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セパレータ
いつも日没は反覆だった ごみ箱に弁当の中身を捨てる 箱の中 散らばった白飯が造花のように咲き 今朝解凍された惣菜がぽろぽろと転がる (それだけしかないから) 誰にも見つからないようにすっと 西日の差す教室を後にした あかるい放課後 校庭でふざけあう子供たちのなかに ひとつだけ人形が混じっていた 鐘が鳴っても帰る場所がわからないの と 口を固く閉じたまま彼女は言う あざやかな喧騒が足元を浸し グラウンドはひどくぬかるんでいたけれど 傍聴席に座っている神様には あまり影響はなかった 車窓から眺める風景 乱立するビル群 そのあいだからかすかにのぞく稜線 小刻みにうごめいている黒点たち どれもが形式ばったあやうさを湛え 映るすべてがモノクロに見えた 色を告げるための比喩はとうに擦りきれ 会釈だけが車内にからからと反響しては こみあげる嘔気に からっぽの中身を吐き散らかした ここではないどこか どこかではないどこか 散らばった臓物が造花のように咲いては 一人分の隙間に丸まった私たちは どこまでも水平に運ばれていく 緋色の空を切り分ける高架 血液の流れはたがいに平行をたもち 都市はいきものの真似事をつづける あざやかな喧騒から次々と水は溢れ やがていびつな流れとなって 指し示すばかりの都市の骨格を飲みこんでいく 逆光のふかくに滲む魚影 潜行 いまだあかるい落陽のさなか 横たわってばかりいる母の 枕元にたかく積まれた新聞紙はいつも 遠くの国に住むだれかのことを語ります わかる言葉で書かれているから まるでほんとうみたいでした たとえば 銃撃 という記号 母のからだはひとりで抱えるにはあまりにもかるく こぎれいに小分けにされた惣菜を 毎朝母は解凍し箱詰めします 澱みに沈んでいく部屋のなかで 巻きあげられた新聞紙が蝶のように水にあそび 血塗れのタオルが国旗みたいにはためいている 泳げない母の口からは小さなあぶくが漏れて それは私の知らない言語だった 切り裂かれた肉片や野菜 たくさんの不揃いな訃報が投げこまれ 撹拌されていくつくりものの箱の中で なにひとつ交差しないという暴力 そうして神様は 水没した世界をごみ箱に捨てた かつていきものだったものが 箱の中に散乱してつめたくなっていくのは とても叙情的でうつくしいこと なのかもしれなかった (それだけしかないから) 西日が差す教室も 窓の外の景色もすべてモノクロで なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい ごみ箱の蓋をそっと閉めると ちょうど下校時間を告げる鐘が鳴り 校庭では顔のない人形たちが 命がけの銃撃戦を繰りひろげているのが見えた
セパレータ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1138.6
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-03-04
コメント日時 2017-03-18
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
繰り返される日没。夜は来ない。だから朝も来ない。ゴミ箱に弁当の中身を捨てるという、米粒1つ残しただけで父親から殴られた私には耐えがたいオープニング。丸善の書棚にレモンを置いて立ち去るような凶悪さ。 子どもたちの中に人形が混じっているという。そういえば押井守は「INNOCENCE」において、子どもと人形の関係性について語っていた。果たして、最終連において子どもたちはすべて人形と化した。語り手にとって世界はモノクロームで、都市の中を行く彼はマロニエを見たロカンタンのように嘔吐する。異質な世界と異質な自分。違和感はやがて現実の姿となって母が横たわる部屋を、世界を水没させる。神様が傍聴席に座る法廷で、裁かれる者は誰なのか。なぜ彼は被告席にいないのだろうか。 ここまで書いて、ふと思った。なぜ語り手は弁当を捨てるのか。それは食べる必要がないからでは? だとすると、彼もまた人形なのかも知れない。そもそも人間なんてララーラーララララーラー♪ いや違う、人間なんて最初からこの世界にいたのだろうか。 朝っぱらから様々な妄想をかき立てられる、素敵な詩でした。
0もとこさんこんにちは。コメントありがとうございます。 自分の詩作品というのはなかなか客観視出来ないものですから、他人からの評というのはとても勉強になります。 私もどちらかと言えば茶碗の米粒は一粒も残さずに食べる方ですが、私の場合はマナーとしてというより、与えられるものはすべて受け取ったほうが得じゃん、という打算的な性格からくるものであるような気がします。押井守監督のイノセンス、今度観てみますね。 そういえば京都の丸善、営業再開したそうですね。カフェスペースでレモン料理が味わえるとのことですが梶井的にはどんな心境なんでしょう。ちょっと聞いてみたくはあります。
0歴史上、数多の芸術家たちが挑んだこと、それは「神」を描くこと。 2014年度中原中也賞を受賞された詩人の大崎清夏さんは、その神を『指差すことができない』とした。 また、今、公開中の映画『沈黙~サイレンス~』では、拷問される人間を前に、神は最後まで降臨することはなかった。 本作『セパレーター』の神はどうだろう?その答えを是非、読者の皆さんは見つけ出して欲しい。一体何者がセパレーターなのだろうかと探し出して欲しい。 (また、現代詩ど素人が最上段から語ってしまってすみません) からむくろまさん 投稿有難う御座います。
0三浦果実さんこんばんは。 個人的には詩作品において「神様」と書かれたとき、そこにはもう「神様」という詩句しか残っていないんじゃないかと思ったりもするのですが、どう間接的にアプローチしてもたいていただの形式にしかならないのが書くという行為の苦しくていじらしいところですね。描くというよりは自ずと描かれるくらいのほうが今の私にはちょうどいいのかもしれません。 みなさんが次々と観たことのない映画を紹介してくださるので、自分の浅学さをあらためて痛感し震えています。そちらの映画も今度観てみますね。コメントありがとうございました。 花緒さんこんばんは。 子供はときに私たちの想像を遥かに凌駕する残忍性を発揮しますよね。いつ加害者が被害者になるかわからないという現実もより彼らの攻撃性を煽っている気がしますし、大人社会よりもよっぽどシビアで非情であるように思えますね。コメントありがとうございました。
0>セパレータ とあって、 >いつも日没は反覆だった とあり、 >ごみ箱に弁当の中身を捨てる >箱の中 >散らばった白飯が造花のように咲き >今朝解凍された惣菜がぽろぽろと転がる >(それだけしかないから) >誰にも見つからないようにすっと >西日の差す教室を後にした >あかるい放課後 これだけでもうすごい。弁当という偽物感がえげつない。それが二連目の人形に繋がっていく為の、説得する材料に繋がっていく。ゴミ箱を弁当箱に変える。それは作り物のイメージと呼応しながら、箱を区切られた箱に変換してタイトルと呼応させる。そして >誰にも見つからないようにすっと 捨てるのではなく >西日の差す教室を後にした 教室を後にする、という裏切りがあり、それが >あかるい放課後 になり、最初の一行、日没という反復のイメージを裏切っていく。更には「学校」というテーマをきっちり匂わせていく。つまり、この詩は、僕にとっては最初の一連で示した世界を二連以降で解凍(解答)していく、という展開が目に見えた。最初の一連で叩きつけられた表現という暴力。この作品に込められた表現を理解するには二連目以降の僕にとっては説明的な叙述が絶対に必要。でも一連目で僕は満足してしまった。だからある意味一連目で僕の読書は終わってしまった。そういう発見が弁当箱にあるなんて、今まで思いもよらなかったから。感動した。この着眼はすごい。
05連までは、創世記の大洪水のイメージが、無理のない飛躍で豊かに列挙されていると思います。 6連(唯一3字下げされている部分)にはいわゆる「大洪水のあと」、バベルの塔やら大淫婦バビロンやらの、劇的に歪んだイメージが自然に想起されます。 7連の最高潮では、(冷たい)大洪水と(弁当のための熱い)料理の対流が、ともに【かつていきものだったものが/箱の中に散乱してつめたくなっていく】さまとして収束します。これは人間が【神様】の食い物になっていくさまでもあるのでしょうか。対義的で両価的で、説明もつかないような重厚な情景です。 以上の比喩は、終連まで読み進めないとはっきりとは読めませんが、その終連に、 窓の外の景色もすべてモノクロで なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい このような皮肉が書かれています。慌てて再読するとなるほど描写が、大洪水のあとなんて陳腐なネタに【喩えてやりすごすのはとてもむずかしい】。「気持ち悪い」という【叙情】が、いろんな意味であらゆるものへ徐々に波及していって、7連で破裂したように盛り上がり、終連で一気に下がり。冒頭へ【反覆】し繰り返し。 とても丁寧な、読者にきわめて(この書き手のめっぽうすぐれた既存作品群と比べると驚くほど)親切なつくりだと思います。この書き手がこんな無難(ものすごく強いて悪く言えば半端)に収まっていいんだろうか。。。と、個人的には思いましたが、欠点が見つからないので批判もできません。 * 詩はどうやらこの幻想(むしろ幻覚)を、「自分は創世記の大洪水によって滅ぼされ、死んでいるはずの人間だ。」という前提で語っています。 ものすごく簡単に言えば、「自分は神に見捨てられている」そして「自分も(自分を見捨てた神のように)すべて見限っている」ということが、語られているように感じます。 詩の語る【傍聴席に座っている神様】は、語り手自身の比喩でしょう。神に見捨てられた者が別の神になるという、人類のまさに【反覆】の象徴でしょう。【いつも日没は反覆だった】という出だし、あっけにとられるほど当たり前ですが、その当たり前のことを改めて噛みしめさせる説得力があると思います。 そうして神様は 水没した世界をごみ箱に捨てた 日没の夕焼けも、乱立するビル群に埋まっていくような都市も、校庭でふざけ合う(語り手にはなじめない)人形になっていく子供たちも、嘔吐も内蔵も、ごみ箱に捨てられる弁当もなにもかも、終連で明示される「創世記の大洪水」を、曰く言い難く重厚に示唆しています。繁殖することと滅ぼされることを、絶妙に両価的に暗示していると感じます。 弁当が冷めるように、血の気が失せて人形になっていく子どもたち。色の失せる【モノクロ】の光景がしっくり合っています。あるいは解凍された惣菜のように、熱を吹き込まれて銃を取る人形たち。そのようになれない語り手の、熱を拒むような拒食症とぴったり符合します。そのような収束で、拒食というありがちな話材を、深くえぐっていると思います。 6連の唯一3字下げされている【母】の部分は、つまり回想なのでしょうが、「学校の教室にいるはずの語り手が、その場で実際に見るわけのない場面」です。文字通り【神の視点】ですので、いわゆる「大洪水のあと」のバベルの塔とともに、黙示録の大淫婦バビロンが自然に想起されます。そのイメージは劇的に歪んでいます。 横たわってばかりいる母の 枕元にたかく積まれた新聞紙はいつも 遠くの国に住むだれかのことを語ります わかる言葉で書かれているから まるでほんとうみたいでした 【たかく積まれた新聞紙】は、いかにもバベルの塔ですが、言語が混乱するのではなく「解釈が混乱する」から意思疎通ができないのでしょう。 新聞が報道する他国の情勢を【まるでほんとうみたいでした】と、報道も他国も偽りであるという前提で語る、病的なまでの極端な疑念は、「自分は創世記の大洪水によって滅ぼされた、死んでいるはずの人間だ。」という前提から湧いてくるのでしょう。 その【叙情】をこのように、【うつくしい】理屈で無理やり説明すればするほど、わたしはこの詩の本質から遠ざかる。この諦念を表現する手段を、わたしは一切持たないので、この詩から読むしかないわけだ。相変わらず、この書き手の詩は、手に負えませんわ。わたしの確信している価値を説明できないのがほんと悔しいです。
0hyakkinnさんこんばんは。コメントありがとうございます。 >弁当という偽物感がえげつない。それが二連目の人形に繋がっていく為の、説得する材料に繋がっていく。ゴミ箱を弁当箱に変える。それは作り物のイメージと呼応しながら、箱を区切られた箱に変換してタイトルと呼応させる。 私たちが抱えこめる容量は限られていますから、生きるうえでかさばってくる様々なものをいつかは取捨選択する必要がありますし、何かに関心を持つということは同時に他に無関心になることでもあります。 弁当箱に入っているのがどんなに美味しいものであろうと、食欲のない(食に関心のない)人間にとってはごみ箱も弁当箱も大差ないのではないかと思います。 >この作品に込められた表現を理解するには二連目以降の僕にとっては説明的な叙述が絶対に必要。でも一連目で僕は満足してしまった。だからある意味一連目で僕の読書は終わってしまった。そういう発見が弁当箱にあるなんて、今まで思いもよらなかったから。感動した。この着眼はすごい。 2聯目以降が説明的であるというご指摘はとても良くわかります。 私も詩作の段階で少し冗長すぎるかなと感じたのですが、詩を読む/読まれる場からすっかり遠のいておりましたので、どう読まれるのかということがすっかりわからなくなってしまったのでした。 きっとhyakkinnさんとしては批判的な意味でこのコメントをなさったわけではないのだとは思うのですが、個人的な価値基準としては「説明的な叙述」という言葉で片付けられてしまう詩というのはやはり弱いので、ここは改善の必要があるなと感じました。 澤さんこんばんは。コメントありがとうございます。 ぶっ飛んだ解釈で作者の度肝を抜くことに定評のある(当社調べ)澤さん、しかしながら今回いただいた評は私としてもうんうんと頷かされるようなものが多くて少し驚いたりもしたのですが、これはおそらくこの詩が説明的でありすぎることの証左でしょうね。 褒めてくださってはいるものの澤さんにとってはきっとあまり良い読書ではなかったのではないかと思います。 それでもこんなに丁寧な批評をくださったことには感謝しかありません。その労に報いるためにも、次はもっと解釈に幅のあるような作品を書いてみようと思います。
0読む人と詩人を、つないでいるのに隔てている、 なんてこと詩に意識したことなかったなと思いながら読みました。 語り口なのかな…例えば、 教室で語られる文月悠光のセカイは詩人の言葉で皆をブッちぎりますって感じなのだけれど、 どれもが形式ばったあやうさを湛え 映るすべてがモノクロに見えた 色を告げるための比喩はとうに擦りきれ とか、 西日が差す教室も 窓の外の景色もすべてモノクロで なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい とか、 読む人の言葉と詩人の言葉が擦りあわせられて、まるで併せガラスから見る風景の様。 つないでいるのに隔てている、と感じたのは、この言葉の併せガラスにかも。 冒頭のシーンには、やはり惹き込まれました。 ここは、作者が潜ませているセカイの秘密の様な感性を暴くシーンで、それを目撃させられたことで、 読んでいる私は秘密をシェアし、 教室のごみ箱への「廃棄」に立ち会う、さながら感性の共犯(ッテ、ヘンカナ?)者 にでもなったみたいなゾクゾク感があるシーン。 そして、 併せガラスの風景を作中の話者といっしょに感じて、 あとはワヤワヤこの詩に取り込まれてゆく展開?と思ったら、そうではなくて、 自分の抱える感性の出自なのか、母胎性に想いを巡らし始める作者なのだけれど、 レイアウトも段下がりでプライベート的な内省に入っているので、分かりやすい作り。 ラストは、 校庭の子どもたちが顔のない人形になるんだけれど、 ここは、作者の感性が形成したセカイというより、 むしろ自分のとは異質な他の感性たちをもたらしている存在への認識なのかなと思いました。 セパレータ、separatorなんて、う~ん、さすがのタイトルですね。 色々なことを指しているようです。 弁当箱、ごみ箱、教室、校庭、といった目の前の空間を隔てるもの。 神様、感性、言葉、母胎からの誕生、といった隔てる力をもつもの。 それと、 詩篇全体にシークエンス感がやや強くでているので、 シナリオ・ライティングに興味が傾いておられるのかなという印象をもちました。 もしこの作品の主役が、話者ではなく、「神様」とかなら、 主役が語られるだけで登場しない、 という、わりと最新のシナリオ・タイプにも向かっておられるのかなと思いました。 カジュアルでバランスよく作られていて、 作者の作品イメージからは、ちょっと意外な(スミマセン)感じの親切さを感じました。 久しぶりに御作を読ませて頂けて、メッチャうれしかったです!
0※ コメントを訂正させて下さい。 上に入れた私のコメントの1聯目、 作品からの引用を示すために、行頭に半角で「 」をつけたのですが、 始めの半角記号は認識されなかったみたいで、半角スペースだけの表示になっているのに今気づきました。 すみません。 引用がわかりにくいので、下記の様に(行頭に全角の「> 」をつける)訂正をさせてください。 > どれもが形式ばったあやうさを湛え > 映るすべてがモノクロに見えた > 色を告げるための比喩はとうに擦りきれ とか、 > 西日が差す教室も > 窓の外の景色もすべてモノクロで > なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい
0からむくろまさん、こんにちは。 筆名からカラムクロマトグラフィーを想像しました。わたしの研究室では物質の乾燥や分離などによく使っていたようです。 それはさておき、この詩ですが、縦書きだとまた違った印象になるような気がします。つまり、紙媒体があなたを待っている! と言いたいわけです。銃撃という記号というワードで思い出したのは、1Q84でチェーホフの引用がされるシーン。銃が書かれたなら、発射されなけれぼならない、というこの印象的なメタファは、この詩の中では発射されたタイミングが曖昧にされて、いい効果を生んでいるように思われます。
0無駄なく、流麗に流れて行く文体、読ませることに長けた作者だと思いました。 生きるやるせなさ、生身の感覚を放棄してその重さに耐えている日常、そのゆえに獲得する、淡々と「物を見る目」・・・ 感情の流れがドラマティックに盛り上がり、それでいてロンドのように、安定して収束する。古典派とロマン派の境目の音楽のよう。 内容をドキュメンタリーのように克明に描写していったら、重すぎて読むのがつらいでしょうね・・・流れにのせて、静かに歌う、このスタイルだと、笹舟に自身の苦悩を身代わりにのせて、小川を流していく、そんな印象を受けました。
0●すずらんさん こんにちは、コメントありがとうございます。 詩作にあたっては可読性を一番大切にするようにしています。 やはり人様に作品を読んでもらう以上、読みやすさは考える必要があると思います。 さらに理想を言えば、「読めなくても読めるような作品でありたい」あるいは「読み取らせなくても読み取れるような作品でありたい」というのが詩作における個人的な命題です。 いただいたコメントを見るに、今作においてのみ言えば課題はそこそこクリアできているようなのでひとまずは安心しています。 >教室のごみ箱への「廃棄」に立ち会う、さながら感性の共犯(ッテ、ヘンカナ?)者 >むしろ自分のとは異質な他の感性たちをもたらしている存在への認識なのかなと思いました。 たとえば読まれることを意識して抒情詩が書かれるとき、そこには作品に落とし込もうとする書き手の手つきがあって、おそらくそれは純粋な叙情とは反発しあうものだと思うんです。作為的とでも言い換えましょうか。 かたられるとき語り手は既に当事者ではなく、伝えようとするほどに感傷は脚色されていく。 書くという行為においては誰もが傍観者であり、他者なのではないか。 そういう一種の懐疑心のようなものが語りに根ざしているのだと思います。 こちらこそいつもいつも評をいただいてとても感謝しています。ありがとうございました。 ●kaz.くん こんにちは、コメントありがとう。 クロマトグラフィーはグラデーションが美しいので好きです。カラムクロマトグラフィーはちょっと汚い気もするけれど。 1Q84はあまりにも話題だったので読んでみたのですが、春樹作品の中でもそれほど良くない(寧ろぱっとしない)気がしたし、あれほど大衆に受けるような作品だとも思わなかったのでうーむという感じでした。(ちなみに私は世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドが好きです。) 紙媒体に投稿したときに自分の詩がどのように映えるのかというのはたしかに気になるところです。個人的にはあまり親和性が高くなさそうなのですがどうなんでしょうね。 ●まりもさん こんにちは、コメントありがとうございます。 読みやすいと言っていただけてとても嬉しく思います。 すずらんさんへの返信でも触れたとおり、なにかを語るときの懐疑というものがおそらく視点としてあらわれているのだと思います。 そういうよそよそしさが語り手を神様たらしめているのかもしれません。 それから個人的には、泣きたいときに大声をあげて泣くというのもひとつの立派な技術だと思います。今の私が見失いつつあるもののひとつです。
0大変よく練られた内容だと思い、感心致しました。 伝えたい気持ちが作品を書く動機としてはっきりと明瞭に存在しているように感じました。
0●ピンクパーカーさん こんにちは、コメントありがとうございます。 そうですね、書くべくして書いていたいとは常々思っています。しかし、伝えたい気持ちが強くあらわれればあらわれるほど詩というものから遠ざかっていくような気がして、どうしても漏れてしまうものをどうにかうまく隠そうとあがいている、というのが一番近いかもしれません。
0初めまして。 僕の世界系の作品は作者の魅力を如何に出し切るか、ですが上手く幕の内弁当
05or6さんはじめまして。気づかずに返信が遅くなってしまって申し訳ありません。 仰ることよくわかります。私もカツカレーとか好きです。しかしここ何年も食べておらず、あのいかにも体に悪そうなカロリーの塊が恋しいと感じる時もありますね。自分でそういうものを調理できたらいいんでしょうけど、まだまだそこまでの腕前はなさそうなので、とりあえずありあわせのサラダや漬物を量産し続けているような状態なのかもしれません。
0初読のときは、あまりピンと来ませんでした。 私は詩の読解が未熟で、ちょっと象徴的な言葉が並ぶと???となってしまうし、結構いらちな性格なので、ぱっと匂いで判断して(犬だけに)興味がわかないと、中々理解しようという気にならないのです(短絡な人間です) だから、さらっと読んで、「日没は反覆だった」も「ちょうど下校時間を告げる鐘が鳴り/校庭では顔のない人形たちが/命がけの銃撃戦を繰りひろげているのが見えた」も、ごく当たり前のことじゃないかと思え、そこからは空しさ、程度の心象しか読み取れませんでした(この時点で、私は反覆を反復と勘違いしていました…)。 しかしなにか気になって再読すると、「横たわってばかりいる母の~」の連が引っ掛かりました。 さらに続く連での、「泳げない母の口からは小さなあぶくが漏れて/それは私の知らない言語だった/切り裂かれた肉片や野菜/たくさんの不揃いな訃報が投げこまれ/撹拌されていくつくりものの箱の中で」ここは空虚な母の言語=精神世界を現していると感じました。 続く、「なにひとつ交差しないという暴力」という一文(この詩の中で一番印象に残りました) 肉親という子供にとって最も重要である他者と意思の疎通が取れない(分離され、区切られている)こと、その苦痛。 これが、最初に読み取った空しさ、と重なった時、その空しさがごく当たり前のものでなく、複雑な味わいを持つものとして浮かび上がってきて、夕日の色に重なり、鮮やかな日没の赤オレンジ色のイメージが浮かんできました。 そして、反復ではなく、反覆であると気づき。 その心象は空しさではなく、むしろ母親の世界に反旗を返す(子供にとってはかなりカタストロフな出来事)、というような感じなのかと思い始めました。 この一見静かで淡々とした印象の詩は、実は崩壊を描いたものなのか(気づくのが遅い)と。鮮やかな日没の赤はその象徴。 しかしまだ分からないところがあります。例えば、子供たちのなかにひとつだけ混じっている「人形」「傍聴席に座っている神様」など。 もっと深く読み込みたいので、また再読してみようと思います。 「phosphorescence」の方も気になっていますが(こっちは個人的には好みの雰囲気で、最初からいい匂いがした)、まだ全然「読め」てないので、また後で感想を書けたらと思います。
0白犬さんこんばんは。コメントありがとうございます。 >ちょっと象徴的な言葉が並ぶと???となってしまうし、結構いらちな性格なので、ぱっと匂いで判断して(犬だけに)興味がわかないと、中々理解しようという気にならないのです(短絡な人間です) とてもよくわかります。私もまず全体をざーっと眺めたときにうっとなるような詩句が目に入ると途端に読むのをやめてしまいたくなることが多々あります。 それでも白犬さんが読んでくれる気になられたというのが作者としてはとても嬉しいですし、さらにはこうして評までいただいてしまって感謝しかありません。 「反覆」は当初「反復」だったのですが、反復でもあり反覆でもあるということでこのようになりました。 >「なにひとつ交差しないという暴力」という一文(この詩の中で一番印象に残りました) 私もこのフレーズは結構気に入っています。なにかと関わったりすれ違ったりするのって結構エネルギー消費しますからね。私なんて外出時は誰とも関わり合いにならないように上野クリニックの広告みたいな格好で目を伏せながら歩いているのですが、そうするとなんだか紺色の服を来た方々が誘蛾灯にたかる蛾のようにどこからともなく寄ってくるので困ってしまいます。 「phosphorescence」は読み手からしたらちょっとレスがつけにくい作品だろうなとは思います。 簡単なものでいいですから、お暇な時にでも軽くコメントしていただければ嬉しいです。どうもありがとうございました。
0不思議だなあと思ったのは、「校庭でふざけあう子供たちのなかに/ひとつだけ人形が混じっていた」人形が、最終連になると「顔のない人形たち」と複数になることです。この私が見える世界に変化が訪れたのでしょう。というのも、新聞紙で目にした「銃撃 という記号」をもとに、校庭での様子を「命がけの銃撃戦」と意味づけしていることからも、この私にとって、この世界の見え方に変化が訪れたのがわかります。 新聞紙に書かれていることは事実かもしれません。ただ、この私に限らず、僕だって、新聞紙に書かれているのはあくまでも文字であって、本当に起きているかどうかは、そこに行ってみないと確証は得られません。逆に言えば、この私は読んだり聞いたりした物語よりも、いまここで見ている世界に対してより信頼感を抱いているのでしょう。 その見え方に変化が訪れる契機はどこにあったのでしょうか。この私にとっては、 「いつも日没は反覆だった」はずです。その繰り返しをただの繰り返しとやり過ごすのではなく、人形が増え、物事を銃撃戦と捉えられるようになったのは何故なのか。 そう考えると、この私は常に物事をなにかに喩えることを求めて続けている姿が見えてきます。「西日が差す教室も/窓の外の景色もすべてモノクロで/なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい」と述べながらも、目に映る景色をなにかに喩えてやりすごすことがこの私にとっての生きる術となっているのでしょう。そこから、改めて最初から作品を読み直すと、この私の世界の見方が自然なものと思えてきます。 ただ繰り返される=反覆されるものは、ついついやり過ごしてしまうものです。その景色をなにかに喩えること、つまり、ついつい私なりの意味づけをしてしまうことで、世界の見え方に変化が訪れます。 それは作中から離れ、今を生きる僕たちは、景色はそこにあるはずなのについついやり過ごしてしまう。そこに意味づけを出来ていない無責任さのようなものを思い直しました。
0壮大な物語のようであり、個人の物語のようでもあり、救いがあるようで、救いがあり、気が付けばこの詩の世界にからめとられるような、そんな魔力のある言葉の集合に感じました。
0各連のイメージが絶妙なバランスで関係しあっていると思った。意味がわからなくならない手前の暗喩が一番読んでいて気持ちよい
0なかたつさん、こんばんは。コメントありがとうございます。 丁寧な解釈で書き手としても大変参考になりました。 >今を生きる僕たちは、景色はそこにあるはずなのについついやり過ごしてしまう。そこに意味づけを出来ていない無責任さのようなものを思い直しました。 まあ母親の弁当をごみ箱に捨てている時点でまっとうな話者ではなさそうではありますが、こういう世界との関わり方をしている人間も実はそれほど珍しくもないのかなあと思います。諦念といえば諦念ではあるのですが、ある意味ポジティブに生きるための思考整理とも言えるかもしれません。 懐にしのばせた神様のお面をつけたりはずしたりしながらうまくやり過ごすこと。詩を書くという行為もそういう神様としての所作のひとつかもしれません。 葛西さん、こんばんは。コメントありがとうございます。 ちょうど私が詩を書き始めたばかりの頃の文学極道でよくお見かけしておりました。 >壮大な物語のようであり、個人の物語のようでもあり、救いがあるようで、救いがあり、気が付けばこの詩の世界にからめとられるような、そんな魔力のある言葉の集合に感じました。 まさにそんな詩を書かれる印象のある葛西さんにそう言っていただけてとても嬉しく思います。解釈の幅が広く、かつリーダビリティに溢れる作品を理想としているのですが、やはり詩作をするたびに両者のバランスの難しさを痛感しますね。精進しなければなりません。頑張ります。 祝儀敷さん、こんばんは。コメントありがとうございます。 >各連のイメージが絶妙なバランスで関係しあっていると思った。意味がわからなくならない手前の暗喩が一番読んでいて気持ちよい この作品は読みやすさを念頭に置いて書いたものなので、そう言っていただけてひとまずはほっとしています。ただ、欲を言えばもうひとつ上の、「わからないけどわかる」ような作品を書けるようなバランス感覚を身につけていきたいなとも思っています。色々試していくつもりですので、よかったらまた読んでやってください。
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