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死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について
序. 第二詩集『地中の武器』を上梓した翌年の昭和三七年に、黒田喜夫は「『灰とダイヤモンド』の死者たち」というエッセイを書いている。ポーランドの作家、イエジイ・アンジェフススキーの小説『灰とダイヤモンド』に関して、この作品を原作とし、アンジェフスキー自身も脚本に携わった映画『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダ)と比べながら、物語に登場する死者の在りようの違いに言及したものだ。黒田はいう。 この作品のなかの死の連鎖の特徴は、またどうしても否定するわけにはいかな いのだ。無意味な死の連鎖のその特徴とは、みるもののあらゆる解釈をはみだ す形で置かれた死そのものであり、この作品のなかの屍体はアンジェフスキー の意識の手をみずから放たれたように、フィクションの正常なレールの外に投 げ出されているのをみないわけにはいかない。生者の論理になぞらえられるフ ィクションのレールを除き去っても、連鎖する屍体だけは失くならず、死の様 相そのものとして何時までも在りつづけるだろうと私には思えるのである。 それに対し、映画を観たときには、「『死』とは、やすやすと私の仮構のレールに乗せられるもののように思えた」と語っている。この対比において目に着くのは、ワイダの映画では登場人物たちの死があくまで「死」という観念に回収され、それは某かの(革命ならば革命の、反革命なら反革命の)論理において意味を持ち得る一方、そのような「生者の論理」が通用しない次元で登場人物の死を記録してしまっているアンジェフスキーの小説は、「生者の論理」からどうしてもはみ出してしまうような「死の様相そのもの」を突きつけているという点だろう。死が「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」から逸脱してしまうものとして描かれたとき、すなわち通常の意味での、「描く」ことを失敗するようなしかたでしか描かれないとき、はじめて死者たちは物質としての屍体であると同時に、いつまでも「失くならず」に在り続ける死者の眼差しを持ちうるのではないか。 黒田喜夫の詩作品においてはしばしば眼差すことと存在することの様相が交錯する瞬間がある。本稿では、初期作品を中心に黒田の詩のなかの「見る」こと・「目」等に着目することから出発し、それがどのような視線の応答として存在しているのか、何かを見つめている故に見返されるのではなく、何かに見つめられているが故に見返さざるを得ないような空間について考えていく。 一.空洞からの視線 竹の檻から外を視ていたにわとり そのときかれの視ていたものが おれに見える (「二つの愛」) たとえば、このようなパッセージに詩人の眼差しのありかたが集約されている。「竹の檻から外を視ていたにわとり」と「おれ」のあいだには時間のうえでも空間のうえでも隔たりがある。単に、「竹の檻」のなかにいる「にわとり」を「おれ」が見ている状況ではない。「にわとり」の視線は過去に属している。その過去に「視ていた」ものが現時点での「おれ」に「見え」てしまっているのだ。黒田喜夫において眼差すことは、なによりもよく見ることから出発し、いつのまにか時空を異にする他人(ここでは「にわとり」だ)の目になることを通過して、成り代わった目のさきで幻視し、思考していく運動だといってよい。 この眼差しの運動のさまを黒田自身が「療養詩」と呼んでいる初期作品のなかから「赤い空」「断章」の二つを取り上げてみていくことにする。 「赤い空」においては、三つの時空間が入り組んで描写されている。まずは、「今日 空はいちめん/真赤であった」として措定される現在時の「赤い空」。ふたつめはその「赤い空」から「火」へと焦点が移り、過去の出来事として浮かび上がる「M鋼鍛造」。(「わたしは想いだした―――/あの爐を/臨港工場の黒いドームに/鉄の ものすごい火えんを映す/M鋼鍛造の転爐を」)。さいごに、突如現出するのは、現在時からも過去からも逸れてしまった宙ぶらりんの空間である「あのとき」だ。 あのときもこうではなかったか 一瞬 炎のなかに消えさった怒号は 殴打におびえる青ざめた兵士の群は 魂ものこらない火葬は 蛆にまかされた土葬は (「赤い空」) 三つの光景が三重に露光され、それを順に見ていく詩人の目がまずはある。現在(「赤い空」)を目の前に映し、想起される過去(「M鋼鍛造」)を見る。そうして、三つめに提示される「あのとき」においては現在時でも想起された過去でもなく、特定の時制をもたない空間が眼差されている。そして、この空間を、詩人は「空洞」と名指す。 それは燃えさかる山になお砲列をあびせる 無惨なひびきが 糸をたぐるようににがい胆汁をよびもどすのだ さらに見る 胸には いやらしい勲章のように咲いた空洞 (「赤い空」) 「さらに見る」という短い一語は、黒田喜夫の「見る」ことへの欲望を過不足なく伝え、またそれを加速させているが、そこで「見え」たものは「いやらしい勲章のように咲いた空洞」であるという。みずからの「見る」・「見え」の欲望によって駆動され、最後に現出した時制をもたない(にもかかわらず、それは想起されたような書きぶりをされているのだが)空間が「空洞」であることは何を示唆するのか。宙ぶらりんに幻視された「空洞」に「魂ものこらない火葬」をされた「怒号」が鳴り響いているとしたらどうだろう。「蛆にまかされた土葬」をされた「兵士の群」のいくつもの開いた目、それ自体がそこ(「空洞」)に凍結されているとしたらどうだろう。黒田の見いだしたはずの「空間」=「空洞」からは、そこに詩人自身を見返す「視線」のありかがくっきりと刻印されている。 二.窓の外で不具の児が生まれる 見いだしたはずの空間が、「空洞」として転置されるとき、視線の応答の逆転もまた起こっていた。詩人がみずからの目の欲望からさまざまなものを呼び寄せ、幻視していく過程で見いだされたものは、みずからを見返す目を持った「空洞」であった。この「空洞」という空間においては、見る/見られるという視線の応答が通常のようには進展しない。わたしが「見る」ゆえにあなたに「見られる」のではない。あなたの「目」がただそこにあって、それに引き寄せられるかのようにわたしは「見て」しまう。あなたの「目」の存在が事物として先行している。そしてまた、おそらく「あなた」は既に死んでいる。あなたの「目」は死者の眼としてそこにある。 おお不思議なもの それが見たい 理由もなく捕えられた誰か 死をまつ男 かれが窓から見た 窓の外を ぼくはこういいたいのだ リンチをまっている黒人 樹の下にまっている誰か かれがそこに立っていたと 何処かの樹の下に ぼくはかれに会いたい 斬られた自分の首を両手にもっている中国人 いつか黙って死んだ誰か しつような ものすごいかれの沈黙に (「断章」) 「それが見たい」といって投げ出されるのは、いったんは「理由もなく捕えられた誰か/死をまつ男」でありながら、実際は「かれが窓から見た 窓の外」なのである。ここでも、詩人は他人の(「死をまつ男」の)目になることを欲望している。そして、「ぼく」の欲望する目が会おうとするものは、「いつか黙って死んだ誰か」であり、行き着くところは、その「死んだ誰か」自身ではなく、かれの「しつような」沈黙そのものなのだ。「ぼく」が他人の目になり、他人の目から見える風景を見ようとするのは、そのさきに「死んだ誰か」の(「かれ」の)なにも発することのない死者の眼が「いつまでも失くならずに」沈黙を保っているからだろう。 ぼくは期待する 黒人はすばらしい黒人霊歌をうたうだろう 中国人はすばらしい幽霊になるだろう おおだがぼくは期待する それより ぼくの期待が裏切られることを かれが決してうたわないことを ぼくは不思議なものを見る そのとき 理由もなく捕えられた誰か 死をまつ男 かれが窓から見た ただの ものすごく凡然たる窓の外を (「断章」) 「生者の論理」である「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に則れば、「黒人」は「すばらしい霊歌」をうたうし、「中国人」は「すばらしい幽霊」になるのかもしれない。しかし、ここで詩人はあきらかに「生者の論理」から逸脱してしまっている。「かれ」すなわち、死んだ者は「決してうたわない」のだ。たしかに、黒田喜夫の見ることへの欲望は、他人の目になることを欲する。他人の目になってそのさきにかれが見たものを見ようと欲する。しかし、そこで他人の目になり代わって、代弁するようなことはしない。というよりも、できない。詩人は、死んだ者が「決してうたわない」ことから出発しているからだ。そのかわりに、「見たい」(「おお不思議なもの/それが見たい」)という欲望は、いつのまにか単に「見る」(「ぼくは不思議なものを見る」)という時制を欠いた空間での、幻視にそっと移行している。この「空洞」の空間で「死をまつ男」の目となり、「ぼく」が見ているのは「ただの/ものすごく凡然たる窓の外」にすぎないのだ。「凡然たる窓の外」には、「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」の入り込む隙がない。おそらく、「空洞」と化した死者の視線の横溢する「窓の外」では、「生者の論理」をもって闖入したとしても、たちまち窒息してしまうだろう。そこで息を保つことができるのは、「不具の児」だけだ。 私は醜い児を生みました 不具の児 はらわたそっくりの児 父親が誰か どうして知りましょう (「断章」) 「不具の児」は「牢獄」というもうひとつの空洞から生まれてくる。そこから視線を送り続けている。 だが私は欲しくない 私に反抗しない肉体を 悪寒と寒気のなかで 私は叫ぶ 誰も決して父親じゃない だが私は牢獄の児を生みました きみらすべてが父親だ (「断章」) 補. この小論のタイトルは、映画『アンティゴネー』(ストローブ=ユイレ)をみていたときに思いついたことばだ。黒田喜夫についてなにか書くなら、これしかないとそのとき思った。その初期衝動からずいぶん離れたところに着地してしまったようで、心苦しい。散文の着地点が、自分を限界付け、新たな問いを自らに課すことにあるなら、こんな放り出し方をしては後悔すると思い、補足によってこの黒田喜夫に関する小論を未来の自分になんとか接続したいと思う。「だが私は欲しくない/私に反抗しない肉体を/悪寒と寒気のなかで/私は叫ぶ/誰も決して父親じゃない/だが私は牢獄の児を生みました/きみらすべてが父親だ」このパッセージは、黒田が女の口を借りて云わせている。死者を代弁することをみずからに固く禁じているのにもかかわらず、この詩人は、「うた」おうとするとき、他人の口を借りて、あまつさえ告発のかたちをとろうとまで画策している。このパッセージで論を終えたのは、しょうじき私にはこの「きみらすべてが父親だ」と「叫ぶ」(黒田にとって「叫ぶ」という行為は禁じ手のひとつのはずだ。すくなくとも自らには禁じている)女を作造する黒田の態度がうっとうしくてどう対処していいのかわからなくなり放り出した感が数パーセントある。初心に戻って、『アンティゴネー』をみたときの衝動をできるだけ想いだすなら、まっとうと思えること、さまざまな事情を斟酌し、ときには為政者としてはあるまじき取り乱しをみせたりしながら、妥協点を探ろうとするクレオーンを見つめるアンティゴネーの視線。死を覚悟し「死をまつ」女であるアンティゴネーの、政治的な信念のうえで、感情のうえで、いっさいの妥協をゆるさぬ眼差し。その眼差しはほんとうに優しさを帯びない、帯びようともしない意思の眼だと思った。このアンティゴネーの眼差しにたいしてたとえば黒田喜夫はどのような態度を取りうるのか。そう、黒田は、すくなくとも「断章」における黒田はみずからが仮構した「女」の告発をうけて、「父親」を降りるという素振りをみせる。もう少し具体的に述べると「不具の児」として回帰する自分自身をさらに仮構するのだ。これを「仮構」ではなく「幻視」だと言い張ることはできない。冒頭部の「死をまつ男」の目にはなりえても、みずからが「不具の児」として「這う」姿を幻視しているといってしまったら、それは欺瞞でしかない。(それはいちまいの/着物と短いひもの帯/それが邪魔なのだ/胃のひだに不正をかんじるときは/こどもよ/畑のうえで/芋とおなじく裸の児/土色の皮膚に骨を浮きたたせ/這って/這ってくる児。)このパッセージにおいては、詩人はもう一度、詩人の口にことばを取り戻し、女に「うた」わせたことへの二重の贖罪をおこなおうと必死になっている。しかし、手遅れなのだ。この完結し、閉じきってしまった詩行の運びによって、詩人はほとんど自家撞着してしまっている。では、どうすればよかったのか。どうすればよいのか。 見えるのは 道だ ながいながい 無人の紅桑畑のなかの 七月の焼き畑の灰 ベト死 枯死 十月の谷地 倒れている晩生稲のなかの ながいながい 誰もいない荒蕪地の 鍬の痕の 時の爪痕に似た土塊の列の 乾きくずれる土地の片 夢の片のなかの 道だ 見えるのは 道の始めと終りと 見えない過程のまんなかを 這っているおれだ おれ 這う 這う (「断章」) 黒田は『不安と遊撃』以前の五十年代に書かれた作品をみずから「療養詩」と位置づけている。農村活動に疲弊し、病に倒れ、政治的な活動を行えなくなった蹉跌の状況で、故郷の村の病院の回覧雑誌に書いていた詩だ。「昨日まで政治大衆運動に身をおいていたものの詩句としては、直接他者に向かおうとする言葉の対極に、また実に貧しく乏しい抒情の穴をほっていたものだと思うが、いずれにしろ、そこから避けられず、私にとっての詩と反詩の間に入ってゆくことになった。」黒田自身の述懐になにかを委ねようとは思わない。確かに「貧しく乏しい抒情の穴をほっていた」といわれれば、その通りである。「断章」においては、「うた」わされた「女」の眼差しにあまりに無自覚である。さらに、「不具の児」が這ってきたとき、「おれ 這う/這う」を幻視したというとしたら、それはあまりにも都合が良すぎる。しかし、思うのだ。これは幻視ではない。ひとつの意思表明なのではないか。「断章」の終結部において、「誰もいない荒蕪地の」「乾きくずれる土地の片」を黒田は「夢の片」とわざわざ言い換えている。むしろ、「誰もいない荒蕪地の」「乾きくずれる土地の片」は、黒田が「村」において体験しつつあることそのものだったはずである。それを「夢」として虚構においやることで、「ながいながい」「道」が浮上してくる。「見える」のは「道の始めと終り」で、「過程のまんなか」をはっきり「見えない」と書きつける。この「見えない」は、ほんとうに見えていないのだ。だから、幻視では決してない。「不具の児」が「這ってくる」のに対して、ただただ、「見えない過程のまんなか」すなわち「見えない」道のどまんなかで、醜くも悶えているのがこの時点での黒田喜夫の、あまりにもしょうじきな姿ではなかったか。私はこの姿、この「にがさ」だけは忘れないようにしたいと思う。そして、「おれ 這う/這う」の黒田がこの後どのように他者に出合い、出合いそこね、その「這う」からだをさらしていくのかをさらに追跡したいと思う。 (初出:kader0d vol.6)
死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1100.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-07-25
コメント日時 2017-08-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
とってもしっかりした文章で、小論文て感じで、すてきです。
0力のこもった詩論のご投稿、ありがとうございます。スクロールしながら読むのが難しかったので、紙に打ち出しました。 まずは、序について。黒田特有の、〈みないわけにはいかない〉というような屈折した表現・・・どうしてもせざるを得ない、自らの意志というよりも、外部から目に見えない何者かによって突き動かされるような、そうした衝動によってあふれ出す思い・・・を論理で抑え込むというのか、捻じ曲げてなんとか言葉の枠に収める、暴れ馬をロープでくくりあげるような文体・・・よく難解と言われるゆえんですが、その文章自体を解析していくのではなく、bananamwllowさんの配置(編集)や要約(解釈含めて)によって読み解いていく構成がすばらしいと思いました。 冒頭引用部の核は、意味を剥奪された死そのもの、そのナマの暴力的な存在感、圧倒的な力で迫って来る、動かしがたい死という現実について、黒田が烈しく反応している、という点にあるのですが、〈フィクションの正常なレールの外に投げ出されているのをみないわけにはいかない〉この部分が、よくわからない。でも、その後にbananamwllowさんによる要約を経て、〈意味を持ち得る死〉――革命の為に、社会の為に、人類の為に、といった理由付けをされ、価値づけをされることによって、死が無意味ではない、と意味づけられていくこと――それこそが「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に死を乗せていくことなのではないか?という黒田の問いかけが明らかにされていく。死の美化、死者の英雄化、そうした「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に乗せていくことによって「死」を描くことによって、ドラマティックな物語や、人々の心を熱く震わせるパッションを持ったドラマが生み出されるわけですが・・・そして、それこそが「描く」ことが成功した例、なのでしょうけれども・・・黒田はあえて、〈「描く」ことを失敗するようなしかたでしか描かれないとき、〉つまり、死をパッションやドラマや「~の為」といった価値づけから切り離された、物質としての死を注視することによって、黒田は〈はじめて死者たちは物質としての屍体であると同時に、いつまでも「失くならず」に在り続ける死者の眼差しを持ちうる〉という視点に到達したのだ、と結論づける。 黒田が死者を見つめる、のではなく、死者に見つめられている、そのことを否応なしに感じている、それゆえに〈見返さざるを得ない〉という、のっぴきならない、息詰まるような詩的空間。黒田の世界が、なぜ、そのような奥行きを持たざるを得なかったのか?その問いを、黒田の「見る」こと、「目」に着目することによって、考えていく・・・素晴らしい「序」です(二度目ですね)
0一、bananamwllowさんが明快かつ論理的に黒田の胸に抉られた〈空洞〉を顕在化させていく、その手際に脱帽です。「二つの愛」という作品からbananamwllowさんは丁寧に〈黒田喜夫において眼差すことは、なによりもよく見ることから出発し、いつのまにか時空を異にする他人(ここでは「にわとり」だ)の目になることを通過して、成り代わった目のさきで幻視し、思考していく運動〉であることを導き出した上で、黒田は過去、現在、そして、特定できないがゆえに〈宙ぶらりん〉であり、それゆえに永遠に逃れる事の出来ない場である時空、その三つを同時に体験していることを指摘する。その〈宙ぶらりんの空間〉〈特定の自制をもたない空間〉こそが、黒田が〈「空洞」と名指〉した空間であり、その空間には〈「魂ものこらない火葬」をされた「怒号」が鳴り響いているとしたらどうだろう。「蛆にまかされた土葬」をされた「兵士の群」のいくつもの開いた目、それ自体がそこ(「空洞」)に凍結されているとしたら〉と、黒田の「空洞」を鮮やかに追体験していく。 詩人が抱えていたであろう詩空間に、このように踏み込んでいくことによって、読解の道が新たに開ける。これこそ批評の醍醐味でしょう。詩人の言葉の手前で立ち止まらされていた読者も、bananamwllowさんが切り拓いた道筋によって、黒田の世界に立ち入らせてもらえるわけです。
0二、〈あなたの「目」〉が〈死者の眼としてそこにある〉空間で、〈あなた〉に見られる、ということ・・・魂の底を抉られるような、切り込んでくる視線。黒田は、その視線にさらされていたのだ、というbananamwllowさんの読み解きが、具体的な作例から明らかにされていく。 〈詩人は他人の(「死をまつ男」の)目になることを欲望している。〉だが、それは、死者に成り代わって、死者の代弁をするため、ではない。黒田にとって、死者は〈決してうたわない〉うたえない、あるは、うたうことを剥奪された、そこに失われずに在り続ける死者、〈「しつような」沈黙そのもの〉としての死者。 たとえば、黒田がハンガリー事件に際して(もちろん日本国内における自身の立場や、恋という、これもまたのっぴきならない非常事態にあった、ということを考慮した、としても)いきなりブダペストで吊るされている、という「実感」・・・読者にとっては詩的虚構、ひとつのレトリック、として片づけられてしまいかねないことが、黒田にとって、どれほど切実な「真実」であったか、ということが、bananamwllowさんの読み解きによって鮮やかに、説得力を持って提示されていく。これぞ批評、だと感じ入りました。
0二の最後で、なぜ、〈おそらく、「空洞」と化した死者の視線の横溢する「窓の外」では、「生者の論理」をもって闖入したとしても、たちまち窒息してしまうだろう。そこで息を保つことができるのは、「不具の児」だけだ〉と性急に結論へと飛躍してしまうのだろう・・・と疑問に思ったのですが、それゆえの「補」の必然なのですね。 死者の眼が〈私〉を刺す空洞、その空洞を子宮として産み落とされた「不具の児」、その父親は〈きみらすべて〉だと叫ぶことによって・・・自らを抉り刺すことになる、という絶対的な矛盾・・・ 〈冒頭部の「死をまつ男」の目にはなりえても、みずからが「不具の児」として「這う」姿を幻視しているといってしまったら、それは欺瞞でしかない。〉この手厳しい批判は、もしかするとご自身に対しても向けられたものなのかもしれません。だからこそ、ここまで切実に黒田の内面に迫れるのかもしれない(これは、私のまったくの空想ですが。)作者にとって、書かざるを得ない必然性に突き動かされたゆえの論考だと感じました。 「不具の児」は、自身の夢や希望が潰えた絶望、その絶望を他者に投げ渡そうとして、そのことを自身に許しえない、その自己撞着が生み出した、黒田の詩文そのものなのかもしれません。 〈この「見えない」は、ほんとうに見えていないのだ。だから、幻視では決してない。「不具の児」が「這ってくる」のに対して、ただただ、「見えない過程のまんなか」すなわち「見えない」道のどまんなかで、醜くも悶えているのがこの時点での黒田喜夫の、あまりにもしょうじきな姿ではなかったか。私はこの姿、この「にがさ」だけは忘れないようにしたいと思う。〉大変、勉強になりました。ありがとうございました。
0田中修子さん こんにちは、はじめまして。 読んでくださりありがとうございます。
0まりもさん こんにちは。 丁寧な読みを示していただきありがとうございます。 これはかなり以前、2010年ころに書いたものです。 黒田喜夫のテクスト群に対しては、まだまだ書きたいこと、書くべきと思われることが残っており、続編も書くつもりです。 この批評自体は、悪くはないと私は今でも思っています。 ただし! アンティゴネ―のくだりを含め、≪補.≫はかなり無理があったかと読み直して考えています。 今後、黒田について書くならば、「詩的虚構」の問題、あるいはファザーフッド、マミーフッド、ブラザーフッドと旧左翼の問題等、突っ込んでいこうと思っています。「あんにゃ」の問題、被差別部落の問題は、ずっと後回しでよい、少なくとも、そこに関してばかり着目していてはみえてこない黒田喜夫の「可能性の中心」に迫っていきたいと考えています。 それはとりもなおさず、なぜいま黒田について書くのか、という視点が必要だということでしょう。 そこに、無自覚なまま、昨今の黒田リバイバルのような風潮に乗っかることは避けたいと考えています。 もちろん、共和国のような志の高いと思われる出版社が、黒田のテクストをまとめている仕事にはリスペクトを持ちつつ。 コメント、ありがとうございました。
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