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B=REVIEW 2018年9月投稿作品 選評
◆大賞候補 あきら@ちゃーこ 定義(9/14) https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2313 ◆優良 ・仲程 飼い主のない猫 (9/1) https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2247 ・タキザワマジコ 麻酔(9/19)https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2333 ・帆場蔵人 泥の月(9/2)https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2259 ◆推薦 ・タムラアスカ 残暑(9/18)https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2332 ・紺 陰(9/8)https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2298 ・じゅう がじがじ(9/15)https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2318 ・ももいろ 公園の朝(9/19)https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2336 ◆大賞候補作品について 最初に、「わかる/わからない」について、考えてみたい。 「わかる」ということは、見慣れている、なじんでいる、ということ。それゆえの安定感や安心感もある、繰り返し「同じ喜び」を享受する楽しみもある。さらさらと意味を読み取れたり、作者がこめた思いが伝わってくると、自分あての「お便り」を受け取ったような、そんな嬉しさがこみあげてくる。 他方、「わからない」ということには、未知との遭遇、というスリリングな喜びがある。作品の中に、冒険しにいく、といえばいいだろうか。「わからない」にも複数のパターンがあって、「語り方、が、わからない」「共感/反発の仕方、がわからない」「イメージのとらえ方、がわからない」・・・などなど、様々なケースが有り得るだろう。 初めて詩を読む人にとっては、難解な比喩や、二重、三重に屈折した構文、あえて飛躍の幅を大きくとった作品などは、門前払いを食らったような、そんな寂しさを感じることもあるかもしれない。 ある程度、詩を読み慣れている人にとっては、難解な比喩やイメージの飛躍は、むしろ発見の宝庫だ。そうか、こんな手があったか。ここの謎を解いてみたい・・・そんな挑戦心が沸き起こる。もちろん、マニアックなパズル愛好者同士の馴れ合い、という批判も生じそうだが・・・。 詩史を少し学んだ人であれば、この詩は生理的に受け付けないが、詩史の歴史に照らしてみて、新たな道を開拓している、その意味で注目しなくてはならない、という事態も生じるだろう。既に複数の線が複雑に絡み合っている系統樹の、さらに余白を埋めていく線を見出すような、そんな義務的な要素から作品を選ぶ、ということも起こるかもしれない。もっとも、これはかなり義務的な要素が強く、たいていの「詩愛好者」とは無縁の話ではある。 さて、今回、優良候補に選んだ作品の中で、もっとも「わかる」楽しみを味わったのが、仲程さんの「飼い主のない猫」であった。この「わかる」も、読者の私が自分なりにわかる、腑に落ちる、ということであって・・・作者とのコメント欄でのやり取りを見ていただければわかると思うが、語り手を何者と設定するか、というところから、既に作者と読者との間にはズレが生じている。それでも(作者の当初の意図を離れたとしても)流れるような語り口(作者特有の語り口、その人らしい節回し、とでもいえばいいか)身近で抵抗感の少ない比喩を用いて、うまく言い難い、でも確かに感じている「そのときの、なんともいえない気持ち」を、ゆったりとしたリズムでなんども口の中で転がすように言い換え、言い直しながら・・・核心に迫る、という鋭さというよりは、芯のまわりをまわるような間合いで言葉を重ねていく。そこから、一気に言いつのっていくようにヒートアップし、またふっと手を返すように、〈あの夜もこんなふうに~〉と語り収める。その全体の流れが、心地よかった、といえばいいだろうか。だが・・・冒頭の「わかる/わからない」に当てはめると、実によく「わかる」、共感できる、ゆえに、未知との遭遇、というようなスリリングな感触が得られなかった。なつかしさのようなものは、非常に強く感じたのだが・・・。 あきら@ちゃーこさんの「定義」は、〈わたし〉を定義することの困難さを、独特のストイックな文体で果敢に追及している。「わかる/わからない」の区分に照らせば、一瞬「わからない」ところから始まり、イメージを丁寧にたどりなおすと、「わかる」ところに行き着く、その、腑に落ちるまでの距離感のほど良さ、言い換えれば比喩や飛躍をかなり大きくとりつつも、飛び石程度の距離感で納め、明後日の方向にまで飛ばしていない、その距離感が魅力だった、といえばいいだろうか。 3行ごとに彫琢された詩文は、〈木槌が藁をたたく〉という、まるで砧打つ、という古語を現代に呼び出したようなレトロな質感から始まる。〈あなたの腕に浮かぶ蓮葉の汗〉蓮の葉にころころと転がる露玉。その露玉のような汗が、木槌を打つ〈あなた〉・・・おそらく、筋骨隆々の男性の腕に浮かぶ汗の比喩。これも和風の質感であるがゆえに・・・豆絞りの手ぬぐいをねじり鉢巻きにした、裸体に褌の男、あるいは作務衣を着込んで作業をしている、何かの祭りの支度をしているような男のイメージが浮かぶ。祭りで燃やすための人形(ひとがた)を藁で作っている景だろうか。 2連目では、その藁の人型を芯として、粘土や泥を塗りこんでいるような男の姿が浮かぶ。どこか官能的な手の動きも見えてくる。こうなると、この男は、彫塑像を造る彫刻家なのかもしれない。 3連目、球体関節人形へと、映像がずらされる。塑像から、木製あるいはプラスティック製のマネキンへのスライド。(ひとがた)という祖型のイメージは保たれたまま、質感も情景も、(ひとがた)の置かれた場所も、どんどん移っていく。「ずらし」によるその移行が、鮮やかな手品を見ているようで、なんとも面白いのだ。 4連目で、〈名前を呼ぶ音〉〈わたしを鑿でへつる音〉という文言が現れる。ピノキオのように、語り手が男の作っていた(ひとがた)そのものであることが明かされる、という仕掛けである。〈鑿でへつる〉という古風な表現も、全体をアルカイックなムードで統一する効果を加味しているように思う。 5連目で、ようやく作品の真のテーマが現れる。〈わたしはいつからかわたしだった/わたしになった/わたしになってゆく〉ここに描かれているのは、自らの輪郭、空間における身体を意識しつつある〈わたし〉だけである。〈わたしになってゆく〉のであって、男に無理やり形作られる、のではない。ここで、外部に存在していたはずの男は、語り手に内在する男、自らを形作る自分自身の一要素として、再提出される。 6連目、〈自分がだれなのかは識っている/けれど何かはわからない/きっとわかってはいけない〉とつづられる。知る、ではなく、知識として知っていることを示す〈識〉を用いるなど、細部に至るまで気を配っているとろこにも好感を持った。 7連目、8連目。〈あなたはわたしに釘を打つ〉あなたとわたし、の関係が再度クローズアップされ、打ち込まれる激しさと痛みにおののく。そこに薄紙を張っていくのは、あなた、であって、わたし、ではない。〈わたしが何か〉ということを、最終的に決定するのは、やはり〈あなた〉なのか。最後に置かれた1行、〈あなたが/あなただけが〉に続く〈わたしを知っている〉と読むか、あるいは、この間に置かれた空間を意識して、〈あなただけが〉知る客体と〈わたしを知っている〉の主体を切り離すか。この部分の読み方によって、作品は読者によって異なる相貌を見せるだろう。 以上の鑑賞から、今月の大賞に、「定義」を推したいと思う。 ◆優良作品について ・仲程「飼い主のない猫」については、大賞作品の項で記した。 ・タキザワマジコ「麻酔」は、比喩の力が光る作品。題名には、自らを麻痺させていく、そうでなければやりきれない、という思いを込めているのだろうか。生きていたものを殺し、「正しい」商品価値があるものと、そうでないもの、とに選り分ける。あるいは、〈正しくない〉部分を鋭利なナイフで切って捨てる。自らが行う〈仕事〉に人間の業、畏怖や違和感を感じている鋭敏な精神の働きが、生々しくとらえられている。対象が何であるか、はわからない。しかし、たとえば生ガキを剥く水産加工の仕事であったとしても、リストラを行う人事に置き換えたとしても、あるいは精魂込めて作られた工業製品の不良品を撥ねていく仕事であったとしても、自らの振るうナイフの切れ味に、倫理的ともいえる厳しいまなざしを注ぐ姿勢の鮮やかさは揺るがない。 ・帆場蔵人「泥の月」は、〈心身が別たれ〉るような非人間的な職場で這いずるように仕事をしながらも理想、夢を捨てずにいた〈あいつ〉と、そこから〈脱走〉した〈僕〉。〈あいつ〉の求めていたものと、自分が今、求めようとしているもの、どちらも〈水面の月〉を〈啜ると泥の味が〉するように、見た目は美しくても、偽物であることに違いはない、のではないか。真摯さと、水面の月の象徴性が光る作品だと思う。 ◆推薦作品について ・タムラアスカ「残暑」は、〈一過性の涙、それはスコール〉と、一瞬の感情の荒波を熱帯の天候に重ね、終止形や体言止めを多用したキビキビした筆致で一気に畳みかけるように言葉を重ねていく文体が魅力的な作品だった。短く切り詰めた中で、〈引率者のように這い上がってくる虫〉(虫、とは、泣き虫、のような、内面的、慣用的な〈虫〉と、ぞわぞわする体感のイメージを具現化したもの、と読んだ)〈一過性の焼印、それは日帰りの冒険〉など、思いがけないフレーズに出会う喜びのある作品でもあった。 ・紺「陰」は、遺灰となって散っていく愛しい人への思い、その切実さが伝わってこない、そこにもどかしさを覚える、というようなコメントを記した。悲しみを感傷的に、美しく描きすぎているような印象を持った、ということもある。しかし、作者からの返信を読んで、あえてその悲しみや空虚を避けるように書いた作品であったのではないか、と、今は思い直している。中心を回避するように書く、ということと、回避せざるを得ない、ということの差異。特に、作者のコメント、「いなくなってから美しく感じてしまうこと、そんな愚かな陰を、書きたかった」というフレーズに、美へと逃れようとする人間の性(さが)を描く困難を考えさせられた。 ・じゅう「がじがじ」、ゲジゲジのような題名がユニーク。悪口、陰口、あるいはパワハラ的な理不尽な言葉に傷つけられ、布団から出られなくなってしまう、登校拒否や出社拒否のような状態を想起した。心の潤いを失って、ガビガビに乾燥してしまっている心境。まるで砂漠の中に置き去りにされているような渇望。いっそ、今日を休日、ということにしてしまえばいい、そんな自分を、部屋の隅から見ている、もうひとりの自分がいる。 ・ももいろ「公園の朝」は、コメント欄にも記したが、幼子の足取りを見つめるまなざしが光る作品。自身もともにそこにあろうとする・・・それは、いわゆる公園デビューやら、ママ友とのやり取りやらといった厄介、困難な人事から逃れて、限りなく子供のまなざしに同化したい、という願いの表れでもあるだろう。〈親になんてなれないのに〉の終行に込められた不安と焦燥、人としての誠実さが、素直な文章に浮かび上がる。 ほかに注目した作品としては、夏生「夜長月」、stereotype2085「2019年の花魁 沖縄にて」、渚鳥「お話」、黒髪「声」、タイジュ「おぎゃああ」、二条千河「蜂蜜紅茶」、斎藤木馬「薄明」、夏野ほたる「ラスト・アイス」、こうだたけみ「フォトニックマッハコーンの食卓」、杜琴乃「嵐の前の」、社町迅「青々」、岩垣弥生「さよならの角度」、かるべまさひろ「献花」、なつめ「わたし。」など。 Survof「選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章」と、カオティクル・Converge!!貴音さん「カオティクル・Converge!!貴音さんのLIVE!!!」は、方法論と、作品の強度に圧倒された。構築性の強度、と言ってもよいかもしれない。三浦果実「O my world」は、コメント欄における作者の“詩論”(持論)の展開が興味深く、印象に残った。
B=REVIEW 2018年9月投稿作品 選評 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1161.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-10-13
コメント日時 2018-10-28
まりも さま 優良作品に選んで頂きありがとうございます。泥の月は自分がようやく詩というものが描け始めた頃の作品で、その背景も思い入れがあるだけに一層嬉しいです。
0拝読しました。推薦作品に拙作を選んでいただき、ありがとうございました。
0大変丁寧に読み解いてくださって、恐縮するとともに光栄です。ご推挙ありがとうございます。
0ありがとうございます うれしいです
0選んでいただきありがとうございます。うれしい驚きでした。投稿するのに勇気が必要だったのですが、これでまた勇気が湧きます。ありがとうございます。
0まさか推薦作品に選ばれるとは思いませんでした ありがとうございました
0注目した作品に拙作をあげていただきありがとうございます。うれしい、のですが、なかなか上位に食い込めないので、精進します。何はともあれ書かなきゃ始まらないですねえ(過去作の投稿ばかりじゃだめだーという自戒を込めて)。
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