時間の流れという錯覚のなかで - B-REVIEW
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時間の流れという錯覚のなかで    

<批評対象作品>
夏至祭は終わった


 よくわからない詩だと感じると同時に、何故か惹きつけられることがたまにある。御作も私にとってはその筋で、何度も読み返した。  さて、表題にもある通り、夏至祭が行われて? 其れが終わり、過ぎ去った秋の到来を告げる順序で構成されている本作に、不思議に時間の流れが感じられない。其れは、その流れを拒むような断絶が描かれているからだ。  語りは時折、時間の概念を忘れる。若しくは意識しない。呆けたような語りでもって、しらばっくれてしまうのだが、其れは我々の知覚する現実に近いというか、現実そのものだ。先に書いた通り、時間は人間が勝手に作り出した単なる概念であり、存在するわけではない。  さて、少し逸れるが、時間についてこういう考え方がある。何と呼ばれているのか行動の名前は忘れてしまったが、雪が積もる地域に棲む鳥が冬のあいだのたくわえとして、雪が降る前にトカゲやカエルを木の幹にくちばしで打ち付ける。鳥たちが獲物を打ち付けた位置つまり地面からの高さによってその冬の雪の深さがわかる、というのだ。  動物たちのこういう行動を知ると人間は「前もってわかる」とか「事前に察知する」とか「動物の予知能力」というような言い方をするのだが、それは動物たちにとっては「前もって」ではないのではないか。突然の雷雨の前に鳥や蝶が巣や物陰にひそんだり、乾季の前にサバンナに棲む動物たちが水場へ向かって大移動を開始したりするのも行動としては同じだ。動物たちが感じている天候や気候というのは、種ごとに数時間先の天候とか二ヵ月先の気候とかまで"今"としての拡がりを持っていて、人間が思い込んでいるような"先"つまり"今と線が引かれた別の時間"ではないのではないか。  人間だってうららかに晴れた日に突然強い風が吹きはじめて、そのうちに真っ黒い雲がかかりはじめれば、「雨が降る」とわかる。人間はそこに時間の経過という項を入れて考えてしまうから"予測"になるのだが、"今"というのが一時間ぐらいの幅があると考えたら、雨はもう降っている。気象でいえば、突然強い風が吹くのと真っ黒い雲がかかるのと雨が降るのはワンセットだから、ワンセットの気象の最初がやってきたら、そのワンセットが終わるまではひとつづきの時間だ。  気象でなくても、「今ならまだ間に合う」と言うとき、その"今"は何時何分というパンクチュアルな時刻を指す"今"のことではない。それは「今日」のこともあれば、「今月」のこともある。場合によっては老化防止のように「三十代のうちにはじめていれば間に合う」ということだってある。こういう"今"の使い方をするとき、人間だって動物と同じくある結果が訪れる未来の時間かその手前までを"今"にしているはずだ。  御作は、「終わった」と告げながらも、今と線を明確に引かないことにより、逆説的に、今を描いたといったら言い過ぎだろうか。私には全体がひとつの今として映る。読むという行為は順序を追うものだけど、私にとって本作は、読んだというより、映ったに近い。大袈裟に言えば、観たとか、目撃したというところか。  ❇︎夏至祭については、他の方が既に書かれておられるので、そちらに譲ります。



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作品データ

コメント数 : 0
P V 数 : 1031.5
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投票数   : 0


作成日時 2021-12-03
コメント日時 2021-12-03

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