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哀しみの眼で詩を読む
哀しみの眼で 詩を読む 詩句のひとつひとつが 胸に突き刺さる その痛みは 己の力では生み出せぬ 美しきことばへの痛み 届かぬ高みへ 触れようと試みて落ちた 己の非力さ故に 私が生み出す拙い言葉は 己自身への棘となり 深くこの胸に突き刺さる その痛みは 何処へゆくのか カフェのディスプレイを 照らす明かりが 雑踏の中へと散るように 太古を歩いた恐竜の 数多遺された足跡が 地中深く埋もれるように 何の跡形も知られず 消えてゆくのか ある詩人はいう ことばとは けっして言葉にできない思いが ここにあると指すものだと ならばこの痛みを 拙い言葉に落とすこと 言葉にできぬ痛みが ここにあると指し示すこと それだけが 己自身の非力さへの せめてもの抗い 痛みに薄れようとする 己という存在への か細く儚い命綱 哀しみの眼で 詩を読む その哀しみは 決して忘れてはならない 寂寥に埋もれた心の色 明日へと己を繋ぐ 仄かな光
哀しみの眼で詩を読む ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1994.5
お気に入り数: 2
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2023-07-13
コメント日時 2023-08-19
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
この詩は 拙い詩 なのかもしれません。 ただ、拙いと言うにはなんとも 力強く、静かな印象を受けました。 作者があなたでなければ 心に響かなかったかもしれませんから 評としては不正確なところがあるかもしれませんが そのように受け取りました^ ^
1コメントをありがとうございます。 こういうタイプの詩は言わば「楽屋落ち」的で、詩を書く人にしかわからない、との批評を受けたことがあったのですが、このサイトならわかってくれる人がいるのではないかと思い、投稿してみました。 ある意味本筋から外れた詩なのかもしれませんが、 「ただ、拙いと言うにはなんとも 力強く、静かな印象を受けました。」 と受け取っていただき嬉しく思います。 ありがとうございました。
0なるほど、楽屋落ちというのは正しい表現だと思います。 詩を批評する側からするとやるなら詩で語れ、わざわざ表に出すな、と言うことですよね。
1いま、感じられている事を描写されているのだと想う。 改行について、、 どのポイントで改行するか、詩の質に影響すると思う、 最終行の「仄かな光」 作品を照らし返す、反射光のようです。
1コメントをありがとうございます。 改行についてはいつも頭を悩ませます。 どこで改行すれば一番美しくなるか、一番読み手に伝わりやすいか、考えれば考えるほどわからなくなってくることがよくあります。 この詩については今見返してみると、少し連を分けすぎたかなと思い始めています。 言葉の表現だけでなく、このような点もまだまだ拙いです。 でも末尾の「仄かな光」を、作品を照らし返す反射光のよう、と受け取っていただき嬉しく思います。 ありがとうございました。
0なんか、ブルースが感じられる作品。鎮魂歌ですよね。痛みってやっぱいろんな人が詩を書くきっかけとしてありますよね。たくさんの詩作品が痛みを読んでくれと欲している。昔から詩の投稿掲示板で読み専、コメ専に徹するのは苦役だと呼ばれている背景には、もう勘弁してよというぐらいに他人の痛みが刺してくるから、いや、刺してくるって比喩はちがう、なんというか、こう、言葉がどんよりと侵食してくる感じですよね。その侵食の波の一つ一つを、本作の言葉を借りていえば「指して」食い止める感じ。コメントを書いてゆく行為ってそうだと思う。鎮魂歌。
1コメントをありがとうございます。 仰る通り、痛みが詩を書くきっかけとなった人は多いようですね。私もその内の一人です。 そのような多くの痛みへの鎮魂歌として、この詩を受け取っていただいたことは、正直なところ想定外でした。 この詩では、詩を書く側から感じたことを表したのですが、詩を書く側でなく、詩を読んでコメントを書く側から観ると、この詩は鎮魂歌なのですね。 コメントを書くこともある意味ひとつの痛みであるならば、そういった視点から何か新しい詩が書けそうな気がします。 新たな視点を提示していただき、ありがとうございました。
0なんだか読んでて落ち着くなと。 こんな世界でこんなストンと言葉を置く事ができるのはtasakiさんだからなのでしょうね。わかりやすくて優しいと私は思いました。
1コメントをありがとうございます。 読んでて落ち着くと仰っていただき嬉しく思います。 このような詩はここの雰囲気に合わないかもと少々不安でしたが、わかりやすくて優しいとのご感想をいただき、ホッとしております。 ありがとうございました。
0ずっと実直にこめを書き続けてらっしゃる方だからこそ、書ける真っ直ぐな詩だなと(私も幾つかこめをいただいてるのに、いつも返せ無い屑でごめんなさい。。。こめいただくの、凄く嬉しく思ってます)痛みに薄れてしまいそうな己の存在を繋ぎとめるために言葉(それがこめであっても詩であっても)を紡ぐ行為、判るなと思いました。拙くても下手でも、私もそんな風に言葉を紡いでる気がします。それが明日に繋がるなら、とても良い。でもきっと、哀しみを忘れてはいけないんだろうな。
1コメントをありがとうございます。 「痛みに薄れてしまいそうな己の存在を繋ぎとめるために言葉(それがこめであっても詩であっても)を紡ぐ行為」 そこに注目していただき、とても嬉しく思います。 この場を借りて一つお願いがあります。 コメントをもらったら返事をしていだだけませんでしょうか。 私も以前はコメントをもらって嬉しい反面、どう返事をしていいのかよくわからず、うまく返事ができませんでした。 でも、返事を書こうとすることが、語句を考え、言葉を紡いでゆくトレーニングにもなると思います。(それでもまだこの程度の詩しか書けていませんが・・・) ですから、まずは一行だけでもいいですから、どうかコメントへの返事を書くようにしてください。お願いします。
0こんにちは。 こういう詩は好きです。草枕で読んだ、美しき極みの歌に悲しさの極みの思い籠るとぞ知れという句を思い出しました。
1コメントをありがとうございます。 気に入っていただき、たいへん嬉しく思います。 また紹介していただいた歌はとても美しいですね。心に残ります。 ありがとうございました。
0なるべく返したいとは思ってますが、絶対に、必ずと言われると、無理ですね。。。私はりあるがぎりぎりで余裕が無いのもあり、こめにれすすることが義務になれば、おそらくびれびゅに投稿しなくなると思います。また、自分のこめんとに必ずれすを求めるのもどうかなと。私は相手に自分の感想を伝えるのが第一で、お返事は来たら嬉しいな、位の気持ちでこめを入れるので。すたんすの違いだと思いますが、申し訳無い。。。 けれど、同時に、 >痛みに薄れようとする >己という存在への >か細く儚い命綱 そうした言葉達であるが故に、自分の思いを込めたものだからこそ、相手に反応して欲しいという気持ちも良く判ります。そうですよね。確約は出来ませんが、なるべく返すように努力します。有難う&すみませんです。
0即興で返詩を。 哀しみの眼で 詩を詠む 釈迦よ その遺された言葉で 多くの御救いがありました 仏如し 先人たちよ この筆先は 貴方たちの力が宿ります 諸仏よ 願わくばお守りを 痛みを感じ痛みを思い それは筆に宿る それでもこの身は 不具合を出して 言葉にならない 書け 描け 足掻け 抗え 届かぬ高みへ 触れようと試みて落ちた 己の力を超えろ その痛みは 何処へ行く 逃がすな これは良い物なのだ 善き物になり得るのだ 誰も捕まえなかった 誰も見いだせなかった それにこの筆先は 追い付いた 我が仏性よ 雑念だらけの頭に宿る 仏よ 顕すべき 汚れた中の 素晴らしき物が 糞尿の中の 宝石同然の 輝きがあるのを 照らしたまえ 新たな仏性が ここに花開きうるのだ 表現できない世界に たどり着く事のできない領域に 行ってしまったとしても 釈迦は 諸仏は そこから帰ってきた 仏性よ 心よ なおも詠もう 善き物が 探せば まだまだあるのだ 哀しみの眼で 詩を詠む 見えた 仄かな 一筋の 光
0コメントをありがとうございます。 この詩の前半はどうやら、「言語道断、不立文字」を表しているように思えました。 そして8連目の 「糞尿の中の 宝石同然の 輝きがあるのを 照らしたまえ」 というところは、雲門禅師が弟子の僧からの「仏とは何か」と問いに一言「乾屎橛」と答えた、という話を連想させます。 それからその後の10連目 「表現できない世界に たどり着く事のできない領域に 行ってしまったとしても 釈迦は 諸仏は そこから帰ってきた」 というところは、十牛図の「入鄽垂手」を彷彿とさせます。 哀しみの眼で詩を読む痛みを、仏教の言葉に表せない最高の真理である「勝義諦」へと導くための贈り物だと見なす読み方は、全く想定外で、高い独創性を感じました。 思わぬ発見でした。 ありがとうございました。 (ミスタップで空白のコメントを送信してしまいました。すみません。)
1実は仏教オタです。一人で勝手に仏教関係の本を読み漁っています。 とは言え大乗仏教にはそこまで詳しくなく、原始仏典を通読しています。 岩波文庫のスッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガは数えきれない程読み返しました。 前半部は今の自分の心情みたいなのを表しまして、「言語道断、不立文字」というのは考えていませんでした。 結果的に近づいていったみたいです。 8連目はどちらかというと、悟りとは泥の中から美しい蓮が咲くようなものという例えがサンユッタニカーヤ(相応部経典)かどこかにあったのを思い出し、日ごろ牛の糞をかき分けているのもありこのような表現になりました。 10連目はマハーパリッニパーナ(涅槃経)の釈迦が涅槃に入られる直前に段々と一度相当高い悟りの境地に至り、そこからまた段階を踏んで戻ってこられたのをイメージしました。 そういえば十牛図もそのような描写がありましたね。 この詩を読むとどうにも自分の作詩の姿勢と仏典を思い起してしまい、即興で書いてみました。 哀しみの眼で詩を読む痛み、というのは慈悲に繋がるように思います。 それなら悟りに通じる行いなのかもしれません。
1コメントをありがとうございます。 仏教でも大乗ではなく原始仏教の方でしたか。失礼致しました。 大乗仏教の中でも禅宗は、比較的原始仏教に近い部分があるように思えますので、このような解釈になったのかもしれません。 ところで、筏の喩えはスッタニパータでしたっけ? 私はその教えが好きです。
0ただただ美しいです。 「決して忘れてはならない 寂寥に埋もれた心の色」 という、最後にそっと置かれたような、静的で美しいイメージが、印象的な絵画のようにして、この胸に迫ってきます。 それにしても、 「ことばとは けっして言葉にできない思いが ここにあると指すものだと」 この箇所にはハッとさせられました。それくらい真摯に、語り手の思いに向き合っているか?と襟元を正されるような思いがいたします。これはまた、言葉を読むときだけの話ではなく、言葉を紡ぐときにも当てはまるのでしょう。しかしまずは、人の書いたものをしっかり読むということを、あらためて意識したいと、そう思いました。
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