作品投稿掲示板 - B-REVIEW

山本琴煢


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on A bed

2018-07-04

虚ろ

2018-06-07

お星さま

2018-06-07

たこつぼ

2018-04-15

二点

2018-04-05

泣いてしまいました。 この詩を見つけて読んだとき、「かわいい…!」と声に出してしまいました。 その後すぐ、家族にこの詩を読み聞かせたのですが(家族からも好評でした)、 自分の部屋に戻ったとき、自分の読んだ声が頭に残っていたからでしょうか、 どんどん感情が胸の中で膨らんできて、気づけば嗚咽するほど泣いていました。 かわいいものが、かわいいものを、かわいく慈しみ、かわいい帰結に辿り着く。 もう少し掘り下げると、かわいいものが何かに「かわいい」という感情を抱くということそれ自体。 こういうのほんと自分はダメなんです。 私にとって、これ以上、胸を熱くさせるものはありません。 本当はこの感動を言葉にしたくないくらいです。 なぜ語れば語るほど、本質から遠ざかってしまうのでしょうか。 感動とはそういうものだと思います。 最高の詩です。 ずっと大切にします。 そして「とってもいい詩があるんだよ。」と周りの人たちに紹介していきます。 この詩を書いてくださってありがとうございました。 (戒名)

2018-08-15

まりもさん、ありがとうございます。 まりもさんにこの詩をもっと理解してもらうために是非聴いてもらいたい曲があります。 宇多田ヒカル「Distance」です。 多分、僕はこの曲にかなり影響を受けています。 この前NHKで宇多田ヒカル特集をやっていたのですが、そこで興味深いことを言っていました。 「自分はいつも転校生だった。どこかに属すという感覚がなく育ってきて、今もその必要性を感じない。私の曲はみんなに一斉に聴いてもらうというよりは、部屋で一人でイヤホンで聴いてくれるイメージしかないんです。」と。 そう語る宇多田ヒカルは少し病んでいるように見えた。 宇多田ヒカルが売れたとき、僕は小学生でしたが、今思えば15歳で「Automatic」を書けるのはやはり天才と言わざるを得ない。 ただ、それが書けたのはあまりに自分を客観視しているからだと思うんですね。 その番組を見終わったあと、思い出したのは横光利一でした。 Wikipediaより引用 横光利一は「純粋小説論」(初出『改造』1935年)の中で「四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はない」と主張した。それは「自意識」つまり「自分を見る自分」という人称であると説明される。 ...現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且つ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途に頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。(中略)けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。... 横光利一は戦前は文壇の横綱だったのですが、戦後、日本を敗戦に追い込むような思想を植え付けたとして菊池寛とともに責任を取らされました。 敗戦によって神経衰弱になり2年後に死ぬんですが、彼には彼なりの美徳があり、戦中は多くの日本人がそれを賞賛した。 とくに日本の伝統を維持するという面において、かなり純粋な面がありました。 まあこういったことはあまり関係ないのですが、注目してほしいのは『四人称』というワードです。 これをそばにいた母に説明して、「ユーミンと宇多田ヒカル」について議論を交わしたんです。 僕は「ユーミンの歌は大衆に向けて歌っているが、宇多田ヒカルは個人に向かって歌っている」と言ったんですが、母はそれを否定して「宇多田は自分に向かって歌っている」と言われて、なるほどと納得したんですね。 それでしばらく考えたんですけど、「自分を客観視することは道徳的に悪いことではないけれども、あまりに自分を客観視しすぎると、いつの間にか自分を蔑ろにしてしまうのではないか」と思ったんです。 宇多田ヒカルの曲は相手との距離を感じさせるが、同時に自分との距離も感じさせる。 これをそのまま放っておいてしまうと、いつの間にか自分を虐めてしまうことになるのではないか。 体が悲鳴を上げているのに、冷たい目線で自分をみて、無理やりに動かそうとしてしまうのではないか。 横光利一の生涯と重ねて、そんなことを思いました。 だから、「イツノマニカ」とカタカナにしたんです。 「自分自身に愛を向けるということを忘れてしまう」という無機質な忘却、それを忘れないために強調しておこうと。 難しいのは「自己愛」と「自愛」の区別がなかなか上手くいかないことですね。 「自己愛」はナルシシズムですから、他者の目線を意識しすぎるあまり、行動を制限してしまって結局自分を苦しめてしまう。 それは全く自由ではない。 病気になった人に「ご自愛ください。」と言いますが、これは健康でも常に意識しておいた方がいいと思います。 自愛とは「自分を慈しむ」ということだと思います。 ときには「自分を抱きしめる」ということも大事なのではないかと思います。 題字の「A」について質問していただけることは本当にうれしいです。 かなり悩んだところなので。 自由に捉えていただいていいのですが、作成過程を暴露すれば、A面、B面という構想はありませんでした。 同時に政治的主張は全くありません。 あまり政治を芸術に持ち込むのは好きではないので、今後もそういう詩は書かないと思います。 「A」と比較してほしかったのは「The」なんです。 「the」はみんなが指差せるという感覚があり、「a」は「一つの」という意味もありますが、具体的に何かのベッドが一つイメージとして浮かぶ感覚と英文法書に書いてありました。 「on the bed」とすると、僕が所有しているのベットということになるので、個人的体験を書くことになってしまいます。 しかし、僕のこの気持ちは決して僕だけが感じるものではないと思います。 どのベッドの上でも起こりうることだと思います。 だから、みんなと共有するなら「on A bed」がいいのではないか。 それぞれのベッドを想像してもらえればいいなと思いました。 大文字にしたのは単にそこに気づいてほしかったからです。 最後に、僕はまりもさんの詩の受け取り方が好きです。 常に慎重に解釈をしようとしている姿勢が伝わってきます。 「お星さま」にコメントしていただいたとき、本当に核心に触れていただいて嬉しかったです。 今回も僕が気を遣ったところを見事に見抜いていただいて、すごいなと思います。 鋭いご指摘、ありがとうございました。 また、よろしくおねがいします。 (on A bed)

2018-07-08

社町さん、ありがとうございます。 この詩の解釈として全く間違ってないです。 「その自分」は仰る通り、見られる側の自分です。 散文的に読めば、見ている自分ということになるのですが、「自分を見る自分。」というのがワンシーンとしてイメージされることを狙いました。 そこまで理解してくれて本当に嬉しいです。 パンツの履き方は、単に自意識過剰なだけかもしれません。 社町さんと一回「恥」についてやり取りしましたよね? あの延長でいけば、パンツを履いている自分を見られるって結構恥ずかしいなと思ったんですw なんか妙に現実を見られているような気がして、困ってしまいます。 堂々と履ける男になりたいですねw (on A bed)

2018-07-07

黒髪さん、ありがとうございます。 失礼な言葉を使ってるなんて全然思っていませんよ。 むしろコメントいただいてありがたい限りです。 実はこの詩は1000字くらいの長い詩で、それを一か月かけて削っていったものです。 僕はあまり装飾しすぎるのが好きではなくて、なるべく核だけを残したいというタイプの人間です。 削るだけ削って、かつ道理に反していないという詩が好きですね。 そちらの方が頭の中で繰り返しやすいので、ずっと残るんですよね。 この詩の感覚って5年くらい前に最初に経験して今も感じているものなんですよ。 当時は現実に飲み込まれて、上手く言葉にできなかった。 この気持ちを何と言ったらいいのか分からなかった。 それが発酵して、やっと言葉になったって感じですね。 「そうそう、言いたかったのはこれよこれ」という言葉、それに適した形を見つけるまで、かなり時間がかかりました。 「感覚を書き写す」となるとそれなりに待たないとダメなんじゃないですかね。 「今の今」の感覚を書き写すなんて、情報が多すぎて不可能でしょう。 5年前の僕もそういう状態でした。 無駄なものが省かれて、自然にふっと湧いた感覚にどんな言葉を当てればいいのか。 それでいつも悩んでいますし、それが楽しくてしかたなくもあります。 コメント欄が面白いと思ったのは、「僕はパンツを履いた。」という一行が、花緒さんは「パンチがある」、黒髪さんは「簡単すぎてよくない」と真逆の意見があるということですね。 この二つの意見が両立してあることは、作者としては嬉しいんです。 多分、外向的か内向的かで視点が違うのだと思います。 「パンツを履く」というのは、『規則』のシンボルとして使いました。 バタイユという哲学者がいるのですが、この人はもともと真面目なカトリック信者だったのですが、売春宿に通いふけて信仰を捨ててしまうんですね。 それで幸せになったかといえばそうではなくて、自分の情けなさに悩み悶えていたそうです。 そこで生まれたのがバタイユの哲学なのですが、簡単に言えば、 「エロティシズムとは神聖を冒すこと。『死』求めた結果、快楽は生まれる。人間は快楽を得るために、絶えず『死を体験する』状況を作り出している。これを『過剰』と呼ぶ。」というものでした。 オルガズムに達するとき、なぜか「イク」という言葉を共有して使っていますよね。 これは「逝く」からきているそうで、バタイユの思想に沿うものだと思います。 この思想を元に、栗本慎一郎という人が「パンツをはいたサル」という本を書いています。 「人間は『パンツを脱ぎたい(=過剰)』からパンツを履いている。そういう性質のサルなのだ。」と言い切ったんです。 つまり、「パンツを脱ぐ快楽を求めるために、パンツを履いて我慢している」というのです。 簡単に言えば「人間は快楽物質中毒の機械だ」と言っているようなものです。 これを究極に実践してしまったのが三島由紀夫なんですね。 割腹自殺前に、「一番親近感を持っているのはバタイユ」と述べています。 僕は「金閣寺」を高校生の頃から10年かけて読んだのですが(正確には10年かけて様々な経験をしないと内容を理解できなかったというだけなんですが)、「美のために美を破壊する」というテーマはまさにバタイユ的です。 「超バタイユ」と言ってもいいかもしれません。 三島が好きだった僕は、自分の求める美が『死』に向かっていることに気づいて、危機感を募らせました。 このままいけば、美のために身を滅ぼしかねないと本気で思ったんです。 「本当にそれでいいのか。生きることを全うせずにそう言い切れるのか。」 そんなことで悶々と悩みました。 そんな葛藤を抱えた中出会ったのが萩原朔太郎で、彼は「自殺の恐ろしさ」「詩人の死ぬや悲し」という散文詩を書いています。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/395.html#ANK7 彼は友人である芥川龍之介を自殺で亡くしています。 それでも「自殺は怖い。詩人が死ぬのは悲しい。」と言う。 なんだか胸が温まりました。 「ああ、正直でいるっていいことだな」と。 話が逸れてしまいましたが、「パンツを履く」という言葉との最初の出会いは、バタイユの著書を直接読んだわけではなくて、ビートたけしの「下世話の作法」という本で少しニュアンスが違った形で出会いました。 「作法というのは金持ちの特権ではない。パンツを履いたサルが作法をはじめた。うんこをするとき、そのサルはちゃんとパンツを脱いだと思う。履く行為、脱ぐ行為が身についている。これは作法だと思う。」と。 こっちの考え方の方が僕はずっと好きです。 バタイユの思想で欠けていると思うのは、「胸が温もる」という感覚を説明していないところです。 ただ快楽を求め、そのために我慢をするだけが、人間ではないと思うのです。 しかし、セックスという場面に直面した時、理性は取っ払わなければならないのに、そう簡単に心を裸にはできない。 客観的に自分を見ている自分が、コバエのように邪魔をする。 相手を温めることも、自分を温めることもできないまま、行為が終わる。 そして『規則』に戻る。 そんな孤独をこの詩で描きました。 ただ、この詩に希望があるなら、「まずは自分に慈愛を向ける」ということではないでしょうか。 疲れた体を労わるとか、過激すぎるものは見ないとか、そうやって自分を守るということですかね。 それが死に向かうということではなく、「生に向かう」ということではないかと。 パンツの説明だけでこんなに長くなってしまいましたw 今日が土曜でよかったw 次作に期待をしていただけることはとても嬉しいことなのですが、この詩を書けたことで今は達成感を感じていて、他に何か書きたいものがあるかと言えばちょっと見つかりません。 頭で考えて書いてもいいのですが、それだとあまり楽しくないんですね。 いつになるか分かりませんが、多分書きたいものは出てくると思うので、それ待ちでお願いします。m(__)m (on A bed)

2018-07-07

道理に適っていて、とても良い詩ですね。 こういう詩が大好きです。 自然の流れ、日常の些細な出来事をつぶさに観察していないと書けない詩だと思います。 その流れを一貫して詩を完成させることは本当は最も難しいことだと思うんですね。 言葉を自由に使うパンキッシュな詩もいいですが、こんな詩も現代詩には残っていてほしいと思う今日この頃です。 (梅雨晴れ)

2018-07-06

祝儀敷さん、ありがとうございます。 「垂んとする」は「なんなんとする」と読みます。 辞書を眺めていて見つけた言葉で、「もう少しでそうなろうとする。」という意味だそうです。 「千年になんなんとする歳月」という使い方をするそうです。 面白いと思ったのは、この言葉の音が射精前のじわじわとくるムズ痒い感じにピッタリじゃないかと思ったんです。 その上で意味とずれていない。 「なんなんとする」 かなり気に入っちゃいました。笑 これが誤字だった場合、「垂れんとする」ということになるのでしょうが、これも確かに悪くはない。 「垂れんとする。死へ。」 ダークなイメージで結構いいなと思います。 でも、それより面白いのが、祝儀敷さんが指摘してくれた「たんとする」です。 「たんとする。死へ。」 一体なんなんだ?という驚きがあります。 でも全く悪い感じがしないんです。 音だけなのかもしれないけれども、何か意味が通じているような気がします。 読んだ瞬間に思考停止せざるをえないような、でも心地いい感じがします。 そこで思ったのですが、誤字や脱字で構成され、かつ全体でアレゴリーが成り立っている詩が現代詩なら可能ではないか。 こういうのって既にあるんですかね? ないなら、やってみる価値はありそうです。 ただ、今の僕の語彙ではとても到達できそうにありません。 引き出せる言葉が少なすぎるし、言葉を正確に使おうという意志が強すぎて、そっちの方向で自由にはみ出せないんですよね…。 誰か言葉遣いに長けていて、自由に操れる人が書いてくれないかなぁ。笑 (on A bed)

2018-07-05

花緒さん、ありがとうございます。 この詩は男性じゃないと分かりにくいかもしれません。 行為が終わった後、こんなことを考える男もいるんだなと思っていただければ。 獣のようにセックスができる人間って本当にうらやましい。 (on A bed)

2018-07-05

まりもさん いやあ、まりもさんのコメントを読んで本当にこの詩を書いてよかったと思いました。 真意を分かってくれる人がいるという安堵と感激で、孤独が癒されました。 と言いますのも、私は「虚ろ」という作品も連続して投稿していて、その内容は「お星さま」と全く同じであり、そのことについて指摘を受けたんです。 「虚ろ」のコメント欄で、この2篇について弁明しています。 この2篇がどうして別物なのか、どういう意図でそのように投稿したのか、きっちり説明しましたので是非読んでいただきたいです。 (長いのでお手間をおかけしますが…) http://breview.main.jp/keijiban/?id=1872 まりもさんのコメントで嬉しかったのは、「素直」という言葉を拾い上げてくれた点です。 そして、「この言葉をストレートな意味で使ったのか、シニカルな皮肉で言ったのかというところで今一つ踏み込めない」と言ってくださっている。 この評価が本当に嬉しい。 「うらやましく思う」ということをどちらの意味で捉えるのか。 私は言葉の意味というものをどうしても疑ってしまうんです。 「本当にそう捉えていいのか?見たまま聞いたままを信じていいのか?真逆からみたら全く意味合いが変わるかもしれないのに、どうして人は確信をもって前に進めるんだろう。いや、確信というしっかりした意志というものはみんな持ってないのかもしれないが、ある一方を「善」とする根拠はどこにあるのだろう。」 そういうことを考えて、右往左往してしまいます。 それをこの2篇で、萩原朔太郎の言う「蕪村と芭蕉のそれぞれのポエジーである『若さ』と『老い』の対立」において『対蹠的』に表現したかったんです。 私がまりもさんのためにハッキリと断言できるのは、この2篇は確実に「自分の胸から出た言葉である」ということです。 つまり「ストレートとシニカル」、どちらも「素直に出た気持ち」なんです。 これは人間の内面をよくよく観察すれば、この2つが共存し、衝突し、反発しあうことは決して有り得ないことではない、いやむしろ当然だと私は思います。 まりもさんのような方にこの詩を読んでいただいて幸せです。 もし「虚ろ」のコメントを読んでいただいた上で、まりもさんが「この2つの投稿は詩という活動においてはタブーであり、弁明は詭弁でしょう」と仰るなら、私は素直にその言葉を受け取ります。 それくらい、まりもさんのこのコメントは私の真意を汲んでくれていると感じますし、その上でそう仰ってくださるなら私としては反論する余地がないからです。 本当に救われました。 ありがとうございました。 (お星さま)

2018-06-20

かるべさん、丁寧に読み取っていただきありがとうございます。 同時に、かなりの分量を読ませてしまって、申し訳なくも思います。 そこまで踏み込んでいただいて、大感謝です。 『「虚ろ」と「お星さま」という「非対称」の言葉に「対称」を見出そうとし、解説を読んで対蹠的であることに納得するが、最終的に蕪村と芭蕉が完全に対蹠的とは限らない』という部分、すごく分かります。 180°の正反対ではなく170°くらいですよね。 実際、与謝蕪村の句を読んでいても、色彩があまり感じられない句もいくつかあります。 いや、あまりに淡くてよくわからないという方が正確かもしれません。 この世界は色を使えば、突如に自由になる気がします。 色調、濃淡、明暗など、あまりに自由すぎる。 その分、蕪村を正しく読み解くのはちゃんとした先生がいなければ、かなり難しいことなんじゃないかなと思います。 僕はとりあえず萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」と、芥川龍之介の「芭蕉雑記」をちゃんと体で理解することを今の目標にしています。 この二人はちゃんと散文に詩題を持ち込んでいるので、現代人である僕にも分かりやすいからです。 ―――――――――― 『突き詰めると難しくなってきて、 果たして、この 「星が見えないと思えることは なんと素直な心だろう この昼間 この空の下」 は描くのにちょうどよい言葉たちなのかをコメントを読んだ者も考えないといけなくなります。』 「描くのにちょうどよい言葉たちなのか」 グサリと刺された気分です。 しかし、良い意味でです。 正直、同じ内容でこの二つのポエジーをもっと上手く表せられる人は絶対にいると思うんです。 ゲーテは「君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない」と言ったようですが、この2篇は間違いなく僕の胸から出た言葉で、そこには自信を持っています。 ただ、誤解を招くようなものしか書けなかったのは、ひとえに「僕の胸がバカだから」としか言いようがありません。 現状の精一杯がこれです。 和歌も俳句ももっと勉強して、感覚と言葉をたくさん繋いで広げていかないといけないと思っています。 多分、やりたいことを自在にやれるようになるには、あと10年か20年くらいかかるでしょう。 もし同じことを上手にやれる人がいたら、素直にその作品を見てみたいです。 ただ、僕はもうB⁻REVIEWに同じような投稿はしません。 今のままでは何回やっても同じことだと思いますから。 それでも、確実な一歩を踏み出せたことはすごく自信になりました。 その一度の危険な投稿を、許してくれた花緒さんには感謝しかありません。 今後は一遍の詩で感覚はどこまで共有できるかということにチャレンジしていきたいと思います。 (虚ろ)

2018-06-12

花緒さん ご理解いただけて本当にうれしいです。 頑張って説明した甲斐があったと思います。 受け手と書き手の交錯は紙一重だと思います。 特に詩は・・・一人の視点で全体を見るということは難しいと思います。 花緒さんはじめ、キュレーターの方々がどれだけ苦労しているか、痛み入ります。 しかし、この掲示板を立ち上げてくれたのは花緒さんなので、花緒さん自身の詩感を大切にして詩評するというのは、前提として大事だと思います。 そうじゃないと、負担が大きすぎるし、病んでしまうでしょう。 そこを補完するのはやはり、書き手の義務だと思うのです。 少し不安なのが、これだけの説明を尽くしても、「それこそコンセプチュアルアートだ」と言われてしまうと、私はお手上げです。(笑) それほど抽象的な話ではあると思います。 ご指摘のおかげで、私も色々と整理がついて感謝しております。 今月は鑑賞に専念させていただきますね。 (虚ろ)

2018-06-09

私の詩を推薦していただいてありがとうございます! 選評、胸にじんわりきました。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年5月分> )

2018-06-08

藤一紀さん、コメントありがとうございます。 仰る通り、「小題とテキスト」という選択肢もありました。 しかし、私は、それこそコンセプチュアルアートと変わらないではないかと思ってしまったのです。 1人の中である対立が完結してしまっている。 私が重視したい点、それは蕪村と芭蕉の伝統的なポエジーはどうしても別物だということです。 それを同じ詩の中に並べてしまえば、両者怒るでしょう。 萩原朔太郎と芥川龍之介が何のために議論を交わしたのか分からなくなってしまう。 どっちを先に書くかということでも揉めそうですね 並べてかけば、順番はついて回りますから。 私の感覚の上で二人のポエジーが直交したことは間違いないですが、だからと言って一緒くたにはできませんでした。 だから、別作品にしました。 (虚ろ)

2018-06-08

ああ、「点があるのかないのか」という違いだったんですね。 すみません、見落としてました。 それだったら2題にする必要性はないと思いますし、運営さんが怒るのも仕方ありませんね。 花緒さんがとった行動は正しいと思います。 そういうポエジーを理解してもらいたいなら、誠実であるべきだと思います。 (虚ろ)

2018-06-08

祝儀敷さん、花緒さん、コメントありがとうございます。 お二人のご指摘、ごもっともだと思います。 私もこの二篇に関しては、何かを問われれば答えなければならないと思っておりました。 少々長くなりますが、お付き合いください。 また「嘘をつかない。誤魔化しに逃げない。」ということも誓っておきます。 ―――――――――――――――――――― まず、お二方とは決定的に違うであろう点があります。 それは私が「色覚異常者」であるということです。 この画像をご覧ください。 http://i1.wp.com/www.j-elpis.com/wp-content/uploads/45e2c81c.jpg 私は左上から順に12、見えない、70、   左下から順に17、見えない、5という風に見えます。 お二人はどう見えますか? ちなみに、女性の場合、たとえ親が色覚異常であっても症状はほとんど出ないそうです。 女性の色覚異常者というのは物凄く珍しいことだそうですよ。 私は茶色と緑の区別ができません。 小学生の頃、よくモスグリーンのトレーナーを「茶色の服」と言って母に訂正されました。 よーく目を凝らして見ると少し緑っぽいかなと思うくらいです。 山は土の色と変わらない茶色に見えて、紅葉もほぼ茶色ですね。 いつもとほとんど変わらないので、何が綺麗なのかさっぱり分かりません。 後は、麻雀のピンドラを間違って振ってしまうってことがしょっちゅうありますw 父から受け継いだ目です。 父も重度の色覚異常を持っています。 母は私が小さい頃のお絵かきの色使いを見て、検査前から感づいていたようです。 (そういえば色覚検査って小学四年生の時にやっていたんですが、今は差別に繋がるとかでやってないんですよね…。ちょっと心配になります。) こういった目を持っているので、私は長らく自分の認知に自信を持てませんでした。 色だけでなく、形や光彩までも本当は違って見えているんじゃないかとまで考えるようになりました。 「どうも他人の見えてる世界と私の見ている世界は違うらしい。」 そんなことを漠然と感じながら育ってきました。 ―――――――――――――――――――――― 私が詩に辿り着いたのはつい最近のことです。 それまでは散文に挑んでいたのですが、どの作品を読んでも、本音で語っている気がしませんでした。 「何でプロットを重視して、言葉遣いをこんなに犠牲にするんだろう」 いつもイライラしていました。 本屋を何時間もうろついては溜め息をついていました。 半年前、ふと萩原朔太郎の「猫町」という本を手にとったんです。 この時の喜びようは語りつくせません。 「やっと見つけた!一切誤魔化してない本!」 鳥肌が止まりませんでした。 実は彼が詩人だったということを知らなかったんです。 それほど、私の中に詩というものは意識されていなかった。 珍しいかもしれませんが、私は彼の詩ではなく、散文に惚れたんです。 彼の散文を見て、思いました。 「そうか。彼は詩人だから嘘をつかないのか。」 そして、彼の真似をして、私も詩を書き始めました。 すると、「感覚を言葉で写す」ことはある程度は可能なんだなと気づきました。 これだったら、文法に捕らわれなくていい。 それだけで胸がスッとする思いでした。 これは今になって気づいたことなのですが、目の不自由な方は音や匂いや触感に敏感になるといいますが、私も、目は見えていながらもそれを信じることは危うさが常に付きまとったので、どちらかというと音や匂いや触感に敏感な傾向があるようです。 特に音に対してはかなりこだわりが強いです。 そして、欠けている色をどこに求めたかというと「書き言葉」に求めたようなのです。 書き言葉で「緑」と書いてしまえば、お互いそれぞれの「緑」を連想しますよね? それが多少アバウトであってもいいというところに、私は救われました。 ―――――――――――――――――――――― 次第に、色の名前を直接使うのではなくて、言葉自体で連想される「色」というものにこだわるようになりました。 きっかけは、朔太郎が書いた「郷愁の詩人 与謝蕪村」という本です。 「自分は和歌が好きで、俳句は馴染めなかった。しかし、与謝蕪村は好きだった。彼の俳句は和歌的だったから。」 と述べた上で、次のようなことが書かれています。 (引用) 即ち一言にして言えば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であったように、蕪村の俳句がまた、近世の日本における最も若い、一(ひとつ)の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言うのは、人間の詩情に本質している、一の本然的(ほんぜんてき)な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指しているのである。  芭蕉と蕪村とは、この点において対蹠的(たいせきてき)な関係を示している。もちろん本質的に言うならば、芭蕉のポエジイにもまた、真の永遠的の若さがある。――すべての一流の芸術は本質的に皆若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。――しかしながら芭蕉は、趣味としての若さを嫌った。西行(さいぎょう)を好み、閑寂(かんじゃく)の静かさを求め、枯淡のさびを愛した芭蕉は、心境の自然として、常に「老(ろう)」の静的な美を慕った。「老(ろう)」は彼のイデア――美しきものの実体観念――だった。それ故に彼の俳句は、すべての色彩を排斥して、枯淡な墨絵で描かれている。もちろん僕らは、その墨絵の中に訴えられている、詩人の深い悩みと感傷とを感ずる故に、それは決して非情緒的ではないけれども、趣味としての反青春的風貌(ふうぼう)を感ずるのである。しかるに蕪村は、彼のあらゆる絵具箱から、すべての花やかな絵具を使って、感傷多き青春の情緒を述べ、印象強く色彩の鮮やかな絵を描いている。  それ故に芭蕉の名句は、多く皆秋の部と冬の部とに類属している。自然がその艶麗(えんれい)な彩筆を振(ふる)う春の季節や、光と色彩の強烈な夏の季節は、芭蕉にとって望ましくなく、趣味の圏外に属していた。これに反して蕪村の名句は、多く皆春と夏とに尽くされている。 (引用終わり) 萩原朔太郎は芥川龍之介とお友達でした。 芥川は「芭蕉の句が好きで、蕪村は好きではない」と言ったそうです。 朔太郎と芥川、二人の作風を比べると頷けるところがあります。 実はこれが、「お星さま」と「虚ろ」で表現したかったことなんです。 同じ中身で「お星さま」では蕪村のポエジーを、「虚ろ」では芭蕉のポエジーを『対蹠的』に表したかった。 「星が見えないと思えることは  なんと素直な心だろう  この昼間  この空の下」 先ほど、「色だけでなく、形や光彩までも本当は違って見えているんじゃないか」そんな不信を持ったといいました。 これを昼間の星とすると、「本当は星は光に隠れているだけで、その裏には広い宇宙が広がっていて…云々」と『考えて』しまっている状態です。 しかし、それは後付けされた知識であり、大人の考え方であり、決して素直な心ではない。 名前を忘れましたが、ある教育学者が「私たちは花ざかりのうるさい混沌の中に生まれた」と言っていました。 この昼間の黄色、空の青をはっきり見ること、そしてそれを疑わないことが素直な心だろう。 『無碍』だろう。 そう思った、昨日のことです。 これに「お星さま」という題名をつければ、何も知識を入れていない子どもの純心を、ポジティブに羨望することができる。 「お星さまは夜に見えるものであって、昼にお星さまはない」と信じて疑わない無邪気な心。 とても微笑ましい光景だと思います。 (正直、「おほしさま」と「お星さま」で迷ったんです。 「御星様」でないことは確定だけど、私の年齢的に「おほしさま」は少々わざとらしい感じがしました。 かつ「星」が漢字であることで「日が生まれる」とかそういった無用な考えもやっぱり起こしてしまっている自分がいることも含めたかった。 子供心と今の自分をひっくるめることができるのは「お星さま」だなと思いました。) では「虚ろ」はどうかと言えば、悲観が背景にあります。 今の自分と比べて、子供の純心性を悲しく遠い視点で羨望している。 「かつて私もそうだった。でも今は違う。」という悲観です。 「この昼間」「この空の下」に色はない。 虚ろな目ではその色は見えないのです。 ―――――――――――――――――――――― お二方はこの二篇を「コンセプチュアルアート」だとおっしゃっていますが、多少の違和感があります。 私は現代アートの必要性がよく分かりませんし、そこまで強く自分の作品を主張したいわけではありません。 と同時に、自分がウォーホルと同じことをしているとも思いません。 正常な目であれば、ウォーホルの絵は単に色彩が違った絵だろうと思います。 しかし、私はウォーホルの並べられた絵を見る自分の目、認識をやはり疑っているのです。 普通の目と私の目ではきっとこの色彩の差異すら違っているんだろう、そう思います。 そして普通の目から見る光景を想像します。 その色はどんなものだろう。 しかし、私にはやはりこう見える。 この「想像と認識の対立」をウォーホルのようにビジュアライズしたところで、私にとっては全く意味がない。 表面的には色がない「詩」という形式を取らなければ、私の想像と認識のそれぞれの着色は成り立たないのです。 コンセプトという言葉、好きではありません。 いかにも骨組みだけ抜き取ったような印象です。 私はやはりポエジーと呼びたい。 そしてそれが瑞々しくあるのだとしたら、この2篇はそれぞれが独立しているもので、「比較してみてもいい」というだけです。 それは昔の人のポエジーを拝借して書いたものです。 しかも、すでに萩原朔太郎が指摘をしているものです。 私の色覚異常の目にはそれが新鮮に映ったというだけなんですよ。 これまで私がB-Reviewに投稿した詩を見てもらえれば多分分かっていただけると思うのですが、山本琴煢としてのポエジーは全て一貫しているつもりです。 合わせて、ジャンブリーズさんの詩評も読んでいただけるとより私の詩感が分かりやすいと思います。 それも含めて汲んで頂けるかは読者次第でしょう。 今回投稿した2篇を「同じ詩だ」と捉える人もいるかもしれません。 別にそれでも構いません。 ただ、もし山本琴煢を辿ってくれる人がいるならば、これは違う詩だと気づいてもらえるかもしれない。 そんな期待を込めました。 6月分はもう投稿しない覚悟で。 私はここでしか活動していません。 後から振り返った時に明らかに一貫したポエジーが残っていること、それが次の作品に反映され、私はこう進んだという軌跡が見えること、それが私の理想です。 褒められたり、目立つことを優先するのではなく、たった1人でいいから無謬の共感を感じられるような詩を私は書いていきたい。 そのためにここに投稿させてもらっています。 正直、自分のみで新しいことをしていると思っている人間、またはしようとしている人間、嫌いなんです。 「それは違う。組み合わせが変わっただけだ。その基礎は伝統が磨いてくれたものだ。」そう声を大にして言いたい。 私はまだまだ昔の人に習いたいと思っています。 ちなみに私が本物だと思える芸術家は、前原冬樹さんです。 彼の彫刻は本当にすごい。 かつ『詩題』があるのです。 彼の彫刻は全くもって詩だと思います。 ―――――――――――――――――――――― 以前荒れたという「はるのつき」という詩も読ませていただきました。 私だったら、この詩に二つの題名はつけません。 「うさぎ」という題名の一篇にするでしょう。 彼のコメント欄の対応を見ていると荒れない掲示板を保守している運営側が怒るのも仕方がない。 しかし、少し気になる点があります。 この詩の後半になって色が強調されている点です。 「ゴッホ」、「お母さんの色、ジャージ鰐みたいな色だなぁ」「空に浮かぶ頃には、この色もっと澄んだ色になるといいな」「これからもどうか穏やかな色をお与えください」という部分。 ゴッホは色覚異常であったと言われています。 よりゴッホの目に近い色彩で絵を見れることは、色覚異常者が唯一誇れることかもしれません。 このサイトは分かりやすいと思います。 http://asada0.tumblr.com/post/11323024757/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%95%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%97%A5 そして、「鰐みたいなジャージの色」 ワニというのが気になるのが、赤緑色弱であれば、この色をどう表現したらいいか結構迷うのではないかと思うのです。 一番苦手な色だと思います。 そこに焦点を当てているのは何らかの意図があるのではないでしょうか。 「空に浮かぶ頃には、この色もっと澄んだ色になるといいな」 「これからもどうか穏やかな色をお与えください」 この部分は私はシンパシーを感じざるをえません。 彼には色覚異常があったのかもしれないと推測します。 男性の8%はいますからね。 もしあるのだとしたら、題名を2つにしたことにも頷けるかもしれない。 そして、彼は語り尽くすことは無粋だといいながらも、本当は自分でもどう説明すればいい分からなかったのではないでしょうか。 だから詩を選んだ。 昔は良い意味で使われていた「忖度してくれる場所」が、現代にもどこかにあると信じて求めた。 そんな感じがするのです。 よろしければ、覚えているなら、もう一つの題を教えてくださいませんか? (虚ろ)

2018-06-08

「お星さま」とは別作品です (虚ろ)

2018-06-07

「虚ろ」とは別作品です (お星さま)

2018-06-07

花緒さん、かるべさん コメントありがとうございます。 お二方のご指摘はこの詩の核となっている部分なので、まとめて回答します。 詩のエスプリとしてはかるべさんが仰ってくれているとおりです。 僕は鬱状態のとき、「生きていると実感せずに生活できていた時の方がよっぽど幸せじゃないか」と心底思います。 普段通りのことができている時に生きていることを実感するって文脈は、自分も何度も目撃してきましたが、その度に「うっそだー!」と思ってきました。 それは文学的後付けであって、感覚通りでいけば普段の生活で感じる幸せの瞬間に「ああ、俺生きているわ」とか考えんだろって思うんですよ。 (表現方法としては美しいと思いますが) 本当に酷い時間を過ごすことがあります。 何時間も体が痺れた状態になり、本当に何もできなくなります。 考えはまとまらないし、人の話は途切れとぎれにしか聞き取れない。 目を使うのは辛いし、音楽は雑音にしか聞こえない。 食べ物を口に含んでもモゾモゾした口当たりしか感じない。 眠りたくても眠れない。 焦点が定まらないまま、ただ座っているか横になっているだけで、何時間も過ぎていく。 ただただ涙が止まらない。 そんなとき、自分が呼吸だけはしていることに気づく。 その時です。 「自分がまだ死んでいない」という逆説も含めて、「自分が生きている」と痛切に実感するのは。 そういう感覚をこの詩で共有したかったんです。 この感覚は一度鬱を経験しないと分からないものでしょう。 そういう人にこそ読んでほしい詩です。 この詩は読者を選ぶと思います。 では後半部分で、書き手である自分の心情をもっと掘り下げることができたのか。 しかし、私はそもそも「それをしたところで何になる」というスタンスです。 その必要性を感じないんです。 鬱状態では言葉はまず頼りになりません。 どんな言葉を使っても正鵠を射る表現は見当たらないでしょう。 料理のレポートのようにそれを読んでも味がするわけではないのと同様、鬱を経験しないと分からない感覚がある。 無理やり書いたとしても、僕の自我が強く出るばかりで、読者の苦しみとの間に差が広がっていくだけになる。 鬱の苦しみはその人独特のものですから。 それではどのような形にすれば「鬱」という感覚を書き手と読み手で共有できる詩にすることができるだろうと考えたときに、「余白を残しておけばいいのか」という結論に辿り着きました。 その余白に読み手が自分の言葉にならない辛い感情を書き加えてくれれば、お互いに救われるだろうと考えました。 だから後半は、なるべく自分のことは俯瞰するに留めています。 僕の中では言葉の限界はここだなと思います。 どれだけ詩が自由な形式を取ろうが、やはり伝達には限界があると思うのです。 「詩は感情表現においては万能である」と信じている人もいるようですが、僕にはとてもそうは思えません。 「分かり合える言葉」を使いたいし、そうでない言葉を相手の感覚も分からないのに押し付けたくはありません。 イルさんや、かるべさんのようにこの詩に共感してくれる人が少しでもいるなら、僕は本当にこの詩を書いてよかったなと思います。 きっと独自にこの詩を完成させてくれたはずです。 とてもありがたく思います。 (何もできない日)

2018-05-28

イルさん コメントありがとうございます この詩が好きですと言って頂いて嬉しいです 少し疲れているようです こういう時は休むに限りますね…( ˘ω˘ ) (何もできない日)

2018-05-27

やっぱりいいなぁ。 ジャンブリーズさんの詩は。 どんどんファンになっていきます。 今回の詩は瞑想の世界観が強いと思いました。 仏教でいうと禅定という状態を目指しているような。 その行き着く先が「青」、それも「清浄な青」なのかなと。 それにしても本当に感覚が鋭いですね。 色、湿度、香り、ちゃんと読者に感覚を与えてくれている。 しかもそれを矛盾なく的確に並べるところが好きなんです。 自身の感覚に誤魔化しがあったり、嘘をつくということを許さない誠実さが、言葉選びからも、全体像からも伺えます。 故に、構造に筋が見える。 (知ってる言葉を単に並べただけでは、この筋は見えないと思います。) 触感でいうと良い意味でギザギザしているんですよね。 木に彫られた言葉を指でなぞって理解しているような感覚です。 言葉と言葉の凹凸が漢字とひらがな、韻のリズム、意志である動詞の命令形「~せ」などから感じます。 聴覚的には「ギロ」という楽器の音ですね。 その音の凹みに実際の楽器のギロでは絶対に奏でられない、色や匂いが詰まっている感じなんです。 分かりにくい表現で申し訳ないんですが(苦笑)、僕の感覚に嘘をつかなければ、この詩はこんな感想になります。 実は前回の「乱酔夢脳内夜景」について選評を書いたのですが読まれましたか? http://breview.main.jp/keijiban/?id=1749 自分が「四月のワンポイントキュレーション」と書かなかったせいで、誰にも読まれてないようなのですが、あの詩が大好きなのでかなり熱を込めて書きました。 大分自分の主観を入れてしまった、批評とは程遠いものになってしまっているのですが、ぜひジャンブリーズさんには一読していただきたいです。 もし解釈に間違っているところがあれば、後学のために指摘していただきたくも存じます。 お暇な時でいいので、よろしくお願いします。 (青を探せ)

2018-05-23

一点訂正させてください。 特筆すべきは 《感傷の不在が感情の画材》 自分が酔っ払っていることを自覚しながら、しかしその酔いに飲まれながら、そうなってしまっている状況に辟易とした感覚が、 「感傷の不在」でモノクロに、「感情の画材」でカラフルに表現されている。 この部分、「辟易」と言ってしまいましたが、「感傷が不在している」上で、「感情の画材」と言っているので、「酔っていることを肯定し、色とりどりにより掻き乱そうとする意思の表れ」と汲んだ方が、その後の エメラルドのキャンバス… に繋がるような気がします。 私のバイアスがかかり過ぎていたようです。 失礼しました。 (【一点選評】乱酔夢脳内夜景(加えて私の詩感について))

2018-05-09

花緒さん コメントありがとうございます! おっしゃる通りだと思います。 書いてる自分に酔った勢いで投稿してしまって、もっと寝かせるべきだったと後悔しています。 パンチが足りないのは、きちんと完成させてないからだと思います。 この文体も冷静になってみると全く好きではありません(笑) 日を跨いで読み返すべきですね 次の作品はじっくり作ろうと思います (たこつぼ)

2018-04-29

迅さん ちょっと体調を崩してまして、ここに来れなかったので、返信が遅れてすみませんでした。 でも、迅さんに気づいてもらえてよかった! ぶっちゃけますと、自分は極度のあがり症でして、レジで会計をするだけでも緊張してしまうんです。 あがっているとき、何か得体の知れないドロッとしたものが手足の末端に流れるような感覚があるんですが、誰もこの感覚を分かってくれなかった(笑) 家族に説明しようとしても、上手く説明できないし、何とか頑張って話しても、説明している内に何かが違うような気がしてくる。 でも、詩なら自分が納得できる形で表現できるのではないかと思ったんです。 それでこの感覚を何に例えようかと考えたところ、すぐにタコが浮かびました。 「邪悪なタコが毒をまき散らしながら自分の体内を這っている」と考えると腑に落ちました。 私の恥はこんな感じなんです。 この詩には3つの観点があります。 タコを嫌がる自分、虚構を泳ぐ謎のタコ、肉体を離れた理想の自分がささやく声 そういうものが全て私の中にあるから「たこつぼ」な訳ですが、実はこの詩は3つの詩を別々に作ってコラージュしたものです。 そうすれば、詩自体がタコの擬態になるのではないかという試みでした。 なんとなくつぎはぎをしていたら、いい塩梅になったので、この形にしました。 しかし、こうやってできたこの詩を最初から順番に読むと、誰が何が、自分なのかタコなのか分からなくなってきたんです。 「最初はタコは客体だったのに、これは自分自身ではないのか」 「タコが自分の肉体を痛めつけていると考えていたが、本当はタコが病気ではないのか」 「理想の自分がささやく声は実はタコが発している悲鳴ではないか」 こういうことを考えている内に、自分の実存が揺らいでくるんですが、考えてもしょうがないことに気づいて、諦めるしかなくなる。 それで「悲しいかな」という言葉が浮びました。 最初はなかった言葉ですが、最後の最後で付け加えました。 迅さんの言う通り受け入れるしかなくなるんです。 恥を笑いに昇華させるというのは、実社会を生きていく上で非常に賢いやり方だと思います。 思い浮かんだのは出川哲朗さんですね。 でもあの人はそもそも人が恥ずかしいと思うことを恥ずかしいと思っていない節があるかも…笑 しかし、恥ずかしいことをしているという自覚がある上であえて勇敢に立ち向かっているようにも見える。 どちらが本当なのか分かりませんが、「恥」というものをここまで上手く使いこなせる人はいないんじゃないかと思います。 「詩で恥を表現して笑いをとる」ですか… スベる覚悟があるなら、可能かもしれませんね。 恥って根本的には人と人の関係なんで、笑いに昇華させたいのなら、やっぱり責任問題になると思うんですよ。 その責任は最低限、顔と名前が一致していないと果たせない。 それは芸人でも詩人でも一緒だと思います。 谷川俊太郎が面白い詩を書いてちゃんと成功するのは、彼が詩人として認知されているからだと思います。 自分の詩でスベることに責任を負えるわけですよね。 だから「恥ずかしいことはできない」。 逃げ道を作っちゃうと仕事が来なくなりますから。 その意味で、責任を果たして表現される恥というのは、罪のない笑いを生むか、人を安堵させるものに集約されるのでしょう。 責任を回避しようとする恥はいたたまれなくなって目をそむけたくなりますからね。 迅さんとの議論や、自分で詩を書いてみて、ちょっと心境が変わりました。 今までは恥の本質に向き合おうとしていたのですが、僕は詩を書いているんだから、読まれることをもっと大事にした方がいいと。 その立場でいくと、この詩は責任を負わないイタイ詩だと思います。 (迅さんに捧げといてこんなこと言ってすみませんw) 自分にしか分からない言葉で書いていて、読んでくれる人のことなんて全く考えてない。 「恥ずかしいことはできない」と思えるまで、命を懸けてみろと自戒しています。 この詩を洗濯してもらえると、タコも大人しくなるかもしれませんね(笑) 次はちゃんと人と共有できる詩を書こうと思います。 読んでいただいてありがとうございました! (たこつぼ)

2018-04-29

三浦さん コメントありがとうございます。 アーガイル、千鳥格子、マーブル、灰色はタコの擬態から着想したものです。 狙ってはいませんでしたが、ポップと言われるとたしかにそうですね。 こういう風に詩に模様という形で背景を忍ばせるのが好きなので、暗い詩を書いても私の詩はポップになってしまうのかもしれません笑 こういう方法は分かりやすいですし、「詩を分かる」ということだけで少しポジティブな気持ちになれるような気がして、詩が楽しくなる。 そういうものを誰かと共有したい気持ちが私にはあると思います。 (たこつぼ)

2018-04-29

この詩を社町迅さんに捧げます。 私のぶしつけな質問に丁寧に答えていただき、本当にありがとうございました。 この詩を作る上で非常に参考になりました。 (たこつぼ)

2018-04-15

これは…本当にすごい。 支離滅裂なように見えて、実は全くそうではなく、詩として一貫性がある。 言葉選びも抜きんでていて、超現実世界的なのに容易に想像できる。 全体が絶妙なバランスで保たれていて、不自然にに飛び出しているところがない。 その均整の中で 吹き荒れる突風 群青の鬣なびかせる海馬の大群 きれぎれの記憶全部 吐き散らし、笑い飛ばして 泡になっちまえ ときたもんだから目がチカチカしてしまった。 リズムもしっかり整えられている。 本当に素晴らしい詩だと思います。 私は今後酒を飲んだとき、この何度もこの詩を思い出すと思います。 宝物になりました。 ありがとうございました。 (乱酔夢脳内夜景)

2018-04-10

一目でこの詩が大好きになりました! 内容、音韻、リズムがバラバラではなく、全体的に織りなすように作用していて、まるで吉岡さんの頭の中の瞑想がポクポクと聞こえてくるような感じがしました。 リズムで主体の存在を表現できるというのは、心臓の脈動を感じさせるように、まさに詩が生きているということではないでしょうか。 感銘を受けました。 素晴らしい詩をありがとうございました。 (あるある、ないない)

2018-04-10

僕はこの詩好きです。 花鳥風月と自分の意識が混在した詩であることがわかりやすい表現だと思います。 「まどろみ」という言葉を最初に使っているのもポイントかもしれません。 その後に叙景を連ねても、「まどろみの中で」が最後の最後まで引っ張ってくれているような気がします。 僕は『また』ひと眠りにつく と言っているので、眠りから目覚めて見た風景が、まどろみの中に見えるという合点もいきます。 そして、 今はもう少し このままで と、この心地よさが永遠に続くように願っている。 このような作者が詩の中に現れる詩が僕は好きなんです。 叙景だけで表す詩より、自分と心情と重ねることがよりしやすいからかも知れません。 もう少しこの詩の発展を願うならば、 意識と風景の混在がより進んで、どちらが意識なのか、どちらが風景なのか、混ぜこぜになって分からなくなってしまうような描写を入れても面白いかもしれません。 しかし、「春の夢」という題が私を大きく戸惑わせます。 この題から入ると、「まどろみ」も、「花鳥風月」も「またひと眠りにつく」ことも、そして「今はもう少し このままで 」というささやかな希望も、全て夢の中の出来事であるような気がするのです。 そんな不思議な感覚を残しているのも、この詩の魅力だと思いました。 (春の夢)

2018-04-09

共感性羞恥、人が恥をかく場面に遭遇して同じ気持ちになる感覚ですね。 そのように同調してしまった人は、その後で実際に恥をかいた人に慰めになるような言葉をかけるかもしれません。 しかし、その人が羞恥心を引きずってしまっていて、「ほっといて」とその善意を受け止めなければ、せっかくの善意が徒になるということもよくある場面のような気がします。 ということは、発信側と受信側の双方が、自らの羞恥心に対して真摯でないと共有はできないということになるでしょうか。 しかし、羞恥心に真摯であるということは、非常に精神衛生上良くない気がします。笑 「共有させない」のは自分の精神がこれ以上おかしくなることを防ぐためで、他で気を紛らわせた方がずっと穏やかでいられる。 恥がプライドや誇りに包まれているのも、自我が崩壊しないようにするための防衛でしょう。 これが芸術において、あまり題材にならない理由なのかもしれませんね。 発信側がいくら丁寧に羞恥心を表したところで、受け手が同じ気持ちになるとき、やはり受け手に免疫がないので耐えきれない。 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は確かに珍しく恥に触れた作品として残っているものですね。 (私は思い出せませんでした。教えてくださりありがとうございます。) この絵は、実際に脱糞をして恥ずかしい思いをした人からすれば、絶対に見たくないものだと思います。 「この羞恥心と戦ってやる!」と歯向かって、自らの羞恥心をオーバーラップしながらこの絵を見続ける人はかなり稀でしょう。 やはり、羞恥心の共有は難しい… その点、詩は言葉を抽象的に、代替的に使いますし、直接的表現による痛みを避けたり和らげたりすることができるのかもしれません。 表現したいことは「恥」なのだけれども、その表し方が嫌なものではない。 そのことによって、羞恥心に苛まれている人の気持ちが「自分だけじゃないんだ」と共感によって和らぐことができれば、とても素敵なことだと思います。 またまた、長くなり申し訳ありません。(;´・ω・) 自分も次作は「恥」をテーマにして詩を書いてみようかなと思います。 「誇りを詠んだ詩に見せかけて、ただただ情けない心情を隠した詩」というのも、ぜひ読んでみたいです。 楽しみにしています! (恥一滴)

2018-04-08

ご返答ありがとうございます。 琴煢は「キンケイ」と自分では読んでます。 火にまつわる漢字を色々と検索していたら、この漢字に出会いました。 「琴煢さん」と読んでいただいて嬉しい限りです。 一滴は「ひとしずく」なのですね。了解しました。 恥が「励起される」というのは、核心的な言い方だと思いました。 私の実感としてもかなり近いものがあります。 自らに普段は潜在している「恥」が、外的な要因(タブーに触れる)によって、エネルギーが高まり表面化する。 多分タブーに触れることによって交感神経が昂るのでしょう。 脈拍が高まり、顔は紅潮し、自分ではどうにもできなくなり、その場から逃げ出したくなる。 その場面が過ぎ去った後も、そのことを思い出すことによって再び恥が励起されてしまうのも、そのタブーを意識することによって、自分より大きなエネルギーが外界にあると認知せざるを得なくなってしまうからかもしれませんね。 「自分の内面のエネルギーより外界のエネルギーが大きい」と捉えてしまうから、そのことによって与えられる罰則に構えようとして神経を発奮させてしまう。 現実世界をハツラツと生きるとき、そのような偏った認知はあまり起きなさそうですから。 恥の本質を一言で言い表す言葉は私もないと思います。 そのような言葉を作っても、誰も採用しないでしょう。 しかし、このことが私にとっては非常に興味深いんです。 なぜ、恥を共有できないのか。 私は音楽を多少楽しみますが、音楽は「歓喜」「穏健」「哀愁」「悲哀」は表現し得るのに、なぜ「羞恥心」は表現できないのか、よく疑問に思います。 絵画もそうかもしれません。「羞恥心」をテーマにした絵画を私は見たことがありません。 小説には「恥」をテーマにしたものはかなりありますが、正しい文法やストーリーの起承転結に縛られてしまう感も否めない気がします。 恥は考えるよりも先に体に反応が起こってしまう、突発的な現象だと思うからです。 そういう意味で詩は「恥」を表現するのに最も適した方法ではないかと思います。 ある意味で「恥は共有できない」ということを「人間の最もパーソナルな部分に根差した感情は恥である」と言い換えることができるのかもしれませんね。 それを詩に含めるかということも、作者の選択によるのでしょう。 どちらを選んでも素晴らしい詩は成り立つと思います。 長々とすみません。 非常に深い知見をいただけて、この詩のエスプリが少し掴めたような気がします。 ありがとうございました。 (恥一滴)

2018-04-08

恥を一滴と表現するところが面白いと思いました。 そこから羞恥心を表に出さないようにするという心理も綺麗に描写できていると思います。 ただ一点要望があるとすれば、恥自体を社町さんがどのように捉えているのかをもう少し知りたい気持ちになりました。 恥というものはなかなか説明し辛い心理で、例えば精神科医に恥ずかしいということを的確に説明するのは結構大変だと思います。 恥の本質、一滴の成分を個人的にどのように分析しているのか。 そういうものが見えてくるとグッとこの詩の魅力が増すのではないかと思いました。 (恥一滴)

2018-04-08

複雑な気持ちにさせてしまってすみません。m(__)m 私は「分類」という言葉を使っているので、話をややこしくしてしまっているのですが、どのようなジャンルであるかを取り立てて気にする方ではありません。 よく分からないから、あやふやに「散文詩」という言葉を使ってしまいました(汗) ある意味で、「散文詩」という区分を便宜上使い勝手のいいもののように考えていたかもしれません。 ただ、私は何らかの作品を鑑賞するとき、そこに含まれている「詩題」に注目します。 詩に留まらず、散文、絵画、音楽、映画、スポーツに至ってまで「詩題」があるのかを必ず見ます。 よく小説家がメタファーを使いますが、作家が意図できない次元のところの、また、科学や哲学が証明できないところの、さらに大きなメタファーが私の意味する「詩題」です。 これは萩原朔太郎が用いている言葉です。 その意味で、この「海岸通り」という作品は「詩題があるな」と感じました。 人間の意志ではどうにもできない侘しさと、それでも美しいと思える世界が広がっているように感じました。 (海岸通り ※ )

2018-04-07

素晴らしい詩だと思います。 本音の吐露、まさに「ぼやき」として、これ以上適切な表現があるだろうかと思うほどです。 ”その他”という言葉をモチーフに使うことによって、自分の内面の孤独が一層際立っているように思えます。 おなかにズーンと響きました。 良い詩をありがとうございました。 (ぼやき)

2018-04-06

おかかマヨ和えさん コメントありがとうございます。 何度も読んでいただけたなんてありがたい限りです。 正直なことを言えば、「内なる美」について自分でもよくわかってないんです。笑 詩はどんな風に読んでもいいものだと思います。 この詩を読んで、点自体が内なる美と捉える人もいれば、点はものの見方であって内なる美はまた別に存在していると捉える人もいると思います。 そんな捉え方の余地をなるべく広く残しておきたいというのが、私が詩を書く上で最も大切にしているところです。 重要な何かを隠匿している詩は私は苦手で、抽象を追い求めたが故にこの言葉をチョイスせざるを得なかった、この形にならざるをえなかったという詩が好きです。 そういう詩を目指しています。 ですから「分からない」と言ってくれることは、作者としては本当にうれしい言葉なんです。 作品に真摯に向き合ってくれていて、私の内観と最も近い感想だからです。 今自分で読んでみても「内なる美」の実体が揺らいでいます。 一体何なんだろうという思いです。 (二点)

2018-04-06

るるりらさん なるほど! ググって分かりました! カタツムリは色素を分解できないから、食べたものと同じ色のフンをするんですね! それを集めて芸術的なタイルにした人もいると。 それを美しいと思う男性… 確かにあいらしいですね! そしてその捉え方が面白い! これは完全に私の無知でした。 この詩が凄い方向に行ったような感覚がします。 前半の色味が全く変わってしまいました。 「私」が個性豊かな人間に見えてきました。 いや~、感服です。 新しい見方を教えていただきありがとうございました!(◇)ゞ (二点)

2018-04-06

るるりらさん コメントありがとうございます。 カタツムリのフンというのはなぜか自然と浮かんできて、自分でも意外でした。 他の動物のフンだったら敬遠してしまうのですが、カタツムリのフンは案外詩に使えるんじゃないかと思いました。 結果、情景を綺麗に整えてくれました。 こういった逆転の発想が上手くはまったときは、やはり嬉しいものですね。 あいらしいと言われると照れますね。(*ノωノ) 読んでいただいて感謝です。 (二点)

2018-04-06

社町 迅さん コメントありがとうございます。 自分を知る、相手を知る、そしてその関係を知るということは、不確定で、アンバランスで、それ故知ってしまうこと自体危うくもあります。 距離感を間違えて、近づきすぎたり、逆に憶病になりすぎたりもします。 それでも、価値観がピタリと一致することに拘らず、「私にはそう見えているんだからそれを信じてみよう」という開き直りの詩でもあります。笑 作者としては「君」から見る私がどのような点であるのか、はたまた点ではなく別の何かで私を例えているのか、知りたいところですね。 愛のある詩だと言ってもらえてうれしいです。 (二点)

2018-04-06

おおいしさん コメントありがとうございます。 前半が好きということは、私と同じくぼうっと物思いにふけるタイプなのでしょうか(笑) 長く一緒にいるのに、価値観だけはいつまでも交わらないことってありますよね。 それは恋人も、友人も、家族でさえそんな風に思うことがあって、人間って孤独な生き物だなと思います。 そんな気持ちをこの詩に託しました。 読んでいただいて感謝です。(^-^) (二点)

2018-04-06

理解力なくてすみません…笑 解説してもらって、やっと少し分かりました。 そういう理由で、「こんな夢をみた。」には読点がついてて、「あんな夢をみた」には何もついてないんですね リズムとして面白い試みだと思います。 「あくる日のあさ」も字数的にはそうでしょうか。 ただ、それだったら後半も「あの夢をみて」をどうにか工夫して、前半のリズムを引き継ぐのも面白かったかもしれないですね。 既に心象に入っていて、あの夢は遠いものになっているので、リズムを変えることも手なのですが、少し恣意的な印象を与えるかもしれない。 微かに前半のリズムを匂わせるような工夫を入れるともっと自然に後半に入れるのではないかと思います。 (夢)

2018-04-06

文章お上手ですね。 煌びやかかつ少し物寂しいフランスの風景が目に浮かびます。 散文詩に分類されるでしょうか。 趣深く拝読させていただきました。 (海岸通り ※ )

2018-04-06

ああ、良い詩だなと思いました。 私だったら夢の内容を無理やり思い出そうとするかもしれませんが、そこにあえて踏み込まず、現実に留まっているのが新鮮でした。 夢って大半は思い出せないものですもんね。 でもその想いは消えない。 とても自然で素直な気持ちになりました。 (夢)

2018-04-06

fiorinaさん コメントありがとうございます。 「心の恋人」って素敵な表現ですね。 まさに心の恋人について、僕はこの詩で表したかったのだと思います。 この詩を理解してくれて、本当にうれしい気持ちでいっぱいです。 (二点)

2018-04-06