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何もできない日
いつもなら 下らない番組でも最後まで見てしまい いつもなら 甘く入ったストレートに不満を覚えくだをまき いつもなら ロースかつの肉汁が口いっぱい至福に広がり いつもなら お気に入りの婀娜な谷間にピクンと反応を示し いつもなら ゼラニウムの馥郁とした香りを心地よく感じ いつもなら 塗り絵のグラデーションの美しさに目を見張り いつもなら ユーミンのメロディーの練られた意匠に鳥肌が波打ち いつもなら マラルメの詩の宇宙に体は浮き上がり いつもなら 君と戯れていれば自然と笑みがこぼれ 僕は生きていることを実感せずにいられる でも今は 涙がボタボタ落ちるだけである 何もかも無意味である 何もかも死んで見える 快も不快も遠く離れて 涙がボタボタ落ちるだけである 動けない 鬱が体を痺れさせている 雫が机の天板に溜まっていく 何を考えているのか分からない なぜだか 「死にたい」という声が頭の中でこだまする 僕の言葉ではないのに勝手に反響している 心はそんな言葉に癒されている 成すがまま、 ただ僕は呼吸をしながら、涙をボタボタ流している 事実だけが、 美徳も反骨もない、 生きているという事実だけが、粛として通り過ぎてゆく 滴滴と 滔滔と
何もできない日 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 960.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-05-26
コメント日時 2018-05-29
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
“共感”をまずはじめに感じました。 一つ一つ例をあげて最後に落とすやり方に痺れます…僕はこの詩が好きです。
0イルさん コメントありがとうございます この詩が好きですと言って頂いて嬉しいです 少し疲れているようです こういう時は休むに限りますね…( ˘ω˘ )
0「鬱」とストレートに書かれているので、「生」の「実感」がない方がよいという価値はこの詩で読み取れると思います。 なので、前半のひとつひとつが「生」の「実感」を伴わなくて「僕」にはよい、というのは十分に読み取れました。 後半は心情を掘り下げたくないけれど……、という筆致かなとも思います。でもそれは僕自身も鬱経験者だからなのかなとも思います。 ただ共感するかしないか、という点だけかもしれません。 上手にまとめてしまっていること自体の切なさがあるんですが、むしろ上手にまとまっていて読者としては助かったようにも思います。
0花緒さん、かるべさん コメントありがとうございます。 お二方のご指摘はこの詩の核となっている部分なので、まとめて回答します。 詩のエスプリとしてはかるべさんが仰ってくれているとおりです。 僕は鬱状態のとき、「生きていると実感せずに生活できていた時の方がよっぽど幸せじゃないか」と心底思います。 普段通りのことができている時に生きていることを実感するって文脈は、自分も何度も目撃してきましたが、その度に「うっそだー!」と思ってきました。 それは文学的後付けであって、感覚通りでいけば普段の生活で感じる幸せの瞬間に「ああ、俺生きているわ」とか考えんだろって思うんですよ。 (表現方法としては美しいと思いますが) 本当に酷い時間を過ごすことがあります。 何時間も体が痺れた状態になり、本当に何もできなくなります。 考えはまとまらないし、人の話は途切れとぎれにしか聞き取れない。 目を使うのは辛いし、音楽は雑音にしか聞こえない。 食べ物を口に含んでもモゾモゾした口当たりしか感じない。 眠りたくても眠れない。 焦点が定まらないまま、ただ座っているか横になっているだけで、何時間も過ぎていく。 ただただ涙が止まらない。 そんなとき、自分が呼吸だけはしていることに気づく。 その時です。 「自分がまだ死んでいない」という逆説も含めて、「自分が生きている」と痛切に実感するのは。 そういう感覚をこの詩で共有したかったんです。 この感覚は一度鬱を経験しないと分からないものでしょう。 そういう人にこそ読んでほしい詩です。 この詩は読者を選ぶと思います。 では後半部分で、書き手である自分の心情をもっと掘り下げることができたのか。 しかし、私はそもそも「それをしたところで何になる」というスタンスです。 その必要性を感じないんです。 鬱状態では言葉はまず頼りになりません。 どんな言葉を使っても正鵠を射る表現は見当たらないでしょう。 料理のレポートのようにそれを読んでも味がするわけではないのと同様、鬱を経験しないと分からない感覚がある。 無理やり書いたとしても、僕の自我が強く出るばかりで、読者の苦しみとの間に差が広がっていくだけになる。 鬱の苦しみはその人独特のものですから。 それではどのような形にすれば「鬱」という感覚を書き手と読み手で共有できる詩にすることができるだろうと考えたときに、「余白を残しておけばいいのか」という結論に辿り着きました。 その余白に読み手が自分の言葉にならない辛い感情を書き加えてくれれば、お互いに救われるだろうと考えました。 だから後半は、なるべく自分のことは俯瞰するに留めています。 僕の中では言葉の限界はここだなと思います。 どれだけ詩が自由な形式を取ろうが、やはり伝達には限界があると思うのです。 「詩は感情表現においては万能である」と信じている人もいるようですが、僕にはとてもそうは思えません。 「分かり合える言葉」を使いたいし、そうでない言葉を相手の感覚も分からないのに押し付けたくはありません。 イルさんや、かるべさんのようにこの詩に共感してくれる人が少しでもいるなら、僕は本当にこの詩を書いてよかったなと思います。 きっと独自にこの詩を完成させてくれたはずです。 とてもありがたく思います。
0いつもなら。でも今は。 体が麻痺するほど本格的な鬱の症状になったことはないですが、かつて長いこと慢性的な抑うつ状態にいました。 わかったような気がしました。 返詩をしようかと思いました。でも何か違う気がしてやめました。
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