蝉の声に誘われて新薬師寺に行きたくなった
白毫寺に行くなら新薬師寺から歩くに限る
夏は日が長い
盆も近い
山から先祖が舞い戻る
高畑から細い路地をずっと山に登る
写真館を通り新薬師寺についた
新薬師寺から山辺の道を歩く
空き地にはコオロギの声
緑がむっと香る
ナラの山
バーチャルと現実が近づく
山辺の道を歩くと神社についた
鳥居には丸いしめ縄
神の世界に入り身を清め祈る
昭和の古い町並み
時間と空間が相対化する
さらに山辺の道を歩く
路傍の地蔵菩薩に手をわせる
左に曲がると白毫寺だ
白毫寺の階段を登ると生駒山麓が一望できた
西日が奈良盆地を照らす
生駒山麓の空の向こうは西方浄土
飛行機雲は西に向かう
白毫寺を出て右に歩くと公園があった
緑が香る
父を呼ぶ娘の声
フリスピーが空を舞う
命は儚い輝きを次の世代に
ずっとこの土地で繋いできた
人もセミも同様に
クマバチが飛んでいく
西日が田を照らす
若い稲穂の香り
若い稲穂はその緑に
秋の豊穣をすべて秘めている
田の脇の道なき道を行く
羽虫がうっとおしい
脇道には大きな蜘蛛
黒く美しく立ちはだかる
蜘蛛を避け進むと人の道に戻った
地蔵菩薩が出迎えた
守ってくれていたのだ
感謝し合唱
西日が落ちた
家に帰ろう
奈良盆地に夜が近づく
限りない無限の宇宙の
本当にちっぽけな地球とさらにちっぽけな命
その儚い輝き
ファンファーレがなる
鹿が教育大の芝生を食べる
また新しい命がこの地に来るのだ
湯の音が聞こえる
もう夕食だ
私は高畑の交差点を目指し帰りながら
再現不可能な経験や知を形にしようとする儚い抵抗について
思いを馳せた
帰りのバスで
山の辺の道とはなんだったのかと訝しんだ
作品データ
コメント数 : 5
P V 数 : 936.5
お気に入り数: 2
投票数 : 1
ポイント数 : 9
作成日時 2022-06-29
コメント日時 2022-07-04
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 3 | 3 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 9 | 9 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 2.5 | 2.5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0.5 | 0.5 |
エンタメ | 1.5 | 1.5 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 4.5 | 4.5 |
閲覧指数:936.5
2024/11/21 23時32分37秒現在
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日本人の心と言った感じがしました。明日香村とかは出て来なかったですが、大和朝廷的なコンテクストは読む行、読む行に感じました。山の辺の道は文字通りの一般的な道ともとれるのですが、確か固有名詞であったようなそんな気がしました。
1ありがとうございます。実在の道です。ただ、その道を歩いたときに心によぎったことを書いただけです。お恥ずかしいながら。。明日香は奈良から地味に遠いです。。明日香に行くことがあれば、考えてみます。https://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/yamanobekita.html
0表題に「の」の字がついていると 無意識に日本人はそのリズムに 刺激と心地よさ得る 日本語の作法はよく知られていますが ここにはのの字がふたつも並んでいます。 「の」が語句を区切り連結する効用で そこにはある情緒が生じますが 「の」がふたつもありますと そこには切迫とまがまがしさが漂うようです。 そう思いながら読み始めますと あたりまえになっている常套句や 刺激のない語句が歩き出し 「ここ」「あれ」などの指示詞を使わず 何度も寺や稲穂や道などの名詞たちを しきりに繰り返しながら歩く 言わば「裸の大将 山下清」の独白がごとくに 山辺の道をあれやこれやと発想を気ままに転じながら そぞろに歩くさまが見えてきます。 「家に帰ろう」 「もう夕食だ」 と直情のままにつぶやきながら 帰りのバスに乗り込んだいなや 「山下清」の眉間は狭まり 日本書紀に公式に記載された認知された 日本最古の道を1300年以上の 隔絶された時間の向こうで 誰かが歩いていたことを想えば 悠久なるものに感服する──のでなく (なんだか気持ちの悪い道だな…) と訝しむ表情が急にあらわれ 無為な紀行文的歩みが 最後の1行で不穏に急転するさまが 心をつかみました。 私も三輪山の大神神社わきから 南の桜井の方に少しだけ 歩いてみたことがありますが 住宅地をぬったり 竹林の昼なお暗い細道を通ったりで 一度通して歩いてみたいと思っていました。 奈良の盆地に広がる何の変哲も無い田畑の 農道や細いあぜの一本ですら 千数百年のあいだどれだけの人間が往来したのか。 それに比べて東北や北海道の田畑のあぜや野道が 千数百年のあいだ数えるほどの人間しか 歩いていないだろうと想像するだけで 少しの戦慄をおぼえてたことを 思い出しました。
0とても、写実的です。 その中に、過去や未来と呼応し、流れ去るべき時間が仮の形となって一時とどまる、ファンタジー的なものを感じました。 命が儚いという類いの言葉は、擦られまくった表現な気がします。時間空間の壮大さとの比較に、もっとユニークな言葉があればと思います。
0限りない無限の宇宙の 本当にちっぽけな地球とさらにちっぽけな命 その儚い輝き ほんとうですね。
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