作品投稿掲示板 - B-REVIEW

紅月


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Land Scape Goat

2017-04-29

phosphorescence

2017-03-12

セパレータ

2017-03-04

hyakkinnさん、おはようございます。 私は幼い頃から生き物が好きで、ずっとペットを飼うことに憧れていたんですけど、私の家庭環境はちょっと特殊で、中学を卒業するまでは学校に通う以外ネットもゲームもテレビも漫画もない自室にほぼ軟禁状態、もちろん自分で自由に使えるようなお金なんて持っていなかったので、幼い私にとってはペット飼育なんて夢のまた夢でした。高校入学の際にまあ色々親族ぐるみで揉めまして、なんとかお年玉だけは私が直接もらえるようになったので、その限られた金額の中でもなんとか飼育できそうな小さな手乗り文鳥を買ったんですよ。羽根の色は灰を被ってるみたいでとてつもなく地味だったけれど、籠を開けるたびに肩に飛んできてとてもかわいかった。鳥ってこんなに懐くんだなって。で、私は理系学科に入学したのでかねてより興味のあった生物にすっかり傾倒してたんですが、ある時生物の研修で東京まで行くことになりまして、一週間帰ってこれないので仕方がないから家族に頭下げて文鳥の世話を頼んだんですね。それでまあ、研修に行って、帰ってきたら文鳥が籠の端で丸まって冷たくなってたんですよ。冬だったんですけどね、部屋の中だと煩いから玄関に放置してたんですって。もうね、生きてきたなかであんなに我を忘れたのははじめてじゃないかってくらい頭にきてね、こいつら全員ここで刺し殺してやるとか思ったりもしたのですが、すこしずつ怒りが醒めてきてから、よくよく冷静になって考えてみると、生活が安定してない、自分のお金で生きてすらいないくせに生き物を飼育しようとした私の浅はかさがこの文鳥を殺したんじゃないかって、だんだんそんな風に思えてきてなんかたまらなくなってね、もう二度と生き物なんて飼わないようにしようって思ったんです。可愛いとか、うつくしいとか、そういった感情や言葉はある意味おぞましい暴力に他ならないのではないか。私は今こうしてhyakkinnさんに長ったらしく自分語りをしているわけだけれども、それはあの時庭に埋めた文鳥の死骸を掘りおこしては吊るし上げるような冒涜にあたるのではないかとね、そんなことを悶々と考えてしまったりするんですよね。この詩ももしかしたらそういう虚しさを謳わんとしているのかもしれません。 紅月さんの過去作を読んでいると、僕は自分の過去を常に追体験させられるような気分になります。 新しいサイトに過去作を投稿するというのもどうなんだろうなとは思ったのですが、この作品は自分でもわりと気に入っている作品で、この場ではどう読まれるのかということが気になったので投稿してみました。救われた気分になると言っていただけて本当に嬉しい。書き手に共感してほしかったり、読み手に面白いものを読ませたいというよりは、救いたいし救われたい、そのために私は詩を書き続けているのだと思います。丁寧なコメントどうもありがとうございました。 (Land Scape Goat)

2017-05-10

三浦さん、こんばんは。 ここb-reviewではどうやら空前のループ詩ブームが到来しているとのことで、拙作のなかだと比較的ループ詩と呼べそうな(定義がわからないのでなんともいえない)作品を投稿してみたのですが、今になってあらためて読み直してみるとなんだかそうでもないような気もしてきました。安易な「胡蝶の夢」になっていなければよいのですが。 >土木工事に従事した経験があるものは、よくわかると思う。まず測量はベンチマークから開始する。 ベンチマークという表現は面白いなあと思いました。完璧な構造であるかどうかはともかく、音読した際のリズムは読みやすくて自分でも結構気に入っています。こちらこそ、お読みいただきありがとうございました。 浅井さん、こんばんは。お久しぶりです。 >基本領域があって、同じようなフレーズの基本領域で作品中が埋まってゆく。 >相似の言葉を置くことで、前後にリズムがばらまかれて主旋律をなす。 >そのあとに寓話、神話という対象操作を施して、はじまりにおいて一つの領域ができると同時に、それに対称操作を加えて生まれたリズムが作品の領域の全面を覆い尽くす。 >このような傾向は紅月さんに特徴的なものだけど、この「死にました」「準備にかかりました」っていう作品そのものを貫く丁寧な言葉遣いとはいうのを何度も繰り返すことは、繰り返すことでエモーションが増幅される、というメリットはあるんだけれど、かっちり決まったフォルムを持っているので、クリシェに陥ってしまいやすい。 この作品は過去の作品でして、今の自分がこの作品について語るとどうしても推測が混じってしまうのですが、おそらく世界性を語りや「寓話」「神話」といった詩句でエポケーとして吊り下げておいて、浅井さんの言葉を借りるならばクリシェに陥ってしまう領域というものを、 >兎を、弔う 兎を弔う というズームアウトで何層にも重ねていくことが狙いだったのだと思います。そしてその行為自体すらもクリシェに陥ってしまうということに語り手としてはある程度自覚的であり、大筋は、 >「信頼できない語り手」によって、無限に反復される「健忘症」としての「寓話」をめぐる「空虚さ」 と浅井さんが指摘してくださったとおりだと思います。この「信頼できない語り手」というのはおそらく私の詩作の根幹に横たわっているものですね。書かれた時点で詩句が帯びる「作為性」の暴力を強引に従えるくらい強度のある作品を書きたいと思っているのですがなかなか辿り着けない。逆に諦念まがいの姑息な手つきばかりが小慣れてしまって、つくづく楽をする技術ばかり上達したなあと思わずにはいられません。 >寓話、あるいは神話そのものの「転移」あるいは変遷を、完成されることない「寓話」の生産のプロセスとしてとらえてみること、そしてその契機を背反する「世界」に見る可能性もあったのではないか そのあたりの別の回路を最終聯でうまく提示したいなあと考えていたのですが、どうやら上手く機能していないみたいです。 完結した予定調和というものもそれはそれで作品足りえるとは思いますが、やはり私は水の流れを見守るより流れのなかに手を突っ込んで掻き乱すほうが性に合っているような気がします。もっと挑戦的な作品が書きたいですね。 浅井さんの批評を再びいただけたこと、とても嬉しいです。ありがとうございました。 まりもさん、こんばんは。 私は兎というモティーフが好きでよく拙作に登場させるのですが(大抵碌な目に合わない)、生き物としての兎が好きというよりは、創作や伝承で好き勝手にキャラクタライズされた「兎」が好きなんですよね。因幡の白兎も最後まで嘘を突き通せばよかったのにうっかり口を滑らせて皮を剥ぎ取られるなんてなんだか憎めないやつだなあ、と。そして古事記に登場する鰐は実際のところ鮫の仲間だったみたいですね。鮫といえば、このあいだディズニーのファインディング・ドリーを友人が借りてきたので一緒に観たのですが、ジンベエザメの女の子がやたらかわいかったのを覚えています(それしか覚えていないとも言います)。お読みいただきありがとうございました。 黒髪さん、こんばんは。 >踊りのような印象を持ちます。 踊りというものもひとつの表現方法ですよね。人が何かを表現するためには必ずしも文字を使う必要はなくて、踊ってみたり歌ってみたり絵を描いてみたり、科学だってひとつの表現であるともいえるでしょう。そしてそのなかで詩という表現方法を選んだ以上、詩というかたちでなければ表現しえないものを表現していかなければならないなあと思っています。まあ、なかなかうまくいかないのですが。 >筆者は、尖ったナイフで、論理を突き刺す、つまり、論理を常に意識しながら、それを突き詰めることで裏切ってしまう、 書き手が言葉を裏切るのでしょうか。むしろ言葉のほうが勝手に書き手を裏切るものだと思っています。そして裏切られるうちに、だんだんこちらも言葉を信頼できなくなってくる。これまでどのように言葉とうまく付き合ってきたのかをすっかり忘れてしまったのでした。もう少しお互いに譲歩できたらよいのですが。お読みいただきありがとうございました。 双葉月ありあさん、こんばんは。 こんばんは、と書きましたが、気がついたらおはようございますになっていました。外が明るい。おはようございます。 >絵本みたいだなあ、と、おもいました >それから個人的に 清潔な比喩 という表現がとても好きです。清潔な比喩。すてきだ。 嬉しいです、ありがとう。 (Land Scape Goat)

2017-05-03

百均さん、こんばんは。 語り手は三人姉弟の真ん中であり、「わたしの手は誰もつかんでくれない」という記述から推察するに、共働きかなにかの理由で両親とあまりコミュニケートすることが出来ない家庭環境であるようです。事実、家族について語られているとおぼしきこの詩には「姉」や「弟」といった単語は何度も登場するのに直接的に両親を指す単語は一度も登場していません。辛うじて「おとな」というよそよそしい単語が出てくる程度でしょうか。そして語り手たち姉弟は、「おとな」達に頼らず、自分たち(子供)だけでもなんとかうまくやっていかなければならないと思っていることが、「子守の、得意な姉になりたかった」という語りからもわかります。 個人的な話になって申し訳ないのですが、私も家庭環境が色々複雑だったりしまして、語り手と同じく幼い頃から両親と良好な関係を築くということが出来なかったんですね。それもあってなんというか、こういう詩を読むときどうしても語り手をどこか自分と重ねてしまいすごく複雑な気持ちになります。ただ私は当時一人っ子だったこともあり、暗い意識はずっとおとな(両親)へと向いていたので、この詩の語り手のようにおとな以外へ眼差しを向けていくような思考というのは自分にとってすごく異質で、私にも姉弟がいたらこのような考え方をしたのだろうかと考えさせられもしました。なんか私的な話でごめんなさい。 百均さんはいつも実直な詩を書かれますね。百均さんの評にも言えることだけれど、自分の言葉で読み、自分の言葉で書くというのは誰にでもできることじゃなくて、百均さんの素敵な才能だと思います。何が言いたいのか分からなくなってきましたが、とにかくこの詩をなんとなく好きだなあと思ったのでした。ただの感想で申し訳ないです。 (丘の向こうに消えてゆく)

2017-04-30

百均さん、おはようございます。 基本的に私は詩の読解に正答などないというスタンスなので、読み手の数だけ読み方があると考えるし、百均さんのコメントはいつも誠実なので書き手としてすごく参考になります。器が大きすぎて手に負えない作品と評していただきましたが、その「器の大きさ」が解釈の幅の広さへと結びついてくれていれば嬉しいところです。 この詩は一応聯ごとにそれぞれが小話としても完結するような体裁をとっていますが、あくまで全体としてひとつの作品たりえるようにと書きました。「雨」「夢遊病」「酩酊」「幽霊」「写真」「雨」といった詩句による聯の連なりの中で、意識的情景と無意識的情景の錯綜を各々の詩句が持つイメージ(意味)と文字(形)に擬えながら表現しようとしたのかもしれないなあ…などとめずらしく自己解説まがいのことをやってみようと思ったのですが恥ずかしくなってきたのでやめます。 >②[line]と[(rif)line] シャッタースピードを落としたカメラで雨を撮影すると雨が線のように写ります。たくさんの点の集合が線になるんですね。私は定点カメラの写真なんかも結構好きなんですよ。星空が円を描いている写真なんかは百均さんもご覧になられたことがあると思います。 >僕はサイドボードに置かれた青いLEDのデジタル時計の点滅を眺めつづけていた。彼女の呼吸と電子的な明滅のテンポは隔たりと交わりを繰りかえす。繰りかえす。 「隔たりと交わりを繰りかえす」というのも、言い換えれば「距離」ですね。ちなみに物体が燐光を放つ現象のことをフォトルミネセンス(photoluminescence)というのですが、なんでフォト(photo‐graph[写真])とついているのだろうと思ったら、photoの語源がギリシャ語のフォートス(photos[光])だからなんですね。LEDの発光は正確にはフォトルミネセンスではなくエレクトロルミネセンスと呼ばれるようです。 >感じる事を言葉に出来ない詩であり、正に食えない詩ですね。 それでも百均さんが感じたことをこれだけきちんと言葉にしていただけたこと、感謝しかありません。 丁寧なコメントありがとうございました。 (phosphorescence)

2017-03-28

なかたつさん、こんにちは。 この作品が作品として完成されているかいないかというのはよく分からないけれど、飽きっぽい私がこれだけ長い作品を通読できたというのはひとえに作者の筆力だと思う。そして、この作品は「書くために書いた」作品ではなく「書かれるべくして書かれた」作品であるような気がして、読めてよかったな、と素直に感じました。人の生理なんてうたわれるほどうつくしくもない、ましてや劇的でもない。語り手にとって3回の風俗経験はとても印象深いものだったのかもしれないけれど、風俗嬢にとってはおそらく顔すら覚えてない客のひとりでしかない。そんな誰の記憶にも残らないような(傍から見れば)些細な体験が語り手のなかでは煩わしい記憶として残り続けているんですね。私も風俗に通ったことは一度もないのですが、ふとした瞬間に過去のセックスの体験が蘇るというのはよく分かります。性的なコミュニケーションというのは言ってみれば自分が普段秘匿しているものを曝け出すわけで、その瞬間ってこの上なく無防備だと思うんですよね。そんな交感を誰かに「業務」として消化してもらうというのが私は想像するだけで耐えられないのだけど、おそらく語り手にとっても決して快いものではなかったのでしょう。語り手(クライアント)が風俗嬢(ベンダー)に「何でこの仕事してるんですか?」と聞くこと、聞かずにはいられないのも、もしかしたらそのような耐えられなさからかもしれません。直接的な表現は作品としての弱みとも言えるし、題名の証明書というのも、作中に散々「しょうめいが欲しい」と書いているのだからもう少しひねったものでも良かったのではないか、と思わなくもないのですが、作品としての体裁を繕えば繕うほど記憶は偽装/隠蔽されるでしょうからこのくらい素直な方がいい気もします。こういう評価の仕方は卑怯だし、作者としては不服かもしれませんが、やはり私は作品としての完成度云々以前に「この作品を読めてよかったな」と思ったのでした。 (証明書)

2017-03-26

こんばんは、kaz.さん。遅くなってごめんなさい。 題名に「声のみの声」とあるわけですから、ここに表れているのは文字ではなく音声なのでしょう。私自身最近よく考えていることのひとつに、たとえばオートマティスムなどの手法で作成された作品があったとして、そこに無意識的に配置された文字を能記としてではなく所記として読解するということが作品へのひとつのアプローチとしてどの程度有効なのだろうかということがありまして。どんな文字群にせよこじつければきっと何らかの強引な解釈は可能だろうと思うのですが、畢竟それは作品の中に読み手自身を読むということに他なりません。つまるところその手の作品の評価基準としては読み手の中のコードと合致するかしないかしかないような気がします(解釈できるかできないか、とは少し意味合いが異なります)。それでこの作品についてなのですが、通読するなかで心地の良さと気持ちの悪さが入り乱れる感覚がありました。沈みこめるような隙間を見つけたと思ったら次の瞬間には強く弾かれているとでもいいますか。もしかしたらこの作品は読み手の「解釈」という介入を拒んでいるのかもしれない。一方で、あからさまな隙がノイズになって煩い部分もあります。 >優れた死は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ 叫びが顔を覆う、つまり意味を置きざりにして音声が先行するということなのでしょうが。 >言葉よ >そなたは美しい >罪を >この大いなる秘跡よ >我に力を与えたまえ 或いはこういう部分。叫びが響いていた詩文に唐突に顔がぶちこまれたようで私はちょっと不快でした。いや、実際はここの顔もたんなる「音声」でしかないのかもしれませんが、それならば語句のそれぞれが持つ「音程」にももう少し気を払うべきなのではないかな、と。kaz.君の最近の詩はあまりにもカラフルすぎて(絵文字が、とかそういう直接的な意味ではなくて、なんというか、大味すぎる、というのが近いかな)、私としてはちょっと目がチカチカしてしまう、かな。ただ、なんだかんだで【1】と【4】は好きです。単純に、コードが合いました。これからもこの路線を試してみるつもりなら、ぜひ顔を挿入する誘惑を振り払って、最後まで声のみで貫き通したものが読んでみたいですね。ではでは。 (声のみの声――起草)

2017-03-26

ひとつの話題で何度も作品をageるというのも心苦しいのでこれっきりにするけれど、「歌いだした途端につまらなくなる 」という批判をくれたのはkaz君ではなかったと思う(君から批判された覚えは確かにあるけれど)。まあ、もし仮にその発言をしたのが君であったにせよ、君が謝る必要は一切なくて、そもそもあそこは批判や罵倒が容認される場所なのだから批判を軽く受け流すことができなかった自分の弱さに非があると考えます。ただなんかすごく気を遣わせちゃったみたいで本当にごめんなさい。(関係ないけどチック・コリアいいですよね。そのチック・コリアが天才と評したアビシャイ・コーエンを最近良く聴いていたのだけど、よかったら聴いてみてください。) それから、君の新作にレスを入れたいなあと思っているので少しお待ち下さい。3月は繁忙期なのでまとまった時間が取れずになかなかここの詩を読めていないのだけれど、君の言うとおり読むという行為も詩を書く糧になるだろうからがんばって修行していこうと思っています。どうもありがとう。 (phosphorescence)

2017-03-21

kaz.君、再びこんばんは。 今朝から一日中色々考えてみたのですが、やはり今の私には昔の自分のような書き方はできない/採らない気がして、それは何故なんだろうと考察した結果、評価に対して臆病になってしまったことが原因なのかもなあという結論に至りました。kaz.君が褒めてくれているとりろーぐもレス欄で「歌いだした途端につまらなくなる」と批判されたし(今でも覚えています)、実際に月間優良にすら選出されなかったので、当時の評価に飢えていた自分にとってはこういう書き方は間違ってるよと言われているように感じられてしまって、どうにも耐えられなくなったのでした。ちょうどとりろーぐを投稿した頃は評価というものに対して色々こじらせている時期だったので、批判を恐れるあまり、どう書けば前作のような罵倒を受けずに済むだろうかと、まるで叱られることをこわがる子供のような気分で詩作をしていましたから、自分の感覚というものにそれはもう一切の自信をなくしていたんですね。今は正直評価されようがされまいがどうでもいいやという楽観的な気持ちで書いてはいるのですが、あの頃に痛感した自分の感性の乏しさというのは相変わらずで、kaz.君の言う「何よりもまず声にして出した時の感覚」を表出させるということが私には怖くてたまらないのです。 関係ないですが先程のレスで、 >私の考える「私物化」とは、たとえば朝倉ユライさんやいかさんなどの内輪でしか通用しないような記号を翫んだりする手つきのことを言います。 と書きましたが、語弊を生みそうだなと思ったので、 >私の考える「私物化」とは、たとえば「朝倉ユライ」や「いかいか」等の内輪にしかわからないような名詞を詩句として作中で翫んだりする手つきのことを言います。 と訂正しておきます。kaz.君にはちゃんと伝わっていただろうけど念のため。 ああ、でも、あなたの新作にはうつくしいなと感じたフレーズがいくつかありました。時間があったらレスをつけたいなあと思っています。 (phosphorescence)

2017-03-20

kaz.君、こんにちは。コメントありがとう。 時代の感性に遅れている、か。なんとも辛辣な批判ですね。kaz.君の言う「小説化あるいは私物化」の定義がよくわからないのでなんともいえませんが、詩人としてのアプローチというものの解答がピコ太郎であると言うのなら、(たとえそれが時代の希求であろうと)そのような言語遊戯に興じるつもりは今のところありません。シニフィアンに傾倒した表現を否定するつもりはないけれど、評価するつもりもない。もっと言えば、私の考える「私物化」とは、たとえば朝倉ユライさんやいかさんなどの内輪でしか通用しないような記号を翫んだりする手つきのことを言います。 しかし、随分前に書いた作品を気に入ってもらえているというのはやはり嬉しいことですね。あの頃の純粋な言葉への信仰心というものが今の私には欠けている。いや、箸にも棒にもかからない状況から脱却するためにあえて切り捨ててきたといったほうが正しいかもしれません。それが今になって「昔の作品のほうがよかった」と言われるのはなんというか、皮肉だなあと思わずにはいられませんね。もう一度考えてみます。ありがとう。 (phosphorescence)

2017-03-19

葛西さん、こんばんは。コメントありがとうございます。 >久々にネット上の詩で、ゆっくり繰り返し読んでみようと思えたので、出来ないなりに簡潔ではあるけれども、コメントをしてみようかと。 詩歴(?)がおそらくとても長いであろう葛西さんにそう言っていただけて嬉しいです。 >なぜ、惹かれたのか、いろいろあるのですが、冗長になってしまってはいけませんから、三点に絞って。 >まず、各段落で文体の違いがあり、それによってそれぞれがきれいに分かれつつも、同じ一つの詩として示されるだけの説得力を保っている点。 >つぎに、かなのみで書かれている部分や、ところどころのかな遣いが、単純に私の好みである点。 >第三に、官能的な表現がちりばめられているが、いやらしいものではなく、非常にシャープでクールでカッコよくまとめられている点。 1点目と2点目に関してはとても意識した部分ですので上手く作用しているようで安心しています。特にかな書きについては、よく「あざとい」とか「意図がわからない」とか言われたりするのですが、字面や音の響き(平仮名と漢字では音読した印象がだいぶ異なると私は思っています)がどうしても気になってしまうので、結構時間をかけて調整しています。 3点目については私の弱点ともいえるところで、どうしても詩作品として完成させるうえで生身から離れようとするきらいがあって、いつもこういう記号的な表現になってしまうんですね。葛西さんの作品のように生理的なうつくしさや醜さを描き出すことがあまり得意ではないのです。それが葛西さんのいう「少し優等生すぎる気もする出来映え」という評に結びついているのかもしれません。 (phosphorescence)

2017-03-18

なかたつさん、こんばんは。コメントありがとうございます。 丁寧な解釈で書き手としても大変参考になりました。 >今を生きる僕たちは、景色はそこにあるはずなのについついやり過ごしてしまう。そこに意味づけを出来ていない無責任さのようなものを思い直しました。 まあ母親の弁当をごみ箱に捨てている時点でまっとうな話者ではなさそうではありますが、こういう世界との関わり方をしている人間も実はそれほど珍しくもないのかなあと思います。諦念といえば諦念ではあるのですが、ある意味ポジティブに生きるための思考整理とも言えるかもしれません。 懐にしのばせた神様のお面をつけたりはずしたりしながらうまくやり過ごすこと。詩を書くという行為もそういう神様としての所作のひとつかもしれません。 葛西さん、こんばんは。コメントありがとうございます。 ちょうど私が詩を書き始めたばかりの頃の文学極道でよくお見かけしておりました。 >壮大な物語のようであり、個人の物語のようでもあり、救いがあるようで、救いがあり、気が付けばこの詩の世界にからめとられるような、そんな魔力のある言葉の集合に感じました。 まさにそんな詩を書かれる印象のある葛西さんにそう言っていただけてとても嬉しく思います。解釈の幅が広く、かつリーダビリティに溢れる作品を理想としているのですが、やはり詩作をするたびに両者のバランスの難しさを痛感しますね。精進しなければなりません。頑張ります。 祝儀敷さん、こんばんは。コメントありがとうございます。 >各連のイメージが絶妙なバランスで関係しあっていると思った。意味がわからなくならない手前の暗喩が一番読んでいて気持ちよい この作品は読みやすさを念頭に置いて書いたものなので、そう言っていただけてひとまずはほっとしています。ただ、欲を言えばもうひとつ上の、「わからないけどわかる」ような作品を書けるようなバランス感覚を身につけていきたいなとも思っています。色々試していくつもりですので、よかったらまた読んでやってください。 (セパレータ)

2017-03-18

白犬さんこんばんは。コメントありがとうございます。 >ちょっと象徴的な言葉が並ぶと???となってしまうし、結構いらちな性格なので、ぱっと匂いで判断して(犬だけに)興味がわかないと、中々理解しようという気にならないのです(短絡な人間です) とてもよくわかります。私もまず全体をざーっと眺めたときにうっとなるような詩句が目に入ると途端に読むのをやめてしまいたくなることが多々あります。 それでも白犬さんが読んでくれる気になられたというのが作者としてはとても嬉しいですし、さらにはこうして評までいただいてしまって感謝しかありません。 「反覆」は当初「反復」だったのですが、反復でもあり反覆でもあるということでこのようになりました。 >「なにひとつ交差しないという暴力」という一文(この詩の中で一番印象に残りました) 私もこのフレーズは結構気に入っています。なにかと関わったりすれ違ったりするのって結構エネルギー消費しますからね。私なんて外出時は誰とも関わり合いにならないように上野クリニックの広告みたいな格好で目を伏せながら歩いているのですが、そうするとなんだか紺色の服を来た方々が誘蛾灯にたかる蛾のようにどこからともなく寄ってくるので困ってしまいます。 「phosphorescence」は読み手からしたらちょっとレスがつけにくい作品だろうなとは思います。 簡単なものでいいですから、お暇な時にでも軽くコメントしていただければ嬉しいです。どうもありがとうございました。 (セパレータ)

2017-03-15

もとこさんこんばんは。コメントありがとうございます。 夢遊病はストレスが原因で発症することが多く、ほとんどが大人になるにつれて自然と完治するそうですね。昔テレビで夢遊病の特集を観たことがあって、たしか真夜中にふらふらと散歩に出かける女性の話だったのですが、女性の旦那さんが「妻は意識がないのにきちんと化粧や着替えなど外出する支度を済ませてから出かけるんです」というようなことを言っておられたのがすごく印象に残っています。 >この詩において、風景は常に闇の中にあります。真夜中の部屋、夜の山道、暗室。 夜明けからはじまりましたから、やはりおわるときも夜明けが自然なのかなと思いこうなりました。基本的に私は夜型の生活をしているのでその影響もあるのかなと思います。たまの休日に昼間から外出したりすると日光のあまりの眩しさに目がくらんでしまってそのまま溶けてしまいそうになるので、おそらく私の前前前世は蛞蝓や椎茸であったに違いないと推察しています。 花緒さんこんばんは。コメントありがとうございます。 今作は前作に比べてしっちゃかめっちゃかしてますので、どう読まれるのだろうというのが非常に気になっていました。 皆さんからのレスは作者にとっても大いに参考になるのでとてもありがたいです。 >詩想と断絶が生じた状態から、詩想が蘇るまでの一連の流れを記述した、ビルディングスロマンのような構造が読み取れるように思いました。 おそらくメタ詩として読む方もそうでない方もいるとは思うのですが、どちらで読んだとしても無理なく読める作品であれたらなと思います。個人的に、花緒さんはそのあたりの距離のとりかたが巧い書き手だという印象がありますね。 (phosphorescence)

2017-03-14

5or6さんはじめまして。気づかずに返信が遅くなってしまって申し訳ありません。 仰ることよくわかります。私もカツカレーとか好きです。しかしここ何年も食べておらず、あのいかにも体に悪そうなカロリーの塊が恋しいと感じる時もありますね。自分でそういうものを調理できたらいいんでしょうけど、まだまだそこまでの腕前はなさそうなので、とりあえずありあわせのサラダや漬物を量産し続けているような状態なのかもしれません。 (セパレータ)

2017-03-14

右肩さん、こんにちは。コメントありがとうございます。 >これは言葉と世界、あるいは実体との関係を示したもの、その解説書のように読めましたが、いかがでしょうか。 私たちがなにかを喩えるとき、言葉を尽くして事物を理解し形容しようとすればするほどに本質から遠のき、書きおろされたものは最早虚飾ばかりの形骸でしかないのではないか、そう思いつつも尚書いてしまうのは一種の病のようなもので、ならばいっそ開き直って、右肩さんの言を借りるならば世界、実体とのあいだにある断絶にも耐えうるような言葉を書いていきたいと、最近はそう考えています。今作においてそれがどの程度成功しているのかは分かりませんが、そういった思想が話者の眼差しとしてあらわれているというのはあるだろうなと思いました。 儒教において雨乞いに携わる巫女は雨乞いの儀式よりもむしろ葬儀を執り行うことで生計を立てていたようですね。もともとシャーマニズムやアニミズムは日本に深く根差した文化でもありますし、歴史において祈りや信仰といったものがどれだけ史実に力を及ぼしてきたかを考えれば、祈祷が雨を降らせるくらいのことをやってのけても何ら不思議ではないと思います。あるいは錯覚し、錯覚させる共同の幻想の中にどうしようもなくどうしようもない言葉が生まれる瞬間へと目を向けていきたい。それが目下の理想なのかもしれません。上手く伝えられなくて申し訳ないです。 そういえば、吉増剛造も恐山へイタコに会いに行って感銘を受けたというような話をどこかでしていましたね。機会があれば自分も話を聞いてみたいところですが、これまで一人旅をしてまともに目的地にたどり着けたためしがないので、きっと私は詩の書き方よりも地図の読み方を覚えるべきなのだと思います。 (phosphorescence)

2017-03-13

●ピンクパーカーさん こんにちは、コメントありがとうございます。 そうですね、書くべくして書いていたいとは常々思っています。しかし、伝えたい気持ちが強くあらわれればあらわれるほど詩というものから遠ざかっていくような気がして、どうしても漏れてしまうものをどうにかうまく隠そうとあがいている、というのが一番近いかもしれません。 (セパレータ)

2017-03-11

●すずらんさん こんにちは、コメントありがとうございます。 詩作にあたっては可読性を一番大切にするようにしています。 やはり人様に作品を読んでもらう以上、読みやすさは考える必要があると思います。 さらに理想を言えば、「読めなくても読めるような作品でありたい」あるいは「読み取らせなくても読み取れるような作品でありたい」というのが詩作における個人的な命題です。 いただいたコメントを見るに、今作においてのみ言えば課題はそこそこクリアできているようなのでひとまずは安心しています。 >教室のごみ箱への「廃棄」に立ち会う、さながら感性の共犯(ッテ、ヘンカナ?)者 >むしろ自分のとは異質な他の感性たちをもたらしている存在への認識なのかなと思いました。 たとえば読まれることを意識して抒情詩が書かれるとき、そこには作品に落とし込もうとする書き手の手つきがあって、おそらくそれは純粋な叙情とは反発しあうものだと思うんです。作為的とでも言い換えましょうか。 かたられるとき語り手は既に当事者ではなく、伝えようとするほどに感傷は脚色されていく。 書くという行為においては誰もが傍観者であり、他者なのではないか。 そういう一種の懐疑心のようなものが語りに根ざしているのだと思います。 こちらこそいつもいつも評をいただいてとても感謝しています。ありがとうございました。 ●kaz.くん こんにちは、コメントありがとう。 クロマトグラフィーはグラデーションが美しいので好きです。カラムクロマトグラフィーはちょっと汚い気もするけれど。 1Q84はあまりにも話題だったので読んでみたのですが、春樹作品の中でもそれほど良くない(寧ろぱっとしない)気がしたし、あれほど大衆に受けるような作品だとも思わなかったのでうーむという感じでした。(ちなみに私は世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドが好きです。) 紙媒体に投稿したときに自分の詩がどのように映えるのかというのはたしかに気になるところです。個人的にはあまり親和性が高くなさそうなのですがどうなんでしょうね。 ●まりもさん こんにちは、コメントありがとうございます。 読みやすいと言っていただけてとても嬉しく思います。 すずらんさんへの返信でも触れたとおり、なにかを語るときの懐疑というものがおそらく視点としてあらわれているのだと思います。 そういうよそよそしさが語り手を神様たらしめているのかもしれません。 それから個人的には、泣きたいときに大声をあげて泣くというのもひとつの立派な技術だと思います。今の私が見失いつつあるもののひとつです。 (セパレータ)

2017-03-10

hyakkinnさんこんばんは。コメントありがとうございます。 >弁当という偽物感がえげつない。それが二連目の人形に繋がっていく為の、説得する材料に繋がっていく。ゴミ箱を弁当箱に変える。それは作り物のイメージと呼応しながら、箱を区切られた箱に変換してタイトルと呼応させる。 私たちが抱えこめる容量は限られていますから、生きるうえでかさばってくる様々なものをいつかは取捨選択する必要がありますし、何かに関心を持つということは同時に他に無関心になることでもあります。 弁当箱に入っているのがどんなに美味しいものであろうと、食欲のない(食に関心のない)人間にとってはごみ箱も弁当箱も大差ないのではないかと思います。 >この作品に込められた表現を理解するには二連目以降の僕にとっては説明的な叙述が絶対に必要。でも一連目で僕は満足してしまった。だからある意味一連目で僕の読書は終わってしまった。そういう発見が弁当箱にあるなんて、今まで思いもよらなかったから。感動した。この着眼はすごい。 2聯目以降が説明的であるというご指摘はとても良くわかります。 私も詩作の段階で少し冗長すぎるかなと感じたのですが、詩を読む/読まれる場からすっかり遠のいておりましたので、どう読まれるのかということがすっかりわからなくなってしまったのでした。 きっとhyakkinnさんとしては批判的な意味でこのコメントをなさったわけではないのだとは思うのですが、個人的な価値基準としては「説明的な叙述」という言葉で片付けられてしまう詩というのはやはり弱いので、ここは改善の必要があるなと感じました。 澤さんこんばんは。コメントありがとうございます。 ぶっ飛んだ解釈で作者の度肝を抜くことに定評のある(当社調べ)澤さん、しかしながら今回いただいた評は私としてもうんうんと頷かされるようなものが多くて少し驚いたりもしたのですが、これはおそらくこの詩が説明的でありすぎることの証左でしょうね。 褒めてくださってはいるものの澤さんにとってはきっとあまり良い読書ではなかったのではないかと思います。 それでもこんなに丁寧な批評をくださったことには感謝しかありません。その労に報いるためにも、次はもっと解釈に幅のあるような作品を書いてみようと思います。 (セパレータ)

2017-03-07

三浦果実さんこんばんは。 個人的には詩作品において「神様」と書かれたとき、そこにはもう「神様」という詩句しか残っていないんじゃないかと思ったりもするのですが、どう間接的にアプローチしてもたいていただの形式にしかならないのが書くという行為の苦しくていじらしいところですね。描くというよりは自ずと描かれるくらいのほうが今の私にはちょうどいいのかもしれません。 みなさんが次々と観たことのない映画を紹介してくださるので、自分の浅学さをあらためて痛感し震えています。そちらの映画も今度観てみますね。コメントありがとうございました。 花緒さんこんばんは。 子供はときに私たちの想像を遥かに凌駕する残忍性を発揮しますよね。いつ加害者が被害者になるかわからないという現実もより彼らの攻撃性を煽っている気がしますし、大人社会よりもよっぽどシビアで非情であるように思えますね。コメントありがとうございました。 (セパレータ)

2017-03-06

もとこさんこんにちは。コメントありがとうございます。 自分の詩作品というのはなかなか客観視出来ないものですから、他人からの評というのはとても勉強になります。 私もどちらかと言えば茶碗の米粒は一粒も残さずに食べる方ですが、私の場合はマナーとしてというより、与えられるものはすべて受け取ったほうが得じゃん、という打算的な性格からくるものであるような気がします。押井守監督のイノセンス、今度観てみますね。 そういえば京都の丸善、営業再開したそうですね。カフェスペースでレモン料理が味わえるとのことですが梶井的にはどんな心境なんでしょう。ちょっと聞いてみたくはあります。 (セパレータ)

2017-03-04

はじめましてこんにちは。 昔近所の商店街にお爺さんが経営してる小さな駄菓子屋があって、そこでよく駄菓子を買っていたことを思い出しました。当時スーパーボールを集めるのがうちの小学校では流行っていたのでなけなしのお金でクジを引きまくったのですが、1ヶ月ほど経ったある日突然、なんで自分はこんなただの跳ねる玉にお金を浪費しているのだろう、という思いに至りそのまますべてゴミ袋に消えました。 ちなみに私も途中から吾郎くんとヒロくんしか連想できなくなってとても困りました。 自動筆記に勝つことの出来なかった人類によって教科書に載る文章の大半は人工知能が書くことになったので作者の意図を問う問題は消えてしまったんだよ吾郎くん 冒頭にこう述べつつも文章の端々から漏れる寂寥感がいいですね。音読向けの作品なのかなあと思いつつも雨の意図→糸の雨や踏切の信号→神さまの言うとおりなどの表現はなるほどなあと思いました。声に出して読んでみるとまた違った印象になりそうですね。 (み)

2017-03-04