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笹舟のメモリー
清らかな流れの川がある。 笹舟を作る。 想いを乗せて、川に流す。 笹舟はどういう経路を辿って、どこに辿り着くだろう。 誰の手に届くだろう。 それは豊かな海に漕ぎ出すのかもしれない。 もしかしたら、恋人の手の中に掬われるかもしれない。 笹舟は流れてくる、いつも、いくつも。 言葉を乗せて。 遠い国から、隣町から。 笹舟は流されていく。 笹舟は流されている、惜しみなく。 笹舟は、誰かからの贈りものなのかもしれない。 南雲さんの世界観の中で、想像を膨らませ、遊ばせてもらい、これを選評文とします。
笹舟のメモリー ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1461.5
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作成日時 2020-03-30
コメント日時 2020-03-31
詩で選評されたのですね、南雲氏の作品も読んで見たいです。
0私は、本選評に対して大きな疑問があります。 選評とは「選ぶ」のみの行為を指すのではなく、なぜ選んだのか、なにゆえ良作と判定したのかを、自身の言葉でそれなりに尽くして解説する「評」を含んではじめて「選評」となるのだと多くの方に理解されていますし、実際これまでの選考結果発表文における選評も、それに準じて記述されていたように思われます。 無論、論理的に、論文的にデータやロジックを駆使する必要を強いるわけではございませんが、特に「作品を公の場所で評価する」行為には、内輪ノリや身内持ち上げ、平たくいうと「仲の良い人の作品を、仲間意識をもって取り上げ、公に評価する」という馬鹿馬鹿しい行為ではないのだろうかという疑念は無きにしも非ずであり、そういった類の評価ではなく、本当に良作と思い、本当に公に評価したいんだ、という思いが根底にあって選評は成立するのでしょうし、それが熱い選評文に現れてくるのではないかと思うのです。 そもそも、本選評文は他者へ「返詩じゃね?」と捉えかねられない内容であり、ましてや前述した評を記述することなく返詩に類推される文章のみを記述したところで、果たして筆者がなぜ本作を評価したのか、どんな思いがあったのか、どこを良作だと思ったのかが全くの不明であります。なぜ投票やコメントといった形でいくらでも表現できるのにも関わらず、そういった表現に不向きな選評という形で本文を表したのか、そのステートメントもろくに書かれていないように見受けられます。
0エイクピアさん、ふじりゅうさん、コメントをありがとうございます。 次からの話しで、お二人への返信とさせていただきます。 僕がコメントを見た時、すでにお二方のコメントが投稿されていて、興味深いなと思いました。 一つ言えば、ふじりゅうさんの疑問に対しては、エイクピアさんのコメントでほぼ説明できるんですよ。 返詩じゃないか?という疑問については、 エイクピアさんが、 >詩で選評されたのですね ということです。 そもそも、批評というのは、なんでしょうか? >「批評」・・・物事の良し悪し・是非などについて、よく考えて評価し述べること 僕は「湧水のメモリー」の骨子を解釈し、そこに僕なりの肉付けをして「笹舟のメモリー」を書きました。 それはまず、「湧水のメモリー」という作品がどういうものかを、自分なりに解釈、把握したのです。 つまりこの時点で、「批評」・・・物事の良し悪し・是非などについて、よく考えて評価しているんですね。 そして、その上で後はどう表現するか? この「湧水のメモリー」は、初めて読んだ時から、批評文を書こうと思っていました。 (それが本当かどうかは、信じてもらうしかないのですが) それで、昨晩、今朝の投稿のため、何にコメントをつけようか考えていて、ふと「湧水のメモリー」の批評文を書いてないことを思いだし、よし、それでいこうということにしました。 それで改めて読み直して、何書こうかな?と思い、「清らかな流れの川がある」と書き出せたら、後はするすると最後まで書けました。 突貫で書いたので、クオリティという面で甘いとは思いますが。 これは批評文、選評文じゃないじゃないか?という疑問には、こう答えたらよいでしょうか。 これは批評詩であり、選評詩なのではないか?、と。 ただの詩と何が違うのか? それにもエイクピアさんがコメントで答えてくださっています。 >南雲氏の作品も読んで見たいです 僕は、批評文とはあくまで批評対象の脇役だと思っています。 例えば、丁寧に書かれた手書POP。 何が言いたいのかと言いますと、僕にとっての批評文の成功は、批評対象━━ここでは「湧水のメモリー」を読んでみたいと思ってもらうことなんです。 なので、エイクピアさんのコメントは、僕の意図したところを端的にかつ的確に表していただいたもので、ありがたく思います。 そして、お二方のコメントを同時に見て、興味深いと思ったのが、賛否がぱっきり二つに分かれているところです。 明確な賛否両論が出る、それは、新しいことをした時の世間の反応そのままではないか、と。 もちろん、賛成=正しい、否定=間違っているという簡単な図式は成立しないでしょう。 賛成=間違っている、否定=正しい場合もあるでしょう。 例えば、天動説と地動説のように。 何が正解か? そういうのは、けっこう後にならないと分からないことも多いでしょう。 (それでも地球は回っていると呟きはしますが) つまり、分かりやすくいうと、僕は詩で批評するということを、試みてみたということです。 という、説明になりますけれど、まだ何か説明不足の箇所はあるでしょうか? 僕としては、謝らなければならないのはエイクピアさんにで、エイクピアさんは僕の作品によくコメントを寄せてくださるのに、僕自身、エイクピアさんの作品にコメントをしてないんですよね、たしか。 いつもありがとうございます。 ふじりゅうさんも、きっと、実生活や運営でお忙しい中、コメントを寄せてくださり、ありがとうございます。 運営も大変だと思いますが、がんばってください。
0トビラさん、美しい選評文をありがとうございます。 私の一つの小品によってまた一つの詩文を生んでくださったことは、私の小品をよく読んでくださった証しであり、そうでなければ不可能なので、大きな喜びです。そしてトビラさんの言葉の束からは私の作とはまた別の抒情がたちのぼっていて、私に新しくメルヘンを感じさせもしたのでした。 選評文の書き方については、エイクピアさんの受けとめ方も、ふじりゅうさんの言われることも、両方分かりますし、トビラさんの言われることも分かるのです。
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