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ペトリコール
ペトリコール ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2406.1
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2025-02-05
コメント日時 2025-03-05
項目 | 全期間(2025/04/12現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
老犬キタ━(゚∀゚)━!うーんとa.o.iさんの作品は読むとゆーよりは鑑賞するとゆー感じなのだなーと…(僕の場合)生け花とか絵画を鑑賞する感じに似ているよーな(感じ、感じばっか使ってるけどw)ペトリコール…分からんかったのでググリました…ペトリコール(Petrichor)とは、雨が降ったときに地面から漂ってくる匂いを指す言葉です…ほーん、意味を知ってしもうたら、なにやら石のによひが漂ってまいりましたぞ!すうっと眼球のうらに入ってきましたよーありがとうございました。
0三明さーん!よんでくれてありがとーございます。そうそう鑑賞ですね、詩の中に入らないと駄目っすね。読みては自分で行動しないと全然、ダメーでしょうねー。文字読んで意味を理解するだけなら詩じゃなくていいんですけどねえ。なんかまあそういう感覚ってそれぞれのものだからしょうがないかなーとは思いますね。自分はペトリコールのニオイすきなんですけど!なんなんでしょうねあのなつかしーかんじは。最近はなかなかね、ゆっくり感じ取ることもできなくなったなと思いながら、セカセカしてますよね、しょうがないけど。詩作ぐらいはゆっくり自分のペースで行いたいもんですわ
0>どこかしらムダにならんでいるだけ >はぎれわるい紙風船でも >ひとつひつとつを切り取ってく。 今朝の新聞に谷川俊太郎さんの記事がありました。70年以上詩を書き続けられた理由を聞かれた時にこう答えたそうです。 「それは疑ってるからでしょう。詩を疑ってる、言葉を疑ってるから」 そうか疑っていいんだなと、胸がすっとした思いでした。 前者は何か詩の本質的なところを指しているようだし、紙風船と準えたものの面白さを文脈を通して感じました。 ペトリコールの匂い私も好きですね。 世界が一変する前のわくわく感なのかな。
0言葉を疑う、というより、探るほうがより近いと思います。詩は生きているので、書かれている言葉だけを信じても、好意をもって接しないと嘘をつく。自分の感覚を捨てないと みだくないものとして返ってくるんじゃないでしょうか。詩は読み手の予測がつかないもので断片的なかたちでしかありません。ただそれを超えて良いものはある。まあ自分がやりたい形を貫く方向で模索探求してるので、ね、私は私の息継ぎで生きている。だれもついてこれなくても、私は私自身に潜り続けることができる。そういう覚悟。わたしの詩はそういうものとして機能している それだけで(作品と関係ないところで脱線) >世界が一変する前のわくわく感なのかな。 降りはじめの 濯われるかんじ、ありますよね、土砂降りとか童心にかえって見つめてたりしますもん。
0作風変わった?こんなに読みやすかったっけ。以前の尖った個性が失われてしまった気もするけれど、私の好みではあるなあ。 >星座のように、量とからだに夜とした >とびら向こうにリテイクする雲のかたち かっこいいねぇ。カナカナ語の使い方が上手いと思った。
0尖った個性は自然と書けるんで、それは置いといて、自由に書けない方向を模索してますね。でもこれ現フォではあざといって言われちゃいましたけど。落選作ですし。長いもんは相変わらずですけど、でも自分では色々試しているつもりです。完備さんにそう言われると嬉しみですね。コメントありがとうございます
0おはようございます。といってもわたしの眠りはこれからになります。夜中にバイトしてますから、お腹が空くと眠気にも誘われないので、少し食べてしまいますがついついよけいに食べてしまう。それでも三時間と熟睡はできない。飲食すればトイレに行きたくなるからです。つまり相応の歳なのです。 そしてあざといとコメントした人間の一人です。わたしはロボットではありません。 そこで例えにもならない例えとしてポロックを挙げてみたいとおもいました。 ご存じでしょう。アクションペインティング。またはドローイングの技法で有名な現代抽象絵画の巨匠ですよね。 あの絵を観てこれは何々だ!とはっきり解釈できる人は稀でしょう。はっきり言って何が描かれているのかわからない。そういう描き方なのだからわからなくて当然でしょう。画家本人もはじめからそのことは理解されている。はずです。なので観た印象に感想も人それぞれです。わたしはあの柄線が大理石の模様にも見えたりします。複雑に絡まる描写の造形から何か大地の息吹鼓動を感じたりもするのです。 で、この作品も「ペトリコール」。原神とか米津玄師とかよけいな詮索を外せば意味はギリシャ語で「石のエッセンス」ですか。土の匂いですね。しかしながら土の匂いがしてくるのでしょうか? わたしには感覚として来ない。詩のスタイルとしては変形の行間空きで、読めば一行一行で完結して繋がりも認められない。個性を全面に打ち出した前衛的な作りだと思います。しかしですね。意味はなくともこれほど行間を空けた意味が優っているでしょうか?わたしにはそうは思えない。意味はわからずとも助詞も付けられ一行一行はちゃんと文節として読める。一行で完結していて大きく空けられた不規則な行間ですよ。行間を見れば文章もみえてくる(読めてくる) 詩の空間は大事ですよね。わたしは行間だけでそこに置かれた言葉が生きてくるか死んでしまうかの違いはあるのだろうと思っています。 そういう訳で、残念ながらこの行間によって作品全体の言葉が殺されている印象を持ったのであります。 逆をいえばこの一行一行完結された文によって行間が死んでいるともいえる。ちゃんと助詞を挟んで読める文にしたのが結果的に仇になってしまったのではないか。ペトリコールに創造する大地の複雑に絡み合う匂いを感じたりはできなかったのです。あざといは失礼だ。ごめんなさい。
1つまり一行一行は詩文としてもよく書けているのに全体の作りとしては言葉の置かれた動悸を殺してしまった。そのようなあさとさが操作として見て取れた。という印象を持ったのでしょうね。後付けで考えてみれば。むろんあの方は知りませんけれど…
1コレは詩にありがちな語彙がたくさん使われていて、それであざといのかなとおもっていました。まえに 寂然と水鏡でも、あざといと言われたことがありましたが。結局自分の手癖のような方向でないものは、なにかみたことあるような語彙が多いのかなと自分でも、コレは今見ると、上手く配置されていない、あざとさのほうが勝る。目立つ。そんなふうに思っています。 こちらの行間が無駄に空いているのは、まあ同じものを出すこともないだろうと思って、結構気に入っているんですが、行間の意味を問われると、確かに駄目でしょうね。 >一行一行は詩文としてもよく書けているのに全体の作りとしては言葉の置かれた動悸を殺してしまった。そのようなあざとさが操作として見て取れた。 言葉同士が繋がりはするんだけど、なにか上手く作用してない、それは私も気づいてましたね。 現フォのほうが形としてそのままのつくりですが、 「ゆりかごの空洞とは、暴走しなければ意味がない//煤けた革トランクとカラスのハネはしっている/小さなディスプレイ、そこに表示される一列の光点」この三行が初連なのですが、それをばっさり抜いたので、殊更キレイにありすぎるとは思っています。なのでふたりに見抜かれたなと苦笑しましたね。短いものに関してはまだまだ自分の癖を抜くことをまず思ってるので、これからもご指摘いただければと思います。コメントありがとうございました
0初めまして。 途中までは装飾過多な感じはありますが、 (誰も 私を みていないなら)あたりから、とても良いです。 ラストの「老犬」にヤラレました。 ありがとうございます。
0A・O・I さんは、真面目(少し神経質かも?)ですね。 おまるたろうさんの「逆さま」の解答例を、 「逆さま」に書き込みましたので、 宜しければ読んでみてくださいね。
0AOIさんで一番良かった作品のは「クラーク踵の~」ですけど、あれは良かった理由はないか? そしてこの「ペトリコール」は、読みやすくなっているかわりに、先鋭性が失われている感じが(各位のコメントを読んでもそういう意見がありますが)するのは何故か? わたしが関心を持つとしたら、そこになると思いました。ただ、難しい観点ではあります。 かなりパーソナルな雰囲気がしますね。もっと執拗に心象風景に迫って、しゃにむに念写したようなものなら、より心に訴えてくるような作品になったと思うのですが。 本作は一貫して「日常」や「わたし」のスケッチという趣がします。どうしても詩としての強度は弱くなるのではないでしょうか。 部分で読むと、そこそこ意味のとれない喩の集まりですが、「風の吹く砂浜」「軋む椅子」「黄昏」「星座」「ゆりかご」...という一連で読むと、ごく普通という感。各連は「わたし」の心象の一部として機能している。ただ、 >反響に連鎖し、時に破綻をおこすから >まま雷雨にふれた窓ガラスをすりぬけて >とびら向こうにリテイクする雲のかたち ...というように、一部に光るものも感じられます。ただしあくまで視覚的で分かりやすく、「安心」を提示している方向性で、言葉が悪いのですが、やや「キャッチコピー的な」上手さではないか。 レイアウトの工夫は目に愉しいですが、詩の全体と有機的に絡み合っているように見えない、それだけに終わっている。よくみる「お上手な」詩というところに留まります。 想い返すと、「クラーク踵の~」にあったのは、変な喩えなんですけど、トラック無しで、ひたすらしゃにむにラップをしている音源...という趣といえばいいですかね、 良い意味で「狂気」があったように記憶しています。言葉の一つ一つが切り立っていて、物質的でガチャガチャしてたんですよね。
1はじめまして。また随分と個性強強な人だなと思って面白くみていました。コメントありがとうございます。装飾過多は自分の手癖みたいなものですね。老犬。ちょっとやりすぎかなと思いましたけど、ヤラれてくれてうれしかったです。たのしんでもらえたようでなによりです(^^)
1丁寧にお読みくださりありがとうございます。『強度』や『衝撃』についておっしゃっていただいた点、確かに一つの見方だと思います。自分的にはCrackは手癖であり強さと話術、ペトリコールは模索であり読みやすさとやんわりとした情感でした。これ初回の合評会に出したもので、様子見みたいな気持ち、殊更ポイントを抑えて書いたつもりでした。ですから「キャッチコピー的な上手さ」言われたように、読ませるもの、として機能していたようなので、自分的には良く出来ましたなのかなって思いました。 Crackとペトリコールは作風も受け取れる感覚もまったく違うものなので、そういった比較対象にはならないとおもっていたので、意外でしたし面白く読みました。最近は新しい自分から遠いアプローチを考えているので、そういった、真逆の要素を視野に入れて書いてみたいと思ちゃいましたね、なんかおもしろそうですから。 crackの踵、鎮座するうららかな痺れ https://www.breview.org/keijiban/?id=12737 自分は知識のないバカなので、感覚で生きてます。感覚で詩を読んでいるので見解や読解止まりです。どこまでも自分の言葉でしかあらわせないのだなとかんじていますから。おまるたろうさんのように批評の観点ではものは読めませんので羨ましくもあります、まあ馬鹿なんで理論で詩を分析することは難しいです、そんな感じです。そしてどこまでもポンコツな書き手のままでありたいと思っています。おまるたろうさん丁寧なコメントありがとうございました
1信念があり、ロックに思えます。私たちは、世界を壊しては再構築している。観念の中では 全てが可能であり、現実に対するに芸術は新しい世界を提示するという方法をとる。 信念のない、ネコの弾いたピアノではなく、底流する思考のほとばしりが感じられます。 現実に起こったことが、あるとき一つの方向に人を向けるということがあると思うのです。 だから、それまで、自己と世界のかかわり方を、豊かにしていくために、信念が必要である。
1AOIさんは、どうもわたしのことを誤解しているようですが、わたしだって全然知識も理論も使ってないですよ。AOIと一緒で感覚で生きています。
1なかなか難解ですね。 詩を微塵も知らずにこのサイトへ乗り込んできた時のことを思い出します。あの時は本当に頭を抱え込みました。 それでもジッと向き合っていると、うっすらと文章を繋いでいる細い景色が開くような気がして、その光が見えてきたときの喜びと自分自身の中で集中力によって生み出される快楽が、詩を読む原動力になっているんだろうなって感じています。 解は作者の中にあって正しさは読者の中にあるんだろう、そんな事を思いながら自分なりに楽しんで読ませてもらいました。 ガッチリと、明確に形を持った言葉選びをされている印象で、迷う感じも見られない。実際に見た景色を変換されたのかなと思いました。 情景は柔らかく実に穏やかに流れていますね。何度か読み返していると滑らかに繋がっていき、全体的に時間や景色の流れがわたしの中に馴染んできました。 空行は、わたしは技術的なことがわかっていないので。 もしかしたら視点の主が外的要因に対して反応していないのかも、いや、反応しきれていないのかも? なんて思えました。 中から、もしくは外から観測している者。反応する必要が無いのなら、それはそれで世界の平穏の証にはなりそうですね。 雨の中の電車はそういう心境になるのかもな~と想像します。電車に乗る機会が少ないもので想像にはなってしまいますが。 全国的にローカル線の廃線が問題になっていますが、そのあたりも思わせるような最後の収め方でした。 軋む椅子や日傘の辺りが好きです。 心境が少し鮮やかに彩られたように感じました。 そうそう。もう一作品を挙げられていましたね、と読みに行ったんですが、あの作品はわたしにはまだ早かったです(笑)
1詩って難解ですよね、私もただ惹かれるだけで読みなんてまだまだわからないんですが、作者ではあるけど読み手の見解によって新たな側面が見いだせますから、自分が書いたものもどこまでも読み手の気持ちでたのしみたいなと純粋におもっています。 なのでじっと向き合っていただきありがとうございます。 この急激で嫌な雨が、けれど、ふっと雨が香ってくるようなイメージとして、被せるようなtitleをつけましたが。いまってゆっくり電車に揺られるようなことも現実としてできないのですが、過去を懐かしむような断片的なものとしてこの詩はあるのかなと。じぶんでもそういった感覚を受け取って書かされたのかなと思ってます。 一般的にどういった感覚なら受け取れるのか(ペトリコール)、何か明確なことを思って言葉を選んで置く(ひろがりのぼりながらふれていた)そんな感じです。 >そうそう。もう一作品を挙げられていましたね、と読みに行ったんですが、あの作品はわたしにはまだ早かったです(笑) ひろがりのぼりながらふれていたは震災ですね。まあなにが、ではなくて、生と死の間みたいな感覚が伝わればと思ってここに投稿してみましたが。惨敗でしたわw お読みくださりありがとうございました!感謝!
1うー…、何回か読んだのですが、わたしには難しい…本当に作品を読む力がなんだと思います… なので大したコメントはできないのですが(じゃあしなければよいのですが)、 反響に連鎖し、時に破綻をおこすから まま雷雨にふれた窓ガラスをすりぬけて とびら向こうにリテイクする雲のかたち というところ、美しいと思いました。 (それが言いたかったのです)
1コメントありがとうございます。なんかその部分ウケてますねー。作者としてありがたーい。しかし作品を読む力ってなんでしょうね。わたしにもわかりませんが。まあわからないから興味を引くし、わからないから感じるようになるんだとおもいます。まあ信じてなんぼでしょう
1詩が読める/詩の批評 についてChatGPTに聞いてみた。 あなた: 詩がよめる。ってどういう意味だと思う? ChatGPT: 「詩が読める」っていうのは、単に言葉を追うことじゃなくて、その詩の中で自由に動けること なんじゃないかと思う。 詩って、書かれた時点ではまだ完成してなくて、読む人がそこに入ることで初めて動き出すものだと思うんですよね。でも、ただ意味を理解しようとするだけじゃ、詩の中で立ち止まることしかできない。本当に「詩が読める」っていうのは、その詩の世界の中を自由に歩き回れて、自分なりの景色を見つけられること。 たとえば、詩の中の「雨」が、ただの雨として読めるうちは、まだ「読めてる」わけじゃないのかもしれない。でも、その雨が自分の記憶とつながったり、全然違うものに見えたり、あるいは「雨」という言葉そのものの響きを感じられたりしたら、それはもう詩の中を動いている状態になる。 だから、詩が読めるっていうのは、 詩の中に入り込んで、自分の感覚で歩けること 意味を追うんじゃなく、詩の「空気」や「余白」を感じられること 言葉の向こう側にあるものを、自分なりに見つけられること みたいなことなんじゃないかと思う。 結局、「詩が読める」ってこと自体、ひとりひとり違う形をしてるはずで、正解なんてない。でも、もし「詩を読む」という行為が、「書かれたものをなぞる」だけじゃなくて、「その中で動き回る」ことだとしたら——たぶん、それができるとき、人は本当に詩を読めてるんじゃないかなって思う。 あなた: 詩が読める。批評的には? ChatGPT: 批評的な視点で「詩が読める」というのは、単に「理解できる」ということではなく、詩の構造や仕掛け、文体、歴史的文脈、そして詩がどのように機能しているかを捉えられること なんじゃないかと思います。 批評的に「詩を読む」っていうのは、詩を作品として分析することでもあるし、詩が持つ「意味の生成プロセス」を読み解くことでもある。つまり、 詩の形式・リズム・音韻の効果を捉えること 比喩や象徴、言葉の選び方がどのように働いているかを理解すること 詩が持つ歴史的・文化的背景を踏まえて読むこと 詩の内部にある論理や、言葉の配置によって生まれる効果を考察すること といったように、詩そのものの構造や機能を明らかにしていくことが、「詩を批評的に読む」ということになる。 たとえば、短い詩を読んだときに、「なんかいいな」と思うだけじゃなく、 「この詩は行の切れ目がこうなってることで、読むリズムに緊張感を生んでるな」とか 「ここで使われている比喩は、特定の時代背景を踏まえて読むとより深く意味が見えるな」とか、 「この詩の語り手は、あえて主体をぼやかすことで、読者に解釈の余地を与えているな」とか、 そういう視点で見ることができる状態を、「詩が読める」と言えるんじゃないかな。 また、批評的に読むってことは、単に分析するだけじゃなく、詩が「どういう読まれ方をするか」まで含めて考えることでもある。つまり、詩の可能性を探る ことでもあるんですよね。詩は一つの解釈に固定されるものではなくて、その都度、読み手によって違う形に開かれるものだから、それをどう読み、どう解釈し、どう語るか——その批評的なプロセスこそが、「詩を読む」ということの本質かもしれません。 結局のところ、批評的に「詩が読める」っていうのは、詩の構造や意味の生成を捉えつつ、それを自分なりの言葉で解釈し、他者と共有できること なのかもしれませんね。
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