別枠表示
悟り
我は月なり 我は太陽なり 我は空なり 我は草木なり 月は我なり そへ静けさを返す 太陽は我なり そへ温かさを返す 空は我なり そへ遥かさを返す 草木は我なり そへ優しさを返す 我は宇宙なり 宇宙は我なり そへ永遠を返す 一切皆空 諸法無我 もはやこれ以上は存在しない 私に幸せがもたらされた 心からの満足を感じた 永遠なる世界よ やっとたどり着いた幸せよ
ログインしてコメントを書く
悟り ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 253.5
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2025-01-21
コメント日時 2025-01-22
項目 | 全期間(2025/01/23現在) |
---|---|
叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
自己とは、つまり世界の投影であり、対話であり、鏡面でありまた、つまるところ世界とは我自身である それはなにもないけれど、なにもあるものである それは感じるかどうかである と感じました
1仰る通りですね。感じることが出来るかどうか、観点が確立できているかどうか。 人から指摘され、直して(それが必要だから)、真実に至るならば、実に楽に生きられる。 何事も、無明(無知)から発しているのが、全ての人間でありますから、全ての執着を 除き去って、本当の自由で善なる心によって、空なる真理の下に世界をありのままに見るのです。 うたかたやかげろうのように、この世を見るのが正しい、なぜならば、全ては執着して、 本質があるような気になって、その果てに苦しんで、この世から去っていくのであれば、 慈悲の心も持ちがたく、自己中心の暗闇の中で、他者との真の触れ合いもなく亡くなっていくの ですから、その後悔と無念たるやいくばくか。そうなる前に、毒矢を抜き去って、真理に 到達しなければなりません。皆が悟り得ると教えられてきました、誤った考えに縛られて、 真実へと導かれない道を選んで、迷子になるならば、時を浪費して、虚しさの中に沈んでいくでしょう。 世に描かれた価値観の中でレペゼンを持って、執着しないで見るならば、全てが報いられるはずでしょう。
1世界の価値とはつまるところ、自身が意味を与え色付けするものである 無為だと思えば無為であるし、またそれを価値あるものと見做す意思がそこにあるならば、それはまた誰に否定されようが覆せぬ価値となる 仰る通り真理でしょうねこれは
1日本では、世俗的な価値観が強く、子供の頃の共同体的に、大人にならずにいる人も多いです。 何がホントの大人なのかは、理解しているわけではないんですが、いずれにせよ、無常 の価値観に違うことは、みんな間違っています。自己に対して、厳しくあらねばならないですよね。 そして、他人に対しては、しっかりとした認識の上に優しくあれ。
0上のコメントは、俗悪ちゃまさん宛てです。
0返す、という発想がとても興味深いです。返すということは、何かを借りているという前提がある。
1宇宙の真理を説いているような詩ですね。 自然をふんだんに使った壮大な表現に引き込まれました。
1命というものは、全て仏さまの一部でありますから、そのご恩、分けていただいているものを、 返すのだと思っています。仏さまのお助けを、ありがたいと思って返すことが、人の自然な 心の在り方だと思います。インドの言葉で言えば、ブラフマンとアートマンということが 言われています。この心臓(フリダヤ)の中に眠る偉大なものを、まさしく生きている間に、悟ることによって 目覚めさせていく、そうした密教的な働きというのか、即身成仏を、目指しているわけです。
0自然は、絶対に差別をしません。自然と共に暮らすなら、自然がありがたいと思い、私達も 自然にならって差別をしないようにしよう、そう思うべきかと思います。宇宙の真理は、 宇宙の中にあり、私達自身の中にもあります。それに気づくなら、宇宙は私のためにあり、 私は宇宙のためにある、という簡単で壮大な境地を楽しむことが出来ます。そう知ったならば、 何かに困っていたり、悩んでいることが、解決可能か不可能かを見極めて、愚かにおろそかに 生きないようにしようと、誰もが思い、実行することが出来るでしょう。自らと人の中に眠る 偉大なるものに、気づいていた人々を、幾人も見てきました。生きることが喜びそのもので ありますようにと、願っているところです。自然に支えられて生きている、ということは、 現代では忘れられがちではないでしょうか。どう転んだって、いつか死ぬわけですから、 最後は私達も自然と区別がなくなる、ということです。ただ、生命には仏性があります ので、死後にどうなるかは、分からない話であり、様々に幸福を説く宗教の、示すままに思い、 日々精進努力し、真理を理解、体得することに、大きな意味があると思います。自分で考える、 行動する、話す、書く、見る、心を落ち着ける、そういったことが、誰しも出来るのであり、 人間というものは、もともとは完全性を持っているものであると思います。完全性に至るなら、 もう迷うことなく、楽しんでやっていくことが出来るでしょう。慈悲は、人に対しても、 自分に対しても、持つべきであり、責任は、他者に対してのみでなく、自分に対しても 持たなければならない、すなわち、他者だけでなく、自分も幸せでなければならないのです。 それが、仏さまの命を分けていただいている我々個人が、果たすべきことであると思います。
1