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2020年
時間性は記憶性であり、空間性は感覚性です 私達は 時間の延長を記憶をして把握し 空間の延長を五感をして把握するので それからそれらは大まかに観念唯心論と感覚唯物論であります 伝説上カントによる両者の合体は、時間と空間とを人類の理性による創造物と位置づけて、人間の思考の真実性を物の事実としての存在から遮断することを目論んで、思考の矛盾と混沌からの脱出を試みたものでした。 そもそも真実性というものが我々を記憶性の生き物にする因子であるかも知れないのです。 つまり自動ドアも監視カメラも電車も物質が理性的なかたちを取りますが、なにぶんカントの時分は自動ドアも監視カメラも、電気式鉄道車両もなかったことでしょうし、先人の理性が幽霊的に実体形象を取る世界に住んでいる我々とはある程度、物質的な状況がちがうのです。 ところで、文脈(コンテクスト)の部分と全体の正当性を、ある程度名前が担保することがあります。「ますらをぶり」とか「たをやめぶり」とか「幽玄」とか「さび」「いき」とか、それ自体、目的になりうる正当性が与えられます。 「詩」という名前の背後には広辞苑の2〜3行の説明文が取りこぼす膨大な文脈が、言葉による思考の作業分担によって有機的に拡大を続けているのです。 名前の背後の文脈は、歴史の問題で、歴史は主に以前の時間を問題にする知識ですから、空間的にほとんど意味を持ちません。 時間が空間に対して潰食するなら別ですが(寧ろ多少時間が空間を侵している方が健康的です)、 言語による継承に依るところの歴史知識が、ほとんどが神話に回帰する時間性が人間の理性による創造物たり得ないことがありえましょうか? それは唯物的に推理可能でしょうか?
2020年 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 777.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2022-06-09
コメント日時 2022-06-10
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
今は比較言語学とゆーのがございまして、言語学的『再建』という作業から2千年前わたしたちがどのようなスピードでどのような言葉を話していたか明らかになってきています(実際に再建・復元した音声も研究者から聴けます)。 この比較言語学から更に文献学、神話学、考古学、地理学、宗教学、人類学などなど、さまざまな分野の学者さんが横断的に研究、調査、論議することによって、かつては神話の世界のことだけとも云われ、我々が知り得ようもないことまで、学術的に嘘か真か立証できる時代になりました。つまり、ドラえもんのタイムマシンがなくても神話時代遥か古代のことはハッキリ分かる、ということです。 例えば半人半神と云われたかの、ザラシュトラなどの存在などが「まじでいたんじゃねえの?」と各方面から議論されるようになっとります。
0コメント、ありがとうございます。 魏志倭人伝を解読しました!という動画を見たことがあります。面白いですよね。 言語を分析することであらゆる言葉が等価になって、意味というものが完全に一本化して解き明かされたとき、私達の文化や政治的衝突、個人的人格さえも意味をなさなくなるかもしれませんね。
0コメント、ありがとうございます。 時間は記憶の上にしか捉えられないような気もするし、時間というものを感覚的に理解できるような気もしますね。 空間は感覚的に捉えられるように思えて、空間を捉えようとしたとき、捉えようとするそれはすでに記憶であると言えるかもしれません。 記憶と感覚は分けて考えられますが、境界が曖昧だと思います。 始まりが曖昧な長い感覚を、どこかで現在と区切って記憶にしているような気がするし、感覚そのものを捉えることは不可能で、外界からの情報はすべて記憶としてしか扱えないような気もします。
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