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匿名投稿『葉舟』読解一例
一年前の推薦文でも述べたが、抒情は読解に近い。「目にうつる全てのことはメッセージ」(荒井由実)だ。愛しいやら憎いやら、お仕着せの形容には収まらない思いが、情景に含められ描写で匂わされる。その筆舌に尽くしがたい、換言できないとわかりきっている修辞を、どう解こうが詩の抒情には匹敵しない。批評には批評の追求するべき領分があろう。 したがって本稿は構造から述べる。このみごと芸術的な、大胆に極端な散文詩『葉舟』には、カインがアベルを殺す前に戻る経緯が暗示されている。この突拍子もない寓意が、事実この詩の結末なのだから、ここからでないと説明をはじめられそうにない。 「土にならないものに目をくれてはならない、行って、行って、知らないと言え、そうして行った先の、沈みかかる納屋、黙りつづける農具の傍では。いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。」(作品結末) ※併読推奨 創世記4:1-16(新共同訳) https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/4.htm 作品の最後の最後で唐突に登場する、ここまでの話の流れとまったく関係ない、この奇妙な描写が「カインがアベルを殺す前に戻る経緯」だ。アベルを殺してエデンの東へ追いやられた鍛冶のカインが、戻って、戻って、神に罪を「知らない」と偽証する。そうしてさらに戻った先に、納屋と農具がある。アベルを殺す前にカインが、父母のもとで営んでいた農耕だ。 「器に積もった砂埃」が、語り手のいつか至りたい未来を示す。「器」は5聯「飯事」からの聯想だろうが、その情景は砂時計の、女体に似たフォルムに似ている。人のかたちに積もる砂が、塵から生まれて塵に帰った人の、再び創られるさまを兆す。すなわちアベルが生き返る、カインが「ゆびで指し描く合図」に「人差し指」で応える関係として、ともに名指しし合う同胞として復活する。 そのようにして語り手が、いつか生身の妹に向き合う未来。語り手の妹「かな」、仮名(カメイ)が真名を取り戻す兆し。 「嘘を吐かれるのはいい。次を信じないだけだ。おかあさんはかなを産んでから死んだ。だからかなは嘘だった。/ずうっと一緒やで。/言葉が、日に透く葉の裏表のように嘘をつくると思った。指でさせば通じる。からだは土でできていて、嘘がない。」(作品冒頭) ※併読推奨① 創世記3:19(新共同訳) https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/3.htm#0 ※併読推奨② ヨハネ福音書1:1-5(同上) https://www.wordproject.org/bibles/jp/43/1.htm では話を冒頭に戻す。語り手の妹を「仮名」に成り下げた「言葉」による、「日に透く葉の裏表のよう」な愛憎と明暗と虚実の抒情。「かなは嘘だった」は嘘だった、その結末についてはすでに述べた。ではなぜこの文脈から、その結末を導きうるのか。 語り手が聖書信仰の家庭で育ったことは、3聯で「かな」が見せる「お祈り」のしぐさからわかる。「おかあさんはかなを産んでから死んだ」(初聯)ために、語り手が幼い妹を逆恨みしていることも察せられる。その他の具体的な内情は、文脈から客観的には判断できない。語り手は亡母を「おかあさん」と慕わしげに呼ぶ一方、「かなの母親」(2聯)と自分の母ではないかのようにも呼ぶ。詩に深い影を落とす亡母に対し、生きている父の存在感は「神」(3聯)なみに希薄だ。あたかも逆説的な「父殺し」だ。 父殺しはフロイト以降よく言及されている悲劇の一類型。父を殺して母と結婚した『オイディプス王』(ソポクレス)がその典型だが、父を殺して母を奪った男を殺した『ハムレット』(シェイクスピア)もその一例とみなされている。ならば「妹を産んでから母が死んだ」ことを逆恨みするこの語りも、父殺しの系譜とみなしうるだろう。 妹から母を奪いたいと兄は欲する。母はすでに亡く妹は母を知らないのに、妹が母を奪ったのだと「思うことはやめられない」(3聯)。こうした葛藤が少年の自立を促すとする学説は、考えてみれば、アベルを殺して追放されたカインが否応なく父母から自立した構図と似ている。詩中でも語り手は、妹をいないかのように看過したがっている。「かなは嘘だった」(初聯)「おれは誰とも花火を見られなかった、おまえがいたために」(6聯)。 だがもちろん看過できない。「にい、にいよう」(初聯)、冷たい兄に追いすがる妹の、この生々しく愛らしい関西弁ひとつにも、妹殺しのかなわない理由がにじんでいる。この兄にとってすら妹はかわいい、恋しい母の忘れ形見なのだから当たり前だ。「かなの丸い背、いっぽんいっぽんに赤みがさす、芋虫のような趾」(5聯)「からだは土でできていて、嘘がない」(初聯) 妹がかわいいから、かわいくない自分への嫌悪がいや増す。真に殺すべき自身を殺すために、兄は亡母のもとへ向かう。すでに述べた通り、この兄はカインの象りだから、スサノオのようにイザナミを追って黄泉へ下りなどしない。嘘のない生身のまま、恋しい母とかわいい妹を愛していた過去へ遡る。「黒く艶めく土で指を汚す、抉る、膚との境は少しも溶けてゆかない」(終聯)「山に風が吹き、ざわめきが胸に弁を通り抜けるいま、眼に入るものが身体になって、おれは、おれでなくなるかのように、地をめぐる」(3聯)「おかあさんはかなが乳飲子の頃に、朝、起きなかった、それをいま幼子がみる悪い夢として忘れていることもできると思う」(5聯) 「おかあさんとかなが居間で座りこんで何かをしている。ままごと。いま母はわらった。かなが何かを表したいように諸手をあげる。顔は見えなくとも上機嫌とわかる、性の同じ名前できっとおれが出ていけばやめてしまう、そんな飯事で、ふたりして、戯れているのは夢だった。」(5聯) 亡母を恋しがり妹を逆恨みするこの兄は、自身の男性性を持て余しているのかもしれない。詩中に充満している不信や離人感が、ともすれば聖書の説くところの罪に起因するのかもしれない。従えない父、信じられない神、そして「言葉が嘘をつくる」(初聯)、すべて男性性の象徴だ。 言葉を古典ギリシャ語で「ロゴス」という。ギリシャ語のヨハネ福音書ではキリストの別称だが、ヘシオドス『神統記』のロゴスは印象がまるで異なる。それはニュクス(夜)の娘エリス(争い)に産まれた息子たちの名、意味は「物語」と解されている。
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作品データ
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作成日時 2024-07-10
コメント日時 2024-07-15
本作、手合い違いの力量なのは明白で、無料で読んでるのが申し訳ないくらいで... 全編ねじれた詩的言語で書かれてて、読みが、どうしてもテクスチャーの方にひっぱられがちで、肝心の構造の方がどうなっているのかな?と。その、作品のレシピの部分ですよね。 父殺しの系譜の物語という核心部は、わたし自身の読書経験からも身に覚えがあり、本作、読んだ直後からなんとなくあたりをつけていました。旧約、オイディプス王、ハムレットはもちろん、フォークナーや中上健次も、その系譜でしょうし未だ返答は決まっていなかったのですが、この読解一例を拝読させていただいて、だいぶ頭が整理できた気持ちでいます。 あと自分の中で、大きい謎だったのは、筆者は果たして男性なのか?それとも女性なのか?というところでして(すでに知られているのでしたら、わたしの一人相撲でしかないですけど) 筆者さん、読み手にそういう邪な想像を抱かせる、謎のカリスマ性がある気がします。「中性性」と表現したくなるような。 その疑問の部分を持った上で読ませていただいたのですが、 亡母を恋しがり妹を逆恨みするこの兄は、自身の男性性を持て余しているのかもしれない。詩中に充満している不信や離人感が、ともすれば聖書の説くところの罪に起因するのかもしれない。従えない父、信じられない神、そして「言葉が嘘をつくる」(初聯)、すべて男性性の象徴だ。 ここらへんグッとくるものがありました。 恵投、ありがとうございます。
1ご高覧ありがとうございます、ご参考に足りたようで幸甚です。作者の匿名様は、A・O・Iさんがおっしゃってた通り文体一目瞭然ですが、わたしが昨年かいた推薦文の作者様と同一人物ですね。 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-70.html ↑本稿もこのような改訂正書版を外部に出す予定ですので、有用だった部分や理解できなかった部分を教えていただけると助かります。父殺しの件も男性性の件も、もろもろの配慮からかなりぼかしましたが、需要があるなら思い切った詳述を検討したい。 (たとえば、語り手の家庭の宗教をある特定のカルト宗教と仮定すると、読解が真っ黒に染まってしまうのです。その真っ黒なのと特定の宗教を、安易に結びつけたら差別です。宗教を核心とする作品の論評には、そういう難しさがありますね。) それにしても、 >全編ねじれた詩的言語で書かれてて、読みが、どうしてもテクスチャーの方にひっぱられがちで、 テクスチャー、気になりますよねえ、詩の神だって細部に宿りますからね。まさに「日に透く葉の裏表のように」(初聯)両義的な修辞がこれでもかと陳列されているのの、題名を含む一切を無視したまま父殺しうんぬんなど、やはり無理があるといま悟りました。粛々と改訂を検討します。 わたしがビーレビで出す推薦文は、特権投票のためのほぼ下書きです。需要を供給できるよう精進したく存じますので、ぜひ今後もよろしくご指南くださいませ。
1カインとアベルの対立は、神の意志の不公平さに対する嫉妬から生じたものであり、結果としてアベルの死とカインの放逐が描かれている。一方、「葉舟」では、兄と妹の関係は感情的な葛藤や内面的な探求を中心にしており、物理的な対立や殺人の話ではない。カインとアベルの物語では、アベルの死が中心的な出来事なのだが、「葉舟」では、母親の死とその影響が物語の中心にある。 しかし、この作品においてカインの罪を代弁するような直接的な記述はないにしても、罪悪感、悔恨、孤独、追放、兄弟間の対立といったテーマが散りばめられており、カインの内面的な葛藤や罪を反映していると解釈できる部分は多く見られる。作品全体を通じて、カインとアベルの物語と重なる象徴的な要素は確かに、多く感じられる。 >何度祈っても奇蹟のひとつもしない神に祈りなどいらないと、思うことはやめられない 神への祈りが無意味だと感じる部分は、カインが神からの赦しを求めても得られない絶望感を反映しているように感じられる。これはカイン(わたしたち)が罪を悔いながらも救われない状況を代弁しているようにも感じる。 >どこまでも行くつもりで、わざと径すじを覚えない 自らの道を見失うことは、カインの追放と孤独を連想させ、この描写が、カインがその罪を背負って生きる姿を象徴しているとすれば、彼の行動に対する一定の理解や共感を示しているとも解釈できる。 総じて、強さと弱さ、善と悪、人間の複雑な感情を描くことで、カインの行動が単なる悪行ではなく、人間的な葛藤の産物であることを示唆しているようにも感じられる。作品全体がカインの内面の複雑さを映し出すことで、彼を単純な悪人として断罪するのではなく、より深い理解を求めているようにも解釈することができる。 澤さんの評を読むまでは、まさか「カインとアベルの物語」が下地にあるなどとはまるで露ほども思わなかったです、、
1鋭く、核心的なる読解に、只平服を致します次第でございます。 批評とは一つの文学でなければならない、とは有名なる言辞ではございますが、 正しく一つの「文学」と致しまして迫真の読解を繰り広げていらっしゃられると感受を致しました次第でございます。 此処までは、拙い自分の批評眼‐洞察眼に拠りましては読解を叶い得ませんですから。 良作の程(何処が、具体的に何に繋がって在らせられるか)をご教示賜りまして、允に有り難うございました。 流石でございます。 説明下手ですまない。 蛇足。 旧約の心憎い処と致しましては、 長子の末子殺し(カインとアベル)と、三人兄弟次男、及びその次男の末子への祖父からの呪い(ハム=カナンの父へのノアからの呪い)、 また、末子が騙し、長子、父を出し抜く(弟ヤコブと兄エサウ、そして父イサク)と謂う、一筋縄では解けない話型が混淆を致して居ります処にございましょうか。 創世記(それも全体像ではなく)を以て見ましても、これ程に複雑を窮めました話型 (系統樹的‐家系図的関係図の思考的把握が、とても当方、苦手、不得手なものですから)でございますから、精神衰弱を来して仕舞いそうにもなりつつも。 一概念、一条件の通底を、自分の余り賢くない頭では解きほぐせませんものですので、旧約聖書は面白い、と感受を致して仕舞うのでございます。 間違い、理解不足の方がございましたならば申し訳ございません。
1ご高覧ありがとうございます。本稿が鑑賞の資料として役立ったうえに、カイン考の契機にまで成り上がったようで幸甚です。わたしもまさかカインとアベルなんてものが、最後の最後で唐突に表出する(そうみなさないと終聯の説明がつかない)とは思いませんでした。この可読性マイナスの挑戦的すぎる芸術性、わたし大好物です。 しかしatsuchan69さんの読解を拝見し、いま悟ったことがあります。わたしの読解の核心はあくまで父殺し(フロイトのエディプス・コンプレックスの現代的な解釈)であって、ユングのカイン・コンプレックス等とは一切関係がない旨を、改訂版では明瞭にせねばならん。もろもろ無駄な配慮から心理学の用語を忌避したため、修辞が一貫性を欠いたようです。人様の修辞を評する前に、自分の修辞をどうにかしないといけませんね。
0ご高覧ありがとうございます、過分も過分の賛辞を賜り恐縮です。 >何処が、具体的に何に繋がって在らせられるか まさにそれを示すのが目的の構成でしたので安堵しました。冒頭にもっとも難解な部分を置くことには不安もありましたが、『葉舟』の読者になりうる人はそもそも限られているのだから、批評もその限られた読者の高い要求水準に応えるべきでしょう。批評なるひとつの文学を目指し精進いたします。 ところで旧約聖書。むかしは海外文学の必須教養だったのが、最近は旧約自体をラノベ感覚で楽しむ人も増えているようです。たとえばわたしの偏好する中世のアーサリアンには「サムソンの力とソロモンの智慧とアブサロムの美貌を併せ持つ騎士」といった賛辞が頻出しますが、最近はウェブの「聖書のイケメン特集」みたいな記事で、エサウの名を見かけたりするのですよ。政教分離の威光に感服しますね。そりゃヤコブよりエサウのほうがいいに決まってますよ現代的な感覚では。
1作品「葉舟」の中には直接的な「父親殺し」の描写は見当たらないが、父親に対する潜在的な反発や葛藤が感じられる部分があるのかもしれない。これを広義の「父親殺し」と解釈することは可能だけど、具体的な行動や明確な意図としての描写はないのでは。それでも詩の解釈は多様だし、読者の視点や背景によって異なる解釈が生まれる余地があるといえばある、、 たとえば同じ「アベルとカインの物語」を下地を持つ「エデンの東」では、キャルが兄のアーロンに母親の真実を告げることで、アーロンは失意の末、軍に志願して戦争で死んでしまう。キャルはこの出来事に対し、父親の期待に背く罪悪感とともに、父親の愛を独占するための無意識的な行動をとったと解釈できる。そしてキャルは父親の愛と承認を求めつつも、父親の期待に応えられない自分に苦しむ。その結果、キャルの行動には父親に対する反発と怒りが顕著に見られる。このような彼の行動こそが、象徴的な意味で「父親殺し」と言えるのだと思う。 作品「葉舟」では、全体を通じて、語り手の内面的な葛藤や罪悪感が描かれている。これが父親に対する感情と結びついている可能性は否定しないけれども、『エデンの東』のように明確に父親への反発として描かれているわけではない。そして父親の指示に従わない、あるいは期待に応えない行為が、象徴的に「父親殺し」と解釈される余地はあるが、これは非常に‥‥間接的なものであるとボクは思いました。 あまりクドイと嫌われるだろうから、もうこれ以上書かないことにするが、「エデンの東」の場合は物語の終盤でアダムが亡くなることで、息子たちとの関係が最終的に決着する。特にキャルにとって、父親の死は自身の罪悪感や自己認識に大きな影響を与えた。しかしこの作品においては父親はまだ生きており、その存在は重要だけど、明確な「父親殺し」の行為や直接的な対立は描かれていない。『エデンの東』では父親の死が息子たちに大きな影響を与え、特にキャルとの関係においては明確な対立と葛藤が描かれている。「葉舟」の中の父親との関係は、象徴的な反発や葛藤を含んでいるものの、物理的な父親殺しや明確な対立としては表現されていない‥‥ それと「ハムレット」の場合の父親殺しについても書こうかと迷ったが、これは既にヒヒョー家たちの手垢がやたら付きまくっているし、新しいところでは「ルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダー」との関係だろうか。ああ、ボクがあまり好きでない春樹さんの作品はそーゆーのが多くあるらしい。アニメでは、誰もがきっと頷く「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジと父親の関係だろう。ぼくが読んだヒヒョーでは江藤淳さんが書いた「成熟と喪失」のなかで夏目漱石や芥川龍之介などの近代日本文学の作家たちの作品に「父親殺し」がみられると書いてあった。江藤淳さんの考察は、現代の文学研究や文化論にも大きな影響を与え、権威や伝統に対する反発、新しい価値観の模索など、現代社会においても重要なテーマであり続けている。ただ江藤さんはロッ●フェラー財団(DS)もしくはスペクター、もしくはショッカーのメンバーだった(笑)から、たぶん「父親殺し」という【label】は、伝統的日本を「見える化」し、解体を煽るためのツールとして新進の作家たちへ無料で配布した「魔法の塗り絵」だったのかも知れない。 ←嘘、、
1ご再訪ありがとうございます。拙評の理解しがたい点について、信頼する評者からご指摘をいただけるのは、本当にありがたいことです。つまりなにもかも本稿が、もろもろ無駄すぎる配慮により心理学的な説明を忌避したのが悪いとはいえ、読者様のお言葉を引き出すのも批評の役割。このご再訪も大きな成功といえましょう。妥当な論評でさえあれば批判も大歓迎しますので、なん度でもご再訪くださいませ。 * すでに述べた通り「父殺し」は、フロイトのエディプス・コンプレックスの現代的な解釈です。この文脈における「父」は「神=法」の寓意です、キリスト教の神が「父」と定義されることから生じた寓喩です。すなわち『葉舟』における父殺しは、語り手が神を信じられず葛藤している点に、もっとも色濃く表出しています。 語り手が神を信じないのは、亡母を死から救わなかったから、「自分から母を奪ったから」ですね。この「自分から母を奪う者」が、父殺しの文脈では「父」に擬えられます。『ハムレット』の叔父がその一例とみなされていますので、『葉舟』の妹も同様にみなしえます。 母はすでに亡く妹は母を知らないとわかっているのに、妹が自分から母を奪っているという逆恨み(妹さえいなければ母を取り戻せるという誤謬)をやめられない。この矛盾が心理学ではコンプレックス(複合)と呼ばれます。『葉舟』の文脈を埋め尽くす両義的な修辞と両価的な吐露は、まさにコンプレックス、「日に透く葉の裏表のよう」な複合の象りです。 * 以上は言うまでもなくわたし個人の読解であり、作品の問題でも作者様の責任でもありません。それへの苦情をこのコメ欄に書き込んでいただけるのは、わたしにとり大変ありがたいことであるのはもちろんのこと、作者様にも望ましいことであろうと考えます。
1例えば「女」が教会や街、民の寓意であるように、葡萄の木がイエス、魚が信者、父=神というのは聖書ではよく知られている喩えですが、フロイトの場合はボクから言わせるとスペクターもしくはショッカーなので、こうした解釈はやはり【label】貼りかと、、 それとフロイト的解釈をすれば、この記述自体がマリア様=澤さんへの愛情表現なのです 笑
1>父=神というのは聖書ではよく知られている喩えですが、フロイトの場合はボクから言わせるとスペクターもしくはショッカーなので、こうした解釈はやはり【label】貼りかと、、 そうまさにレッテル貼りです。レッテルだとわかっているのに貼ってしまうからコンプレックスなのです。たとえば聖書は天才の論理と名高いが、論理が自身の正しさを保証しないことは、聖書信仰が生んだ多くの罪(原義は「的はずれ」)を例示するまでもなくあきらかでしょう。罪とは誤謬、誤謬は人間性です。心理学はその人間性を相手取る学問です。 誤謬を恐れるなら読解はするべきでないということになりますね。現に多くの現代詩評が、読解恐怖症に陥っています。知的に見せかけるために内容への言及を避けるので、ほかのどの作品(あるいは作者)にも指摘できるような空疎な話しかできない。そんなことだから現代詩もその批評も「別に難しいことを語っているわけではないのに、意味がまったくわからない」と言われるのですよ。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q148255824 ↑わたしはこのチエリアンを心の師として、「読みさえすれば意味だけは確実にわかる批評」すなわち読解を志しているのでした。 ところでフロイトの古典心理学は、現代人の経験則や日本人の宗教観からみれば、到底理解できない暴論に違いありません。それでたとえばエディプス・コンプレックスに関しては、ハイデガー等の影響を受けた現代的な解釈がなされています。大人気ガタリの『アンチ・オイディプス』がオイディプスへの関心を深めたので再評価も進んだのでしょう。批判の重要性のよく分かる事例です。
1この機会におまるたろうさんへ。atsuchan69さんのスレで話題沸騰のラカンですが、本人より弟子のジジェクの解説がおすすめです。わたしもラカンは無理ですわ。
1ありがとうございます。 噂では名著と聞いています。たしか、デヴィッド・リンチをラカンを絡めて解説したやつだったような...「快楽の転移」とか、「空虚から(女性を)救済するための暴力」とかとか。漠然と「ヤベ―本」という印象があり、、、。 リンチもヤベ―奴だし、ラカンもヤベ―奴、シジェクもやっぱりヤベ―奴という感じです。ここらへんは、いっぺん、腰を据えてじっくり勉強しないとって思ってます。勉強勉強!
1上記のおすすめはこれです。リンチが扱われてたかは失念しました(!)が、映画の話は出てきます。 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E8%AA%AD%E3%82%81-%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF/dp/4314010363 しかしAmazonのレビューではあまり評判よくないですね。もっとよいラカン入門書がおすすめされてますけど、たぶんわたしにはそれも無理だしいいわジジェクで。 これはまったく個人的な経験に基づく私見ですが、ジジェクのやばさについては、引用者のやばさと混同されてる部分も大きいような気がするのですよね。わたしが文極に偽フェミニズムを投稿した際、悔い改めろと粘着してきた電波オブザ電波も、ジジェクを引用してましたからね。やつはその後たしか痴漢を礼賛する詩を投稿して、文極を出禁になったはずです。電波に引用されたらどこのだれのなにだろうが電波にしかならない、他人のふり見てわがふり直さねば。
1ありがとうございます。 >わたしが文極に偽フェミニズムを投稿した際、悔い改めろと粘着してきた電波オブザ電波も、ジジェクを引用してましたからね そうですね。 ジジェク引く奴は、個人的にも、そんな感じの印象。ちなみに、わたしのホームは美術なんですけど、あっちの業界は、おっしゃるような電波だけで構成されてますよ...とりあえず、藝大関係者とだけは関わってはいけない(真顔) ところで「葉舟」ですが、読み手たちのハードな意見が集まってきているようで、ちょっとひと段落した感じがあるので、そろそろ本音を書いてもいいころかな?と。 こちらに展開してみようと思います。 読んですぐにおもったのが、中上健次に似てるなという点でした。この作家もど真ん中の「父殺し」の系譜の作家です。 最終連の「沈みかかる納屋」や「黙りつづける農具の傍」の場面は、教会的なシーンに見える。 >いつか器に積もった砂埃にゆびで指し描く合図をおれは、おまえが人差し指で描くのは日射しの、どんなときも秘密ではない。 ... たしか「地の果て 至上の時」だったか、重機やシァベルに囲まれて、主人公が、ほとんど崇拝的な、ほとんど自我から逸した状態で主観を述べている場面がある。そこで、「土方より清い存在はない」という真理告白をする。ここらへん似てるな、と思ったですね。 もう一つ、看過できないポイント、 >大事にしたらないかんぞ、父が言った。わかっていることだった。だから信じもした。だがあんたが、信じていたなら、どこに言うことがいった? 6連目はじめですが、いったい、なにか言いたいのかよくわからなかった。 ざっくりとは、「だから信じもした」のは、 >にい、お父が言うとったで、お祈りしよ ...このへんを指していそうだが、 >...だがあんたが、信じていたなら、どこに言うことがいった? ここですよね。 「信じて」と「言うこと」がはっきりと分離されているようだ。 この話者の心のなかにある、氷解できない、わだかまり、みたいなのは、直感的にはわかるのですが。 人はしょせん、信じることと疑うことしかできません。それを超えたところにある真理なんてものは、虚構にすぎない。生きている限り、なにかを(消極的にせよ)信じているのであって、全てを疑うと、デカルトでもない我々凡人は、狂うか、死ぬしかない、、 しかし一方で、本当にそのような白黒思考な人生しかないのだろうか?...とも思ったりもする。 まあ、哲学的議論は禁欲するとしても、「生きるということは信じること」ということは、いちおうは、いえるのではないか。 父が「大事にしたらないかんぞ」といっている先にあるものとは、コトバってことなのかなあ?と。 ふと思ったりもしましたね。 それは「嘘」にもなるわけで。 妹と祭りに行く場面のあと、 ラストの例の場面にいく。 個人的には、ここで「おれこそが神だ」と宣言しちゃっているように、読めないでもない。 さっき、わたしは、 「しかし、本当にそのような白黒思考な人生しかないのだろうか?...とも思ったりもする、」 と述べました。 信や疑を越えた状態という、ここが物語を成就させるポイントになったんじゃないかなと思うのです。 ほんとうは、この話者が自分を自分で笑い飛ばすくらいのシーンがあってもよかったかなあって思います。 露悪的な言い方になっちゃいますけど、「カルト的」だと、いえるのではないでしょうか。 このへんが作品の空間の独特の狭さとしてあらわれている。 むろん、そこが詩的な魅力にもなっているわけで、作品のよしあしとは、別の話です。 こんなことを考えてました。
2>わたしのホームは美術なんですけど、あっちの業界は、おっしゃるような電波だけで構成されてますよ...とりあえず、藝大関係者とだけは関わってはいけない(真顔) ……………………。 以前SNSで文極投稿者の藝大生(だったと思う)をフォローしてたとき、TLにうんこの写真が連打され閉口した記憶がありますけど。まさかおまるたろうさんの別名義では!(濡れ衣であってほしい) >「葉舟」ですが、読み手たちのハードな意見が集まってきている 批評対象のコメ欄が賑わうのは、推薦者として至上の栄誉です。投票結果は確定しましたから、6月の選評のトップ(最多投票数)を『葉舟』が飾るはずですが、まさかこの盛り上がりが無視されるってことはないでしょう。運営のどなたがどんな選評を出すのか楽しみです。万が一またも去年のアレみたいなのを…………(以下自粛) ●以下、まじめに『葉舟』の話 >読んですぐにおもったのが、中上健次に似てるなという点でした。この作家もど真ん中の「父殺し」の系譜の作家です。 >たしか「地の果て 至上の時」だったか、重機やシァベルに囲まれて、主人公が、ほとんど崇拝的な、ほとんど自我から逸した状態で主観を述べている場面がある。そこで、「土方より清い存在はない」という真理告白をする。ここらへん似てるな、と思ったですね。 中上健次はノーマークでしたが、そんな武者小路実篤みたいな思想の作品もあるのですね。『葉舟』のコメ欄でスパムーチョさんがどしょっぱなから「百姓」ぶっぱなしてらしたのも、その「土方」の影響だったりするんだろうか。 終聯の「土にならないものに目をくれてはならない、行って、行って、知らないと言え」を説明できる文脈が創世記しか思いつかないというのが、拙評の現状ですが、もっとクリティカルな材があれば乗り換えたい。ユングのカイン・コンプレックスのせいで父殺しの説明が面倒になるし、ある特定のカルト宗教が……。 >6連目はじめですが、いったい、なにか言いたいのかよくわからなかった。 批評の課題を頂戴できてうれしく思います。そこは、母と妹についてどういう前提を仮定するかで、意味がまったく変わってしまう部分ですね。 >>大事にしたらないかんぞ、父が言った。わかっていることだった。だから信じもした。だがあんたが、信じていたなら、どこに言うことがいった? ここに限らず『葉舟』には、主語目的語を削ることで意味を二重にしている文章が多いわけですが。ふつうに考えれば「大事にしたらないかんぞ」の目的語は妹ですよね。兄が妹を邪険にするから父がそれを諌める、父が息子の理性を信じていたなら諌める必要などなかったはずだ、と。 しかしたとえばその父が、聖書信仰の家庭にあるまじき不倫男で、語り手の実母と離婚したあと浮気相手の継母と結婚し妹が産まれたんだとしたら? この「家庭に関する叙述が思わせぶりすぎて混乱する」点が、わたしの思う『葉舟』の最大の難点です。これは作者様の解決するべき課題なのかもしれませんし、詩人同士で議論する価値もあるかもしれませんね。
1お返事、ありがとうございます。 >母と妹についてどういう前提を仮定するかで、意味がまったく変わってしまう部分ですね 両義的にとらえるしかないのなら、じゃあ、両方で取った方がいいという。大枠で思考したいなという感じです。いったん、母=妹=「嘘」ということで考えてみた。澤さん(=巨人)の肩に載らせて頂く方向で... 本作コメ欄では「母」説がまた浮上してるみたいですが。 いやあ、しかし、じつに面白い作品です。
1こんばんは。 山の共同墓地(竹藪の墓地=竹藪は根が凄まじく土を掘るのが得意としている人間達でないと難しい。)に母親が埋められていて納屋があって農具をもっているにも関わらず、百姓と何ら繋がりもなく実は主人公はGoogle社員です。と考えるよりは「百姓に何らかの縁」はもっていると考えることは何ら不思議な選択ではなかったと思いますよ。笑 推薦文のおかげで非常に面白い作品に出会うことができ、楽しい時間を過ごさせていただいています。 澤様の旧約聖書からの読解の視点がとても私にはかなり響くものがありました。今もってしても、このクセ強めの最終段落には読み方によっては「殺人」を否定出来ません。 それは感情を読むばかりしているわたしも何が原因が分かりませんが文章から「殺意」を嗅ぎとった感覚的な事実です。 今は同じ最終段落で悩む方々の話を聞いているうちに別の角度からの視点でこの作品という山を登っております。
1※以下一部、スパムーチョさんへの返信も兼ねます。 『葉舟』のコメ欄、すでに作者様がご登場であるにもかかわらず、ますます読解が盛り上がるとは奇跡的な事態ですね。さすが田邊容さんのご恩徳です。テクスト論が盛り上がるのに作者様のご歓迎が不可欠なんて、無念なまでの矛盾ですがやむを得ません。 わたしは読解が自由だとは思わない。唯一の正解がないからといって、当否がないわけはないし、是非や巧拙が問題にならないわけもない。今回こうして多くの読解を拝見でき、学びの機会に恵まれたことを、本当に幸せに思います。 (余談ですがわたしの批評は、文脈を読まない印象論者に、アクロバティックとたびたび揶揄されます。本稿が妥当性を真摯に追求しており、奇を衒っていないことは、文脈を考証できるかたには理解されると信じております。) おまるたろうさんもスパムーチョさんも、失礼ながら、わたと同様にネット詩の鬼子とお見受けします。今後、生きてるだけで発狂されるような艱難があるかもしれませんが、強く生きていきましょう!
1上の返信もスパムーチョさんに宛てていますが、改めてご高覧ありがとうございす。『葉舟』コメ欄での読解はつぶさに拝見しており、大いに驚かされていますが、もっとも衝撃を受けたのは妹への「芋虫呼ばわり」に悪意を感じるという点です。言われてみればたしかに、女の子の足に対し奉って芋虫はないですよ。なぜこれが愛情表現だとわたしは思いこんでいたんだろう。自分のデリカシーのなさに仰天しました。 ちなみに、説明不足のうえ伝わりが悪すぎたと反省しましたが、本稿が注目しているのは旧約聖書でなく「聖書信仰」です。現に新約聖書も併読を推奨しております。キリスト教は土着の文化を否定し破壊する宗教ですから、たとえばA・O・Iさんのご指摘にあった七夕も、語り手の家庭では異教の祭として禁止されている可能性がある。題名の『葉舟』には、そうした事情が暗示されているように思いますね。 参考までに、終聯の「器」について、併読推奨し忘れた新約聖書の記述を貼っておきます。 「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」 ※新共同訳聖書 コリント人への手紙4:6-7 https://www.wordproject.org/bibles/jp/47/4.htm#0
0土を起点においているのだとしたら、骨も肉も、芋虫も、循環にあたるものなので、兄にとっては生命として自然に思われることで。その循環自体が愚かであると、言っているのではないかと、私は感じます。言葉のうわべを狙った、そもそもの意味を隠したひっかけのようなものかなと。
1A・O・Iさんようこそ、芋虫に愛憎は感じない派でしょうか。女の子の足の指が芋虫みたいって、わたしはかわいいと思いこんでいたが、まじめに絵面を想像したらちょうグロいですよ。さて、 >土を起点においているのだとしたら、骨も肉も、芋虫も、循環にあたるものなので、兄にとっては生命として自然に思われることで。その循環自体が愚かであると、言っているのではないかと、私は感じます。 生命の循環というのは仏教思想、あるいは自然科学の常識ですね。しかし聖書信仰において、人の命は永遠であり循環しません(ちなみに人以外の動物は永遠ではありません)。語り手が聖書信仰の家庭に育っていることが作中に明示されている以上、その明示に沿うのが妥当とわたしは考えます。 聖書において「土」は人の材料です。「肉」は「霊」のいわば器であり「罪」の源です。「罪」とは神の意志に沿わないということですので、「愚か」とほぼ同義です。以上を踏まえると、下記引用部の印象が、だいぶかたまるのではないかと。 >>振り向くと、かなはもう半ばべそをかいていた。足を止め待つ。待つ姿を見、口元をひきむすんで、肉と骨にまとわれた一歩。すべて愚かに思えた。
1自分の読みは下地を考えない本文だけで読み取ってますから、なので澤さんならそう云うと思ってました。読解完成版たのしみにしてます!
1ええと、おそらくたぶん、 マトモであろう原始キリスト教における※罪とは‥‥ ×「神の意志に沿わないということ」 〇「神のことば(聖霊)を『受け入れない』こと」 ※旧約では律法に違反することが罪となるが、律法を守れる人はひとりもいない ローマ3:11 ※「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」マタイ9:13 ただキリスト教って、メチャクチャ分派していて、フリー SEX の宗派もあるし あのソウカとともにジミンにひっついている壺売り教団や 一夫多妻のホル●ン教団も一応はキリスト教だって言っているからなあ、、 この作品における――キリスト教――がカトリックなのか? それともプロテスタントなのか? までは判らないし、 もしもカルトだったりしたら、よけい読みは複雑になるよなあ‥‥
1語り手の信仰というのは、下地(舞台設定?)より人物像(キャラ)に属する事柄だと思うのですが、そういう話を持ち出すとまたもあの悪夢・詩と小説の違いうんぬんが再燃しそうですね。応援ありがとうございますっ
1「罪」のヘブライ語の原義は「的はずれ」ですから、「神の意志に沿わない」でも誤訳ではないと思いますよ。もっともわたしがその定義を聞いたのは、キリスト教三大異端のひとつと名高いエホバの証人の集会ですが。
1エホバの証人、ボクんちにもよく来ます、、 あー、旧約と新約ってチャンポンしやすいんで ブッキョーの人には理解しにくいと思うし 私はブッキョー徒ですって言っても、 キリスト教と同じようにカルトも沢山あって ソウカも日蓮宗だって名乗っているような‥‥ それでもボクの考えでは、 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は すべて海の民の創作です、、
1なお、↑のコメントは、全世界で20億人を上回る数の信者を擁するキリスト教とその背後に潜む海の民スペクターからの攻撃が澤さんに及ばないように、あえてボクが自ら十字架に磔されるべく書き込んだものであり、今少し意識が朦朧とするなかで聖母マリア様の微笑む顔や純白のドレスを着た羽のある天使たちの姿が見えています。そして日本においては仏教に紛れ込んだ景教や聖徳太子との関連も見逃すべきではないことも逝くまえに記しておきます。葛城氏と物部氏との争いも調べると何か見つかるかもです。
1言われてみればたしかに、福音書はともかく2コリが新旧どっちかなんて、とっさに答えられる日本人は信者か研究者だけでしょうね。改訂版では出典を「新約聖書(新共同訳)コリント人への手紙第二4:6-7」のように表記します。ご指摘ありがとうございます。 信仰は超自我の礎であり、社会の倫理法令はもちろん、個人の人格からも切り離せません。『葉舟』にはそのゆえ起こる葛藤が暗示されていますので、この葛藤を要因とする社会問題も垣間見えるでしょう。本稿はそこまで踏み込みませんが、聖書信仰を熟慮する契機になりましたら幸甚です。
1●ご閲覧のみなさまへ これにて澤あづさは当コメント欄を撤収し、改訂正書版の制作に入ります。改訂正書版は運営による6月選評の公開以降に公開し、この記事で告知いたします。その告知に際し、一度だけこの記事を上げさせていただきます旨、投稿者のみなさまにご海容いただきたくお願い申し上げます。 ●運営のかたへ 上記の告知行為に運営上の問題がありましたらお知らせください。 ●本稿にご意見をくださったみなさまへ 批評対象『葉舟』のコメント欄も含めて、みなさまの読解はすべて拝見いたしました。受けた感化を改訂に活かすのみならず、参考文献として紹介もさせていただきます旨、よしなにご了承くださいませ。みなさまと『葉舟』の読解をご一緒できた奇蹟を、おわすなら神に感謝いたします。
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