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ちょっと真面目に「田中宏輔」を読む
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=383424 「Sat In Your Lap。I/田中宏輔」 語り手(=田中宏輔さんだろうと思われる)はある映画を見て あるフレーズが印象的だった、と述べる。それは 《俺は人間であることにうんざりしている》 というセリフだった。 そこで彼はそれがかつて読んだ詩の一節から引用されていることに 気づく。 語り手は、このフレーズに触発されて想像を広げていき、 "犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうか"と 自問する。 そして、こう推論する。 "もしも、犬に魂があるのなら犬もまた、自分が犬であることにう んざりするということもあるのかもしれない" 冒頭からこの推測に至るまでの過程を眺めていて、 わたしは、語り手である頭の良い詩人の致命的な欠陥を発見した ような気になった。 このような推論の過程は、わたしにいわせると出口も入口もない断 絶の思考なのである。 地に伸ばす根がなく、また、天上につなげるロープもない。 孤絶した脳髄の中で自律的に浮かんでは消える泡の玉を連想させる思 考の形式である。 このような状態の意識の在り方は行き場のない孤絶地獄ともいえるし、 誰からも邪魔されない享楽の戯作三昧の天国ともいえる。 引用された詩において語り手の「俺」は"人間にうんざりしている"と は語るが、"自分にうんざりしている"とはいわない。 自分にではなく彼は、人間にうんざりしているのだ。 〈おれ〉という自意識は否定されていない。 わたしの場合はそれとは逆で自分にうんざりしている。「わたし」を ずいぶん長くやっているが、いい加減もう降りたく思っている。しかし人間に うんざりはしていない。ハエやうさぎやニワトリになりたくないもの。 わたしの場合は人間にうんざりしてはいないけど自分にうんざりしているのである。 引用された詩の語り手はわたしとは逆で人間にうんざりする。 自分の爪も足も影もいやだといいながら、〈自分〉は安泰で、その自意識が 人間とは別のものの上にあればいいと願っている。 ここがどうもおかしく感じるのだ。 彼は人間にうんざりしているのではなく、自分がその中に投げ出されている システム(共同幻想=社会)の中で、 人間として疎外されていることに不安を覚えているのである。つまり 自分がもしそのシステムに掬い取られている存在なら文句はないかも しれない。 その意味で、自分が自分であることにうんざりしていない”人間嫌い”は、 ほんとうのところ人間にうんざりしているとはいえないのではないか。 ほんとうに人間にうんざりしている人は自分にもうんざりしており、 そして当然、それならばさっさと自裁して今頃この世にはいないの である。(わたしはバカだからまだ生きているが) 引用されたネルーダの詩の全文を読むと、ああ、いつもの自己愛過剰な詩人 全般に特有のナルシズムと唯我独尊の近視眼的な世界観に満ちているなあと感じる。 詩の内実を検証する限りではパブロ・ネルーダの詩の語り手(たぶん ネルーダ本人)は思いのままにならない世間にうんざりしているだけなのだ。 もっともこんなことをいうためにこの感想文を書いたのではない。 自閉された言葉の問題を提起したいのだ。 語り手(たぶん田中宏輔さん)が、 犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうか というつまらない想念を抱くのは、 語り手が、言葉を国語辞典の字義どおりにとらえているからである。 批評文や思想書や一部の詩歌ならならそれでいいかもしれないけど、 書き手が本を閉じて、机から離れ、 たとえば居酒屋の手伝いをしにバイトに入った場合、 現実のリアルな社会では、批評文や思想書、一部の詩歌と違って 言葉は字義通りに語られることはない。 例えば田中さんが、居酒屋のバイトでミスをしたとする。 店長とは知り合いでその関係から店のバイトに雇われているという場合、 店長がミスをした田中さんに「バカだなあ」と言ったとする。 これ、字義通りに「バカ」といったのではない。現実の世界ではほと んどの場合、字義通りには解釈できない。 この場合は「バカだなあ」という声かけには初心者への心配と不器用な 友だちへの愛情のようなものが示されている。 ところがどうも田中広輔さんは、生真面目にも字義通りに解釈すること がありそうに思えるのである。 パブロ・ネルーダが自分の分身のような語り手に "俺は人間であることにうんざりしている" と語らせたとき、 田中宏輔さんは言葉の意味を深く探らず このフレーズをそのまま字義通り受取り次のような 滑稽な推論が生まれるのである。 もしも、犬に魂があるのなら、魂を持っているものは感じる ことができるのだし、また考えることもできるのであろうから、 犬もまた、自分が犬であることにうんざりするということも あるのかもしれない 仮に魂が犬に山ほどあって、感じることが出来て、その上、考える能力が あったとしても、それがミミズであろうと兎であろうとも、 犬が自分が犬であることにうんざりすることなどありえない。 なぜなら、 ある存在様式に「うんざり」するということは共同観念=社会集団からの 疎外意識を意味するからです。 犬が自分の存在様式にうんざりするためには魂じゃなく共同幻想= 社会性を意識の内にもっていなければならない。 しかし犬には共同幻想=社会性はない。なぜなら犬に共同幻想=社会性が あれば犬は指示性をもつ言語を語っているはずだからです。 つまり言葉を持つはずだからです。 猿やライオンの群れのように一種の社会性を持つような動物はいる。 でもこれは動物の本能的な生態に人間が勝手に自分たちの共同性のイメージを 投射して社会性をもつようにみているだけの話です。 実際はライオンたちはインプットされた本能に従っているだけで選択している わけじゃない。 ところが、困ったことに、 リアルな現実から離れた人間の机上の観念はとどまるところがなく 犬もまた「自分が犬であることにうんざりすることもある」と推論することができる のです。 観念=幻想は理路の外へいくらでも羽を広げることができるからです。 しかしそれはどこにあっても地に根を持たないし天上にも繋がらない、完全な 観念上の架空の物語にすぎない。 ここに来て語り手は少し冷静になる。 犬を見ている人間が、自分の気持ちをその犬に仮託して、犬が 犬であることにうんざりしているように見えることならば、あ ると思われる これなら普通にあることです。例えば芭蕉の句。 行く春や鳥啼き魚の目は涙 魚の目に涙。これは芭蕉の哲学と感情が魚に仮託されている。 これならわかる。人間はそうやって詩歌を歌ってきた。 しかし進む方向を訂正したかに見えた田中宏輔さんは またとんでもないところに迷い込んでいく。机上の観念の危うさがどんど ん露わになる。 しかし、そう見えるためには 自分の魂とその犬の魂の一部分が共存する領域を設けなければ ならないと思われるのだが、そういうふうに思われないだろうか。 自分の魂と犬の魂が共存する領域なんてありえないのです。 前にもいったように犬には共同幻想がない。つまり言語がないからです。 だから共存といったところでどこまでいっても自分の気持ちを一方的に相手 に押し付けているだけです。そのような想像は地に根を張ることもできないし 天上に繋がることも出来ない、観念の空間に泡のように浮かんだ幻想にすぎ ないのです。 ふくろう喫茶なんてのが一時話題になりましたが、動物学者にいわせると 客はたましいの触れ合いと勝手に考えて愉しいかもしれないけど、ふくろうは 絶えず極限的な恐怖に襲われて疲労困憊していると推測できるそうです。 じっさいふくろう喫茶のふくろはバタバタ死んでいく。 人間の癒やしの押し付けなんて猛禽類からすれば地獄です。 これは一見くつろいでみえる猫喫茶なんかもそうです。猫はおっとりとくつ ろいで客とたましいの交換なんかしてません。人間がかってにそういうものを 押し付けているだけです。猫はとにかく腹が空いているだけです。人間の存在は 餌をくれるとき以外は多分うざいだけなんです。 犬が人間になつくのは、犬の生存様式がそのような本能としてインプットされて いるだけで、別に(ほんとうに)人間になついているわけではないのです。 犬が生きていけるために本能的にそうふるまうようにインプットされている。 ふくろう、猫、犬のどの場合でも人間の自分勝手な妄想が一方的に相手に投射 されて得て勝手な物語をつくっているのです。 身も蓋もない言い方に見えるかもしれませんが、幻想を捨てることが 動物たちの人権?を守ることになるのじゃないかな。 そのことを踏まえないで、それを忘れて、想念だけが一人走りしてしまうこと を世間ではカルトといいますが、詩は何でもありの自由自在とはいえそうい うカルトとは正反対のものなんです、実際は。 わたしが求め考える詩はちゃんと地に根を下ろし、天上にも繋がり得るよう な生きた言葉です。 最近の高学歴のインテリさんたちは受験システムの影響か、どんどん頭の中 が泡だらけになって地上と天上を見失っている。 その影響が文学だけでなく政治や経済などあらゆる分野に及んでいます。 田中広輔さんのこの詩、後半はもうカルトそのもので、最後に紹介された 外国の詩人の素晴らしい詩 ゲーテやエマソンやユーゴ、ホイットマンの詩が田中さんの散文詩を 華麗に装ってくれていますが、わたしは論理的には、あまり関連性を 感じませんでした。でも、こういった詩がなぜかそこに置かれただけで 散文はなにやら詩らしい雰囲気を持つものです。そこが詩の面白いところ ですが、同時に、もっとも危ういところでもあると思います。 これまでの考察から考えるのですが、 田中宏輔さんのような天才的な感性と抜群の頭脳をそなえた方ですら 実際には言語や外部世界の構造についてちゃんと考えたことがない。 だからこんな散文批評詩を書いてしまう。 それが前から非常にくやしいというか哀しいというか、どうして今どきの 詩人たちはこうもダメなんだと地団駄踏んでしまうところなのです。 彼らがもう少し世界を俯瞰的に眺める思想的基礎を持っていたら 今のウクライナ戦争だって、欧米の巨大寡占資本が仕組んだことであるくらい すぐにわかることなのに、日本現代詩人会は 「プーチンの不条理」のせいにしている。 どうしてこういう阿呆に陥るかと言うと今の詩人が世界認識の方法を持たないからです。 だから詩人はいつの時代でも愚鈍でありつづける。 先の大戦への反省のもと一部の戦後詩人はたいへんな努力をしてその方法をみつけようと 必死で努力してきた。それが今やパーです。何一つ受け継がれていない。 せいぜい長谷川俊太郎あたりの、世界認識が欠落した感性詩に浮かれるのが関の山です。 呆れ果ててます。
ちょっと真面目に「田中宏輔」を読む ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 544.9
お気に入り数: 0
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ポイント数 : 0
作成日時 2024-06-09
コメント日時 2024-06-09
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
とりあえず、匿名で覆面被って誰かの批評をするあなた自身が、 自分を客体視できていないのは明白なので、批評ももへったくれも無さすぎて麦 誰だあんた?
2ぼくには言葉をそのままの字義通りに解釈する直解主義的なところがあります。ピアノが落ちると書いてあると、それが比喩ではなく、言葉通りに、ピアノが落ちる映像を浮かべてしまいます。それと、言葉と戯れるという傾向があります。あまり物事を深く考える性質ではないようです。軽いという意味になるかなと思います。他者に対する態度が軽率です。 いま週に3日か、4日ほど、焼き鳥屋さんでバイトをしているのですが、不注意なので、よく叱られます。焼き鳥屋の主人とは友人関係でした。でしたというのは、このあいだ、友人関係やないのだから、しっかりしてくれないと困ると言われたからですが、こう言われると、そうか、経営者と従業員という関係に移行してしまったんだなと思ったのでした。 ぼくの拙い作品について書いてくださって、ありがとうございます。 自分の軽さについて、ちょっとうれしいなと思うところもあって、そういうところがいけないところなんでしょうね。ぼくは軽薄な書き手です。
2ちなみに、語り手は、田中宏輔という詩人の友人ということになっています。田中宏輔という詩人の遺構を使って書いたものというわけです。序文が抜けていたことに気がついて、あとで序文を投稿しました。
1こんにちわ。 語り手は田中宏輔さんの友人で田中さんの遺構を使って書いたという設定だったのですか。 書く方としては面白い設定ですね。わたしにそれが読めていればまた違った感想になった だろうか、首をかしげて考えています。 コメントありがとうございます。
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