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うりずん
ひかりが粉になってほほに触れる。 ――うりずん、潤い初めっていうんですよ。いい言葉でしょう。 オオゴマダラの黄金(きん)色の蛹を守るビニールハウスは、朽葉の蒸れるにおいと樟脳のような香気に満ちていた。 ハウスからタクシーに戻るまでの数メートル。軽く肌をしめしていく、うりずんの気配。 人に息をふきかけられたときのインティメイトな感触。 糸満のシャッター街を抜けていく。うすら寒い翳がのどもとにせりあがる。 ――もう本当に、百年ものなんてないんですよ。ようやく作り始めて、まだ七十年やそこらですから。 それでもたま~に、百年古酒(クースー)があるよって・・・そりゃもう、耳かき一杯くらいなもんです、 それでもなんかこう、胃袋にじわ~っとくるんですよねぇ。これが百年ものかあって。 ――歴史の味、ですね。 ――そう、なんかこう、いろいろ越えて、生き続けているんだなあっていうね・・・ いつのまにかサトウキビ畑の間を走っていた。ぼた山のような腰の低い山がみえる。 ビリジャンにカーマインレッドを薄く重ねて、若草色で縁取ったような濃厚なみどり。 ――ああ、あの山ですか。あれは数年前までまるハダカで、赤土が剥き出しで・・・ ええ、米軍の実弾訓練でね。なんかもう、みどり、戻ってますねぇ。そうですか、東京より、濃いぃですか。 時折空がくすんで人肌の雨がふる。ひらいた窓から霧吹きのようにうりずんの雨が触れていく。 雲の切れ間に粉になって黄金(きん)に光りふりそそぐダナエ・・・クリムトのダナエを思い出す。 赤土から無数の白い手がのびて、土くれを抱きしめる。 ふた葉を包み、息を吹きかけ、こんもりと繁茂する濡れたしげみ、朽葉のにおい、濃いさみどりのあふれ出す息。 薄曇りの空にダナエのほほえみが現れては消える。ほほにふれる黄金(きん)色の湿り。そっと舌先で受ける。百年の千年の雨。 金の被膜を破って、蝶が飛ぶ。白い卵殻膜のような被膜に包まれたハウスの中で、蝶が飛ぶ。 オオゴマダラが、空に還る日。ハウスから解き放たれて、自由になる日。 ※BREVIEW杯不参加
うりずん ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1189.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-08
コメント日時 2018-08-23
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
いつか子育てから離れたら、こんな素敵な「大人の旅」をしてみたいと思いました。出来ればひとりで、こんなふうに地元の方からその土地のことを何となく聞くことができるようなゆったりとした旅を。 泡盛はあまり飲んだことがないのですが、染みる感じはなぜだかとても感じることができました。 うりずん、素敵な響きですね。
0詩を書きたくなる、そんな気持ちでいっぱいになりました。今日も今日とて書きます。
0仲程さん 沖縄で霧雨に触れた時、光を浴びているような、不思議な感覚がありました。たくさん悲惨な話を聞いたけれども、まあ、いいさあ、とゆったり乗り越えていくような、逞しさのようなものがあり・・・生命力の分量というのか、エナジーの総量のようなものが、東京のビル街の中に居る時には感じられないものでした。 杜 琴乃さん 家族で行った沖縄旅行でしたが、不思議にひとりひとりが個としてそこにあるような、そんな感覚を覚える体験でした。詩というよりは、旅行エッセイのような散文にかなり寄っていますが、旅先での情感が伝わったのであればよかったです。 かるべまさひろさん ここのところ、内面を掘り下げていくようなものが書けなくなっていて、外界との接触で感じたものに傾いている気がします。内面が枯渇しているということなのか、外から取り入れる時期なのか、よくわかりませんが・・・以前、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』という作品集の刊行イベントに参加した時、出版社はエッセイ集、と帯文を書こうとし、私は詩集だ、と反対して、結局、どちらの言葉も入れなかった、と聴衆を笑わせていましたが・・・朗読するのを聞いたら、そのうねるようなリズムが、確かに詩、なのでした。これは新鮮な体験でした。エッセイと詩の境界、小説と詩の境界・・・について、考えたりしています。
0死ぬときに思い出す詩があるとしたら、どんな詩だろう。やはり、このような懐かしさを持つ肯定性のある詩、がふっと思い出されるような気がしました。細部の記憶はなく「うりずん」と言う名前だけを思いだし、それだけで何か幸福感につつまれていくだろうと。 エッセイと詩、と言うことで私も少し考えてみました。 詩は行ごとに裏切られていくものとすると、「うりずん」と言うこの作品は、リズムに裏切りがないと言う点で、エッセイを読んでいるように感じました。でも、死ぬときの思い出しかたは詩かなあ、と。
0まりもさん、こんにちは。 「うりずん」という題名。これは直接オオゴマダラのことを指すのではなく、この蝶を生む風土の感触を表したものです。沖縄という島の、手触りのようなものでしょうか? それがまず、案内者の沖縄人の口から出ることで、作者(作中主体)の異文化との出会いが演出されます。つまり、沖縄の肌に手を当てて、その体温や血流を感じた、ということ。用意されたリスト通りに決められた施設や景勝地で見せられたものにチェックを入れ、一つ一つに箇条書き風の短いコメントを残していくのは観光旅行。この詩はそれとは全く違う。訪れた場所は >黄金(きん)色の蛹を守るビニールハウス と描写されていますが、描写の本質は図鑑的な知識の確認ではなく、むしろ >朽葉の蒸れるにおいと樟脳のような香気 という、「うりずん」の生々しさです。それが陶酔で終わらないのは、その後でシャッター商店街のさびれようを見たり、かつて米軍の射撃演習で荒廃していた山を見たことから、現実への社会的な視界が引き合わされているからか。 沖縄の人の口からは百年古酒の話も出てきます。「胃袋にじわ~っとくる」という言い方はいいですね。沖縄の風土の中に、確かにこの人の肉体があって、お酒好きの人には腑に落ちる感覚なのでしょう。「耳かき一杯くらいなもんです」という言葉をしっかり拾い上げてくれているからリアルです。 これに対して、雨の「人肌」の感触から導き出される作中主体の五感。肌に触れる「沖縄」がクリムトのダナエと繋げられます。黄金の繭に包まれるように目を瞑り身体を丸めて眠る女性、ダナエ。この黄金は神話ではゼウスが変身した黄金の雨であり、ダナエと交わって英雄ペルセウスを生ませることになる。彼は後に翼のあるサンダルで大空を駆け、アンドロメダに襲いかかる海の怪物を倒します。沖縄の土着の物語が来訪者の感覚の中で昇華され、遠い神話にまでも繋がる普遍性を獲得する、その構図を思わせます。 しかし、描写は再び「うりずん」の沖縄の風土に戻り、季節の持つ官能的な美しさが描かれるのです。 >ほほにふれる黄金(きん)色の湿り。そっと舌先で受ける。百年の千年の雨。 時代を超え、場所を越え、普遍的な官能性が作中の主体の中で花開くのです。 そうして満を持してオオゴマダラ登場。沖縄の命の継承のシンボルがハウスの中で羽化する。この蝶がハウスの外に放たれ、自由を獲得すると言うことは、沖縄が再び自らの足で立ち上がって未来へ歩み続けることに他なりません。沖縄人と作者との共通の願いでもあるのでしょう。
0ひとつの旅を終えて帰ってきました。うりずん、という言葉に導かれて踏んだこともない土地を行きて帰りました。詩のすべてがうりずん、という言葉の質感に集約されていつまでも残っています。
0fiorinaさん 〈詩は行ごとに裏切られていくものとすると〉なるほど、驚きや新鮮な発見がある改行・・・「その先」を知りたくなったり、「不思議」や「謎」が残り続ける魅惑が、詩には不可欠かもしれません。ボードレールの『パリの憂鬱』なども、文章は散文で無理なく読めるのに、なぜ?という「謎」が解けずに残ったりする。詩情と情感の違い、詩と詩情の問題・・・なども、考え続けたいと思います。 右肩ヒサシさん 丁寧で奥行き深い評をありがとうございます。沖縄の場と、その空気の中で強く感じたのが、溢れるような生命力でした。官能的、といってもいいような・・・朽ちていくにおい、腐っていくにおいが鮮明で、そこかしこに滞るように渦を巻いていて、それでいて澄んだ爽やかな息吹のようなものが、吹き通っているのでした。朽ち木を喰い破るように芽吹く緑の迫力など、いのちが色濃く漂っているような感覚があって・・・その中で戦時中の話を聞き、資料館で言葉を失い、高速道路わきの、豪勢な米軍住宅がえんえんと連なるのを見て・・・今もまだ、うまく言えないままでいます。なんども、立ち返ることになるでしょう。 帆場蔵人さん 「旅」を楽しんでいただけたとのこと、何より嬉しいです。ありがとうございます。その土地でしか感じられない質感や空気感のようなものを、うまく捉えていけるようになりたいと思っています。
0拝読いたしました。 友人に昆虫にとても詳しい者がいるので、「オオゴマダラだよ」と実際の蝶を教えてもらったことがあるのですが、この詩をきっかけに検索するまで 生態について まるでしりませんでした。どのような地域にいるのか、どのように珍しいのか また どのような幼虫なのか なにを食べるのかということを 検索で知りました。どうも 本州では見ることのがない蝶なのに、見かけたものだから 友人は驚いていたらしい。そうだったのか。という具合にです。 幼虫は夾竹桃の葉を食らう。…そうですね。ハウスだと樟脳ぽいの匂いなのかー。なるほどお。と、興味しんしんで読みました。 夾竹桃は毒のある植物として有名です。ちなみに、広島の県の花です。そーとーのことがあっても蘇ったという凄い生命力を秘めた有毒植物が夾竹桃ですので、詩文にもある沖縄の悲しい戦火の歴史とも相性の良い植物かもしれません。 雲の切れ間に粉になって黄金(きん)に光りふりそそぐダナエ・・・または、クリムトのダナエ…とは、まるでオオゴマダラの幼虫の金色の姿ような気もいたしました。この詩は、自然の美の根源に 触れているのかも。 羽化するとき蛹の中って、ドロドロになっているのだと聞いたことがあります。だから羽化したての昆虫は透明に近い色しかないことが多いとか。 雲の切れ間に粉になって黄金も ある意味では透明とも言えるかもしれません。 光。なのですから。 うりずん……いい言葉ですね。潤いはじめ…ですか? わたしもドロドロに溶けて自由になることを夢想しました。 うりずん……変身できそうな予感を感じさせる言葉ですね。
0まりもさんのちゃんとした詩作品よりも本作のようなイレギュラーな作品の方が好き。以前に童話作品があったけど、あれも好きだった。本作にある語り言葉、質問に対する答えみたいな語りがある。この語り方って一見、然もありなんな話し方だけれども、絶対にこんな喋り方する人なんていないしっていう違和感を感じる。なんとなく現実からズレてる感覚がするのだ。その私が好きだった童話作品にもそれがあった。それって、まりもさんのレギュラー詩作品には無い。レギュラー詩作品には、綺麗であったり怖さであったり幻想的であったりする表現が、ソツなく書かれていて。 現実とズレたような違和感がある語りの文体にあるもの。それってまりもさんご自身が、日常から得る学びみたいな事柄を寓話にしたい人だからだと思う。
0うりずん。初めて聞いても、いかにも沖縄っぽい響きですね。「潤い初め」という時季をわざわざ名指す言葉がある、という事実が、南の島の風土とそこに生きる人の季節感を如実に表しているように思います。北国育ちには、正直、実感が湧かないのですが…。 しかし本作では、視覚(黄金の光、みどり、赤土、白い手…)や聴覚(会話)だけでなく、嗅覚(朽葉、樟脳)も味覚(百年古酒)も触覚(温感、湿り気)もフル稼働してその季節を体感し、言葉に変えているので、自分も追体験しているような気持ちになれます。最後には、蝶の微かな羽ばたきの音まで聞こえたような。 「エッセイと詩の境界、小説と詩の境界」、よく考えます。歩行と舞踏の譬えはよく引き合いに出されますけれども、リズミカルな歩行もあり、目的地を目指して進む舞踏もあり。読みようによってどちらにも取れる、というのは、大きな魅力だと思います。
0るるりらさん ありがとうございます。蛹を実際に見た時は、文字通り金属光沢そのもので、ああ、黄金だ!とびっくりしたのですが、飛び立った後の抜け殻は、まるで光らない、うすい皮膜でした。鏡のように、透き通った面の内側に光を跳ね返す部分があるのかもしれません・・・ドロドロにとけた肉体の段階も、既に蝶になった段階でも、どちらも輝いていました。あんなに目立つ蛹が、無事に生きのびて来たことが不思議でしたが・・・なるほど、食草の毒を身体にため込んでいるのですね。毒蛇と同様、食べたら危険、のマークなのかもしれないですね。 三浦さん 現実からズレて、いますか(笑) 子どもたちに、ママって相当変 相当、てんねん と言われております・・・先日も、血豆をツバメ、と聞き間違えました。なんで足の指に「つばめ」が出来るんだ、と大爆笑されましたが・・・「つばめ」としか聞こえなかった。ツバメのことを考えていたのかもしれません。前後の脈絡に関係なく、脳内の夢想がつながってしまう、のかもしれませんね。 二条千河さん 人間の五感や身振り手振り、これは万国共通、世代間もある程度共通、のような気がします。絵画や音楽に関しても、もちろんそれまでの経験値や知識体験が影響してくるとは思いますが、言葉以上に「通じ合う」ものがある、ように思います。 そう考えると、言葉の翻訳は、本当に難しいですね。地域、環境が異なっているだけで、同じ日本語を母語とする人であっても、受け取り方がぜんぜん異なる。沖縄戦を体験した方と、そうでない方との間では、「うりずん」そのものも、かなり異なって受け止められるようです。沖縄の悲惨極まりない地上戦が始まった時期が、ちょうと「うりずん」の頃で・・・今でも、この時期の雨に触れると体調が悪くなる方がいらっしゃるそうです。うりずんは血の雨涙雨、という言葉も聞きました。その経験がありながら(そのことを知りながら)自分の体験、体感に正直に書く、ということの矛盾についても、考えています。三浦さんの言う「断絶」が、そこにはどうしても介在するのかもしれません。
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