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道なり
歩くことが嫌いだったぼくは いつからか歩くことの大切さを覚えて その義務感によって歩かされている 父と歩いてきた道を 今となってはひとりで歩けるようになって 五回目ぐらいのただいまを告げた 平泉、萩、松江、津、福島、函館、 盛岡の寂れた商店街で食べたジャジャ麺があまりにも美味しくなくて 我慢して食べたけれど 半分ほど残して父にあげた 父は 怒らなかった 本で見かけた「灰色の雪」という表現の答えをようやく見つけた (新潟を過ぎたあたりから車窓の景色が変容した、十分すぎるほどの雪が積もっていたから雲がなかった、ただ、目に見えない塵埃となった遺骨が、さらさらと、積雪の隙間を埋めていた 五回目ぐらいのただいまを告げる前 車窓から見える田畑や家々に どのような生が宿っているのかを回想した 野生のクジャクが踊っている その隣にあるアウディの所有者が 父より稼いでいるとは思えない それは車窓というフィルターによって そう思わされているだけか 「あなーたの、うでーがー、こえーがー、せなーかがー、ここーにあってー 「あたーしの、かわーいたー、じめーんをー、あめーがー、うーつー 好きな人の顔はなかなか覚えにくいと 何かのコラムで読んだが 声だけは どこにいようと覚えているものだ 目的地に沿って道は続くから 寺田駅の分岐に気をつけるべきだ 気づいた時には無人駅しかなくて 慌てて乗り換えたら 電車が止まってしまった 犯人は都会のはずれに住む兄弟だ 前回のただいまから変わったのは ぼくが灰を生み落すようになったこと 雪の隙間に入り込んだ灰が 春になってからは宙に舞っており くしゃみが止まらない 灰を生み落すコツとしては 歩みを止めて目を細めること (生まれ、落ちる、ものは、その場所を、選べない、が、選ばれて、生み、落ちた いつかきみをこの家に招いてみたい そして風呂から上がったきみの裸をまじまじと眺めてから 笑顔の祖父母が眺める横で 静かな夜を過ごして 止まってしまった家系図のその先に 一筋の道を掘り起こしたい
道なり ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1060.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-04-09
コメント日時 2017-05-04
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
コメントしたいけど時間かかりそう。とりあえず予約させてください。何か返したいと強く思った理由は第7連と最終連です、ってことはひとまず。
0満席にならないので、予約なしでいつでもお越しください。お待ちしております。
0まず、雪国の寂れた風景と、その中でとつとつと想起される記憶が語られる。 灰色の雪の抒情性と、それを捉える主人公の視点が良いなと思いました。 そして、後半、詩の中に君が現れる。主人公は君を家に招きたいという。 故郷に対する淡い愛しみ(生まれ、落ちる、ものは、その場所を、選べない、が、選ばれて、生み、落ちた と、最終連で語られる、静かながら地と血に結びついた確かな愛情「止まってしまった家系図のその先に/一筋の道を掘り起こしたい」 大げさな書きぶりではないけれど、愛のある詩だなと思いました。基本的に愛のない人間である自分からすると羨ましいです。 灰色の雪が静かに2人を包んでいるような、美しい印象を受けました。素敵な詩です。
0はじめまして。初心者です。よろしくお願いします。 灰色は、都会的なスタイリッシュな色であり、他のどんな色とも調和できる柔軟な色であるにもかかわらず、白でも黒でもないどっちつかずの暗いイメージがあります。灰色は大人の色でしょう。灰を生み出すコツも覚え、きみと新たに築いて行く愛。素人なりに何度も読んで、考えました。これからもよろしくお願いします。
0白犬さん 愛のある詩と読み取っていただけたのなら、白犬さんには十分愛が宿っているように思えました。 何より、灰色の雪が二人を包み込んでいる、というのが、僕の詩を拡げてくださるコメントで、作品に一味添えてくださいました、ありがとうございます。 桐ケ谷さん 作中における「きみ」問題は大きな問題です。 というのも、僕自身が「きみ」を用いず、「きみ」を用いた作品が大嫌いだったからです。 それが今となっては逆転、「きみ」を用いている、というより、用いらざるを得なくなりました。 「父と歩んできた道が「きみ」と歩むようになった」という読みがどこから生まれたのか気になりました。 きっと「きみ」は唐突に登場せざるを得なかったのですが、「残念」と捉えられてしまったことが「残念」で失敗だったと言わざるを得ないです、精進いたします。 ぶたみみさん よろしくお願いいたします。 詩の感想に初心者も何もないと思っております。 今まで自らが重ねてきた生を作品にぶつけて、何が返ってくるかの勝負だと思っています。 つまり、いくら詩や言葉に詳しいかではなく、いくら生きてきたか、いくら生を受け入れてきたか、なんて、関係ない話ですいません。 灰色の意味合いですね、僕自身灰色は好きでも嫌いでもないですが、灰色の洋服は嫌いです。 そして、灰があるから灰色があると同時に、灰色があるから灰があるんだとも思います。 「都会的なスタイリッシュな色」というのが意外ですね、なぜこのような印象をお持ちなのか気になります。
0なかたつさん、こんにちは。 最初の部分を読むと、ともに生きてきた父からの独立と死別を書いたものかな、と思いました。不味い食べ残しを父に上げ、父はそれを受け入れる、というエピソードが厳しい父権が老いによって崩れ、逆に父が子からの理不尽な振る舞いを甘んじて受ける側に回ったことを表すのだ、と。子がそれに後ろめたさと、一抹の寂しさを感じているうちに父は亡くなり、今歩く道には、父の灰色の骨粉が混じって、自分の未来を暗く予感させる。田舎の何気ない景色にも父の生涯は投影されるし、その支配の範囲で「ぼく」の人生は迷走し、そこからはみ出せることはない、恋愛感情すらも。「ぼく」は新たな父となり、祖先や血縁が見守る中で、血脈は受け継がれるのだ、と解釈してみました。最後の「きみ」は「ぼく」の伴侶であるが、性的プライバシーでもあって、それが血脈に連なるものから露わにされようとしているわけです。「きみ」の裸を見るのが父母でなく唐突に登場した祖父母というのも、血の因縁の時間的な奥行きを示すものだと思って読みました。 図式的過ぎる読みかもしれませんね。 「きみ」の唐突な登場のみならず、前半と後半で詩句のリズムというか呼吸が違ってしまっているような違和感はありますが、自分の亡父のことなどをしみじみ思い出しながら読みました。
0萩尾望都の「訪問者」というマンガがある。名作「トーマの心臓」に登場するオスカーが、母親を失い父親と別離するまでの物語だ。作者は、この作品を「砂の器」をイメージしながら描いたという。なかたつさんの「道なり」を読んだ時、なぜか最初に「訪問者」と「砂の器」を連想した。 この詩に関しては読むこと自体が心地よくて、細部に関して考察しようという気になれない(考察しても的外れなことばかりだろうけど)。この詩における父は「五回目くらいのただいま」の時には既に故人だと思うのだが、盛岡でジャジャ麺を食べた時はどうだったのだろう。老いた父なのか、それとも語り手の記憶となった父なのだろうか。「笑顔の祖父母」とは、おそらく田舎の家によくある、仏間の鴨居に飾られた遺影なのだろう。語り手は、そこで恋人と夜を過ごしたいと思っている。彼女と結婚して子どもを作り、家系図を継続させようと願う。それは父親(と母親)からの遺伝子を引き継ぎ、自分もまた我が子へバトンタッチするということ。選んだわけではない「生まれた場所」を肯定するということなのかも知れない。 ★それから作品の中で鬼束ちひろの「眩暈」の歌詞を引用しているが、表記方法を変えたことで著作権的にセーフになったのかどうかが気になった。この点は、掲示板スタッフの皆さんが判断することだろうけれど。
0道なり、という題名、「道なり」に歩まされている、という苦い回想を連想しつつ、一連目に入りました。 六行の中に五行、しかも連続して「歩く」という動詞を入れる荒技。 自然なリズムに乗って進行するので、そんなにしつこさは感じない、ということと、 「歩くこと」歩く、という行為を、客観的なもの、自身に関わるものではないもの、として見つめている段階 「歩かされている」使役的に、無理やり、いやいや、仕方なく、歩いている段階 「歩いてきた」随伴者が居たことによって、歩行が可能となっていたのだ、という、今の時点からみた回想と発見(と感動) 「歩ける」語り手自身が、自らの力によって歩いている、そのことの確認。歩かされる、のでもなく、他者が歩く、のを、外部から余所者のように見ている、のでもなく、自身が歩いている、ということ 地名という名詞によって寸断しながら、それぞれの地名の持つ風情、詩情を喚起しつつ、語り手の過去の時間を背景(舞台装置)のように呼びおこす。 「ジャジャ麺」のエピソードは、かつては(語り手の子供時代は)厳格で絶対的な、ある種の権威的な(時に恐怖や反発、憎悪をすら呼び起こす)存在であった父が、すっかり弱り、語り手と素直に接するようになった、そんな老いていく父への感慨のように思われる。 遺骨と粉雪のイメージは、雪に降り込められるような陰鬱な地(故郷、自らの自由を押し込められていた「家」という存在)をイメージさせつつ、父が故人となってもなお(なったからこそ、なおさら、)語り手が行くところ、どこにでも「遺灰」として振り続ける、視界を灰色に染める、そんな、どこにでも居る存在になったと感じさせる。 「野生のクジャクが踊っている その隣にあるアウディの所有者が 父より稼いでいるとは思えない それは車窓というフィルターによって そう思わされているだけか」 ここが、切りつめられすぎていて、よくわからなかった。恐らく農夫として、過酷な労働を強いられたのに貧しいままに一生を終えねばならなかった「父」と、同様の家業であるはずの隣人が、どうしてあんな裕福な暮らしをしているのか、という問い、なのか・・・あるいは、隣の芝生は青く見える、そんなひがみ目を、車窓というフィルターに転化しているのか。 挿入歌が鬼束ちひろの唄からの引用であることを、もとこさんのレスで知ったが・・・たとえ数行であっても、文末に~の引用あり、などと明記しておいた方が無難だと思う。 「電車が止まってしまった 犯人は都会のはずれに住む兄弟だ」 この部分も、よくわからない。分岐、という言葉が、兄弟の分岐(不和、別の道を行く)のメタファーなのか・・・だとしたら、前半に兄弟の存在を暗示する伏線がほしい。都会のはずれ、と明示している意図、兄弟が、なぜ電車を止めるのか、そう、断定するのは何か。「意味シン」なことを言いかけて、あえて黙ってしまったような、そんな消化不良感が残る部分。 「灰を生み落すコツとしては 歩みを止めて目を細めること」 コツとしては、という説明口調と、文体の軽さが、全体から浮いていないか。「歩みを止めて目を細めると/うまく生み落すことができる」というような表現の方が、次の象徴的な行と上手くリンクするのではないか。 「生まれ、落ちる、ものは、その場所を、選べない、が、選ばれて、生み、落ちた」 故郷から逃げ出したい、囚われたくない、因習や血縁、地縁から逃れたい、そんな否定的な感情を抱いていた「故郷」を、自ら受容しようとする心情を感じた。選ばれた、から、そこに「住まわされる」のではなく、自ら「生み落して」その地を選択する、という、強制から能動への転換。 「止まってしまった家系図のその先に 一筋の道を掘り起こしたい」 自らの代で、この家系を終りにしたい、断絶させたい、と思っていた語り手が、「きみ」という伴侶を得て、共に子供を育んでいきたい、次の代につなげていきたい、と思うようになった・・・そんな心境の変化を感じた。 小説という形式だったら、かなりの分量を要する「物語」を、詩という形式によって、かなり凝縮して示しえている、と思う。
0追伸。北陸の「寺田駅」は、大きな分岐点に位置している、ようですね・・・。実感としてリアルに捉えられないので、これ以上の言及が出来ないのですが・・・。
0migikataさん 読解は答え合わせではないので、内容についてコメントを差し控えますが、詩句のリズムが違うというのは、意図的だという言い訳ができるかもしれないですが、ちょっとその配慮が足りなかったのは事実だと思いました。 もとこさん 書かれているとおりなので、細部に関する考察をするより、確かにこのまま味わっていただければ幸いです。 引用は僕がよく用いる大事な手法ですが、配慮が足りなかったですね、申し訳ありません。 ただ、引用元を示す必要があるならば、引用は用いないようにします。 まりもさん 最初の連で「歩く」をそんなに用いていたのかと無意識的でした、自分でも気づきです。 イメージをコラージュで繋げているので、おそらく読者がその速度から置いていかれる部分が多くあるのだと思います。 あとは、固有名詞を使う葛藤というのは常にあります、難しいです。
0改めまして。 再読すると初読時とまた違うところに惹かれるのが鑑賞の面白いところで、今回は中盤、積雪の隙間を埋める遺骨という描写にかなり心を掴まれた。その直前に「灰色の雪」というワンクッションがあるけどその位置がまた絶妙。エモい。 第7連、最初のコメントで私が言及した部分。これ、マンガのフキダシ的なやつで本当に歌ってる部分の描写というふうに読んだけど如何でしょうか。何より好きな曲故つい思いっきり反応してしまった。(まぁ最後にさらっと注釈あったほうがいいかなとは私も思うけど、構成云々というより著作権からみのあれそれで) その少し後、先述の灰色の雪をひきずりつつ、「灰」が指し示すものがくるくると変わるのも鮮やか。この作品、全般的に連から連への「飛距離」が結構大きい(と思う)けど、バラバラにならずゆるーく繋がってる、その屋台骨はこういうところにあるのかなぁと感じる。 とどめはここにきて初めて「きみ」が現れるラスト。敢えて言わせてくれ、「ただただ素晴らしい」と。諸々の事情で田舎をここ何年かですごく疎むようになった私だが、このラストを以ってこの作品は、そんな私を肯定も否定もせず、ただ其処に存在するどこまでも優しい作品として私の中に残った。 ……うー、なんかもっと上手くかけた気がするよ。ごめんなさい。名作のひとつだと思います。
0訂正。 もっと上手くかけた→もっと上手く書けないのかって 意味全然違う。重ねてすみません。。。
0自分の過去の記憶と重なり、大変感動しました。この詩の中のような記憶が、たまたま私にもあって。東北の青森県で生まれからかもしれません。私は父を良く詩の中に登場させてしまうのですが、その父と重ねて読んでしまいました。私以外にも、きっと重ねて読んでしまう方がいるに違いないと思います。そういう詩には言葉に力があると思います。素晴らしい詩をありがとうございました。
0ひいらぎさん この作品、全般的に連から連への「飛距離」が結構大きい(と思う)けど、バラバラにならずゆるーく繋がってる、その屋台骨はこういうところにあるのかなぁと感じる という部分だけでも満足ですが、敢えて言わせてくれ、「ただただありがとう」と。 葛西佑也さん 思いっきり個人的な体験・固有名詞の連鎖が「重ねて読む」というところに繋がる不思議さがあります。 無論、僕も読者の立場として作品に重ねる行為をするわけで、同じ体験をしているわけでもないのに、何がそうさせるのかはいまだにわかりません。 理由はわからなくとも、それを感じていただけたのなら幸いです。
0>いつかきみをこの家に招いてみたい >そして風呂から上がったきみの裸をまじまじと眺めてから >笑顔の祖父母が眺める横で >静かな夜を過ごして >止まってしまった家系図のその先に >一筋の道を掘り起こしたい 最終連がとても光ってますね。面白い。という事は、それまでの部分に蛇足を感じたという事でもある事。多分ここには沢山の大切な思いが過剰なまでに盛り込まれている。という事かもしれない。僕が単純に受け止めきれなかったのかもしれない。 ただ、最終連。表現として、凄く好きだ。レッサーの皆さんの読みも面白く、これ以上は何かいうのが正直な所無粋に感じる。
0すごいなー、とため息です。 なかたつさんのこの詩の凄い部分は、観念と希望、それと具体的な風景が絶妙にないまぜになって、ひとつの作品を織りなしているところだと思います。つまり、形而上詩に堕していないし、かといって単なる説明的生活詩(私=朝顔はこれをやりがちです、)ではない。 「父と歩いて来た道」と仰られますが、その道が()で括られた終焉にまで一気に収束してゆく。それも故郷の風景と相まって。 そして「僕」の成長が語られる。「ぼくが灰を生み落すようになったこと/(中略)/歩みを止めて目を細めること」。 そして次の括弧からの詠嘆は、父の子に生まれたことの喜び、讃歌だと思いました。 「止まってしまった家系図のその先に」 いやあ、なんだか教科書に載せたいような詩です。素晴らしいな。無粋な要約をしてすみませんでした。
0百均ちゃん お疲れ様です。 逆に、最終連だけでこの作品が成り立つのか、と問われれば、成り立たないと言いたいところですが、何かその場面だけでも成り立つような気もしていて、何か悔しいですね。 ちなみにですが、書いた者として、皆さんのコメントにある読みは読みで多少のズレがあったりして、途中の部分の読みに対する解説は抜きにして、そのむずがゆさを感じています。 何より順番にコメントをつけている行為に賛辞を送ります。 朝顔さん 多分、ここ最近で書いている僕の作品の特徴だと思います、いろいろな違う場面を何となくで繋げていって、つかずはなれずに仕上げるのは。 「父の子に生まれたことの喜び、讃歌」を感じたのが何とも。 多分、詩は結論だけでは成り立たないという信念があって、この作品も結論を隠し隠しにしながら書いたんだと思います、多分。
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