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いつものこと
わたしは悲しみを拾います だれの悲しみだろう なぜ悲しいのだろう 取り留めなくおもいます 掌で包んでみたり 耳をあててみたり 抱いて寝てみたり 机の上に置いてみたり 床に転がしてみたり 水の中や空に浮かべてみたり 地中に埋めてみたり 時には舐めてみます ひとつひとつ味も形も重さも違います 暗闇に投げ入れると輝くもの 潮騒に触れると震えだすもの 雑踏の中で人の足に絡むもの 時折、わたしはそいつらを料理しようかと 綺麗に腹わたを抜いて 出汁をとりスープにしたり すり下ろして薬味にしたり 天日に干して干物にしたり サラダスパの彩りにしたり カクテルの隠し味にしたり レシピを考えてみますが 他人の悲しみを血肉にすると 自分がわからなくなるので 食べることだけはしません ひと通りしてから わたしは落とし主を見つけて そっ、と気づかれないように 返しておきます それから黙ってそばに座ったり 笑いかけたり 離れていったりします 後はお気に召すまま 気の向くままに 時計がぼーん、と時をつげます
いつものこと ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2574.8
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 10
作成日時 2020-09-07
コメント日時 2020-09-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 4 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 10 | 4 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0.8 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0.5 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.3 | 0 |
総合 | 2.5 | 2 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
すうっと読みやすかったです。最後の一行の効果音のような余韻が、詩にうまくとけこんでると思いました。
0誰かの悲しみを拾う事と、自分自身の悲しみとが、全然違うものであるという点におかしみを感じます。自分と混ざってしまうから食べない、とさらっと大事な分別が書かれているような。
0ありがとうございます。 そうですね、あまり引っかかりが出ないようならこの詩は成功してるのかと。ひとの悲しみ、は確かにあるけど本当にはわからないですね。ただそれを言葉で書くのが詩なんだろうか、などと考えさせられます。
0ありがとうございます。悲しみに寄り添うなんて言うことがありますが、そんな感じですかね。ある意味、冷たいのかもしれないのですけど。
0良いですね。出たしは私の感じる、人を惹きつけるための要素、食いつきのようなものが足りないと感じたのですが優しく読み手を詩世界へと招待し、この詩の肝である悲しみの調理まで持っていく。苦なく楽しく読ませてもらいました。
0この悲しみへの眼ざしは傍観者なのだと思います。だからレシピは考えるけれど調理しないし、ただ静かに眺めてあれこれ考えている。キャッチーなものは書けませんが、詩世界を感じて貰えたなら幸いです
0だれかの悲しみを拾って、料理して、そして最後に時計が「ぼーん」と時を告げる。発想がとても面白いです。どうやったらこういう事を、考えつくんだろうと思いました。楽しく読ませて頂きました。
0臨床心理士の仕事をイメージで表現したものと受け止めました。 調理という磨きぬかれた所作で、《悲しみ》が受け入れられる美(味)に変えられてゆきます。 そう確信したのは、最後に記された時を区切る"もの音"です。 物理的な実在を前に、ある節度をもって人は生活のもとに戻ることを前提に、ときに危険な調理(人類最初のふぐ料理のような)に臨めるのだと考えています。 若松英輔氏の「悲しみの秘儀」はそういった料理の解説とも思いきや、料理そのものとも謂えそうです。
0「たり」で作られるリズムをどうとるかで評価が分かれそうではあります。ぼくは、割りとシリアスな内容がユーモラスな印象になって、最後の一行と相俟って悪くない感じだと思います。
0抽象的な感想で大変に恐縮ですが、帆場さんは素晴らしい詩を書いている反面、「帆場」という個人を撃ち抜けていない印象を受けます。私個人としては、帆場さんの「個」がもっと打ち出された作品を読みたいと思います。当然それは小手先のテクニックに依拠しない性質のものです。
0そこはですね、すこし、考え方は職業病というか。料理とか絡めるのは趣味なんです。自分に根づいてる言葉を使うと自然と出てきてしまう気がします。
0なるほどなぁ。僕はそこいらも学んだのですが、たぶん、一時期そういったカウセリング事例を読んだりしていたので言われたらなんか納得してしまいました。そう、たぶん、この自分のあり方みたいなものを詩で深めるとしたらこの詩が出発点な気がしていて実在とか言葉、詩てなんだろうと考えている次第です。悲しみの秘儀は未読ですので、教えて頂きありがとうございます。
1おぉ、最初と最後の二行!まったく気づいてなかったです!そこに集約されるのかもしれない。ありがとうございます。
0そういや、このたり、の連打に誰も触れていない 笑。僕自身、気にしていなかったです。シリアスをユーモアで語るといえばブルースを思い出しますが、まさに書いた頃にヒューズのブルースについてを何度も読み返していたからかもしれません。
1僕はなるべく自我とか個性的?みたいなものから離れて詩を書くことを考えてきました。多分、左部さんが言われる個はそういうものでなく帆場蔵人という詩書きの貌?がみえるものなのかな、と思います。突き抜けられない、という思いが、長くありまして仰る通りです。 文体を打ち壊して再構築するか、今の持ち味をさらに深めるかみたいな分岐点で立ち尽くしています。コメントありがとうございます。
3横書きなので、逆にフレーズの しんしんと積もっていく感じがしました。 その中で、時折り宙を浮かぶというか、 積もり積もるなかに、時折、 不意に 軽みを感じさせるイメージが 面白いと、思いました。
0帆場さんの詩にしては、なんとなくいつもの何かがなくて、なんでだろうとずーっと頭の片隅で考えていた。 たぶん、いらない言葉と矛盾がある、と気付いた。 「わたしは悲しみを拾います だれの悲しみだろう なぜ悲しいのだろう 取り留めなくおもいます」 「わたし」という言葉は、この詩には最低限しかいらないのではないかと。なぜならば、全体を通してみて、「わたし」をわざわざ書かなくても、作中主体が拾ったり思ったりすることが明らかだし、唐突に「悲しみを拾います」とはじまったほうが、ずっと興味を惹かれる。おもいます、もいらないかもしれない。それなら、取り留めもなく、くらいのほうが余韻が残るかも。 それから、この人が結局なにをしたのか、なんとなく曖昧でわかりづらい。 ・わたしはそいつらを料理しようかと ・レシピを考えてみますが ・食べることだけはしません ■わたしは悲しみを料理しようかとレシピを考えてみるが、食べることだけはしない。ということになる。 流れから見ると、おそらく、一通り料理した「悲しみ」を落とし主に返し、悲しみもこれだけ人生の喜びになるかもしれませんね、と静かに寄り添って去っていくのだろうが、それなら、 ■わたしはそいつらを料理します、レシピもうんと考えます、けれど、食べることだけはしません という流れの方が自然かと。 もし誤読していたらすみません。したり、のリフレインや、悲しみを拾って落とし主に返して去っていく姿や、それに時計の音(時間薬ということなのかな)が重なるという帆場さんならではの視点は、とても素敵です。
0横書きの効果!実は恥ずかしながら意図したものではありません。確かに降り積もるイメージが生まれているようです。普段、縦書き中心ですが、横書きならではの味わいもありますね。
1なんで、わたし、を改稿しなかったんだろうか。確かにいつもなら私の多用は避けますし、一連目のご指摘はその通りです。他の、わたし、も同様に省ける。 書かなくてもいい、自己主張をしています。ちょっと強引に一読者としてそれを探ってみたいと思います。この作中主体は料理を考えたりと拾った悲しみをためつすがめつ観察しています。だけど自分の血肉にしてはいけないから、それを持ち主にかえしにいきます。血肉にしてしまうと他者へ逆転移を起こしたり、感情移入の末に自他の境があやふやになるようなことに恐怖を感じているのかもしれません。なので、必要以上に、わたし、を強調しているのかもしれない。非常に臆病な気もします。ただ落ちている悲しみを見捨てることはできないようで、拾い上げ、その悲しみ、この悲しみ、個々のひが体験する悲しみの一言に集約されたものが具体的にはどんな手触りで味で匂いは、とそこに確かにある事を確かめています。 そして、それを持ち主にかえす。持ち主は自分の悲しみ馬他人とわかりあえはしないが、そこに確かにあることを分かち合える人がいる事に気づくのかもしれません。それが救いになるかはわかりませんが。 料理にして返して悲しみも人生の喜びに変わりえる、という発想は正直なかったです。詩が広がったようです。ありがとうございます。 そういえば、かなし、と古語で書くと愛おしいなども意味に含まれますね。何かそこにこの詩がさらに深められるものがあるように思います。
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