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かみさま
ちゅうがくせいのころぼくはすくーるかーすとにぞくしていませんでした なぜならばぼくはそもそもそんざいしていなかったからです そんざいしていなかったといってもそれはぼくのどうきゅうせいたちのあいだにおいてそんざいしないことになっていただけであってぼくはそこにいたはずでした すくなくともぼくはちゅうがくせいのころじぶんがなにをしていたのかよくおぼえています なにもしていなかったからです なにもしないということをしていました おかあさんとおとうさんはりこんしたのでおとうさんとくらしていましたがとうじすでにおかあさんはしんでいたようすくわしいことはしりませんがそういうことになっています ぼくはおかあさんにあったことがありません おかあさんはぼくをうんでからもかなりのあいだいきたときいています ぼくはおかあさんのおっぱいをすってそだったともきいています それでもぼくはおかあさんにあったことがありません おかあさんをおかあさんとよんだこともおかあさんをみておかあさんとおもったこともないのです そういうことがおきるまえにおかあさんはしんでしまいました いまだにかおのみえないじょせいにだきしめられておかあさんおかあさんあいたかったとなくゆめをみてははれためでめがさめるのです ははおやにあったことがないということはあいされたことがないということです そうです わたしはあいされたことがありません さてわたしはちゅうがくせいのころいじめをうけていました べんきょうもできずうんどうもできずいつもきたないふくをきてしんちょうもひくかったのでとうぜんだったとおもいます いじめというとさっかーぶやばすけっとぼーるぶのせいとがびじゅつぶのせいとをいじめるというようなこうずがうかびますがぼくはぎじゅつぶのせいとにいじめられていました ぎじゅつぶはすくーるかーすとのさいていへんにいちしています ぼくもぎじゅつぶにしょぞくしていました なにかしらのぶかつにしょぞくしなければいけないきまりだったからです ほうかごぶかつにさんかせずにきたくすしてはいけないことになっていました そしてぎじゅつぶのせんせいはほとんどかつどうをみにきませんでした ぼくはぎじゅつぶでぼくいがいはいじめることができないようなさいていへんのおたくたちにいじめられぶかつをやすんだらせんせいにいいつけるとおどされただたださんねんかんたえたのでした こうとうがっこうへはしんがくしませんでした ちゅうがっこうをそつぎょうするとどうじにぼくはうつびょうになりました もっともびょういんにいくおかねなどなくものごころついてからびょういんにいったきおくがないようなせいかつをしていましたからびょういんでしんだんをうけたわけではありませんがいんたーねっとにであってからしらべたところによるとぼくはうつびょうだったとおもいます ほんとうにうごくことができずにじたくにいながらおしっこをもらしてしまうことがなんどもありおとうさんにぼこぼこになぐられました しょくじもできずただふとんのなかでねるかぼーっとてんじょうをながめるようなせいかつがずっとつづいていたのですがきづくとびょういんのべっどでねてました おとうさんがきゅうきゅうしゃではこんでくれたのです えいようしっちょうといわれたきがします しかしあまりおぼえていません ただうすぎたないびょういんのどうしようもないふんいきだけはきおくしています はたちになったころぼくはくりすちゃんになりました なんとなくたちよったきりすときょうかいにいってすくわれたとかんじたのでした きょうかいはいままでぼくがいきてきたせかいとはなにもかもちがいました ちがうとおもいました しんじようかみさまはいるのだとおもいせんれいをうけました そのころはすこしだけせいかつがゆたかになったときおくしています しかしぼくのうつびょうはなおりませんでした とにかくどうしようもないのです なんどもぼくはかみさまにいのりました うつびょうをなおしてください ぼくはふつうのひとのようにいきたいのですといのりましたがききいれられることはありませんでした つらいことばかりがおきました つらいことばかりでした ぼくをいじめていたぎじゅつぶのせいとがじつはせいせきがよかったことはいぜんからしっていたのですがしんがっこうにすすみあたまのいいだいがくにすすみいまではりっぱなかたがきのしごとをしているというはなしをきいてなにもかもわからなくなってしまいました ぼくはかみさまなどいないことにきづきはじめていました いてほしいとねがっていただけでした ぼくはきょうかいにいくのをやめました せいしょをすてました またなにもなくなったのでした それでもいまだにごはんめのまえにするとなによりもまずかんしゃのいのりをささげてしまうのです かなしいのです かなしいのですどうしてぼくはこれほどまでにただただつらいおもいをするためだけにうまれてこなけれえばならなかったのですか
かみさま ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1127.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 12
作成日時 2017-05-18
コメント日時 2017-05-21
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 3 | 3 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 1 | 1 |
構成 | 2 | 2 |
総合ポイント | 12 | 12 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 1.5 | 1.5 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0.5 | 0.5 |
構成 | 1 | 1 |
総合 | 6 | 6 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
- 【批評文】鳩村「かみさま」~お前の背中にはズックの跡があったよな~ (渡辺八畳)
誤字は、許してください。弱視なのです。
0すみません。タブレットからなるべくアクセスしないようにしているのですけれども(感情的になるので、)つい泣いてしまいました。 これは詩です。本当の詩の原点です。 私が詩集を出した時、一番嬉しかった評で「書くことでしか抜け出せない闇がある」と言うのです。 鳩村さん、これからも書いてください。
0ひらがなばかりの文体から『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせた。内容もあたまがたりない詩中主体による語りであるし。 田舎の公立小中学校出身の人だと、学年に何人かは明らかに知的方面に障害がある奴がいたってのは共感してもらえる話かと思います。(私立だとまず入学時点で色々と厳選されているし、東京とかだと地区で生活レベルが分かれているからあまり共感されないらしい) 私の中学校もまさにそれでして。すごいよなぁといまだと思います。どれが良いか悪いかという話ではありませんが、早稲田や慶応に進学した奴と高3の3学期で中退して今は解体工やってる奴とが同じ教室で同じ授業受けて同じ給食を食っていた。クラスでなく学年まで広げると京大や東北大までいますし、また中3時点で掛け算割り算も怪しい奴もいました。 バカとかってレベルじゃないんですよ、こいつ生きていけるのか心配なレベルでして。あだ名が「モアイ」(とても濃い顔していてしかも体はでっかかった)という奴がいたのですが、まぁいじめられていましたよね。 私とモアイは小1から度々同じクラスになり、また小学校低学年のころでは背の順に並んだ時モアイが1番後ろで私が3番目という縁もあったため、中学校卒業するまで所謂腐れ縁がありました。その頃別に私は友達意識は持っていなかったんですけどね。だって「バカとかってレベルじゃない」ですから、言っちゃえば知能は元からそういうものだっていう学校の兎とかよりも低い存在ですよ。勿論もちろん勿論現在の私はそんなこと言いませんが、しかしローティーンっていうのは残酷なほどに正直なもんですから。その存在が原罪ですよ。 そんなモアイと同じ道で下校していたある日ですが、ふと彼が「じぶんはいじめられてくやしいとおもうけど、いいかえすことができない。くやしいとおもってもいじめられるしかない」みたいな内容をふと言いましてね。やり返すにも知能が必要ですから。聞かされた私が何かできることもありませんし、話を聞くだけでしたが、でも今こうやって書けるぐらいに深く現在でも記憶にも凝り続けています。 そのモアイは地元の4年制定時高校(働きながら学ぶための定時高校、ですが実際は従来の学校に行けないほどに学力が低い奴の受け皿になっているのが殆どですよ)に入って、そして卒業後はやはり地元の缶詰工場のライン工です。 そんなモアイですが、就職した年の12月に籍を入れてちゃっかり中学校の他の誰よりも早い結婚を遂げているんですけどね。私は嫁さんの顔を見たことはないのですが、目撃した人によると悪くない顔らしいです。まじかぁってなりましたよね結婚を知った時は。まさかあのモアイが一番先に結婚するとは。人の人生はどうなるかわかりませんね。 私の学区てはそういった「バカとかってレベルじゃない」奴らもいましたから、中3までのモアイを思い浮かべながらこの詩を読ませていただきました。何も持たない、思いを発信する力さえもない人達の心中というのは、言葉にできない。 あと、2016年9月に自殺した前田仁(だるま)のことを思い出しましたね。自殺配信をしたのでその時は話題になりましたが、FC2によって遺書ブログは消されるし諸々のことがあって今ではほとんど忘れ去られています。(私もTwitterに「定期的に自殺配信をした前田仁(だるま)のことを思い出しましょう」と、ブログのログのURLを貼ったツイートをしていたのですが、Twitter運営にそれがばれてツイート削除&一時的にアカウント凍結を喰らいました) なにも表現できず、楽しみも無く、悶々としたまま生きていくしかない又は死んでいく人たちの存在って何なのだろうって思ってしまいますよね。この「人たち」って、今の文脈では「バカとかってレベルじゃない」奴らを指しているでしょうが、でも結局程度問題で我々だって苦痛のまま死んでいく存在ですよ。(特に詩書いている輩なんて!) 幸せってなんなんだろうね。 前田仁さんの遺書ブログのURL貼っておきます。長いですが、読む価値はあります。 http://archive.is/9iQ24 あと、表現的なことを指摘すれば、 おかあさんおかあさんあいたかったとなくゆめをみてははれためでめがさめるのです 「はれためで」(腫れた目で)は私の感覚でだが、他の箇所に比べて文体が高い、つまりここだけ表現の精神年齢が高いような気がする。腫れた目って、うーんどうなんだろ、あまりこういった口調で語る人は使わなそうな気がする。もうすこしレベル高い人が使う表現な気がする。 でもそういったことはあまり問題にならない程度にこの詩は良い出来だと思う5点満点なら私は4点入れる。(つまり満点にはならないんだけどね。万が一満点にできたら、もうそれはアルジャーノンのように世界の文学史に残るレベルだと思う。だから私も満点の形がどんなかってはわからない)
0追伸 前田仁さんは前述のよう情報規制に近い扱いを受けているので、実際何日に自殺したかももう調べてもしっかりしたソースがでてこないぐらいなんですよ。何も成せずに苦しみばかりを味わってきた一人の男が、最後の最後に雄叫びとして吠えたブログだってすぐ消されて、ログとっとく人がいなかったら闇の中でした。 変な芸能ニュースを見るぐらいなら日本国民は皆人須く前田仁さんのブログを読むべきなんですよ、本当は。
0度々追伸で申し訳ないが 5点満点中4点ってのは決して不十分ってことではない。満点が3点までしかない詩は世の中にたくさんある。5点満点になったら神のレベルってだけで、人間界なら十分に覇権争える力量を持っている詩だ。
0ちょっと気を取り直してレスします。 私、これなんでショック受けたかと言うと、私の実家って母方がクリスチャンなんですね。しかも曽祖父の代から牧師。 で、小さなころは神さまはいるって思っていました。 でも、メンタル系の病気で大鬱になって、祈っても祈っても何にもならない。 それで20年間くらい、自宅の一室で天窓から空を見てただただ寝ていました。 たまたま、医者を変わって5年くらいして、いいケースワーカーが「平安の祈り」って言うの教えてくれて、セルフヘルプグループに通うようになったんですよ。それで初めて光がほの見えて・・・。 詩の感想に戻りますと、これ巧い詩です。ひらがなだけっていうのは一つの強力な戦略です。(意図的になさったのか、無意識かよくわかりませんが。) ひらがなだけ。音だけの世界って、その内容が露わになる、剥き出しになるんです。 この、悲惨な人生譚を、「詩」として読者に読ませる唯一の方法だったと思います。 幸せって、普通に先立つもの(お金)があって、抱きしめてくれるひとがいること。食べるに服に住むところに困らない事です。 でも、そのためにはまず自尊心を持つことが必須なんです。 鳩村さんは、3点満点が普通の世界で4点の評価を受けています、今ここで。
0いじめられていた、孤独だった、うつになりました、云々を全て詩に裏返してしまうことは、その過去を特権として使っているということなのではないか。そうやって謳うことはそれは詩なのだろうか。ここで詩を書き込んだことによってあなたは既に勝者ではないのか、(わたしも精神障害者ですが)いかにみじめな思いをしてきたかの競争で詩を成り立たせる次元争いからは詩人は脱出したいと常々感じます。ここで賞賛しているひとたちは24時間テレビを観ても泣くんじゃないだろうか。それだけの感想しか持てません。 言い過ぎかも知れませんが、つまり、如何に低いポジションに存在しているかで詩を書いて惨めさの競争を詩の強さにすり替えることはやめたいとは思いませんか?
0何か、誤解されている、気がするので、言っておきます。 まず、この詩は、9割くらいフィクションです。まあ、私の実際の人生も、この詩以上に、悲惨ですが、全くベクトルは違う悲惨さですね・・・こういうものを、書いた動機について、話す気は、ありません。以上です。
0大変失礼しました(__)。 フィクションなのですね。 だとすれば、「かみさま」という題は誠に秀逸というか、計算しつくされたものに感じます。
0わたし、恥ずかしながら漸くここのB-REVIEWの呼びかけ文句(ABOUT)きちんと今もう一度精読したのですが。 作品としてこれ、評価する場合アクチュアリティはものすごく強いんですよ。 問題は、「君の世界を突破する美しい詩。そんなものを広く求める。 」という主旨なんですね、ここ。 そこからすると、この作品は現代日本にありがちな、絶望的な人生譚のフォーマットとしては最強なんです。★5と言ってもいい。 ただ、なんですか。絶望と言う世界から、今一歩突破するもの、希望には確かに欠けているのです。 それは筆者の、これからの大きな課題であろうと思います。
0はじめまして、鳩村さま。御作にコメントさせて頂きます。 ひらがな表記の読みにくさを忘れさせるほど、痛烈なものがありました。 いじめた方が幸せになる、いじめられた方が長い間苦しむ、という不条理。苦しみは上辺だけではわからず、今はどうでもこの先はわからない、など 角度を変えてしまうと詩の色が変わってしまうので、この詩の世界に集中して。苦しいです。とても。 救いがどこにもないようで。ただただつらいままで。 ほんのわずかでも光が見えたら、ほんのわずかでも顔を上げられる何かがあれば、と思いました。
0「三浦さんはフィクションを書いてみるといい」とアドバイスを受け、また別の尊敬する作家から「三浦さんには自分の人生を書いてほしい」とアドバイスを受けたことがあって、その二つが今、私の詩作における命題としてあります。自分が生きなかった別の自分を知るという意味で。作品を書くだけではなく、発表しなければ完結しない宿題かとも思っているのです。 それを改めて考えさせられた作品です。本作『かみさま』。鳩村さんの作品にコメントすることは初めてであり、また、他作品で三浦がやっております「読者へ向けたコメントスタイル」ではなく、作者へ向けたコメントとして今回は書かせていただきます。少し踏み込んだ内容になります。 本作『かみさま』には少しだけ、あざとさを感じ受けます。それは、全文字が、ひらがなだというところからです。この読みは、先に申し上げました、私自身の命題からみる観点です。主観です。不快でありましたら御勘弁ください。取り下げます。 「フィクションを書く」ことと、「自分の人生を書く」こと。真逆なようで一致する、自身の本質を知るという目的。それは、作品を書くだけではなく、発表しなければ完結しない。 公の場に晒してみないとわからない。晒してみた時に、自己顕示欲が毛筋ほどにもあったら、本質に一番近い虚像になると思うのです。その顕示欲の有り無しの判断も自身でジャッジするとはいえ、作品を発表する行為の後でなければ感じることは出来ない。作者の本質に近い虚像は、人にどう見られたいかという醜さが出ており、自分自身にとっては一番タチが悪いとも思う。 現代詩界隈で優秀とされる作品の多くにその虚像を感じます。それは、私だけなのかもしれません。しかし、タッチ一つの差かもしれませんが、その虚像の先にある本質が出ている作品とは、言い換えれば、その人だけにしか書けない傑作だとも思うのです。 私は、本作『かみさま』を好みます。好きな作品です。しかし、全てをひらがなにする必然性を感じることが出来ませんでした。 鳩村さん、投稿有難う御座います。これからも宜しくお願い申し上げます。
0「小説」だと、なぜか私小説風であっても、自伝風であっても「フィクション」とみなされるのに、「詩」だとなぜ「ドキュメンタリー」と受け止められることが多いのか・・・未だに解決できない問題です。(最近中也賞を受賞した作品について、あれは私小説か、虚構作品か、ということを問題にする議論をよく耳にしました) ひらがなオンリーで書く、ということには、表記のあたえる柔らかさや、音が脳内で意味に変換されるまでの時間を通常よりも多くとることによる効果、など・・・魅力が多くある反面、読みにくくなる、という問題がどうしても生じますね。 それでは、この作品を漢字ひらがな混交体にしたらどうなるか、読みやすくなるか、といえば、恐らく、あまり読みやすさは変わらない。叙述の分量が丁寧である分、分量が多すぎる、と思います。 愛されたいのに、愛されたことがない、だから愛を知らない、という「起」転結と、理不尽ないじめを甘んじて(それが当然だと思って)耐えた、という「承」、しかしそのことに心身が堪えられなくて鬱病になってしまった、という「転」、神(信仰)に救いを求めたのにいまだに苦しみから抜け出せない、全てを捨ててしまった(ことばを綴ること、だけは、まだ、信じている、放棄していない)という「結」・・・ そのラインが明確になるように、言葉をもっと絞っても良いように思いました。 この作品の中で、感情が切に伝わって来るのは、「おかあさん」と訴えかける部分。事実を並べているように見えるけれども、リアリティーがあまり感じられない(切実さが伝わってこない)のは中学、高校時代の「いじめ」の部分。周囲の人間関係や階層の説明に分量を取られてしまっているからだと思います。冒頭部分で、自分の存在感の無さ、希薄さに堪えられないような状況に触れているので・・・「いじめ」という事項を設定するのであれば、こうした心理的な状態について記した方が、読者により強く訴えかけると思います。 うつ状態の日々の具体的描写は、とてもリアリティーがありました。事実を積み重ねるような描写であって、関係性の説明や解説になっていないから、だと思います。 アイディアとしては、全体をもう少し絞って、「かみさま」に訴えている設定、「かみさま」への語りかけ、にする、というのはどうでしょう。何も知らない読者に訴えようとすると、叙述的なこまごまとした説明や状況設定が必要になって、言葉の分量が多くなります。でも、「かみさま」なら、事実関係は既に知っている。だから、私の内面、私の感情、その部分だけを伝えればよい、ということになります。その部分が、凝縮されたエッセンスの部分だと思います。 『アルジャーノンに花束を』を連想した方もいるようですが、小説なら、同じ内容をくり返して重ねながらつなげて行ったり、少しずつ時間をかけて言い換えて行ったりすることに「塗り重ね」のような効果がでると思いますが、詩の場合(私が考える範囲、ということですが)もっと凝縮して、感情のエッセンスの部分が伝わるように、それ以外の叙述は、最低限必要な部分に絞った方が、多様に読者が読むことができる、多義的に作品を読むことができる。 ぼくはおかあさんにあったことがありません ぼくはおかあさんのおっぱいをすってそだったともきいています それでもぼくはおかあさんにあったことがありません おかあさんをおかあさんとよんだことも おかあさんをみておかあさんとおもったこともないのです いまだにかおのみえないじょせいにだきしめられて おかあさんおかあさんあいたかったとなくゆめをみては はれためでめがさめるのです たとえば、このような形に整理していくと、言葉の流れにうねるようなリズムが出て来て、切なさや寂しさといった感情の部分がよりはっきり伝わって来る、気がします。 お母さん、が亡くなっているのか、行方不明なのか、居るのに無視や放棄をされているのか、詳細に設定しなくても良いように思うのです。そうしたこまごまとした背景や人物の設定が作品にリアリティーを与えて、読者に訴えかける力を持つのは、小説のような、ある程度の分量を持ったジャンルであるように思います。 それから、鳩村さんのスレッドをお借りしますが・・・祝儀敷さんのコメント、人生どうなるかわからない、悲観するなよ、という「温かさ」から出たものだと思いますが・・・いささか侮蔑的(作者に対して、ということではなく、モアイと呼ばれた友人や、そうした境遇の人)と感じられる表現が多いことが残念です。 s
0訂正:という「起」転結と、⇒という「起承転結」の「起」と、 高校に進学していない、設定なので、高校時代、ではなく、高校時代に当たる年齢、ですね・・・
0追伸。祝儀敷さんのコメントの最後の方に、〈この「人たち」って、今の文脈では「バカとかってレベルじゃない」奴らを指しているでしょうが、でも結局程度問題で我々だって苦痛のまま死んでいく存在ですよ。〉と「 」でくくって、世間一般にこう言われている、としても、という留保があり、自分たちもまた、同様の存在だ、と記しているところを読んで、少し安心はしたのですが・・・最初の方の「侮蔑的」と思われる部分も、作者の鳩村さんを励まそうという、温かい気持ちから出たものなのではないか、と判断したのも、この最後の部分があったから、なのですが・・・前の方、言い方酷いよ、と、やっぱり、思いますね・・・。
0このコメントの特に前半の方々は只の自分語りじゃないですか? フィクションであろうとノンフィクションであろうと無関係に、不幸そうな言葉のマウンティングの文章を、私は詩だとは思いません。☆なら、0です。 ここで賛同した人たちは皆、只の自分を救うような安い共感だと思います。醜い。
0このコメントの特に前半の方々は只の自分語りじゃないですか? フィクションであろうとノンフィクションであろうと無関係に、不幸そうな言葉のマウンティングの文章を、私は詩だとは思いません。☆なら、0です。 ここで賛同した人たちは皆、只の自分を救うような安い共感だと思います。醜い。
0おはようございます。 このところ、考えていたのですが。 これはもはや作品論を超えて、詩とは何ぞや。ひいては自分の哲学とは何ぞやと言う話になってくるので、 今まで避けていましたが(ガイドライン的にも、) 私は倫理的ではありますが、精神主義ではないんだなぁと気づかされました。 他人を傷つけたことを「美しい体験だった」と描写するのは私はいやなんですね。 しかし、今主人公がどれだけ苦痛か、辛いかと言った言葉の吐き出しを、私はけして醜いとは思いません。 それが、他者をも結果的に救い、筆者をも救うと思うからです。 まぁしかし、ここまでくるとこれはもう好みの問題なので、「不幸そうな言葉の羅列は醜い。いつも頑張っているべき」と言う考えの方も無論いらっしゃるとは思います・・・。 ただ、ひとつだけ言うならばこれ技巧的には優れた詩ですよ。読ませる詩。 技術的には、まりもさんが仰られているように推敲が足りませんが。省略の効果はないですねぇ。 それが、三浦さんの仰られる「あざとさ」に繋がってゆくのかなと。 もうちょっと、作品を昇華すべきだとは感じますね、確かに。 だから、最初のコメントで「これは詩の原点」と書いたのですが、いかがでしょうか。
0皆様、様々なコメントを、ありがとうございます。 朝顔 様 絶望と言う世界から、今一歩突破するもの、希望には確かに欠けているのです。 夏生 様 ほんのわずかでも光が見えたら、ほんのわずかでも顔を上げられる何かがあれば、と思いました。 ほんとうの希望があるなら。あるいは、書きうるなら。詩など、書く必要がありません。書く代わりに、実行すれば、よいからです。かといって、書くことそのものが希望だ、などと言う気もありません。書くことも希望ではないし、書くことは、人生に、大した影響を及ぼしません。詩を書こうが書くまいが、人は生きることも死ぬこともできないからです。要するに、救いなどない、ということです。私は、ウン十年生きてきて、楽しかったことなど、ただの一度も、ありませんでしたよ。別にそれは、良いことでも、悪いことでもなく、ただの事実ですね。もしも、「では、あなたは、なぜ書くか」と、問う人には、こう問い返します。「書くことに、明確な理由が、必要なのですか?」 三浦果実 様 些細なことですが、一応、申し上げておきますが、「命題」という語を、私の見る限り、誤用しておられます。 まりも 様 感情を表現する方法には、色々あるのではないかと、思います。つまり、私は、敢えて、状況を細々と説明した、ということです。それが、有効であったかはともかく。方法を否定するより、その有効性を否定していただけると、書き手としては、嬉しいです。 湖 様 フィクションであろうとノンフィクションであろうと無関係に、不幸そうな言葉のマウンティングの文章を、私は詩だとは思いません。 そうですか、と言う他ありません。私は、まっとうな抒情詩として、今作を、書いたつもりですが、「不幸そうな言葉のマウンティングの文章」とのことで、力量不足を、恥じ入るばかりであります。 ここで賛同した人たちは皆、只の自分を救うような安い共感だと思います。醜い。 私は、「只の自分を救うような安い共感」を、醜いとは、思いません。J-POPの歌詞も大好きです。安っぽい共感だとか言われようが、それが、生きていく力に、変わっていくのならば、問題ないと、思います。附言しておきますが、私は、「現代詩」「文学」「芸術」などについて、特別な、理想など、何一つとして、持っていません。
0まりも 様 私が、誤読しておりました。上記のコメントは、無視してください。
0鳩村さん 誤読などしておられませんよ。 私が勝手に改作提案をしてしまったことに、うれしいと思う方もいれば、余計なお世話だと思う方もいるでしょう。 有効かどうか、という事に関して、読者の一人として「このように感じた」という印象を伝えて、あとは作者が自分で選択する、その方法が、最善だと思います。 リプライ、ありがとうございました。
0なんちゅうか、本中華。鬱病を未だにひきずっている作中主体としては、ひらがなといっても、文章が、センテンスが巧すぎる、かつ、相当に頭が良さそうだ、という匂い?を感じてしまうと、これは創作の範疇に入ると思うのですけれど、創作の範疇だと作中主体の生きづらさが減退して伝わってくる、というちょっと意地悪な書き方だけれど、傑作だからいいでしょう、そういうジレンマを抱えている作品だと思います。
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