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愛よりもやさしく
familyレストランの広い座席に ひとりで腰かけて夜の窓をみながら オレはほんとうのようなウソをつくために ホール係がくるのをまつ 高校を中退したような感じの ちょうどオレに似合った好みの 姉ちゃんがやってくる パスタが好きなのにカツ丼を注文し 今来るからねと 空いた席を指でさす 前の席は幼児二人と両親らしき人たち 後ろの席は三人姉妹と両親と祖父らしき人たちでにぎわう familyレストランにいて おれは前屈みに 哀しそうに額に手をつく この町の女はみな 世を拗ねた男が好きであってほしい と期待しながら 女性の髪が風になびいている イラストを描いていると 女性のホールスタッフがこっそり 声をかけてくる 「凄くうまい」 「これ、あんたをみて描いたんだよ」 「ウソ。あたしこんなに綺麗じゃない」 おれは この女性をね 家の中にこもった空気を心配するばかりの やさしい言葉から 解放してやりたいと思ったんだよね 愛なんてね そんな 憎しみだけの思い出なんかいらない ほら、ごらん 道の向こうの 商店街の廃れた文房具屋だって 打ち壊された武家屋敷のような銭湯だって たのしい思い出だけが残っている 道路の向こうの 汚泥のような小川にだってホタルが飛んでいたかもしれない いっしょに見に行かないか? なんて季節外れのウソ話などして 結局だれもおれの席に来ないfamilyレストランを あとにする
愛よりもやさしく ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 700.5
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2024-01-17
コメント日時 2024-01-18
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
アスファルト道路をしつこく掘り返すような 愛を問う行為を わたしも昔した記憶がありますが 「愛よりもやさしく」 アスファルト道路の端っこにところどころ咲く野花が 目にしみる昨今です。 それにしても ファミリーレストランて 残酷でしたね。 注文をとる女性 周りの家族連れ 自分の人生 何に対して演じているのか わからなくなっていくようなペーソスがありました 自分だけが見ていた惨めな時間が 時を経て光を発する と詩を書くようになって実感します それを財宝にするか否かの秘密がある と感じさせてもらえる詩でした。 ♢ ♢ ♢ 他サイトでも読ませていただいてます。 ユーモアて真剣がもたらすんだなあ・・・ とか 「偽善」が残す味わいてあるよね・・・ とか またお願いしますね。
1さりげなく、比喩、修辞力が抜きん出ていらっしゃると感受を致しました。 >打ち壊された武家屋敷のような銭湯 この一行で、此処迄風景描写を泛びあがらしめる手腕は、只者ではないと思いました次第でございます。 虚の様な実、実の様な虚が顕ち上がる、佳作であるとも。
1お読み下さりありがとうございます。 明治期にキリスト教が入ってきてloveという 単語に中国語の「愛」をあてたと聞いています。 中国語の「愛」にはもともと"偏執"という意味 があり語源的にあまりいい言葉じゃないのです。 日本には「まごころ」という言葉がありますが わたしは「愛」より「まごころ」という言葉が 好きなんです。 ハンナ・アーレントがという人が いますが彼女の語る愛というのはキリストとの関係性で あって汎神的な愛ではない。つまり「愛」というのは 日本的な「まごころ」とは違って非常に選別的で エゴイスティックなものなんです。 だからガザのような悲劇も起きるとわたしは考えて います。 そういう殺戮の源になるようなものがひそむ「愛」ではなく 日本的な「まごころ」、汎神的なやさしさ、そういう ものが今必要なんじゃないかと思っていた矢先、 なにか批評的な投稿をしたかったのですが それをすると「罵倒家」と糾弾されかねない。 そこで昔の書き物を探していたらこんなものを書いていたな というのがあり投稿しました。 いまでは何でこんなものを書いたのかよくわからないのですが とにかく自分で書いておきながらタイトルが気にいって 投稿させて頂きました。
0お読み下さりありがとうございます。 手練れの目利きに なにか過分に評価していただき正直 尻がこそばゆいです。 愛という言葉へ過剰反応をしてしまったかな と少し反省しております。
1椿、鷹枕可各位さまへ なぜかイイネがつけられないので これをもってイイネの代わりとさせていただきます。 ありがとうございました。
1予想を気持ちよく裏切ってくる詩 家族連れではないのに、「familyレストラン」に入るところから、彼女をの絵を描いていたというウソをつくところなど、色々なものを騙しながら生きる彼に寄り添うように読むと、彼は最後に読み手のことまで騙してくる。 「結局だれもおれの席に来ない」 ホール係も本当は来ていなかったかもしれない。彼の絵だけが寂しく浮き彫りになってくる。ウソによって突き放されたはずの私たちだが、レストランをあとにする彼の背中に視線を奪われたまま、また私たちも一人でドリンクを啜る「familyレストラン」の一人の客として取り残される。 またこの街のどこかで会えるだろうか、と思い耽るほど、没入してしまう詩でした。
1世を拗ねたひとが、博愛のような気持ちをもつということは、あることだと思います。 Familyを愛する差別、それを高みから見下ろして。でも全部、自業自得ですね。 誰よりもやさしくあってほしい。
1お読み下さりありがとうございます。 この詩を昔なぜ書いたのかまだ思い出せないのですが...... ドラマチックともいえるコメントを読んでいる うちになんとなく仰るようなことだったのかと 思われてきました。 一度和歌山の山のほうにある辺鄙な飲み屋街に 迷い込んだことがあります。 「まごころ」という看板の居酒屋がひそむように 灯をともしていて、 看板に惹かれて入ると、田舎のおばさん一人という 自宅をちょっと改造したようなお店でした。 ビールとつまみだけ頼んで1万円近くぼったくられた んです。......でもそれが「まごころ」だったのかと思って、 又そのお店に飲みにいったことがあります。 よくわからないんですけどね自分の気持ちが。 愛でも恋でもまごころでもいいのですけど なんかそんな立派でも壮大なものでもなく ちょっと違うものじゃないかというような気が しないでもないそういう気持ちがあったのかも しれません。
1お読み下さりありがとうございます。 断定的なご指摘なので論理の経路がよく掴めない ません 申し訳ありません。
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