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花鏡
いい詩を書きたいと思うなら、いい詩を書こうとしないことだ。
花鏡 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1092.2
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-07
コメント日時 2024-11-24
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
そのとおりだがこれほど難しいことはない。詩は精神的解脱を試みる超越者が想像やイメージに囚われることなく対象としての省察もしない、虚無者として心理作用に影響を及ぼすヨーガや坐禅の瞑想とは異なるからだ。詩とは動きがあり、常に生の状態で書き込まれる。意識するにせよしないにせよ、感覚というものに作用を働かせる事が重要になる。つまり佳い詩を書こうと試みるならば佳い詩を書こうと思う。その意識は当然の事ながら大事で、その意識が働く心理状態を自己の側面から外面の言語化へと超越して見せればいいのだ。
0いい詩を書きたいと思うなら、「根拠のない自信」を持つことだ
0根拠のない自信を持つことだ。おまるくん、それは単なる阿呆だということで、子供たちを騙そうって魂胆かな?根拠のない揶揄や皮肉はいい加減に辞めたまえよ。明るい詩人が屁をこぐだけだ。
0なるほどですね!いい詩を書きたいという欲を捨てた途端にアイデアが思い浮かんでいく感覚を過去に感じたことがあります★
0助平心が出て、嘘くさいとかね。反省。
0読んで損したよ。 類くん。 ただつらがまえだけはきれいですね、いいこなわるいこ、ふつうのこ。
0ここで言う良い詩とは、ずば抜けた意味での歴史に残るような詩のことを言うのであって、それなりのこじんまりとした良い詩のことを指しているのではありません。僕が舌足らずの部分もあったと思いますが、上記の内容が大前提として話を進めさせていただきますね。 確かに「それなり」のちょっといい詩を書きたいと思うなら、狙い通りに書くことも可能でしょう。どうぞ、コンスタントに生み出していけばいいとしか思えないのです。しかし、ずば抜けた意味においての歴史に残るような天才的な詩を書きたいと野心を奮わせているならば、あらゆる邪念を捨て、無心になって書き、しかもそれが書いた当人の思わぬ方へ偶然に流れ、偶発的に生まれた詩でなければならないのではないかという着想から今回の一言作品を投稿させていただきました。良い詩を書こうとすれば、それはつまらない意味での良い詩になってしまうのです。我々はもっと別の目的を持って詩を書くべきではないでしょうか?今回、問いかけたかった次第です。
0根拠のない自信ほど、危険なものはないですよ。それなりに根拠は必要ですが、最後は運です。もし外れたら仕方ないという覚悟が必要なんです。詩は言葉の取捨選択から成り立っています。どの言葉を使い、どの言葉を使わないか。後になってこう書けば良かったなどと後悔する必要もない位に覚悟を持って言葉の取捨選択をする必要があるのです。もし外れたら仕方ないのです。次、次、次の精神ですよ、重要なことは。
0そうですね、その感覚が最も近いと思うのですが、必ずしも良い結果が伴うとは限らないのです。しかし、良い結果をすぐに欲しがるようでは、最終的にはそれなりの小さな結果しか生まれず、人々からは忘れられ、書いた当人が損することになります。その場限りの結果を求めても熱した石の上に滴る水のようにすぐ蒸発するだけです。何も残らなければ、書いた時間と読んだ時間が無駄になるのです。それでもいいなら構わないのですが、虚しくなりませんか。ですから無心のうちにしかし魂を込めて書いていくしかないのです。半ば諦念に襲われながらも。
1読んで損しましたか。それは残念です。しかし、たったの一行ですから損した時間は短いはずです。お許しください。 いいこなわるいこは、極端な二面性を孕んだこであり、ふつうのこは、いいこでもわるいこでもないので、そういう意味では極端な二面性が欠け落ちているため、いいこなわるいこ、と、ふつうのこは、その性質からして相反しますね。 どちらにしても、僕は、いいこなわるいこも、ふつうのこも、たまに見かけるくらいです。だって、いいこばかりですからね。いいこなわるいこも、ふつうのこも、少ないと感じます。 そうです、少ないのです、そんな作品さえ。
0誰しもわるい詩を書こうと思って書く奴もいることにはいるが、類くん、大前提としてのそれは理解できる。しかし不可能にも刻が進むだけで、その価値は後世の人々が決めることなのです。
0助平心は却って損しますよ。助平心からあの手この手と工夫を凝らしているその時間が全て「嘘臭さ」を看破された時点で無駄になりますからね。ここで言う「嘘臭さ」とはウケ狙いのことですね。逆にその助平心によって救われる作品もあると思います。ウケ狙いで書いた作品がウケることもあるでしょう。(仮にウケたとしてもその内に忘れられると思いますが。)ウケなかった場合は、それはもう悲惨極まりないものです。先に僕は助平心は却って損します、と書きました。助平心はどこからやってくるのかと言うと、決断力の無さからやってきていると思います。優柔不断なのです。甘さとも言えるかもしれません。大切なことは絞ることなんです。何を絞るか? 工夫を絞ることです。やたらと工夫を凝らして解釈の多様化などと装飾的に広げることは、その作品の存在感を却って暈してしまいかねません。助平心など切り捨ててしまいましょう。作品に対して純粋でありたいですね。そうすれば作品も純粋であってくれるはずです。
1それで一向に構いません。読んだら二度と忘れられないような衝撃的な作品が一点でも書けるものなら、比喩ではなく死んでも構いません。死後、評価されることがあるなら、それはもう奇跡レベルで大変喜ばしいことです。何故なら数え切れない数の作品が生きている内に忘れ去られていくというのに、死後評価されるのですよ? こんなに光栄なことはありません、と僕は考えます。
0>最後は運です まじでビビった。 俺、最初「詩で重要なのはスキルじゃなくて運」って マジレス書いたのね。 でもそれって核心すぎじゃん? このサイト、アホばかりだし、もったいないと思って、 上記のアホ向けのコメントに差し替えてたんだけど、、 さすが類さん伊達じゃないね。
1笑わせるコツを聞かれた志ん生は 「笑わせようとしないことだ」 と有名な言葉を残しました。『ウケ狙い』のような外に答えを求める人の作ったミーハー向けの作品は、空気に吐いて捨てることで責任も問われず、一夜の成功の中で光り輝くことを求めた結果の産物であり、そう言った作品が多くの子供を産み育て、女子たちを喜ばせてきたことも確かです。つまりそれはどんな愚作でも、社会的には『成功作』たり得るのかも知れない。 その瞬間的な輝きや刹那的成功を拒否して精神的高みを目指す志ある人間なら、確かにその場限りでの成功作品を作ろうとするべきでは無いかも知れない。しかし、未来に責任をもって残そうとするような普遍的な良い作品を書こうとすることは果たしてどうか? ウケ狙いでなく本当にそう言ったものを作ろうとして作った結果が駄作だった場合、その内容は無駄だったかはわかりません。それは『ウケる』のような外側に答えを求めたものより、内側の思考過程の結果であるからだと思うからです。松尾芭蕉は自身のスタイルを完成させるまでにいろいろな実験を重ねました。それはいい詩を書くための実験だったのかも知れないし、その『良い詩』の基準は『納得のいく詩』だったと思います。良い詩を書こうとして実験していた時期の作品は『いい詩』前の作品だったのかも知れないけれど、その実験自体は『納得のいく内容』を追い求めるまでに必要だったのかも知れない。 外側に全て答えを預け、主体性を放棄した人間はいつまで経っても思考内容が成長しないけれど、外側の反応を気にしながらも、最終的には内側に答えを求めている人間がする思考実験の過程は、駄作愚作の積み重ねでも無駄では無い気がする。
0技術は当然の前提としてあり、カフカのように、一気呵成に書いたものでなければ駄目だ、 という持論を持っている人もいますね。詩とは、必然性に従って、自己発展的に勝手に流れ出して 行くものだと思います。こうでなければ駄目だ、というところまで、精神を込めて かきかきしていくものだと思います。一方で、当然推敲は大事になり、作品に手を加えて、 盆栽のように手をかけることも、大切ですね。もともと日本には、詩という言葉はなく、 歌というものがあっただけだそうです。万葉集という歌の集成が古典として残っている のは、日本の文学にとって、決定的だと思います。すると、詩心=歌心ということが、 言えるのではないでしょうか。
1そうですね、自分のスタイルを完成させることが何よりも先ず大切なことです。失敗は成功の母。失敗をそのままにせずに、失敗の原因を分析して、次作に活かす能力も必要です。何にしても、自分に合った書き方というものがあると思うんです。自分のスタイルを確立するまでは、試行錯誤を繰り返すことになるでしょう。ただ安易にウケ狙いに特化したスタイルでは、長い目で見れば自分が損するだけなのです。書く時間に対して得られるリターンがある程度は確保されているとしても、小さすぎるわけです。むしろ損している可能性もあります。それよりも外れて当然の心構えで、実験的に挑戦なされる方が、長期的には遥かに得です。それが分かっている人が少ないのです。
0黒髪さんは自分のスタイルを完成させている稀有な書き手さんの一人だと認識しています。私は黒髪さんの詩を面白いと思うことは少ないのですが、面白いと思う人もいると思うんです。大切なことは自分のスタイルを確立させることと、そのスタイルを貫くことです。歌の語源は訴えることだそうです。魂を込めて訴え続けることで、いつ日のか俺も黒髪さんの詩に心打たれる日が来るかもしれません。その日を心待ちにしております。
0私がこの作品を通して訴えたかったことは「失敗を恐れすぎるな」ということです。次がありますからね。次も失敗しても構わないくらいです。半年に一度、いや年に一度でも大きな反響を生む作品が出来ればそれで充分に御の字という精神的余裕が必要です。情熱的でありながらクールであるということですね。そのくらいの心構えでいいんじゃないかと思います。
0風姿花伝 本棚のどっかにあったなあ。。読み返してみようかな。。
0昔の友達が言っていた。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。」と。その言葉の意味を俺はまだ探している気がする……。
0バカボンのパパがよく言ってた「反対の賛成なのだ」とゆーことかなーちょっち違うか…「レモン」「3」読ませていただきましたよー図々しく詮索はしないけどねー僕は何に向かって何のために書いてるのか考えるとうすら寒くなりますねー辻褄合わせの小さな博打ですかねー賎しき心あってのものだと思ってはいるかなー聖人ではないのでねー迷ってばかりですよ、まったく。またよく分からねえコメントに成り果てましたねーありがとうございました。
0まぁ単なる逆説なのですが、自分でも割と本質を突いていると思うのです。「レモン」と「3」をお読みいただき、ありがとうございます。僕は百年後の世界に向かって詩を書いています、と言えば笑われてしまうでしょうか、気が違っていると思われるでしょうか。ただ、僕も詩は博打であると考えており、首肯します。聖人からは傑作など生まれないでしょう。少なくとも『葛の葉』を産んだのは、その賎しき心からなのですから、その賎しき心を尊重しますよ。逆説的に言えば、賎しき心なのに書けたのではなく、賎しき心だからこそ書けた、とも言えると思うのです。
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