コーヒーを飲み終えられたベルゼバブさまは、机の上に置かれたアルコールランプを手元に引き寄せられると、指を鳴らして、火花を発して火を灯されました。すると、ベルゼバブさまの前に坐らされておりました老人が、ビクンッと躯をふるわせて、そのゆらゆらと揺れ動くアルコールランプの炎に目をやりました。はじめてアルコールランプといったものを目にしたのでしょうか、ほんに、その眼差しは、狂った者の、恍惚とした眼差しでございました。ベルゼバブさまは、しばらくのあいだ、その老人の顔を眺めておられましたが、白衣のポケットから、折り畳まれたハンカチを取り出されると、それでスプーンの柄を持たれて、アルコールランプの炎の中に、スプーンの先を入れられました。スプーンの先は、たちまち炭がついて黒くなりました。ベルゼバブさまは、たびたび手を返されて、ふくらんだ方も、へこんだ方も、丹念にスプーンの先を熱せられました。そうして、ベルゼバブさまは、充分に熱せられたスプーンの先を、呆けた眼差しをアルコールランプの炎に投げつづける狂った老人の額の上に押し当てられたのでございます。すると、ギャッという叫び声とともに、老人の躯が椅子の上で跳ね上がり、寄り目がちの双つの眼がさらに寄って、瞬時に充血して、真っ赤になりました。狂った老人は、顔を伏せて、自分の額を両の手で覆うようにしてふるえておりました。ベルゼバブさまは、ふたたびスプーンの先を丹念に熱せられると、こんどは、それを老人のうなじに押し当てられたのでございます。老人は、グアーッという、獣じみた声を発して床の上に這いつくばりました。ベルゼバブさまは、その様子を飽かずに眺めておられましたが、わっしらもまた前脚をこすりながら、手術台の上に横たえられた女の死骸の上から、その這いつくばった老人の背中を見下ろしておりました。それは、毛をむしり取られ、傷だらけにされて群れから追い出された老いぼれ猿のように、まことに醜く無惨な姿でございました。ベルゼバブさまが、このような老いぼれ猿の姿をごらんになられて、いったい、どのようなお歌をおつくりになられるのか、ほんに、楽しみなことでございます。あれは、いつのことでありましたでしょうなあ。わっしらがむさぼり喰らうこの女が絶命し、ベルゼバブさまが、この女の胎の内から血まみれの赤ん坊の肢体を引きずり出されたのは。そうして、ベルゼバブさまは、その赤ん坊の首を、まるで果実を枝からもぎ取られるようにして引きちぎられると、ぐらぐらと煮え立つ鍋の中に放り投げられました。すると、その赤ん坊の首が、激しく沸騰する熱湯の中で微笑みを浮かべて、ゆらゆらと揺れておるのでございました。あのとき、ベルゼバブさまが、わっしらの前で詠まれたお歌は、ほんに、すばらしいものでございました。
ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも(『赤光』)
いえいえ、もちろん、このお歌ばかりではございません。斎藤茂吉のお名前でおつくりになられた、どのお歌も、まことにすばらしいものでございます。仮のお宿のひとつになさっておられる、この気狂い病院で、ベルゼバブさまは、ほんに、たんとの、すばらしいお歌をおつくりになられました。
狂人に親しみてより幾年いくとせか人見んは憂き夏さりにけり(『あらたま』)
みやこべにおきて来きたりし受持の狂者おもへば心いそぐも(『あらたま』)
きちがひの遊歩いうほがへりのむらがりのひとり掌てを合す水に向きつつ(『あらたま』)
ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終つひにかへり見ずけり(『赤光』)
けふもまた病室に来てうらわかき狂ひをみなにものをこそ言へ(『あらたま』)
暁にはや近からし目の下もとにつくづくと狂者のいのち終る(『あらたま』)
ものぐるひの屍かばね解剖かいぼうの最中もなかにて溜たまりかねたる汗おつるなり(『あらたま』)
有り難いことに、使い魔たる、わっしら、蠅どものことをも、ベルゼバブさまは、たんと、たんと、お歌に詠んでくださっておられます。
留守居して一人し居れば青あを光ひかる蠅のあゆみをおもひ無なに見し(『あらたま』)
汗いでてなほ目ざめゐる夜は暗しうつつは深し蠅の飛ぶおと(『あらたま』)
ひたぶるに暗黒を飛ぶ蠅ひとつ障子しやうじにあたる音ぞきこゆる(『あらたま』)
あづまねのみねの石はら真日まひてれるけだもの糞ぐそに蠅ひとつをり(『あらたま』)
ベルゼバブさまは、手を伸ばされると、気の狂った老人の頭をつまみ上げられて、壁に叩きつけられました。ゴンッという、大きな鈍い音とともに壁が揺れ、干からびた猿のような老人の死骸が床の上に落ちました。老人は声を上げる間もなく、絶命しておりました。治療室の白い壁の上に、血まみれの毛髪と肉片が貼りついておりました。ベルゼバブさまは、立ち上がられて壁のすぐそばまで寄って行かれると、その壁面の模様を、しばしのあいだ眺めておられましたが、突然、なにかを思いつかれたかのように、その壁面を指さして、机のある方に向かって歩き出されました。それで、わっしらは、その合図にしたがって、切り刻まれた女の死骸から離れて、血まみれの壁の方へと向かって、飛び立ったのでございます。
注:引用された短歌はすべて斎藤茂吉のものである。
作品データ
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作成日時 2025-01-01
コメント日時 2025-01-07
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2025/01/08現在) |
叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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2025/01/08 08時53分57秒現在
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面白いです!思ったのですがやはり美醜ってあるな、と。というのも最近の特にサブカルに限った話にはなるのですが、どこみても美男美女じゃなきゃダメなんです。いわばかつてあった「美醜」という言葉はいまは形変わって「美 」つまりこの世は「美」あるいは「無」であると。昔の漫画アニメにはたとえばサイボーグ009でしたら火を吹くおじさんのキャラがいて、いわゆる三枚目ですが、最近は……ドラえもんのジャイアンが暴力を控えるような時代、クレヨンしんちゃんでしんちゃんがお尻を出さない時代になった……?水木しげるの漫画に出てくるメフィストフェレスが絶対零度!とかいって妖怪を凍らせたりするのも私は好きですが、やはり、時代はフリーレン様なのかなと。それも良いことだと思うのですが、でも、世の中にあるものってありますよね、ないものも想像したらありますよねって最近漠然と思っており…… とりとめがなく恐れ入ります。斎藤茂吉さんについて知らなかったので、調べてみたいた思います。
0いすきさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
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