私は幼い頃、自分のことを名前で呼んでいた
「これは、はなのクレヨンだよ」
自分の名前を使うのは当然の権利だと思っていた
でも 大きくなって、それは違うらしいということに気づいた
自分を自分の名前で呼ぶ人は幼稚であるという
暗黙の了解がこの社会にはあるようだった
それに薄々気づきながらも
わたしは小学五年生まで自分で自分の名前を呼び続けたし、それを誰も咎めたりしなかった
「ねえ、はなも仲間に入れて…」
小学六年生になり、お気に入りだった、着古してすっかり萎びてしまった白いレースのワンピースを捨てたのと一緒に自分の名前を使うのもやめた
名前を脱ぎ捨てたわたしが裸になれないのは
わたしが「私」という名の喪服を普段着に選んだからだ
確かなことは、ある種類の言葉が、その瞬間から奪い取られてしまったということだ
そうしてわたしの名前は死語になった
アスファルトで舗装された家路に生き埋めにされる前に
正しい呼吸を取り戻すために
わたしの名前を、
正しい音階でこの耳に吹き込んで
魂に呼び戻してくれる人をさがしている
作品データ
コメント数 : 12
P V 数 : 1360.9
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2024-06-19
コメント日時 2024-07-17
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
閲覧指数:1360.9
2024/11/21 20時55分52秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
※自作品にはポイントを入れられません。
読みました。う~ん、 ちょっとむつかしかった。
0Molloyさんは整ったきれいな文章を書かれますね。 私にとって、この詩の視点は、不思議で意外でした。私は自分の名前にほとんど執着がなかったので。明日、代わっても驚きはしないというほど。子供の頃から、ずっとそうでした。 ところで、ふと思いました。子どもの頃、自分を名前で呼ぶのは、女の子のほうが多かった気がします。なんとなく。だから、男性には、その感覚がわかりにくかったりするのでしょうか。
1私の名前を呼んで下さい、という祈りが私も思い当たります。切ないですね。人生は。
1コメントありがとうございます! さかさんのように名前にぜんぜん執着のない方もいるんですね。わたしはこんな詩を書くくらいなので自分の名前にはそれなりの思い入れがありますが、社会に出て職場で苗字だけで呼ばれるのに慣れると、あれ、わたしの名前ってこれだっけ?と錯覚する時もあるので不思議なものです。自分でつけるわけではなく、あくまで親に勝手に決められて、与えられるのが出生名。これを自分のアイデンティティと認識していいのだろうか?みたいなことはずっと考えていることです。
1湖湖さん、コメントありがとうございます。この前、綿谷りさの「勝手にふるえてろ」を読んだんですよ。「自分の名前を呼んでほしい」という切実な思いが「愛されたい」という願望と直結するという話で、わたしのこれまでの経験と重なる部分が多く、それをうまく言語化してみようという試みがこの詩になりました。
1今の名前は、そんなに気に入っておられるなら、それがあなたの真の名前でしょう。 名前にこだわり続ける人々、そんな人間が、楽しいものでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=4KJgsDhXgw0
1言いたいことはわかるしある程度内実のある語だと思うが、詩でやる必然性がわからない。エッセイにした方がずっと映えるだろう。
1「名前を脱ぎ捨てたわたしが裸になれないのは わたしが「私」という名の喪服を普段着に選んだからだ」 ちゃんとした自分の主張があると思いました。詩なので自己主張はあまり、関係ないのかもしれませんが、矢張りその主張の合理性に詩を強める効果があると思いました。
1哲学的な洞察からロマンティックな愛の希求へ―その接続が流れるようにスムーズで、説得力を感じました。 考えてみれば、名前は代替不可能で人称は代替可能。なら、みなが固有の名前を語るのが逆に自然なのではないか。そんなことに思いを馳せました。不思議です。
1一字一句ゆるがせにしないという書き手の想いが伝わってきます。ドイツ詩のような。 綿矢りさって、芥川賞のときに「蹴りたい背中」を、文藝春秋ですけど、じっくり立ち読みしているが、19歳にしては悪達者な作家だなあと感心したのか呆れたのか、よく分からない感想をもった記憶がありますね。「いつも等身大の主人公を描いてきた」というようなことを本人はいうのですけどね、でもまあ、京都人ですから。 ずいぶん、脱線しました。この作品には、文学の伝統を重んじる気配があると思います。
1これがプロローグとしておかれるならば物語へと予感させる秀逸な文章ですね。どちらかといえば小説風味に運ばれる文体。名前を捨てる。「わたし」という喪服を身に付けて生活するというのは一歩大人へ近づくということ。それは夢見る少女から女性になるという、淋しさと覚悟が同居する期待感への表れでもあるわけですね。お上手で佳い詩文だと思います。
1存在を、名前を、魂を込めて呼びたいです。そして私も、呼んでほしいと願っています。
1