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響き
玄関は男女の冬物のコートでいっぱいだった ぼくは小間使いにコートを渡すとネクタイの結び目を直した 客間からはテンポの速いピアノ独奏音が響いている 爪先立ちで足音を忍ばせながらぼくはドアを開けた 三十人ほどの客が思い思いのようすで聴いていた ぼくは空いている肘掛け椅子に腰を下ろした ピアニストは明るい色の睫毛をして 耳を真紅の色にそめて強く鍵盤を叩いている 彼の妻が楽譜をめくった ぼくは周りを見回した 知っている色々な顔が見える そしてその瞬間、水尾夫妻の後ろに別れた妻の顔を見たのだ ぼくの心臓は拳骨のように一発撃ち、音楽をかき消すようにして 早鐘のように支離滅裂に撃ち始めた ぼくたちが別れたのは二年前、別の町でのこと ぼくは眼を上げることもできず 過去の強襲とざわめきから身を守ろうとした きみの視線は敵意のこもった、嘲るような、それとも好奇なものなのか なんと昔のことだろうか テニスクラブのベランダで、蒸し暑くて失神しそうな晩 ぼくはきみにぞっこん惚れ込んで夢中になってしまった その一ヶ月後、結婚式の夜にはしめつく雨が潮騒をかき消していた なんて幸せなんだろう 幸せという言葉、ひとりで微笑み、ひとりで泣く言葉だ 翌朝には、庭の木の葉が輝き、海の音はほとんど聞こえなかった 銀色のミルクのような海の音は きみは全身ビロードのようだった きみを見ていると折りたたんでしまいたくなったものだ 仔馬の脚を折りたたむように抱きしめて、それから ぼくたちはいつまでも幸せに暮らすだろう 幸せ、なんという響き、なんという変幻自在の輝き 愛しているよ、きみの心臓も肝臓も、腎臓も、その眼球も、すべてを 気持ちの悪いことを言わないで 春にきみは奇妙なほどに生気を失いぼうっとしてしまった そして話すときもほとんど口を開かなかった どうしたんだい、ぼくが訊ねると べつになんでもないの きみは眼を細め名状しがたい表情を浮かべてぼくを見た 夜になるときみは死んだも同然だった そんな状態が一ヶ月以上、それからある朝、きみの誕生日だった しばらく別れましょう、これ以上こんなふうに暮らしていけないわ ぼくたちは黙りこくっていた きみは庭に出たがすぐに戻ってきた もうだめ、あなたに全部話してしまわないと きみは他の女のことをあげつらうように話し始めた 洗いざらい、何もかもを 相手は背が高く落ち着いた男だった ある夜、トランプ遊びをしにきていた男だ 最初は公園で、それからぼくたちの家で ぼくは海岸通でやつをぶん殴ってやった そんなことをすると、高くつきますよ やつは帽子を拾い上げると立ち去った ぼくはきみにさよならは言わなかった いつかきみを許してあげよう いつの日かぼくを見てくれ、お願いだから さあ、眼をあげて、ぼくの眼、ぼくの愛しい眼を いやだめだ、もう終わりだ 曲の最後の音は、多くの指でかき鳴らされずっしりと重い ピアニストは狙いを定め、猫のように正確に一つの別個の小さな黄金の音を出した 音楽の堀は立ち去った 主人は、この曲は長いこと弾いていませんでした ピアニストの妻が言った 客の一人が いやあ、この曲は最高傑作ですよ 最後のあたりでちょっとばかり響きをモダンに変えているようですが ぼくはドアの方を見ていた そこでは黒い髪の小柄な女性が途方に暮れたように微笑みながら ここの女主人に別れを告げているところだった まあ、とんでもない、これから皆さん、一緒にお茶を飲んで それからまだ歌もありますのに しかし女性はドアに向かった そのとき、ぼくは悟ったのだ ぼくに音楽は最初、牢獄のように思われた その牢獄のなかで、二人は音に縛られて、互いにほんの六、七メートルの 距離に座っていなければならなかった しかし、それは実際には信じがたいほどの幸福だったのだ 音楽は膨れ上がって魔法の硝子のように、まさにふたりを取り囲み 中に閉じ込め、きみと同じ空気を呼吸するようにしてくれた それがいまやすっかり砕け散り粉々だ きみはドアの向こうに消えようとし ピアニストはグランドピアノの蓋を閉めた ぼくは知り合いの人から挨拶を受け、彼は柔らかい声で話しかけた ずっと様子をうかがっていたんですがね、なんという音楽の聴き方でしょう あんまり退屈そうなお顔でしたので、お気の毒なくらいでしたよ ほんとうに音楽にはそれほど無関心なのですか 耳がないだけですよ 音楽のことはよくわからないんです そもそもあれは何と言う曲だったのでしょうか 彼はいかにも門外漢らしくおずおずと声をひそめて言った なんだっていいでしょう、エチュードだって、処女の泉だって なんだっていいんですよ
響き ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1911.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 47
作成日時 2019-08-20
コメント日時 2019-08-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 8 | 8 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 8 | 8 |
エンタメ | 11 | 11 |
技巧 | 9 | 9 |
音韻 | 2 | 2 |
構成 | 7 | 7 |
総合ポイント | 47 | 47 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 4 | 4 |
エンタメ | 5.5 | 5.5 |
技巧 | 4.5 | 4.5 |
音韻 | 1 | 1 |
構成 | 3.5 | 3.5 |
総合 | 23.5 | 23.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
誤>その一ヶ月後、結婚式の夜にはしめつく雨が潮騒をかき消していた 正>その一ヶ月後、結婚式の夜にはしのつく雨が潮騒をかき消していた
0主人公の意識の流れを興味深く読みました。 >翌朝には、庭の木の葉が輝き、海の音はほとんど聞こえなかった 銀色のミルクのような海の音は また、この表現がとても良かったです。
0goroki さん コメント有難うございます。 この詩では、ストーリだけではなく表現にも気を付けました。 ご指摘の比喩は私も気に入っています。
0詩にもストーリーとプロットが必要ですね。 パウロさんの作品を読んで思いました。
0小説の言語が詩になって居る様な、ある意味斬新な、可読性があったと思います。
0gorokiさん コメント有難うございます。 私は全ての詩、小説には必ずストーリーとプロットがあると考えています。 ただ、それが巧妙に隠されている場合もあります。 それを見抜く眼が必要ですね。
0エイクピアさん コメント有難うございます。 詩に小説の要素を取り入れてみました。 この作品(拙作「ピアノ」も含め)が小説と異なるところは、ふんだんに詩的表現を取り入れたところです。
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