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なみだもろい愛をこめて
お願い。 ぼくたちは、ゆめとシカバネの恋にほどける、 よるのまぼろしを、いつまでもみつめていたいのです。 ふたりのうすい胸のうちをながれる、 こころしずかなとろみとして生きてゆきたいのです。 そして、月の砂漠におちる憂うつの時のねを、 互いの血で止めるかのようなやわらかな所作で、 どこまでも折り重なってゆきたいのです。 きみの肌の表面に閉じこめられた白さを追いかけつつ、 ぼくは、ゆめの古城をめざしている。 ( せつないほどの流星群など、みたことがないよね、 なんて、かのじょは呟きつつ、 よるのほころびをわずかな血の音にかえて、 ぼくの耳をねっとりと、くすぐってゆく。 みみたぶをかじるかのような、 互いの歯の感触を知ったあとの恥じらいは、 雪をいくら降らせても凍ることのない、 確かな地表を熱さで覆い、 ぼくたちは悠久のカケラの、うちの、うちの、 宇宙へと身を乗りだし、 それぞれの肌にできた未熟なあやまちを重ねあい、 いつか、ふたりの死が永遠の罰としてやってくる、 その日まで罪をかさねつづけるつもりでいる。 たったひとり残されるまでの、 溢れるほどのさみしがりの砂漠を、 ぼくは、じっくりと侵食してゆく。 月の砂漠は、ひたひたの蜃気楼をぼくのこころに、 みせたりなんか、しない。 ただ、この場所に存在している、 きみと、ぼくとの真実が、なによりものオアシスであり、 ぼくたちは永遠にちかい方の消滅として生き、 いつか、えいえんに、 このセカイから姿をけしてしまうのだろう。 きみの、やわらかなゆめの古城に、 いっぴきの蛍が住みついていることを、 ぼくは、しっている。 仄かなあかさの奥で透けた血管が明滅する度に、 きみのなかの孤独が、 ぼくの感受性を鋭いものへとかえてゆく、 そう想った。 かのじょは、いう。 ( あなただけの暴力は、しらないわ。 ( やさしすぎて、かんじてしまうのよ、 ( それだけの、暴力はしらないわ。 けれども、つぎの瞬間、黙りこんでしまった。 オアシスには永久的に魔物が潜んでおり、 ただの一瞬も、 ふたりだけの空間ではいられないことを、 ぼくたちは、すでに理解している。 たび重なる罪の意識は、 ふたりのゆめを原色のまま置き去りにし、 シカバネにでもなったかのように動けないカラダを、 ぼくは、それでも、むりに持ちあげようとした。 けれども、 すぐに腕のチカラがぬけてしまう。 「 きみとよく似たまなざしの、 「 ぼくを、みつけるようなキモチで、 「 きみをみてしまうよ、 ぼくが、ぽそり、と呟くと、 かのじょもまた、ぼくとよく似たまなざしの、 かのじょをみつけるみたいな瞳で、ぼくをみつめた。 それから、歳のちかいふたりだけのかなしみの血縁を嘆き、 おおきな瞳から泪のつぶを、ひとつ、 こぼしながら、舐めてよ、 というのだった。 ぼくのくちびるを濡らしつづける、 かのじょの泪のひとつぶ一粒のなかに、 ぼくは自分を追いやってゆく。 ただのひとりの、 なみだの惑星となりつつあるきみを抱いて、 ぼくは、どうやってこの星から、 でてゆくことができるのだろう。 咲きみだれた硬さの奥で、 みちがえるほど綺麗なきみが映る。 枝分かれしてゆくぼくの記憶に水をあたえるかのように、 きみは、ぼくにゆめをみせてくれる。 「 泪の星は大地を得て、いつか、 「 ほんとうの水の惑星になるのだよね、 ぼくが、そう囁いたあと、きみは、 ( 沈みつつ、時に溺れてゆきましょう、 と、答えて、しずかになった。 きみはこれから若さの海で人魚になる。 波の、奥の、奥の、奥の、奥まった海へときえてゆく、 かなしみの血縁の海で泳ぐ、たったひとりの人魚になる。 ぼくは、もう、溺れることしかできそうにない。 それでも、動けないカラダで、 いまはくりかえし血の奥で、きみを求めてしまうのだ。
なみだもろい愛をこめて ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1203.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-02-21
コメント日時 2017-03-04
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
あまりにも表現が巧みすぎて逆に腹が立ってきました(なんでやねん 漢字と平仮名の使い分け、行間の取り方、基本となるストーリー、すべてがお見事。個人的には現代版「月の砂漠」なのかなとも思いました。 ただ「いつか、ふたりの死が永遠の罰としてやってくる、/その日まで罪をかさねつづけるつもりでいる。」とか「セカイ」といった部分は、他が良すぎるので平板な印象なのが残念です。最終連の出だしは素晴らしいのですが、最後の一行がそれまでの流れを受け止めきれていないように思います。もう少し意表を突いた表現なら完璧だと思います。
0きるらびさん、こんにちは。 いいですね、この詩。 夢、屍、恋、幻、夜、月の砂漠。泪、唇、血、罪、宇宙、人魚。 甘い詩語がこれだけ出てきて、恋人たちの官能的なひと時を語っているのです。普通なら鼻もちならない「ポエム」になるはずなのに、そうはなりません。それはちゃんとした中身があるからではありません。この詩には徹底して何もない、と僕は思います。きらびやかな空虚がゆったりとしたリズムで語られ、一切余計な深化というものを見せないまま終わっています。しかしながら、その単調な快楽こそが恋の本質なのでしょうね。 恋人と抱き合う時人間は、ごく短い間ながら、何もない単純な肉体を互いに認め合うのかもしれません。 非常に逆説的な物言いになってしまいましたが、本当に僕もこういうものが描きたいのです。
0ごめんなさい、きらるびさんでした。 訂正させて下さい。
0もとこさん お世話になります、きらるびです。もとこさんの的確なご感想に自分でも気づかなかった詰めの甘さを痛感するおもいです。わたしはいつも、デヴェンドラバンハートの音楽をながしながら詩作いたします。音に波が、アルバムに色があるように、広大な海を耳でかんじとりながら音から浮かぶイメージを言葉に置き換えて詩作しております。言語的な思考回路や、発想力などどこにもなく、よくいえばイタコのように何かをおろしているだけなのかもしれません。ゆえ、わたしには何の才能もないのです。ただ、詩はよいものですね。詩でコミュニケーションをとることが、わたしの理想でもあります。ですから、もとこさんたちのご意見は、あまりにも貴重なのです。わたしは詩でセカイという言葉を多用してしまう癖があります。ひらがなでも漢字でもなく、カタカナとして存在するセカイ。第三惑星に似た、どこか頼りない星。そこにいる血縁の恋人たち。わたしもかれらの星の在りかについて、なにも知りません。曖昧な言葉である「セカイ」は、なにもないようで存在する、確かな水の惑星について表現するための数すくないわたしの語彙なのでありました。また、最終連についてのご指摘、まったくその通りであります。学びます。書いてまた、学ばせてください。ありがとうございます。
0Migikataさん こんにちは。なにもないことは、あることではなく、そこに何かが存在するという可能性から生まれる言葉で、祈りに満ちた想いや感情、ひとや場所、おこない、そういったもの同士がはじめて出逢う、光りなのかもしれません。光り自体には何の思惑もないはずです。ただ、闇のつよさを癒す、ひとすじの道が光りであるならば人々はそこをめざし、ともに語りあうことでしょう。かけがえのない光りを未来へと運びたいですね。物質としてはムリなので、わたしはごく個人的な方法でとらえた光りをいつだって、詩にあらわしてしまいたいのです。ですから、光りに重さがないように、わたしの詩はかぎりなくかるい。それをかんじとっていただけて、うれしいです。わたしは羽のような詩をえがきたいのかもしれません。けっして、はばたくためではなく、水に浮かんで沈まないもの。光りの波にいだかれながら、どこまでも理想をおいかけます。Migikataさん、貴重なご意見をありがとうございます。名まえの間違いは、わりとありますので、お気になさらず。きるらび、きらるび、ホントはどちらでもよいのです。わたしは詩人ではなく、詩のなかで息をしていたいだけなのですから。
0僕は、女性とエッチをするとき、ディープキスを4番目ぐらいに持ってくる。それは、エッチに対するロジカルな向かい方であって、愛とは違うものかもしれない。肉体をロジカルに鍛えるエクササイズでもないけれども。 作品『なみだもろい愛をこめて』。これは、エッチを情緒で描いた傑作ではないだろうか。センシティブに互いに触れあう行為は、本能をむき出しにするエッチが苦手なジャパニーズでは往々にして、情緒からスタートする。そう。だから、僕は、ディープキスは4番目なのだ。『互いの歯の感触を知ったあとの恥らいは~』まさしく、罪の意識であり、宇宙への入り口であり、愛なのだ。 きらるびさん 投稿有難う御座います。
0花緒さん 詩語の多さ……いままで、考えたこともなかったです。このフォーラムのよいところは、生きた言葉で自分の詩をよりよいものへとかえる決心がつくところですね。いままで、わりあいまともかなとおもえる詩でも100篇ちかく書いてきました。ゆえ、長年の詩についての語彙をかえてゆくのは、なかなか骨のおれる経験となることでしょうね。指摘していただきました内容は、もっともです。ただ、かえないまま、つっぱしるのもそうわるくない選択ではないのでしょうか。ポエムになりきれない、と、複数の詩人さんに書いていただき、きらるびはタイヘン、うれしくかんじているのですから。花緒さんのお言葉、シカ……と、受けとめます。きょうもよい詩をえがくことができますように。ありがとうございます☺️
0三浦果実さん 赤裸々な告白、まことにありがとうございます
0* ぁの……わたし、日本語もヘタなのです。言葉遣いでオカシナところがありましたなら、お気軽にご指摘していただけますと、さいわいです(ただし、やさしく……)。いま、言葉をしゃべる練習中なのです。
0魂の避難所、アジールとしての「詩の世界」その美しさ、揺蕩い、はかなさ、永遠性・・・について、しばしば考えます。その「世界」が、あまりにも素晴らしければ、現世の汚辱に還ってくることが、苦痛にすらなってしまう。でも、その美しい「逃げ場所」があるからこそ、その世界に一度逃げて、傷ついた魂を癒して、再び「現世」の冷たい風に身をさらす活力を得て、戻って来ることができる。そう、思うのです。 「詩の世界」にいったん逃避させてくれるような、美しい詩、があるべきだ、と思います。そして、その世界に浸った人が、そこで「鎧」を得るのか、防寒着としての肌触りのよい「毛皮のコート」を得るのか・・・肌そのものが鍛えられて、たくましい身体として戻って来るのか。そこで得るものは、人それぞれ。得る物の差異が、詩の多様性の担保でもある、と思っています。 光原百合さんの『星月夜の夢がたり』という短編小説集があります。その中に「遥か彼方、星の生まれるところ」という美しいファンタジーがあります。現世で心身共にボロボロに傷ついた人が(あるいは、そういった傷を負った人、だけが)訪れることのできる、神秘の場所。そこで出会う、この世ならざる美しい光景。そこで、主人公は「僕と同じくらいの歳に見える女の子」と出会います。 「ここはどこ?」「星の生まれるところさ」僕はそう答えた。それだけで充分だった。ここに来ることでようやく息をしていられる。そんな嵐を彼女も経験していることだけは確かだったから。それ以上、何を語り合う必要があっただろう。 光原さんが描いている、この場所・・・それは、ポエジーの生まれる場所であり、ユング風に言えば、人類共有の、気づかないところでつながっている無意識層に眠っている美の世界、だと思うのですね・・・ この「小説」の中では、ファンタジーの世界でのみ出会うことができていた二人が、大人になって、現実界で再会するところまでを描き・・・最後に、こんな一節が置かれます。 どうかこの世のすべての寄る辺ない魂が、遥か彼方、星の生まれるところへの道をみいだせますように。 詩を書くこと、読むことが、そうした探索の道であればよい、と思っています。 余計なことをたくさん書いてしまいましたが・・・ >こころしずかなとろみ →安らぎを得ることのできる、魂の温泉のようなイメージ。 >ゆめの古城 →言葉は甘いけれども、人々の心の奥にあるファンタジーの王国、その中心地を連想。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の中心に置かれた、幼心の君、「月の子」の異名を持つ姫の住む城、のような。 >雪をいくら降らせても凍ることのない、 確かな地表を熱さで覆い、 →茫漠と広がる、無垢、純白の地、心の白紙の部分。そこに描かれていく物語こそが、その人のライフヒストリーになるはず、の。そこに、熱さという情熱で、足あとを付けていくこと。 >ぼくたちは悠久のカケラの、うちの、うちの、 宇宙へと身を乗りだし、 →一人一人が「宇宙」をその背後に抱えている。そんな河合隼雄さんの言葉を思い出しつつ、一人一人が「宇宙」の入口であり・・・その個々の、分断されているかにみえる「宇宙」の一番果ては、集合的無意識の層として、結局は一つにつながっている、ように思います。その個々の「宇宙」の探索こそが、他者の作品を読むという行為である、と思うのですね・・・。 >月の砂漠は、ひたひたの蜃気楼をぼくのこころに、 みせたりなんか、しない。 ただ、この場所に存在している、 きみと、ぼくとの真実が、なによりものオアシスであり、 →心の余白は、意味の無い幻想を見せてくれる場所という、単なる逃げ場所ではなさそうですね。確かにこの場所に存在している「真実」がある。それが、「ぼく」と「きみ」の出会いによってもたらされる幸福感と高揚感・・・もちろん、それは永続するものではないけれど、途切れてもまた、再び起きる、そんな予感もはらむ。 >「 きみとよく似たまなざしの、 「 ぼくを、みつけるようなキモチで、 「 きみをみてしまうよ、 →実際の恋人どうしの話と読むこともできるけれども、自身の内面のもう一人の私、アニマとアニムスのような、そんな二人の幸福な出会い、を連想します。心の中の多数の「私」を自覚し、それぞれを認め合い、欠けた所を補い合うことができれば、現世の辛さに対峙する「チーム」を組むことができる。もちろん、この二人が出会って、そのまま「駆け落ち」して、どこか遠くへ行ってしまいたい、という思いにもとらわれる、事でしょうけれども・・・たくさんの「ミクロコスモス」を探索していく、そんな好奇心が心の中に湧いて来れば、いなくなってしまった「わたし」を探しにいくこともできるでしょうし・・・。 なんてことを、色々、考えたり感じさせられたり、しました。
0きらるびさん、こんにちは。はじめまして。 とても、素敵な文体で、文体フェチのわたしとしては、とても甘いお菓子を頂いたような気分になれました。 この作品、「ぼく」も「かのじょ」も「きみ」も「ふたり」もない。とても「さびしい」自意識の「惑星」にひとりぼっち、でいるような感覚を受けました。(そういえば「ひとりぼっち惑星」というアプリがありましたね。大好きでした) 存在しているはずの作中話者の消滅というメタ的な部分を感じたのは、きっと書き手が「誰も信じていない」のではないか、と失礼ながら思いました。 誰もいない。誰も信じてない。押しつぶされそうな孤独を自分の体温の溶液に浮かせて、降りてくる現実(よる)の重さに対抗する。 そんな生ぬるい甘えと諦念と、過剰な自意識が感じられて、甘美ではあるのですが、ある種の退屈さを感じたことも否定できません。 基本的にはとても楽しく拝読させていただきました。 ありがとうございます。 余談ではありますが、文体が、かつて現代詩手帖にて活躍されていた、子猫沢るびさんに酷似していて(括弧のあとにスペースを入れるやり方とか、文体の揺蕩うようで流れるようで停滞している感じ)、子猫沢さんの作品が好きだったわたしとしては、さらに興奮出来る作品でした。 拙い感想、お目汚しでございました。
0はじめまして。 どうして、こんなに世界を保ったまま、これだけのボリュームを持った詩を書けるのですか! 私なんかには辿りつけない境地を感じました。きっと呼吸するように詩を書かれる方なのかなと思いました。 なんか変な感想ですみません。
0まりもさん まりもさんの批評文を読んでいますと、未知を望むこころがすこしかるくなりました。うつくしい言葉遣いで、わたしの詩を丁寧に読みとっていただき、まことにありがとうございます。光原百合さんの「星月夜の夢がたり」ぜひ、読んでみたいです。夜空に耳を澄ましますと、宇宙の産声がきこえます。星たちはわたしたちの詩作とおなじように、孤独から宇宙のカケラをうむのではないのか、とおもいます。うまれてきた宇宙の赤さんは、暗やみのなかで目が覚めても声のひとつ発しないように、無音の産声をあげることでしょう。声は聴こえるものでもあり、感じるものでもあるとおもうのです。ですから、それぞれの詩に個性があるのはなにも文章から読みとれるものばかりではなく、作者本人の気のようなものが無意識にも作品に閉じこめられているのかもしれません。ゆえ、お亡くなりになった作者の作品でも、そばに居てくれるような心地よさで読みすすめることができるのは、きっと、そういう想いの星が本に宿っているからなのでしょうね。なんだか、まりもさんのお言葉から、たくさんの真実を学ぶことができました。また、大切なお声をお聴かせくださいね。わたしもこれから、多くの方の作品を読みます。いままで、読むという行為から逃げてばかりいたのですが、このフォーラムにきてから、詩人さんたちの熱意にやられていまして、すこし、前向きになれそうです。
0グエン・グエンさん ありがとうございます。「誰も信じていない」そうかもしれません。すこし個人的なことを書きますと、わたしは10代のころ、田舎の学校で小学時代の級友から酷いいぢめにあい、精神を痛めまして学校にゆかずに、この歳まで引きこもっている、中学時代のいぢめの廃材なのです。ですから、わたしの詩への批評でよく、物語的だ、とか、自分のセカイに籠っている、とゆわれますのは、確かな意見でありまして、まったくその通りであり、わたしは何もいいかえすことができないのです。けれども、すこしでもグエン・グエンさんにお届けできていますことなら、それ以上のさいわいはありません。貴重なご感想です。また、子猫沢るびのことをお忘れにならずに、わたしの詩との相似点についてまで、言及していただき、たいへん嬉しくかんじています。わたしと子猫沢は、ふるい親友のようなものなのです。つまり、子猫沢るび=きらるび、なのであります。グエン・グエンさんの感性の鋭さに、驚きをかくせません。わたしは、かつて、子猫沢を名乗っていたころ、ツイッターで現代詩手帖相手にさんざんなことをいってしまったという、あまりにも重たい罪がございまして、いま、罰を受けるように、毎朝、骨の重さで目が覚めるような気が滅入る日々を送っておりまして、このフォーラムの素敵な詩人さん方に、とても勇気をいただいているのです。子猫沢るびはまだ、わたしのなかで生きているのかもしれませんね……ネコは埋葬したはずですが、今夜あたり、ペットセメタリーへと赴き、お墓を掘りおこしてみたいとおもいます。きらるびの胸のうちで子猫沢るびが、ようやく蘇ることができそうです。グエン・グエンさんのお言葉に泪がでそうでした。わたしもるびを捨てきれなかったのです。ですから、これからは猫とずっと一緒に暮らします。
0どしゃぶりさん 素敵なご感想をどうも、ありがとうございます。そうですね、ていねいに息をするように詩作できれば、それ以上のすばらしい行いはありませんよね。わたしは、ときに息をする方法を忘れてしまいそうになります。パニック障害ではないのですが、そういうときは意識が朦朧として、自分でも意味のわからぬことをくちばしってしまうのです。横になると、すぐに睡魔はやってくるのですが、前日の記憶がないのですね。ですから、このフォーラムの方針の、できるかぎり削除できないような投稿のカタチが、ある意味、理想的であるのかもしれません。わたしはいつも、うまく言葉がしゃべれません。けれども、すこしずつ、いろいろな方とコミュニケーションがとれましたなら、と、切実にかんじております。どしゃぶりさんのお言葉も、シカ……と、受けとめました。今後とも努力をかさね、できることなら、今年のポエケットに初出展しようかと、考えています。わたしは充分、ひきこもりました。あまりにもヨワムシでありますから、子猫沢るびのことなど、誰も覚えていないことだろう、と考えていました。けれども、それは弱さゆえの逃げにしか、過ぎなかったのです。わたしはつよくなります。そうでありたい、と常にかんじています。うれしいです。どしゃぶりさんのご感想。ポエケット等で、子猫沢こと、きらるびを見かけましたときは、どうか、よろしくお願いいたしますね。それにしても、詩の内容で語りあえるしあわせというものは、他に類をみません。貴重な体験です。では、お身体にお気をつけて。
0最後まで読んでしまったというのが、最初に感想としてくるし、それでいいんだろうと思ってしまう。それこそが一つの文体なんだろうなと思います。僕にとっての文体とは読んでしまったという結果が残る物なのだ、という事をこの作品から発見しました。 細かい読みについては他の皆さんの読みが素晴らしく特にまりもさんの細かな読みが凄く、僕からは何も言える事がないのですが、一言コメントさせていただこうかと思います。読めて良かった。
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