僕の神は質素な味噌汁を遊泳している。
おっちょこちょいな自然を吸っている。
僕は彼の舌の筋から滑り生まれた、
一人の若い詩人である。
神はいつも言葉を口説いては、
毎日言葉とセックスしている。
(コンドームは着けないし、なんなら食べてる)
僕も言葉には欲情するけれども、
後悔が胸を覆って直視できない。
神も当然仕事をしなければならないが、
安い予言売りに身を置くばかり。
ちなみに僕は明日からタヌキになるらしい。
神は時々、僕に成りたいと言ったりする。
でも、魂胆は分かってる。
彼はひどい性病持ちだから僕の体を乗っ取るつもりだ。
そうやって僕をそのタヌキみたいな体に容れ込むつもりだ。
すべてお見通しだ。
だから、明日は家にハニー・トラップの言葉たちが家のドアを叩くだろうけど、
僕は部屋で詩を書き続けるよ。
作品データ
コメント数 : 17
P V 数 : 1226.1
お気に入り数: 1
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2023-12-15
コメント日時 2024-01-31
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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2024/11/21 22時59分15秒現在
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大変感銘を受けました。この語り口は、慣れていない人がやると、よくわからない比喩や暗喩を不均一に並べて、失敗することが多いですが、この詩では一貫した雰囲気が不思議と伝わってきます。 あくまでも私の解釈ですが、この詩の神は世界に詩人や小説家を贈りだすことで間接的にすべての書物をつくる。だが詩人は他社から影響を受けること(欲情すること)、既存の模倣をすること(タヌキになること)をひどく嫌悪し、独自の創作を進めようと(書物を含む)外界を完全に断ち切り部屋に閉じこもる。 設定としてこの詩の書き手は、実際に天才と認められているのか、まだ見つかっていない才能なのか、あるいは勝手にそう決めつけているのか分からないが、言葉遣いをみると強がりが感じられる。またその曖昧さも設定であり、現実を目の当たりにさせているのかもしれない。 実社会にも文学、より広くは芸術、さらに学問に関係する人で絶対的存在の奉仕者である感覚を常日頃から持ち、またその感覚から脱しようとしているものがいる。この詩は神と、下劣なないしは素朴な言葉(セックス、おっちょこちょい、味噌汁、性病持ち)を並べ、尊いという共通概念を拭い去ることで、その逃げ道をつくっている。 もう一度いいますがあくまでも私の解釈なので、違ったらご指摘、あるいは黙殺してください。私はこのような詩、語り手と作品自体の関係を推測させたり、実社会で言うと問題になりそうな表現で共通認識を打破する詩は、文学の特質を存分に活かせている気がして、とても好きです。 ここからはこの作品にあまり関係ない話ですが、安部公房の「バベルの塔の狸」が思い出されました。この短編小説の主人公も詩人で狸になり、バベルの塔に棺桶で送られ、そこから脱出するという題名通りの話ですが、当時読んだときは意味をあまり理解できなかった覚えがあります。この詩を読んで、あの小説の上記で述べたような一つの解釈が自然と浮かびました。熊倉ミハイさんが想定していた読み方ではないかもしれませんが、それに関してもお礼を言いたいです。
3プロフィールを見ました。安部公房がお好きなんですね。私も間違っていなかったかもしれません。インスピレーションを受けて創作したとしても、私の評価は一寸たりとも変わりません。いわば、「壁〜Sカルマ氏の犯罪」と、ルイス・キャロルやカフカの作品をくらべる感じ、と言ったらわかりやすいでしょうか。
2ご感想、ありがとうございます。 解釈、大変興味深く読ませていただきました。とても詩に書かれている言葉に則した、核に触れている解釈だと思います。 特に「共通認識を打破する」試みは、やはり常に持つべきものだなと改めて心に刻みました。 この詩は、最近意気揚々と購入したシュルレアリスム詩集で、一番初めに載っていたギヨーム・アポリネールの「神」という詩からインスピレーションを受けました。 書かれていたのは、神が私と同化していく、すごいだろ云々……といった内容のもの(と解釈しました)で、安部公房や他のシュルレアリスム作品に魅せられてきた私は、「これはシュルレアリスム詩なのか?」と不満を憶えました。 この不満は時代の差異によるものかとも思うのですが、 「神」という言葉も含めた、「愛」やら「恋」やら「光」やらの、かつて神聖さを保っていた言葉たちは、尽くこれまで詩に使い果たされ、それこそ「安売り」される「娼婦」のような言葉に成り下がっていると、そう錯覚してしまうのが現代かな、としばしば感じます。少し、憤りすら感じたりもします。 この怒り心頭は、世に流行している感傷的な「ポエム」と呼ばれているものや叙情詩(この2つは同じですかね? 勉強足らずで判断が怪しいですが)だけでなく、先人たちが築いたシュルレアリスムにも最近、私の中の矛先が向きつつあります。 「バベルの塔の狸」(そういえばその主人公も詩人でしたね、言われて思い出しました)で私が印象に残っているのは、ブルトンらシュルレアリスト達を滑稽な狸に表現していたところで、ああいう風に書いた安部公房の感覚が少しだけ分かった気がした、と書き上げた時に思いました。 長々と、蛇行した思考を連ねてしまいました。この分野の造詣のある方にこのような感想をいただいて、少し興奮しております。 先人たちの描いたかつての神話を、リスペクトしつつも現代の解像度で甦らせ、紡いでいこうと思う次第ですので、今後ともよろしくお願いします。
1最初の一行が日本語としてつまずいた。 つまり作者はあまり真面目に何か詩を書くこともない のじゃないかと思った。 今のこの時代、 知に偏ったものは空疎な感を 免れない。 コメントを含め なにかを衒うようなある意味 幼稚な人間性のいちめんをみた気がした。 詩はそういうものからそろそろ離脱すべ きときに来ていると思うのだが。
2コメントありがとうございます。 ・「最初の一行」の具体的にどの部分を「日本語としてつまずいた」と指摘しているのか明記されていない点 それが明記されないまま、「真面目に何か詩を書くこともない」とする態度の批判。(各々の主観で変わる「真面目さ」という言葉についても、説明がなされていない点) ・「知に偏った」とは、たとえば理性(知)と感性の二つの柱があるとして、どの程度偏っていると考えていたのか。また、それに続く、「コメントを含め」「幼稚な人間性」を見たという人格批判は論理として妥当性があるかどうか。(加えていえば、「幼稚な人間性のいちめん」という断定しない表現にすることで、逃げ道を作っているようにも捉えられました)また、私だけでなくさか たけお氏にも仰っているというのであれば、それは同じ性質の「幼稚な人間性」でしょうか? はたまた別物でしょうか? 他の方も巻き込むとなると、それだけの理由の説明が要されると考えられます。 以上の点から本コメントに対し、本サイト「B-REVIEW」のガイドラインに記載されている「不快感」を大変強く感じました。 もしも可能でしたら、上で挙げた二点について、私の今後の活動のためにも参考にさせていただきたいので、ご説明願いたいです。
0関係ないんですが一口に詩人と言っても様々なタイプがいると思うのですが ザックリとならだいたいどーゆータイプっていうのが分類できる気がするんです 熊倉ミハイさんは 前作も合わせて読ませていただいた限り 抒情とか 自然がどうだっていうより 前衛性というか クリエイティビティに対しての課題と取り組まれてるのかなと思いました 俺はついにそーいう方面の才能も能力にも恵まれなかったんですが やっぱり掲示板でそういう作品を見ると 興味深く感じます こーいうのってちょっとしたサプライズ感があっていいすよね 哲学は驚きからやってくるってアリストテレスが言ってましたたしか 是非どんどん書き続けて読者を驚かせてほしいですね
1作者の世界観それへの挑戦を感じました。 味噌汁に対する畏怖がないなら せめて神さんを浮かべるのは コンビニのカープヌードルにしてほしかったかな。
1確実に誤読ですが2つほど拵えました。笑うなり呆れるなどしてください。 ・一つは詩の神について、詩の材料は何処にでもあるんだよという意味。ただ思うようには行かないが書き続けるといった内容 ・もう一つは、神さん=カミさん(妻/女主人)と空想癖のある男の話。なんだかんだいってもカミサンには頭が上がらない尻に敷かれているといって体裁。ダブルミーニングですね。 ミハイさんの二作をみると一作目は意味をtitleに置きつつも言葉が柔軟に組まれている。けれどtitleから遺脱することはなかった。今作は意味を誘うもの、見える言葉がどう惹きつけるか。そちらに重きをおいたのではないだろうか。 多分すべての想像が間違ってると思いますけど、私が勝手に言っているだけですが、やはり嘲笑うなり怒るなりしてくれて構いません。とてもおもしろく読めました。また楽しみにしています。支離滅裂でスイマセンでした。
1ご感想、ありがとうございます。 コンビニのカップヌードル…… 確かにその発想もあるな、と思わせられました。 「質素な味噌汁」を選んだ意図としては、具が少なく、邪魔な物がないので泳ぎやすい場である反面、濁っている場所(水底の美しさなどが見えない)を表現したかった、といった具合です。 おそらくここを、麺が脚やら腕に絡んで泳ぎづらいイメージのある「カップヌードル」にするとその意図から離れるのかな、と。 要は、優雅に休日のプールを泳いでるつもりの神だが、そのプールは実は濁ったものである、という滑稽さを表したかった感じです。 コメント、ありがとうございます。m(__)m
0二つ目の解釈の「神さん」と「カミさん」、思い付かなかったです。そう考えるとまた面白いですねw カミさんも私も「言葉」に魅了された、作家夫婦といったところでしょうか。カミさんの方が先に有名になってしまったがために、「私」の嫉妬が募っていく… しかし、かつて彼らは夫婦として惹かれ合っていた訳で、そう考えると、あなたに「成りたい」と言うカミさんの言葉も深みがありますね。実はカミさんも夫の才能に嫉妬していたかのよう… どうか過度に卑下なさらず、作品は誰のものでもないので、それぞれの詩をどのように、さらに面白く読めるのか、それが大事だと思います。 コメント、ありがとうございます。m(__)m
1ご感想、ありがとうございます。 こういう類いの作品を作るのは容易ではないと感じていますが、日々精進していきます。 ありがとうございますm(__)m
0凄くフェティッシュなことなのですけれど 首の筋から生まれた・・・、っていいな、と思いました。 その、釈迦は脇の下から生まれましたし、弥勒になると膝の上へ下生すると謂われています。 それはユング的な集合無意識のおはなしだと思うのですけれど その、この作品では詩人なのですけれど、偉大?なものは子宮から膣を通って生まれていない そういった、説話や神話に繋がるようなフックが挿入されている点、いいと。 (説話や神話というのは、ユング的集合無意識の表出と謂われていますね) 細かい点なのですけれど、面白いと思いました。
1ごめんなさい、打ち間違い、舌の筋、でしたね。 ですけれど、面白いと思ったのは変わらないですし、面白いと思いつづけている。 一日、この詩について考えてたのですけれど 日本人って神様は、彼方にいて、それが来たり、去ったりする、と考えている。 それが、キリスト教になると合一になって、神様と私がいっしょであること これを、実存のメインに添えた。 この作品では、それら価値観の同一視なのか、ごった、なのか なかなか面白い展開をしてみせる。気に入りましたね。
1ご感想、ありがとうございます。 田中さんの二つの考察、確かに、と思わせられました。 ユングの集合無意識のような、「舌の筋から~」の言葉については、それこそ無意識に出てきてました。 そんな無意識に抗えない自分の思考にぐぬぬ、と思うものの、二つ目のコメントにあった日本的と西洋的な神のどちらにも当てはまったり当てはまらなかったり、という指摘は確かに、新しい価値観が垣間見えているなと思いました。 自分の作品に眠るこの意識については、引き続きみつめていきたいと思います。 貴重なご意見、ありがとうございますm(__)m
1ユーモラスな詩ですね。味噌汁を遊泳している神が僕の体を乗っ取ろうとしている。性病を治すために?恐らく詩を書くと言う事は変な神に取りつかれることなのかもしれません。
1投票を忘れたのでもう一度コメント欄を送信します。
1強い力を感じました。性病の神って、超ウケる。でも、付き合ってやるかと笑。 素晴らしい詩を、ありがとうございます!
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