別枠表示
恋
どこからともなくやってきて なにもかもをかえてしまう
ログインしてコメントを書く
恋 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1253.2
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2024-12-10
コメント日時 2025-01-02
項目 | 全期間(2025/01/18現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
類...じゃなくて鯉...でもなくて、恋。 やっぱ恋ってやめられねーよな!
0確かに、恋ってそんな感じのものですね(笑) いつの間にやらやってきて、いつの間にやら消えていく…。
0おまるたろうさんありがとうございます。 類さんと僕は、例えて言うなら、真逆の道から歩いてきて、似たような詩学の空所で邂逅したのではないかと思います。例えばこの作品は二行詩ですが、類さんの昨今スタイルから言えば一行詩。しかも散文詩からの発展としてのそれのような風格がある作風を獲得されています。それは、読点や、会話文の多用あるいは漢字をきちんと使うなどに見られます。意味内容としては類さん独自の批評性つまり実存性が良く表れていることが多く、コミュニケーションのインセンティブの形成、いわば場のギャラリー化に成功していると、僕個人としては感銘を受けています。何がなくとも言葉が作られるのは素晴らしいことで、このネット詩の文脈ではそれがすべてのモナドなわけですが。まあそれは擱きましょう。なので僕と類さんの違いを比較するために戯れにこの作品を類さんのようにリミックスすると、このようなことになるのではないでしょうか。 恋 それはどこからともなくやって来て、なにもかもを奪っていく。 ちょっと変えてみました。奪うの字面のほうが格好が良いと思ったからです。もしかしたらこちらのほうが良いという意見もおありでしょうね。そして僕はそれを否定しません。しかし僕は類さんではありません。これは公開日が来れば分かることですね。しかし僕と類さんはかなり似た所があるなと勝手にシンパサイズしているのですが、類さんの作品にもある通り、アートをするということは自らのスタイルを賭けること。これはアランも言っていたことです。例えばパスカルは神がいる方に賭けました。ドストエフスキーはギャンブル狂でした。言葉はいつもひとつの賭けですね。誰がどう受け取るか、それはいつだってサイコロの目次第でしょう。 メッセージありがとうございました。
1田代ひなのさんありがとうございます。 それはいつのまにかやってきます。それは彗星です。それは煙です。それは地震です。それは歌です。それは鳥です。それは波です。それは意味です。それはいつのまにか消えます。それは人です。それは思い出です。それは生です。それは光です。僕はさっき花を買いました。恋人のためです。美しい花。美しいひと。その花はいつか散るでしょう。そして永遠は永遠に永遠でありつづけ、花は永遠のなかで散り続けるのに、僕は流れ続けるでしょう。あなたも流れ続けるでしょう。それは仕方のないことです。僕たちはいつのまにかやってきます。それは生です。いつか消えます。そしてまたいつのまにかやってくるのでしょう。 メッセージありがとうございました。
0筆名で断定されて読まれたくないとゆーことなのかなーまあ普遍的なテーマだからねー僕の場合、なにもかもはかえられんかったなー真実じゃなかったからかもねー損得勘定・本能欲望の赴くまま思考行動してきた結果がこのざまよぉぉぉぉヒロスエのマジで恋する5秒前ッス
0三明十種さんありがとうございます。 MK5懐かしいですね。匿名のことはまあそうですが、ひとつの狙いとしてはこの作品を契機にして対話をコラボレートすることにあります。B-REVIEWはオンラインギャラリーです。ここからは僕個人の意見になるのですが、ギャラリーというからには、ここは一種のパブリックであるはずです。自分の家ではなく、社会のようであるはずです。自分の洞窟ではなく、原のようであるはずです。ならば、様々な人々が訪れ、作品を鑑賞し、互いに感想を述べたりするということは、この場の血です。この作品はたった23文字ですが、今現在の僕の全てをここに込めました。勿論、詩人はそう主張することができます。そしてそれは事実です。たしかにそこにはありったけ詩情が込められている。しかしあまりにもリアルで身に迫るものであるがゆえに、凡そそれはオリジナルなものです。他人に理解されえないものです。他の誰とも代えられない、その人の必然性に支えられた、vision of kaleidoscopeです。不思議な模様の刻まれた石板は頑然と僕たちの前に聳え、簡単に理解されることを拒絶します。 例えば現在最新コメント順で1ページ目に挙がっているこのスレッドは(https://www.breview.org/keijiban/?id=13959 )コメントされている方々ひとりひとりが真摯に、かつ詩心ある言及をしていてるので、互いの鑑賞が鑑賞され、多方向的な眼差しが元の作品の厚みをもたせ、しかもその周囲からの新しい言葉がもたらされることにより、クリエイティブで多層的な視点が深められていて、当に理想的なコラボレーションによるギャラリー的成功を収めていると個人的には思います。アドラーはアートというものを重視していました。アートは協力の形である。芸術家というものは個々の性質で見れば、けっして協力的とは言えないものもいるが、その業は限りなくひとびとと協力していくのだから、とアドラーは理由付けます。 僕は昔、芸術というものを、詩というものをごくごくプライベートなものだと思っていました。もちろんそういった詩もあります。ただ今は随分と違うように考えています。だから僕の理想も違います。かつて僕は僕だけだと思っていたのでした。しかし今は僕もたくさんの誰かなんだなと思っています。それだっていつまで続くかわからない。かわらないものなんてないのかもしれないですね。 メッセージありがとうございました。
1たった二行ですが、「どこからともなくやってきて」という言葉そのものが、そうそう出てくるものではないと感じました。ここに書かれているのは、あくまで結果だけ。ですが、その背後には、作者が気づきを得るまでの膨大な背景が見え隠れしているようです。 「どこからともなくやってきて/なにもかもをかえてしまう」――この一節は、まるで事故のようですね。恋とは、人生を根底から変えてしまう大きな事故のようにも思えます。「恋に落ちる」という表現もありますものね。 …… あっ! コメント欄に私の名前が挙がっている! しかも、私について言及されているではないですか。 これは嬉しいですねェ。自分の知らないところで、自分の話がされていること。嬉しかったっす……。私も人に認識されているんだ、空気のような透明な存在ではないんだ、と感じることができましたよ。現実世界では誰にも相手にされず、孤独な日々を(以下略 さて、 恋 それはどこからともなくやってきて、なにもかもを奪っていく。 なるほど、なるほど、まるで徳川家康、豊臣秀吉、織田信長の気質をホトトギスの鳴かせ方に例えた句のような変奏ですね。面白く読ませていただきました。確かに、私が書きそうな一行詩だと感じます(笑)。 もし私が書くとしたら、「それは」を省略し、「奪っていく」を「盗んでいく」に変えるかもしれません。はて、私ならどんなふうに書くかな、と考えさせられました。やっぱり、私はもっとストレートに表現するかもしれません。 たとえば―― 恋 恋は可愛い。とても可愛い。頭から噛みちぎりたい。 ――以上、即興で稚拙な一行詩を作ってみました。 ありがとうございます。
2突風、というべきなのか(帽子が飛んでしまいそうで凍えるような格好をするとか)、つむじ風というべきなのか(悪戯なとこ)。でも恋ってこれに尽きるなぁと思いました。
0今晩は 楽しく拝読させていただきました 恋っていいなーと
0類さんありがとうございます。 あたかもマイケル・J・フォックスの後ろからチャック・ベリー本人が現れるようなご登場ですね。やはりこういう短詩をいまB-REVIEWに投稿するとなるとどうしても意識せざるを得ないのがクリエイティブライター類です。こういう形で対話の機会が作られたことを幸運に思います。リミックスリミックスお見事でございました。流石のお手際ですね。リミックスリミックスリミックスもベリーベリーラブリーです。ある事情がありまして今回は匿名という形ですが、その覆いが払われたなら(?)貴様だったかと思うようなケチな当方です。ちょっと文体も変えてます。もろもろのご無礼ご容赦願います。 >その背後には、作者が気づきを得るまでの膨大な背景が見え隠れしているようです。 これはまさにその通りであり、翻れば類さんの作品はもちろん、もろもろの短詩たち、最近のB-REVIEW作品では、mmmさんの作品( https://www.breview.org/keijiban/?id=13681 )や、紅茶猫さんの自由韻律の俳句( https://www.breview.org/keijiban/?id=13964 )、 江世隆さんの詩 ( https://www.breview.org/keijiban/?id=13835 )など全てに共通していると言えることかもしれません。 そもそも日本のポエジーは韻を踏むよりも、音節を調えることを重きに置き、文字としては漢字を受け入れ、明治維新を経て、外国語がわっと入ってきて、いまのように変容していったものですね。その上(これは個人的な考えなのですが)今世界では書き言葉で横溢しています。何の謂かというと、まさに僕が今スマホで文字を打っているように、四六時中地球の至るところで、メールでも、WhatsAppでもなんでもで、言語が交換されています。これは近年しかも加速度的に増していってることでもあります。スマホはもちろん映像も映しましょうが、基本的には文字です。しかもこれは純粋な書き言葉とも言えない書き言葉だと思います。つまり話し言葉のように発想されながら書かれる書き言葉というのが現近のテキストなのではないかと。話し書き言葉。もしそうなら、世界的にある種の言文一致が起こってると考えてもいいのではないかと思うのです。そうなれば新しいスタイルが要請されるのは議論を俟たないし、現に今我々がこういった短詩を、ネットに発表しているのも、そのような新しいスタイル、bossa novaを模索し、創造しているのではないか、つまりある種の文学運動を試みているのではないかと本気で考えています。ネット詩においては全てがSNS化されていく様相を呈しますが、そもそもSNSというものが軒並み詩的行為なんじゃないか、という捉え直しをしてもいいのではないか、ということなんです。この前ひょんなことからケムリさんとお話しする機会があったのですが、あの人はまだどうしようもなく詩人でした。しかも昔より強い言葉を使ってて、やっぱり凄いなと思ったのでした。強い言葉を獲得すると、世界とハンデなしに対峙することができるみたいです。願わくば我々も強い詩人たらんことを。長々しくわけのわからないことを言いました。阿呆の冗舌とご笑納ください。 メッセージありがとうございました。
2らりるれろさんありがとうございます。 風が吹くと、砂粒がその手に押されて、ちいさな波ができます。それは風の痕跡です。風が吹いたという閲歴が、そのまま砂丘の形だとすると、僕の心も、いままでに吹いた、現象や経験によって形作られたはずです。風というものは、気流が時間のなかで言ったり来たりしたものです。そしてそうなら、僕の心も、この世界の風に吹かれた、時間の断面だということができます。そして僕はかつての僕を忘れて、現在の僕を生きていくことになります。すべてが流れている。と過去の賢者たちがいいました。僕はそんな風に明日も流れて、変わり続けていくことになるでしょう。そして恋は、ひときわ強い風。素敵な考え方ですね。 メッセージありがとうございました。
0西川晋之介さんありがとうございます。 恋はいいものなのか、わるいものなのか、僕には分からないことがあります。それはあまりにも僕の情念を掴み、上にも下にも引き回します。プラトンはパイドロスにおいて、恋とは狂気であるとしています。そして狂気というものは、一般にはわるいものだと思われているかもしれないが、実際のところ、この世の中で一番いいものというのは狂気から来るのだと言っています。現に神殿で宣託を受ける巫女たちは最も神聖なものでありながら、人間の条理を遥かに超えた、狂的なものだ。と言います。プラトンは恋というものを、美というものを、天国にいた頃に経験した神々のオーケストラの思い出なんだと言います。その音色は時に恐ろしく、僕を絶望の底まで陥れ、またすぐ月まで襟首を掴んで引き上げ、エクスタシーを感じさせます。 メッセージありがとうこざいました。
1賛同するっきゃない!
1なんと表現すればいいんだろうか。 あの「咳をしても一人」みたいなストレートな感じと、俵万智の詩のようなやんわりとした感じがうまい具合に混ざったような、そんな詩だと思った。
0三明十種さんありがとうございます。 十種さんたちのような新しい詩人たちがこの文化を担いアップデートしていくことを心の底から願っています。最近、恐らく今年に入ってからですが、かなりバラエティー豊かな才能たちが現れていて密かに頼もしく思っています。詩というものは、今かなりニッチというか、マイナーな文化であり、なかなか社会的にも商業的にも認められることの少ないものですが、ひとが言葉を捨てない限り連綿と続く文化です。しかもこの混乱の時代にはますます必要になってくる光なはずです。これは孔子の言葉ですが、そういう逆境にありながら、好み信じ楽しめるようにお互いやっていきましょうね。 メッセージありがとうございました。
0テイムラー隆一さんありがとうございます。 不勉強で俵万智のことはよくわかりませんが、尾崎放哉の句は大好きです(岩波の文庫一冊を持ってるだけですが)彼は本当にSNSのXのように、いわば沈黙のポエジーを呟きました。シンプルなものに美しさを見出すのは、けだし日本の美学です。そしてそれは日本の自然の豊かさ、可愛らしさというところに由来しているのではないか、と推測します。詩歌は地から生まれます。言霊の幸う葦原の豊国。しかしこれは日本の自然が特別に素晴らしいと言っているわけではなく、自然はどうあっても美しく、それぞれ特有の素晴らしさがあり、たまたま日本の場合は、短歌や俳句などに結実した自然環境であるということができると思います。日本はとても水資源が豊富ですし、天災も多いですが、そのおかげでありとあらゆる自然が幸って、たくさんの動植物たちが暮らしていて、基本的に両手のひらをうえにして、それらを待ち受ければいい、つまりユーラシア大陸の西側全般にあるような思想、構築的あるいは、自然を改造しようと言ったような、足し算のシステム作りとはまた違った、引き算の哲学が芽生えたのではないかなとも思います。もちろんそれはどの文化の優位性を示すものでもないですし、あるいは短絡的に、日本語においては素朴さが絶対是であるので、みんな短詩を書いたがよかろうと推奨するものでもありません。むしろクリエィティビティというものは、伝統をあるいは汲み、あるいは無視し、更に他の伝統や自然を参照して、常に新しいものをと志向することに本質があるように思えます。毎日、寿司と焼き鳥と酒ばっかじゃ飽きるんで、今日はカレーとピザと蘭州ラーメンにしよう。みたいな感じですね(?)長々失礼しました。なにはともあれ今年もよろしくです? メッセージありがとうございました。
0