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時計
息子は十五、ギターを始めたばかり。 私も坐ったまま、ベースギターをかまえ、やさしくルートの音を差し出す。 病を患い、私は自分の命の一歩一歩が、終わりに近づいているのを感じている。 息子よ、これらの和しては消えてゆく一音一音が、私からの最後の言葉になっていくだろうと思う。 この歳になっても私は何かの確実な意味を人に、 我が息子にすら伝えることができるまで成長していないことに、 我ながらひそかに驚く。 だからせめて音を。 単に愛し合っているという理由で妻と出会い、 そうしてこの世に生を得た我が息子。 その意味を考えることを寄せ付けない、不可解な命という小ホールが、 和音で震える。 この感覚。あたかも外から襲ってくる、内的な音を聴く。 遠からぬいつの日か、私は去る。死ぬということが、待っている。 今日検査に付き添ってくれた妻とも、 あと何度電話で話すことができるか分からない。 意味ではなかった、それはいつも感覚だった。 聞き慣れた、それでいていつも新しい、 声だった。 息子はギターを置く。 私はまだ一人、ベースの弦を指で弾いている。 息子は黙って私の両手の丹念な指の動きを見ている。 この子がまたまもなく妻の所へ帰るとは分かっていながら、 私の思いはどうしても何よりも、自分の内面に向かっていく。 一音一音鳴るごとに、自分の人生がどういうものだったかを思わされるが、 一音一音消えてゆけば、想念の流れは澱むようでもある。 弦を弾く、人生を、今に向かって、引き寄せるように。 思いに浮かぶのはすべて、個人的な体験、それは平凡な体験と特殊な体験とが混じり合ったものだろう。 そうは思っても、平凡と特殊のあわいなど、はっきりとは分からない。 また時代とか、世代という観点から自分の人生をとらえるには、今というものが大きすぎるようだ。 そこにいる息子との間に世代の差があるようにも感じられないのは私が未熟だからか。 祖父や祖母を送ったことは当然思い出される。 父や母は健在だ。私の方が先に行ってしまうことになる、確実に。 母からしばしば来る何の用でもないようなメールや電話は、生きているよという、 私に向けた信号なのだったと、今になってはっきりと思い直される。 私の頭に思い浮かぶこと、それは朝にゴミを出したり、車でスーパーに行ったり、時々妻と息子に会うために二人が住むマンションに行ったこと、さかのぼっては安定した教育を受け、みんなと競って就職活動をし、採用され、平日と土曜日や日曜日の区別に従って生活したということ、良いことばかりではない、悪いこともたくさんした、一時期は夜の飲み屋の女に恋してしまったというようなこと、まあ告白できるのは、こんなことまでなのだが。 すべて実景を思うのであって、その意味を考えようとしても力の及ぶところではない。 いやそう言い切ってしまうとまた誤りになるだろうか。私はある種の意味も考えているかもしれない。 私はこの国の、いつかは消えてしまう市民だったという考え方はしている。 病気になったことで、普通の社会的な生活が遠のいていくのを感じる。 仕事からは一時的にということで離れている。 妻の負担が今よりも増えていくことは避けられまい。 息子が大学を卒業するくらいまでは、人並みに仕事人間でいたかった。 たださえ孤独感の強い自分が、またいっそう孤独の領域に入っていくのを感じる。 妻に対してさえ、その健康を羨む心がある。 好きなアーティストの多くが短命であったことを思ったりもする。 趣味でベースを触っている程度の自分と比べるわけではないが、 しかし死というものを受け入れることを私より先に経験した者を想像するとき、 なぜともなく単純に偉大な人たちのことを思うのだ。 プライドが高いのかなと、心のうちに笑う。 今私は息子の前で、派手な音を鳴らしているわけではない。 この世の万人の心臓の拍動のように印象も薄く消えるような単純なフレーズの繰り返しが似合うように思う。 歌をのせることは、とてもする気がしない。 声を出す気がしない。 私はぽつりぽつりと、単純だが、しっかりとした低音を弾いている。 息子にとってはまだ、どんな演奏も、巧妙なものと思われるだろう。 息子が帰り支度を始める。 私は演奏の手を止める。 ベースをかまえたまま、 「お母さんに今日ありがとうって言っといて」 「うん分かった」 「練習しろよ」 「分かった」 身長は私と同じくらいで、私の孤独を癒やすこともできないくらいに私と同じような雰囲気を持った息子だ。 この子が中学生になるときに、一緒にいると私に甘えすぎて何もできなくなる妻から話が出て、私たちは別居することに決めたのだった。 優秀な素質の女だから、妻は私がそばにいなくなった後、すぐにしっかり自立した。 でも別居が正解だったと言い切れない自分はいる。 私には、何も分からないのだ。何も分からないまま、事が運んでいく。そんな感じがする。 息子がいなくなった部屋で、私はまた坐ったままベースギターをかまえ、今度は、死を、引き寄せるように弦を弾いているのか。 死ぬということ、早く、その瞬間が来てもいい、これを弱気とは呼べまい。 私は死を恐れてはいない。 別れというよりは出会い、何かを確認するということ、死は、そんなもの。 いつだろう、それはいつ来るのだろう、私は、 それを知りたい。 ああ妻に、仲間に、言わなくては。 時計、 時計、 時計、 時計が見たい。 もう、 夢の中には戻りたくないんだ。
時計 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1703.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 10
作成日時 2019-06-07
コメント日時 2019-06-08
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 8 | 8 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 10 | 10 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 4 | 4 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 5 | 5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
静かな視界様、コメントありがとうございます。 私の作品へのコメント、2回目であるとのこと、どなたか分かりませんが、ありがとうございます。忌憚なくコメントしていただければ、よっぽど恐ろしいものでない限り、私は受けとめることができると思います。 私は最近になって、イギリスの詩人、ロバート・ブラウニング(1812-1889)の詩集を手に入れました。この詩人から「劇的独白」という表現のしかたを学び、私も試してみようと思って作ったのがこの『時計』です。 作品中の「私」は、必ずしも実際の私ではなくてよく、私は「私」を創造し、「私」に作品中にあるようにさまざまな思いを語らせたのでした。 成功しているとも不成功であるとも、また、この表現形式が現代において特段新しいものではないではないか、または、うそを書いたのかとか、いろんな感想を持たれる向きがあるとは思いますが、作品中に実際の私の心が入り込むことは避けられなかったことでもあり、また当然全力で作った作品でもあり、読まれただけで、私はうれしいと感じています。
0惜しいと感じました。「私」の浅薄さと思慮深さが如何様なのかがとても面白い部分だと思って読んだのですが、「私」への具体的なキーワードの浅さが作者の描きたい意図への浅さなのではないかとも読めてしまいました。 描写として「病」「ギター」「妻」「息子」「手」が具体的なものとしては印象あるものとして使われていますが、「私」にとってさして重要でないから浅薄に描かれている。 センセーショナルでないからこそ、そう読める面はあると思え、上手だなと読んでいました。 「私」の思慮の部分が相当に占めているのですが、本当に自分のことばかりで、五感をピックアップすることもないため、読者に発見をもたらすこともなく、どうにも「病」「ギター」「妻」「息子」「手」といった具体物への「私」の観察力が極端に足りていなくて、それでもそれら具体物への言及はあるので、そこが面白いです。 この「私」さんは自分の体のどこが悪いのか自覚ないんじゃなかろうか。と思ったり、 「妻」に「検査」で「今日」会ってたのに「電話」の回数の方が気になるのか。と思ったり、 両親生きてて連絡とか無駄にしてくれるタイプなら子供が休職してたら人ができてる妻や息子から連絡あって見舞いなりするだろ。と思ったり、 いやこの「病」は精神疾患だろうかと考えると「検査」や「死」の受容の描写がさすがに矛盾するから具体的な「病」だよな、いよいよどこでギター弾いて息子と逢瀬してるんだ、自宅で終末期なのか、そもそも検査結果出てなくてぼんやりとしか意識してないのか、いや休職してるし、いやだとしたら検査に付き添うくらいの妻はさすがに今後も会いに来るだろ、根本的に別居理由と出会った理由が思わせぶりな語り過ぎてこれ以上はこの家族の独自性に作品内の語から踏み込めない、この筆致は意図的なのか。と思ったり、 この作品が具体的な事物と「私」の思慮のあいだにあるものを描こうとしているのだ、 と意図を読み解けてしまうのですが、具体的な事物の描写が「私」目線だから曖昧だったり浅薄だったりするのには限らず、作者が深く捉えていない、そのようにも最終的に読めてしまいました。
0かるべまさひろ様、コメントをありがとうございます。詩のようなコメント文で、読むのにもちょっと苦労しました。 惜しいと感じさせてしまったことは、おそらく、私の想像力の浅さ、それによる描写の不足から来たものだと思われます。 この作品は、私の想像による、虚構です。どれほどまで読者の心に真実味を注ぐことができるか、私は心配していましたが、やはりそれが問題として浮かび上がったようです。 まだまだ私の虚構を表現する能力は弱いと自覚しています。 この『時計』の意図は、本当は、次に、仲程様への返信コメントに書くことです。 仲程様、コメントありがとうございます。 息子が帰ったところまで良いとのこと、うれしく思います。 しかしながら、私がこの『時計』を書いた本当のモチーフは、最後の部分にあるのです。もう閲覧数もだいぶ多くなった今、このことを明かしても良いかと思いますので、書くことにします。私は、最後の部分を書きたかったために、この『時計』を書き起こしました。ですが、伝わらなかったようで、私は自分の力不足を思い、課題を負いました。 この作品の最後の部分は、「私」が死ぬ瞬間を描いたものです。 私はこの作品を書き終えたとき、気分が悪くなりました。読み直してみても、やはり気分が悪くなりました。本当に死んでいくような体感を覚えたのです。 しかし、読者はこの体感をしなかったようなので、この作品は、失敗作であったと言えます。 私の実体験として、絶食により、死にそうな体感を覚えたことがあります。そのとき、私は時計を見ようとしました。そしてなぜか、もう夢の中には戻りたくないという思いを抱きました。このことを、今回私はそのままこの作品に書いたのです。 私は、表現力不足でした。読者に「死ぬ体感」を感じさせることができませんでした。どうしたら読者に死んでもらえるか、今後も考えていきたいと思います。
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