砂浜を踏み込んだ
その感触はいつまでも足裏にあるけれど
砂たちは
この体の重たさを忘れていく
「花火は地上からあがるから、花の火なんだね」
「そして、あの色は、いろんな金属が光っているんだね」
(きみの目をよく見るのは
ぼくの目の中で何が燃えているのかを確認するため)
「きみが持っている空を少しだけお借りしたいだけさ
ぼくが持っている空には沖縄で見た夏の大三角形が映っている」
「じゃあ、夏の大三角形から見た沖縄には、あなたが映っているのね」
(あの星の色は、炎色反応ですか
きみの目を燃やしたら、何色を灯しますか)
「血液型占いを信じるかい?」
「全く信じないですし、血液型の話を聞くのも嫌ですが、そういうのが好きな人がいるのはわかります」
(嫌いなものまで見るきみの目の色は
ぼくの目の色をしていた)
「ナンバーが8823の車が後ろにいたんだ」
「きっと、宇宙から帰ってきたんだね
そして、誰よりも速く駆け抜けるんだね」
(夜の帳が落ちて、前景に彩煙柳、光が、宙に浮かび、きみの腕には、青と赤の、花火が、流れている、これがぼくの空だ、きみの腕を、そっと、浮かべ、手を、繋げば、ぼくが宙に浮くか、きみが地に落ちるか、二人で、一つの花の火になって、ぼくは、きみになって、海に沈んでいく)
時がどのように流れたのかを見るために
砂浜を歩いている
砂たちに
もう一度きみの体の重たさを刻み込ませる
作品データ
コメント数 : 19
P V 数 : 3812.4
お気に入り数: 4
投票数 : 9
ポイント数 : 34
作成日時 2020-12-26
コメント日時 2021-01-23
#現代詩
#縦書き
#受賞作
#受賞作
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 17 | 6 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 6 | 3 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 6 | 2 |
総合ポイント | 34 | 13 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 3.4 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1.2 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1.2 | 1 |
総合 | 6.8 | 4 |
閲覧指数:3812.4
2024/11/21 20時40分00秒現在
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どこか天文学的でロマンチックでした。
0打刻というのは、仕事が終わった後とか始まる時に、勤怠表に打ち込む時間の事ですね。ですねとか言ってますが、打刻というのは中々面白い表現です。時間を打つ行為とはどういう物を指すのかという事を考えていくだけで多分ごはん3杯くらい食べれます。というくらい概念として面白いです。という言葉をまくらに置いた所でどうしようもないのですが、なかたつさんの詩を読んでいて思う事はとか、大きな主語で語ってしまうと、これを人に見せる事で何を期待しているのだろうという事をなんとなく思います。期待という言葉は不適切かもしれません。僕の場合は、これを読んで何を思えばいいのだろうという疑問かもしれません。共感でも覚醒でも戦慄でもないのかもしれません。沖縄の話をきみとぼくがしているというだけで終わりかもしれないし、そうでもありません。ただ、僕が思うのは人が何かを書こうとするとき、そこに意味や無意味という枠組みではない何か書かせようとした動機みたいな物はあると思っていて、そのあとに読み手がくっついてくることはあると思っています。つまり、読んだから何があったのかとか、やりたい事みたいな物は僕が勝手に考えて期待した事なので、どうでもいいことなんですよね。 何が言いたいのかというと、多分どうでもいいことはどうでもいいことではないという事です。 >砂浜を踏み込んだ >その感触はいつまでも足裏にあるけれど >砂たちは >この体の重たさを忘れていく 砂というよりは砂浜というのが大事ですね。 公園の砂場に足跡が残ったとしても整えてくれる存在はありません。 多分刻まれた足跡の上を誰かが上書きしてしまうか、あるいは、公園の管理人さんが綺麗にしてしまうかという人為が働いた結果きれいになる事はあるかもしれませんが、砂浜に刻まれた足跡という打刻は、海の波の満ち引きによって消されてしまいますよね。自然に復活してしまうというかならされてしまう打刻というのが、ここでは中々重層的に描かれています。かなりうまいですね。砂浜の上に刻み込んだ足跡が波によって消えてしまう、というだけの情景がそれだけで終わっていません。 「砂浜を踏み込んだ」というのは、誰も立ち入っていない雪原を人間の足跡で穢していくような快感があるのかもしれないですが、踏み込んだという事は、どっちかというと自分の足跡の痕跡を砂浜に着ける事に対して、恐れみたいな物を感じます。雪原のたとえ話に引き寄せて語るのであれば、穢す事とよりも穢してしまう事に対して自覚的なのではないかという事です。足跡というのは、基本的に、汚すという概念が付いて回りますよね。あれってなんででしょう。歩く事の痕跡が残る事というのは多分考えていくと無限に語れますが、ここでは話がそれてしまうので語りません。 次に、感触の話が来るのはとてもいいですね。 足裏に残った感覚というのは話者の中に刻まれていて、それが残り続けているというのはなるほどと思います。 特に、この足裏というのが靴を履いているとかいていないので、僕の中では素足のイメージで脳内に描かれます。 触覚によって刻まれた感覚というのは多分残りやすいんでしょうね。例えば、何か生き物を捌いた時の感覚というのが脳みそに刻まれやすいように、 魚を捌くのが苦手というのは、臭いという要素もあると思いますが、多分新しい感触に対する抵抗感の方が勝るんだろうなとか勝手にこの記述を読んで理解してしまいました。 ただ、人間がどう思おうと砂たちは、いつも通り波によって刻まれた足跡を修復してしまいます。 ここからわかる事は、簡単に言ってしまえば「ぼくによって新鮮な感覚」というのは、日常的に踏まれる砂にとっては「日常的な感覚」だということです。 詩は一回性の言語で会って再現性はないみたいな事を入沢先生が言っていたのですが、本作の場合これを詩として語れるのはやっぱりぼくでしかないんでしょうね。 砂の立場から語るのは多分重たさを忘れてしまうので無理なんでしょう。 >「花火は地上からあがるから、花の火なんだね」 >「そして、あの色は、いろんな金属が光っているんだね」 >(きみの目をよく見るのは > ぼくの目の中で何が燃えているのかを確認するため) >「きみが持っている空を少しだけお借りしたいだけさ > ぼくが持っている空には沖縄で見た夏の大三角形が映っている」 >「じゃあ、夏の大三角形から見た沖縄には、あなたが映っているのね」 >(あの星の色は、炎色反応ですか > きみの目を燃やしたら、何色を灯しますか) >「血液型占いを信じるかい?」 >「全く信じないですし、血液型の話を聞くのも嫌ですが、そういうのが好きな人がいるのはわかります」 >(嫌いなものまで見るきみの目の色は > ぼくの目の色をしていた) >「ナンバーが8823の車が後ろにいたんだ」 >「きっと、宇宙から帰ってきたんだね > そして、誰よりも速く駆け抜けるんだね」 ここら辺の会話を僕は上記コメントで述べた対比で読んでしまったのかもしれないですね。 花火は綺麗ですが、例えば花火師からすると毎回上げているから感動的なイベントではない。でも花火を見る方は非日常的なイベントなので、それは「打刻」的に刻まれる。 花火の色は綺麗ですけど、実際には金属の炎色反応を人為的に操作して人間が綺麗に見えるような演出をしているだけの存在であるので、いわば花火にされた金属の砂=火薬からすると自分がそうなる存在であるので、 想定通り光るのはその通りだという日常な訳ですよね。ただ、その花火を見る側というのは、その一回性のきらめき。空に打刻される足跡に対して、視覚と聴覚を通して、脳みそに打刻されるわけだ。 ぼくときみの会話というのは、そういう意味で、詩人と砂の会話みたいだなと適当に思っちゃいました。 >「きみが持っている空を少しだけお借りしたいだけさ > ぼくが持っている空には沖縄で見た夏の大三角形が映っている」 >「じゃあ、夏の大三角形から見た沖縄には、あなたが映っているのね」 ここなんか象徴的で、君の指摘として、夏の大三角形からみた沖縄には「あなた」が映っているのねってのが、なんともなぁと思いました。 冷静に考えると、夏の大三角形を見上げる時、自分しか見ていないように思うかもしれないけど、そんなわけないですもね。っていう錯覚に対しての皮肉っぽい返しだなと思っちゃいました。 夏の大三角形があなたを意識することはない、それはあがった花火があなたを意識しないように、あなた自身に刻まれた砂ですらあなたを忘れてしまうように。 あなたに刻まれた打刻という感触を打ち付けた相手があなたの事を意識していた訳ではない…と考えると恋愛の勘違いの話にもなりそうですね。 なんか誰にでも親切な人が誤解されやすいってこういう事なのかなって思っちゃいました。 >(夜の帳が落ちて、前景に彩煙柳、光が、宙に浮かび、きみの腕には、青と赤の、花火が、流れている、これがぼくの空だ、きみの腕を、そっと、浮かべ、手を、繋げば、ぼくが宙に浮くか、きみが地に落ちるか、二人で、一つの花の火になって、ぼくは、きみになって、海に沈んでいく) >時がどのように流れたのかを見るために >砂浜を歩いている >砂たちに >もう一度きみの体の重たさを刻み込ませる なので、最後のここら辺については、流し読みではあるんですが、 「きみの体の重たさを刻みこませる」って落ちは、 多分対人だから出来る芸当なのかなと思いました。 つまり、きみは砂の方のサイドにたってぼくの話を聞いているので、 そしたらぼくサイドに引き寄せるしかないじゃんって感じですね 行ってしまえばぼくが感じた錯覚を きみに追体験させることでぼくと同じにするってことは僕と同化するので、海に沈めますねってことですね。
0悲しみや、慰めや、憎しみといったともすれば醜い恋愛感情を全く感じさせず、ああ、良い詩だなと素直に思いました。美しいです。
0コメントありがとうございます。 今ごろはきっともうホッピーはとっくに体から抜けてしまったのでしょう。何より、僕は読み書きする時、酒を入れることができず、基本的に素面なんですが、酒を飲みながらいいと思える詩に出会えるのはすごい幸せな気がします。 基本的にABさんと同じような感じで、違う世界だけど何となく繋がるシリーズものとして書いていることが多く、自作は自分もどんなものが書けるのか楽しみです。 「喪失」ですか。過ぎ去った時は基本的に喪失、というより、時間という概念は喪失が付き物なのかもしれません。
1コメントありがとうございます。 ロマンチックになるように作った気がしたので、よかったような、作品自体が天文学的にもっと拡がりがあればなあと思いました。
0長いね、俺も長いけど。 >なかたつさんの詩を読んでいて思う事はとか、大きな主語で語ってしまうと、これを人に見せる事で何を期待しているのだろうという事をなんとなく思います。 という問はすごくいい問で、全作者はこれに対して考えなければいけない気がして。いや、別に期待していることはない、という答えでもいいと思っていて、そんなもん読み手が勝手に読めばいいと。俺はやっぱり期待していることはなくて、でも、作品を投げる限り、偶然の必然を信じているんだよね。世の中、偶然しかないと思っていて、それを必然だと感じる、そう、必然は在るんじゃなくて、感じるだけなんだよ。その偶然を必然だと感じる行為を、「動機」、もしくは俺の言葉で言えば「(必然的な)契機」だす。 >足跡というのは、基本的に、汚すという概念が付いて回りますよね。 へー、なるほどなあ、と、考えていなかった。 >特に、この足裏というのが靴を履いているとかいていないので、僕の中では素足のイメージで脳内に描かれます。 へへー、ななるほどなあ、と。砂浜って、素足じゃなくて、靴でも、ビーサンでも、島ぞうりでも、ふかふかを感じるよなあ、とか。 >砂の立場から語るのは多分重たさを忘れてしまうので無理なんでしょう。 おお、なるへそなあ、と。砂を語っているようで、砂が語っているんだね、って。この話は、いつかしようと思ってたから、今度話しましょう。 というのは、 >きみに追体験させることでぼくと同じにするってことは僕と同化するので、海に沈めますねってことですね。 っていう最後の一行だけど、ここに繋がっているわけであって。自作解説とか、自己語り、思想語りについては、作品を越えてやるべきではないと思っているけど、多分、普段考えていること(抽象)が作品(具体)に出ているのかなあ、と思いましたですね。 散々、語るという行為が何であるかを話したりしたけど、語る行為を妄信しちゃいけないんだよね。それって本当に「私(作者or語り手)」が語っているのかな。何かによって「語らされている」ということが時にはあるよね。
0コメントありがとうございます。 悲しみ、慰め、憎しみといった感情はそもそもあんまりないかもしれません。良い詩だなと思ったその感想が良いなあと思いますが、前者も後者も私のおこがましい感情な気もするので、やはり読み手に託したいなと改めて思いました。
0なかたつさん ちょっと再レスしたくなっちゃったから再レスします。 なんか僕の中で一回レスしたらよっぽどの事ないともう一回レスしないみたいな信条があるんですけど、掲示板で対話する事に単純に挑戦したくなったからというのは言い訳なので、ちょっとだけ書きます。 >という問はすごくいい問で、全作者はこれに対して考えなければいけない気がして。いや、別に期待していることはない、という答えでもいいと思っていて、そんなもん読み手が勝手に読めばいいと。俺はやっぱり期待していることはなくて、でも、作品を投げる限り、偶然の必然を信じているんだよね。世の中、偶然しかないと思っていて、それを必然だと感じる、そう、必然は在るんじゃなくて、感じるだけなんだよ。その偶然を必然だと感じる行為を、「動機」、もしくは俺の言葉で言えば「(必然的な)契機」だす。 なかたつニキにそういわれると俺は舞い上がっちゃうよね。俺の出す疑問なんか所詮みたいに思っちゃうからね。とか言ってるとあれなんですが、偶然を必然と感じる行為っていう字義的には反語な訳だけど、矛盾かもしれないけれど、それを行為で結んで動機、契機って呼ぶのは面白いですね。なかたつさんにとっての信仰とか言ったら怒られるのかもしれないけど、僕も詩を読んでいる時だけそういう事を偶にごくたまに思うよ。これは俺の為に書かれた作品っていう感覚をこき下ろすと、多分自分のように読めるっていう没頭感に陥る事が僕にとっての動機かもしれないなとか思ったときに、なかたつさんにとっては書くという行為が正に「動機」なのかなと思うと、ちょっとぞくぞくしちゃいましたね。やっぱそれって詩人じゃない? >散々、語るという行為が何であるかを話したりしたけど、語る行為を妄信しちゃいけないんだよね。それって本当に「私(作者or語り手)」が語っているのかな。何かによって「語らされている」ということが時にはあるよね。 ここら辺前に話した時に上手く言えなかったのでここでもう一回語るですが、この再レスって行為が正に語るって感じなんですが、語るって行為は編集みたいな概念入ることみたいなのを思っていて、つまり沖縄の思い出っていうのは、思い出そのものを語っている訳ではなくて、物語化している訳だけど、物語るという行為がナラティブな感情に根付いていて、それが「動機」ともいえるのかなと思うけど、それって動機によってぶれる事実みたいなのあるよね。例えば砂は砂のままとしてあるけど、それを美しいと思って語るのは話者じゃんみたいな。それを受け取る時の読者っていうか僕なんですけど、見てないから美しいとは思わないかもしれないけど、それを錯覚させるのか語りだし、言葉を美しいでも鬱陶しいでもなんでもいいけど、何かしらの感情に陥れるのってやっぱり語りの作用なのかって思っちゃったりしますね。でもそれって騙そうとしている訳じゃなくて、多分いつの間にか結ばれてしまう契約なら、共犯関係みたいな言葉を使うと人―人っぽくなっちゃうから、この場合は砂ー人ー読者でーが語りなのかもね。その「ー」を結ぶ契約の糸を契機と呼ぶなら赤い糸で結ばれているみたいでロマンチックですねとか思いました。 長くなっちゃったからあれだけど、野家さんの本に多分書いてあることなんだろうなと思うと、多分読むための契機はここにあったのかな。なかたつさんと一緒に読むとそういう契約が結べるからやっぱり最高ですねとかみたいなラブレターで再レス終わりです。長くなっちゃってごめんよ。
0おっす、おっす。 >偶然を必然と感じる行為って字義的には反語 いや、厳密な字義では確かに矛盾しているかもしれないけれど、決して矛盾していないというか、人間としての営みだと思うんだよね。「信仰」という言葉がまさにそうで、俺は「感じる」という言葉を意識的にここで使っていて、「感じたり」「信じたり」するのは、まさに「語り」における「語り手」によるものであって、「語り手」が「そうだ」と言えば、その「語り」内ではそのように成り立つというのが、あらゆる作品で成り立っているんだと思うんです。作品内における出来事は、作品外にいる読み手は否定できなくて、それって、俺らが作品を読む時に、先ず作品内で何が起きているのかを読もうとすることに繋がっているわけで。そう、先ず、作品を信じるということ、これが読むことの前提にあると思うんだよ。そのうえで、読み手がどう思うかは、まさに「読み手」の「語り」に委ねられているんだね。その作品内に在る契機、そして、読みの中にある契機こそ、その「語り手」がどう「語っている」かを読むということが大事なんだね。 それは後者の百均のコメントと繋がってくるかな。それこそ、野家さんの本に書いてなかったかな。それか坂部恵さんの「かたり」っていう本だったかな。語るって、象る(かたどる)とも似ているし、騙る(かたる)にも繋がってくるって話。それが「思い出」の「物語化」であって、物語は語りによって象られていると。 そして、「読み」を「読み合う」ということを俺らはやっているわけだから、俺らが「読み」という「語り」によって象られていくんだね~。
1おっすおっす。 なんか色々楽しい事教えてくれてありがとうという感じなんですけど、なるほどね。さっき、酷評ギルドの云々についてちょっと喋っちゃったけど、読むという事は信じるという事から始まるんだったら、酷評ってのはその読んだ物を読んだ人が信じられないってことなんだろうね。ってなったらあとは信じ方の問題じゃんってなってきたのでとてもよかったです。語りによる語り手っていうのはなるほどなと思って、前にそういえば聞いたかもしれないけど、語りと語り手は別物だけど、俺はいつも混同してしまうよ。そこら辺が、正に倒錯的で笑っちゃうんですけど、多分僕はそういう読み方を好んでいて、そういう混ざり方をしてしまう作品に引っ張られちゃうんですよね。って感じで僕は僕の語りを多分楽しんでるんだなと思うと、色々よかったです。 >それこそ、野家さんの本に書いてなかったかな。それか坂部恵さんの「かたり」っていう本だったかな。語るって、象る(かたどる)とも似ているし、騙る(かたる)にも繋がってくるって話。それが「思い出」の「物語化」であって、物語は語りによって象られていると。 そして、「読み」を「読み合う」ということを俺らはやっているわけだから、俺らが「読み」という「語り」によって象られていくんだね~。 ここら辺滅茶苦茶いいなって思ったし、もうこれ詩でいいじゃんって詩を知らない語りをする語りての僕は言っちゃうけど、まぁいいや、そういうもんだろって感じ。また新しい本が出てきて、どんだけ読んでるんだよって思うけど、こういう対話を通じてもう一回打刻を読むと身が引き締まるのでとてもよかったです。ギルドの方もやっぱ参加しちゃったけど、単純に他の参加者の語り聞いてネット詩参加した時の気持ち思い出そうと思います。僕は多分誰かの語りを聞くのが好きなんですよね。で、聞いていて楽しい語りってまぁよくわからんけど僕にとって詩なのかなとか思いました。騙されてもいいや。
0心にしみた詩でした。 砂浜を踏む感覚はよく知っていますが、砂たちが体の重たさを感じ、それはすぐに忘れ去られる、とは新しい気づきでした。 2人の会話の中でポツポツと浮かぶ話者の気持ちがとてもリアルに伝わってきます。とりとめの会話をしていながらも、話者の激しい恋心が燃え上がるようです。 第3連の心象風景が花火の風景と共に海に沈んでいくようでとても美しかったです。彩煙柳とても好きな花火なので胸に刻まれるようでした。 >時がどのように流れたのかを見るために >砂浜を歩いている ここがタイトルの打刻を現しているのだと思いますが、砂浜に時が刻まれるようでとても素敵だと思いました。とても好きな詩です。ありがとうございました。
こんばんは。 >信じ方の問題 そうだね、としか言いようがなく、それが評なり、コメントなりで読み手のスタンスが象られていくんだね。 語りに関しては、修士論文で扱おうとしたぐらいで、結局やめたんだけど、一時期めちゃくちゃ調べた時があった。というのも、自分のやりたい、考えたいテーマがそこにいっぱい詰め込まれていたからだね。「誰かの語りを聞くのが好き」というのは、当たり前のようであってとても大事なことで、これって詩のテーマを越えて、生きる上でもまさに活きるんだと。 まあ、でも、散々こうやって語り合いながらも、俺らがやっていくべきことは、読んで、それを最低限作者に伝えるためにコメントすることと、やっぱり、作品を書いていかないとなと。で、無理に作品は書く必要ないし、読む必要もなく、そうした機運があるときだけでいいと思う。2年半近く全く詩に触れなかった時もまた今の俺にいきていると思っているです。
0コメントありがとうございます。 「私たち」が「あるもの」を語る時、「あるもの」は「私たち」をどう想っているのか、自己にとらわれず、他者から見た自己への意識、なんだと思います。 彩煙柳という言葉は、まさにこの作品を書くために調べた言葉で、この作品を書くことがなかったら一生知らずにいた言葉だったと思います。すでにご存知だったのがすごいなあと思いました。 コメントの最後が「ありがとうございました」で〆られているのが何とも嬉しく、こちらこそありがとうございました。
0砂浜に踏み込む、という初めの一行から難なく世界に吸い込まれていくのを感じながら読みました。 饒舌なのに不思議と静けさに満ちた世界でした。
0砂浜とその上の人、ぼくとあなた、という存在がシンメトリーになって、廻っているようでした。 >時がどのように流れたのかを見るために >砂浜を歩いている という詩句で、どうしてか砂時計を想像しました。 砂が落ちきったときに重さの均衡を保つのがあなたの足であり、それをひっくり返してまた時間を流れさせるのがぼくだとすると、なんだかとてもロマンチックな気分になりました。
0夏に会いたくなりました(*˘︶˘*) 素敵な作品ですね
0遅くなりましたが、コメントありがとうございます。 >難なく世界に吸い込まれていく というのは大事で、ただ、異物感みたいなものがあってもよかったのかなあと内省しております。
1コメントありがとうございます。 ああ、砂時計かあ、なるほどなあと。想定していなかったことを述べられると、嬉しくもなり、「砂時計」に関するモチーフを暗に散りばめていたらより世界が拡がったかもなあと。 絶対的な「自己」などないと思っていて、これからも他者になれるように書いていきます。
0コメントありがとうございます。 昨年の夏はどうにもできない夏でしたが、今年は夏を夏として満喫できる年になればよいと真に願っています。
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