。 故郷の空き地に火をつけて。 どの程度、この作品に反響しているかは定かではないが、共通している気がしてます。
2自分自身に「父」を背負っているという構図も確かに「父親殺し」の別バージョンだとも言えなくもないが、「葉舟」においてボクはそれよりもむしろ「妹」に対して主人公が抱く「憎しみの混じった強い愛」にそうした一類型的な読解に嵌まらない優れた作品としての独自性を感じるのだけれども。父親殺しといえば映画「エデンの東」が有名なところだが、ボクはこの作品については今村昌平さんの撮った「神々の深き欲望」の兄妹によく似た匂いを嗅いだ。
2語り手は兄なのかな 口減しか何か 兎も角何らかの事情で兄か妹、多分父親の判断ではカナを身売りに出すかともかく何処かにやるみたいな話が固まっていたのではないかと思う それを察知した兄は母親の墓参りと言う名目で兄妹で森の中に入っていき、帰りに兄は失踪すると言うか 兄妹離れないと言う約束を破ったとしてカナはショックを受けるけど結局身売りの話は無しになり家に留まるというか 納屋の倉庫の何か器のようなものにメッセージを残していて、兄が何処かで見守っている事を知る妹はその理由がわからぬままに安堵するみたいな感じなのかな? 葉舟は頼りない存在、儚さとしてあるけど 何処かに例えば母親の想いに辿り着くみたいな感じで作用しているのかなと思った 難しくて難しい感じ 難しくて簡単ではないな いや、中々読みが通らない、ちょっとスルーしてたけどたまには読み違いでも良いから挑戦することも大事だと思いましたね
3やはり、この作品の記述が(やや)難解であることが、「特殊な兄妹愛」を直接描かないための意図的な手法であるとする異端的解釈を招くことは否めない。詩的表現の多くは、暗示や象徴を用いて直接的な表現を避けることで、読者により深い解釈や感情的な反応を促すことがある。 インセストは多くの文化や社会においてタブーとされており、詩がこのテーマを扱う際に、直接的な表現を避けることで文化的・社会的な制約を回避しつつ、テーマを探求する方法として機能している可能性があると思える。 「精液が一条注がれただけで、胎に自分が生まれたとはどうしてもわからない」 さて、この表現については生命の始まりに対する疑問を示しているとの解釈がきっとあるはずで、ここでの「精液」は、単に生命の始まりを象徴しているに過ぎないのかも知れない。また「精液」は、父親を象徴している可能性もあり、父親から生まれたことに対する否定的な感情や自己否定が含まれていることも十分ありえる。 作品全体を通じて、母親の死が大きなテーマとして描かれており、母親を失った悲しみや喪失感が、兄妹の関係にも計り知れない影響を与えていると考えるのはきわめて妥当だ。「精液が一条注がれただけで、胎に自分が生まれたとはどうしてもわからない」という表現も、生命の不確かさや存在の根源に対する疑念を示しているとも解釈できる。 しかし、「精液」、「胎」、「血」、「泪」という言葉は、かなり親密な関係や感情の深さを象徴する表現ではある。これらの言葉の組み合わせは、兄妹の間に特別な感情や関係があることを示唆してはいまいか? 「言葉が、日に透く葉の裏表のように嘘をつくると思った。指でさせば通じる。からだは土でできていて、嘘がない」 そして、「だからかなは嘘だった」‥‥。つまり、(土である)かなをことばでなくちがう仕方で分かり合うことで初めてかなはこの世に実在するのではないのか? 「かなの丸い背、いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾」 この記述も、芋虫に例えられる足の指が小さくて柔らかく、まだ成長途上にあることを描写し、芋虫という比喩を使うことで、妹の幼さや無垢さが強調されているようにも思えなくもない。 が、「いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾」という表現は、妹の幼さや脆さ、無防備さを象徴しているとも考えられる。 また「赤みがさす」が、ボクのようにどす黒くサディスティックな視線で見つめる人間であるなら足の指に出来た痣を指しているようにも受け取れる。つまり、身体的虐待や暴力の痕跡を示している可能性である。 確かに、「いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾」という記述表現は通常の描写ではなく、映画で言えばデイヴィッド・リンチ監督の作品に登場する危ないシーンみたいな特異なイメージが強い。そう、「いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾」とは、健康な足の指には見られない醜い特徴描写であり、何か問題や異常があることを示唆しているようにも感じられる。 詩的な表現として、この描写は「かな」の心理的もしくは感情的な状態を比喩的に表現している可能性もあり、例えばそれは妹の心の中に何か異常な状態や痛みが存在していることの暗示である‥‥と、読めなくもない。 こうして、特異なイメージを与える「芋虫のような趾」という表現が、虐待や暴力の結果であるという解釈は、どす黒くサディスティックな視線で見つめるボクの中では依然として有力なのだが、百歩退いても、やはり「いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾」という記述は、兄妹の複雑な関係を示しているように思えてならない‥‥。 まだもう少し、読解を続けさせて欲しいのですが‥‥異端的な読解に不快感を覚える方もいらっしゃるかも知れないなので、これで終わりとします。 でわ、、
3わたしも妹はいますが、まあこの兄は異常も異常ですよね。 妹に対する、この歪んだ執着、苦悩ぶりは、おかしい。 ふつうの兄のメンタリティとして、妹にたいする認識は、家族のなかにいる「オマケ」みたいなものではないでしょうか。 本当は、この兄は妹と結婚したいのだが、 しかし父の、 そして父の信仰がそれへの障害になってしまっている。 ...そんな筋ですかね。 ずっとありえると感じているし、 ラストが(なにより)情緒的に、つながる筋としては、 腑に落ちる読みの一つかも、と。
1フィードバックをいただけることを嬉しく思います。 読み難さについて、こうして感想をいただくたび自分の未熟さを実感します。一方で、いざ書き始めるとこういう書き方でないとドライブしていけないところもあり、難しいです。 明晰な筋を語る勝負をすべきようにも思います。結局、どこかに忍耐が必要なのかもしれません。悩み中です。この悩みは悪いものではない気がしております。 コメントありがとうございます。
1atsuchan69様の感想を読んでいて、 私の解釈の危険性に気づくことができました。それは、私の解釈では単純な和解を兄妹に期待してしまい、願望を映してしまうだけになりがちという点。 土は冷たい、いつでも土は、手のひらほど温かくはない、精液が一条注がれただけで、胎に自分が生まれたとはどうしてもわからない。なぜ血ではなかったのか、泪ではいけなかったか。 こんな叫びをあげるやつ(主人公)がそんなに簡単な心変わりはしないだろうという確信があり、言葉もなくこの慟哭の前で私の読解は立ち尽くすことしかできないのです。なので、atsuchan69様の読解を私は面白く読んでいますので続けていただきたいなと思う1人です。笑 【土は冷たい、いつでも土は、手のひらほど温かくはない、】 【ほんの少しで手が解ける、行った先の側溝の上でかなはあの時も半べそをかいた】 何気ない表現だけど、なんて味わい深くする表現なのだろうなとあらためて読み返しています。 土は冷たい⇔手のひらほど温かくない。 土に寝っ転がる兄は自分の手を見返して言ってるわけではない気がします。 特殊な倒置法とも読めますが 省略法で手のひらの主語は母でもあり、【ほんの少しで手が解ける】妹を思い返しているという読み方ができますし、 母も妹もどちらも思い巡らしているとも解釈ができますね。 そんな風に読んだあとに、 【そこらじゅうで枝葉が擦れた。風がまわった】という表現はただの時間経過や情景描写と解釈するのは何故かもったいない気がします。表現すべてに意味があるのだとしたら私はフランス映画のポネットという作品を思い出しました。4歳の女の子ポネットはお母さんを事故で亡くしてからというもののキリスト教のあり方や宗教や生死に4歳なりに考えて行動する映画です。ラストシーンでカメラはポネットを映しており、見守るように空に昇ってゆき、だんだんポネットの姿見えなくなるというカットシーンがあります。 それをカメラはポネットを見守る母の目線であり、ポネットに一安心した母が天に昇るという解釈をした面白い方に私は影響されていているようです。 【そこらじゅうで枝葉が擦れた。風がまわった】 ですからこの部分は読んでいて何か存在せぬものが、そこらにいる感じがしませんか?笑
3たとえば中上健次さんが書いた「岬」の単行本の帯にあった江藤淳さんの解説に、「そして、そういう人々の愛憎のからみあった世界を貫いて、不思議に哀切な旋律が駈け抜けて行く。これは、いうまでもなく、作者中上氏の歌である。その歌を、作者は、立ち上がって胸一杯に歌おうとはしない。逆に、行間に潜め、低声に、しかしある確信を持って歌っている。それは、哀切で、清冽な歌である」とあるが、きっとこの作品も同じだとボクは思ったりした。ただ、単に作者の思わせ振りな記述によってこの作品が組み立てられているのだとしたら、これ以上深いテーマを掘り下げる必要はなく、おそらく作者としても付きまとわれたくない不本意なコメントであるに違いない。また、コメントに対しての返答がない場合は、こちらの読解はともかくやはり不快と感じられていると判断した方が無難である。
3atsuchan69様の作者様への配慮や「岬」の解説にある作品への理解ある言葉が、健全な創作活動を支えるに間違いないのでしょうね。 ただ、冗談ぽく本音を言えば。まだたったの60コメントじゃないか。作者が対応できなくなるくらいもっとコメントが増えたら本意や不本意関わらず作者はコメントに降臨することは珍しくなるかなと思います。笑。 理想はこの作品を読んでコメント欄で悪戦苦闘する事、ときおり五里霧中に陥り、試行錯誤しつづけて、ようやっと誰かが読解につながる。 そして、最終的にatsuchan69様の配慮に感覚を結びつつ読者や作者にとっての最適解に繋がれば良いと考えます。 それは自己投影させていただける作品においては奇跡ですし、奇跡のためにはトライ&エラーする仲間が多ければ多いほど良い思うのですよ。←エラーの言い訳。笑
2ええと、「岬」のラストは主人公の秋幸が母や父への報復として妹を犯す。さらに続編「枯木灘」では異母弟を石で打ち付けて死なせてしまう場面等、肉親への愛と憎悪から来る激情を描く。確かに小説「岬」でも「父親殺し」を持ち出すヒヒョーもあったのだろうが、それよりも中上健次さんが「路地」と呼んだ被差別部落とそこで暮らす複雑な家族という特殊な背景がそうした月並みな読解をいとも簡単にぶっ飛ばしてしまっている。こちらの作品においても、行間と細部に透けて見える「異様な空気」は単に「聖書」を下敷きにした作品と説明するだけでは、どうも納得がゆかない。それでもコメント欄に幾度か記述して【粘着】だとか【クレーマー】と陰口を叩かれるのはつまらないし、そもそもこのような場を【荒らし】だとするムードを醸すならはじめから参加しない方が良いとボクは思う。そーゆーワケでボクとしてはこれ以上書くのは控えるけれど、不完全燃焼で幾度もコメントをするよりも誰か一発目が覚めるような読解をやってくれないかなあ、、もちろん、詩の読解において誤読はツキモノなのだけど、、まあ、ボクとしては今のところおまるたろうさんがいちばん納得のゆく読解をしていると思う。
1「おまえが人差し指で描くのは日射しの」 わざわざ「人差し指」と書いているのは、(鳥が三度鳴く、がヒント)イエス再臨を示しているもの、と見れます。人差し指で天を指す、というポーズは、特にルネサンス美術ではきわめてよく見るモチーフです。 対して兄は、土着に還っていく。まあ、ここらへんは澤さんのところで大枠を語ったので、繰り返しになってしまいます。 すごく気になるパーツが「鳥」と「いつか器に積もった砂埃」。いろんな解釈ができて、こまりますね(ハンターハンター考察みたいなのは、あまり好みではないが...) 情緒的に、直感的に、わたしのなかでは 「鳥」→死を象徴するもの。死者を悼んでいるのかもしれません。 「器」→白川静は「器とは儀礼のときに使用される清められた“うつわ”をいう」と述べてます... 「いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは」は、ながらくおこなわれていなかった儀礼を、兄が再びおこなう、という意味くらいにとってます。 だからラストは、二つの信仰をパラレルに示していると見るのが、私的にはきわめて「普通」な読みです。 ただ「鳥が三度鳴いた」→「にいよお」という記述が怪しげなのと、兄はなぜ「回想」しているのか?という点が、不穏です。 ラストは、兄と妹の再会としても「読みたい」じゃないですか。 でもいろんな意味で「黒い読み」が浮かんできて、なかなか書く度胸が持てない。 兄はちょっぴり発狂しているし、 なにより、この妹はどうなったんだろう?って思えてくる。
2ここ一週間ほどのコメントを、まとめて返させていただきます。 返信ができておらず申し訳ありません。 率直に申しますと、理由は以下のとおりです。 ①内容にかかわることに作者が言及し、読者の楽しみを侵したくないと考えること ②直近でいただいているコメントが作品の出来を云々するものとはまた違って、内容の考察に近いものであったため、①の理由から作者が出る幕ではないと考えたこと ③元々コメントに時間がかかる質であること 主に上記の理由から返信が難しくありました。誤解を招いていましたら申し訳ありません。改めて申し上げるのですが、考察の類は、すべてありがたく拝見しています。個人的には、どこまで行って下さってもいいです(笑)。不快に思ったコメントはありませんでした。 読者としてこの場に参加できたらと思うほどみなさま盛り上げてくださっており、拙作がその場であることが光栄です。 atsuchan69様、 「悪役」を買って出て下さったことは、特にありがたかったです。 私自身、畏れ多くも学生の時分にゼミにて「ドラキュラ」の講読をしていたとき、性的なメタファーについてしどろもどろになりながら必死に説明をしたことがあります。担当教員は発表後よくやったというようなねぎらいの言葉(フォロー?)をくれました。避けては通れぬものに違いありません。 しかし、ここまで書いてきて思うのは、今作の文体が、「悪役」になることからなんとか逃れようとする私のあがきではなかったかということでした。 (もちろん、書かない、言わないのもひとつの重みある選択だと思います。そういうのは顔と顔を突き合わせて話すのが安心であったりもする) 創作において「悪役」を表面化するのも、心の力がいるのだろうなと、鍛えねばと、思わされております。 おまるたろう様、atsuchan69様が言及されている中上健次との関係で言えば、影響を明確に受けて(しまって)います。 ですので、今作を楽しんで下さった方で、まだ中上健次を未読の方がおられましたらぜひご一読をおすすめしたく思います。拙作の稚拙さが浮き彫りになることは避けられないとは思いますが、私自身が作品を相対化して先へ向かう意味でも、お読み下さった方の新たな物語の体験の可能性を開く意味でも、ひとつ明確な影響元の言明をしておきます。 スパムーチョ様、拙作にがっぷり四つであたって下さっているのがわかり、本当に喜んでおりますし光栄です。重ね重ねありがとうございますと申し上げるばかりです。内容の考察について私から何かを言うことは今のところしないでおきたいので、そこについて言えることはあまりないのですが、思考の航跡を公開してくださっていることを本当にありがたく思っております。嬉しく拝見しておりました。 コメントを下さったお一人お一人に改めて感謝をするとともに、推薦文として拙作を読解し、論じて下さった澤あづさ様にも心からの感謝を捧げたいと思います。ここまでたくさんのフィードバックを頂けたのは初めてですし、違いなく澤様の推薦文が契機になったと思っています。 現状では感謝の繰り返しに終始してしまうので、足りていないとは思いつついったん私のコメントは終わりにします。ありがとうございます。
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