《それぞれに川は流れている 帆場 蔵人》
湧水を
惜しみ惜しみ掬う
でも漏れてゆく
指の間を
なんにも傷つけないように
昨日あった出来事は
こんなに透明で
やわらかかっただろうか
昨日私が話した言葉は
こんなに透明で
やわらかかっただろうか
湧水を
惜しみ惜しみ掬う
でも漏れてゆく
その様子を
太陽が見ている
その光にも
私の指しか映らないほど
昨日あった出来事は
こんなに透明で
やわらかかっただろうか
昨日私が話した言葉は
こんなに透明で
やわらかかっただろうか
昨日会った人たちは
こんなに透明で
やわらかでしたか
湧水を 惜しみ惜しみ掬う でも漏れてゆく 漏れてゆくのに絶え間なく込み上げてくる 毎日込み上げてきて毎日掬う まったく飲みきれない湧水が 流れていって淵に綴じられ 深く色を持つ
湧水を 惜しみ惜しみ掬う でも漏れてゆく 私が触れ 私の口づけを受けた湧水が 漏れては流れ 流れになって 大きな流れになって そして淵に綴じられる それは遠い海かもしれないのだ みんなの 海かもしれないのだ
作品データ
コメント数 : 10
P V 数 : 1687.9
お気に入り数: 1
投票数 : 5
ポイント数 : 8
作成日時 2020-03-17
コメント日時 2020-03-19
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 2 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 1 | 1 |
構成 | 3 | 3 |
総合ポイント | 8 | 6 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 0.7 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0.7 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0.3 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合 | 2.7 | 2 |
閲覧指数:1687.9
2024/11/21 23時38分41秒現在
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この詩を拝読し、明治まで受け継がれてきた日本の抒情を感じました。 南雲さん、はじめてのコメントで、こんなお願いをするのは心苦しいのですが、今のこの時代の空気を描いていただけないでしょうか。 明治にあったあの新しい祝祭のような空気は、戦争によって散ってしまいました。 僕は日本の抒情は明治で止まったままだと思います。 なので、南雲さんに明治と令和の抒情を結ぶ架け橋になってほしいんです。 もちろん、それはとてつもなく困難なことだと思います。 ですので、うまくやってほしいや、完璧にこなしてほしいとは言いません。 ただ、全力でチャレンジしていただけないでしょうか。 全力でこのお願いに向き合っていただけないでしょうか。 描き方はお任せします。 僕が対価として差し出せるものは、何もありません。 だから、これは、依頼ではなく、お願いです。 どうか明治と令和の抒情の架け橋になることに、いどんでみていただけないでしょうか。
1湧水を掬うさまを、「惜しみ惜しみ」と形容する人がかつていたでしょうか。 惜しいなら掬わなければいいのに、掬わずにいられない。「でも漏れてゆく」。 そのことがメタファーを立ち上がらせて。
お読み下さりありがとうございます。その上、お願いまで。 今作はあんまり読まれないかなぁと思っていました。 難しい課題をいただいたようです。令和の抒情。 私はいつも現代に存命中の人間として全力で書いていますが、その過程には、何かを狙うという性格はあまりなくて、ふだん思っていること、感じていること、考えていることが膨らんでくると吐き出すというような態度です。 今回は結果的に昔っぽい抒情を感じさせる詩になりました。 理想としてはやはり現代の空気を反映していたり現代的問題を含んでいたりする詩ができれば良いと思っています。 今回の拙作の中では、本来透明でやわらかいものであるはずではない「昨日あった出来事」「昨日私が話した言葉」「昨日会った人たち」が出てきます。これらが透明でやわらかいものとして感じられるところに現代の感性を映し出してみました。そういう事情にもかかわらず、各自のこういうものものは、やはり流れて淵に入り、やがてはみんなが共有する遠い海に集まるだろうという一種の希望を打ち出してみました。 説明になってしまいました。 この作はちょっと薄味だったかと思います。もっとパンチのある作品ができればと思います。もっと令和の抒情ということに意識的になろうと思います。挑戦はやめません。 ご指摘ありがとうございます。
1お読み下さりありがとうございます。湧水は愛おしく、なるべくたくさん掬いたいものです。でも、かなわない。くやしいです。 湧水は「昨日あった出来事」「昨日私が話した言葉」「昨日会った人たち」。どれも大切にしたい。でも漏れて流れていってしまう。 それでもいつか「みんなの海」に集まる。そんなことを書いてみました。
1南雲 安晴さん 返信ありがとうございます。僕は、湧水に役割を求め過ぎて、読み過ぎたようです。以下のことは僕の勝手な読みですから、読まなくても構いませんよ。 湧水は確かに、愛おしい。愛おしいと思いながらも、僕の愛し方はある種のものです。 僕は、湧水が昨日の出来事、言葉、そして人たちと同じであり得ない、はっきりと違うものだと読むのです。というのは、 >こんなに透明で >やわらかかっただろうか の、そして特に、 >やわらかでしたか の、「か」を反語の意味に捉え、湧水を「昨日の出来事、言葉、人たち」よりも「透明でやわらかい」ものだとして、さらに、 「湧水を掬う・飲む」という行為を、その昨日会ったような人たちには、少なくとも今日の時点では、理解されずひとり行うしかないが、「私」にとってはただひとつの正しい行為だと信じて疑えない行為だと感じるのです。 >私の指しか映らないほど というのは、これが(今日の時点で)「私」-湧水という閉じた系の内側のことで、そのからだ以外は介入しないから。 湧水によって、「私」は変革される。湧水の不思議な力によって。ここでひらく景色、「海」とは新世界です。それは終末論ではなく、この世界にある「私」の心の裏返しになった場所、「私」だけの世界です。 そして同様に景色は、水平線はひとりひとりが持ち得て、持てばそれは「みんなの海」です。というのは、さすがに苦しいかな。 僕には、そのような湧水があるのだ!と書かれていることが救い・赦しのように思えたのです。湧水が何のメタファーであれ関係なく、ただ、そういうものがあるのだ、ということが。 なんか神秘主義めいているうえ、長いんでいやな字面ですね。でも、僕はこんな風に感動したんですよ。鳴海
1どうやら拙作がなんらかの叩き台になり今作の形をとったようで、まずは興味深い作品を書かれた南雲氏に感謝の意を示したい。 止め処なく流れゆくものがあり過去となったそれらはこんなに透明でやわらかだったろうか、という問いは拙作へのまたやわらかでしたか、という問いかけは私のみならず全ての読み手に投げかけられたものだろう。 その通りである。現在を生きる私は他者の自分の汚い側面や様々な美醜を感じでいる。そのなかで拙作のような書き方になるのは現実を描写しているのではなく私が体験して私というフィルターを通して、うつくしさや澄んだものを感じた瞬間を創造しているからだと思っています。それは時代性を問わず物事を掘り下げていくなら個人的なものからひとが共有できる普遍的な水脈へとたどり着けるのではないかと考えるからです。それは私たち個人のなかにも繋がってあり、そこに遊ぶとき我々は無限に自由にあれる誰にも侵されることのない領域だと思うのです。 しかし、価値観が多様化する現代において読み手、書き手が到達しようとする到達点も多様化してあるのでしょう。故に南雲さんが言われる現代性のなかで私の作品は昔っぽいのかもしれません。 私は南雲さんの今回の作品は素晴らしく自分の琴線に触れるものでありました。拙作のある無しに関わらず。 このような書き手がいるという事は限りなく嬉しいものです。
1鳴海幸子さん、返信ありがとうございます。 いえいえ、鳴海さんの読み、興味深く読ませていただきました。どんな読みも読む方の自由です。読みが多様であることは、作品の言葉の圏域が大きかったということですから、私はうれしいのです。このことはたぶん作品が曖昧であったということとは違うことだと信じます。 特にうれしかったのは「でしたか」を見ていただけたこと。また、「飲む」「指」「海」に着目していただけたこと。 実は私はこれらの言葉によって詩がより豊かなイメージをはらむようにと願っていたのです。 「でしたか」は、そこまでの「だろうか」とは違います。 と、まあ、私からの説明はここまでとさせていただき、あとは読む方の自由にまかせたいと思います。
0帆場蔵人さん、コメントありがとうございます。 単純なことではありますが、帆場さんの「それぞれに川は流れている」という言葉は私の頭から離れず、ずっと響いていました。 私の今回の拙作についてはもう説明しないこととして、ただ次のように言いたいと思います。文学は衰退しておらず、終わってもいないのだ、と。「それぞれに川は流れている」という一見昔っぽい言葉が、私の耳から離れなかったという事実、このことがそれを証していると思います。
0チャレンジがんばってください。 応援していますね。
1ありがとうございます。 まだまだ努力不足。示唆に富むコメントでありました。がんばります。
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