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現代詩とポエムに寄せる。
1.現代詩とは 現代詩は現代アートだ。 アートということは、 芸術だ。 芸術ということは、 継承され、習熟したこと、 ということである。 トレース的とか似ているという、 指摘は的を外している。 長年蓄積された技術こそ芸術なのだ。 ただ、芸術は表現だ。 継承や権威という権威付けによって 何の意味を持つのだろう。 同じものを作って何が意味があるのだろう。 現代詩とは何であろうか。 現代アートも現代詩も評価基準を失って 彷徨っている。 ポストモダンによって、 脱構築によって、 「閉じられた円環」によって。 あるいは、 分断によって。 または、 日本、 現代、 アート、 によって。 2.詩=ポエム ポエム。 この言葉から連想すること、 精神薬やリストカットしていそうな ひ弱そうな人がウェブサイトやブログをやっていて、 そこに「書かないと生きていけない」というような、 表現がなされている。 ただ、ある意味そういったものは表現としての 排泄物かもしれない。 3.人間性 ヒトラーの絵が高値で売れているらしい。 彼は画家として失敗した、 ある意味画家になれたら政治家にならなかったかもしれない。 そういうったものがあるのだろうか。 少年Aがホームページを運用していた。 大人の事情で消えてしまったが。 彼は「芸術家」と名乗っていた。 罪を償っても、表現することが許されない。 犯した罪そのもので否定され、批判される。 生きながらにして、十字架を背負って生きている。 『絶歌』という本を出版したが、 そのような形でしか彼は世に何かをとうことは出来ないのかもしれない。 私は問いたい。少年Aに表現が許されるかどうかを。 基本的人権の尊重はこの国に本当にあるのかを。 三上寛詩学校 生徒 加藤圭一郎
現代詩とポエムに寄せる。 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 897.7
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-21
コメント日時 2017-05-21
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
しょーもないオッサンの、ブログにしか、見えませんでした。
0そうですか。 岩崎夏海クリエータ塾二期生と名乗ったほうがよかったかもしれません。 嫌われることについては、そちらから継承していますから。
0鳩村さん どのようなところが、そのように見えますか。 ご教授いただきたいのですが。
0行分けを解除すれば、ただの、しょーもない、散文になります。アメーバブログやYahoo!ブログなど、しょーもない散文を、変に改行した文章が、あふれかえっていますよね。そういう、連想を、しました。
0「しょーもない、散文」のような散文でも、SNSで拡散され意味を持ったりします。 どのような過程で「意味のある散文」と「しょーもない、散文」が別れるのでしょうね。 では、ブログに書くべき文章とは何であるべきだと思いますか。 また、投稿する詩はどんなものであるべきだと思いますか。 http://breview.main.jp/keijiban/?id=223
0新規性がない、論証が足りない、前提が間違っている、あたりを満たしていれば、しょーもない散文でしょう。 他の問いについては、知ったこっちゃない、以外に、返答のしようがありません。
0わかりました。 返答ありがとうございます。
0大変、申し訳ありません。了解しました。別に、罵倒したつもりはなく、素朴な感想だったのですが、普段、他人と、まともにコミュニケーションとることがないので、常識に反することも、してしまうかもしれません。その都度、修正します。
0常識と言うか、ここの、ルールですね。遵守します。
0散文で書かれた詩論を、読みやすいように行分けにして表示した、という印象を受けるのですが・・・〈長年蓄積された技術こそ芸術〉という定義と、〈同じものを作って何が意味があるのだろう。〉という思考、この相反するものをぶつけていくのか、切り拓いて行くのか、止揚するのか・・・という魅力的な問いを提示しながら、そのまま先に進んで行ってしまう。この部分をもっと深く考察してほしいと思いました。 もし、その「深めていく考察」が、2節と3節であるなら・・・ 切実に心情を吐露することによって、自らを客観視したり、痛みを過去のものとして認識することができたり・・・文字にして、いったん「わたし」から離すことには、そのような効果があると思います。その文字にしたものを、読んで共感したり、返信や応答をもらったりすることで、生きる気力や勇気を得る、そんな人もいるかもしれない。その人達の生み出す言葉は、技術的、技巧的に完成した詩、とは呼べないかもしれませんが、切実に書かねばならないものがある、その部分が、詩の素材であり、詩の源泉である、と思うのです。 もし、そのような想いで、まだまだ未完成だけれども・・・と迷いながら「詩」を書いている人が、〈ある意味そういったものは表現としての/排泄物かもしれない。〉と記されているのを目にした時、どう感じるでしょう。自分自身の作品が、単なる吐露や吐瀉、排泄物に陥っていないか、と問う事と、他者の作品を〈排泄物かもしれない〉と述べることとの間には、大きな差があるように感じるのですが・・・2節が本当に必要であるかどうか、もう一度考えてみてください。 3節の、ヒトラーが画家として成功していたら、果たしてあのような歴史が起こり得ただろうか、と問うたり、少年Aが、社会的制裁を受けた後に、表現することが許されないのは是か非か、と問うことは、興味深い問題提起だと思いました。 いずれにせよ、論理展開だけでは、詩の骨格は作られたとしても、肉付けに乏しい印象を与えるのではないか、と思います。 単語のリズムで刻んでいく、とか、言葉の流れで進行させるとか、思考や論理ばかりで展開するのではなく、意味と意味との間に情感や情動が動くように工夫するなど、加藤さんらしい詩風とは何か、ということを、問い続けてほしいと思いました。 倣い、習い、それを忘れ、それを超える。型に入り、型を脱す。そのような詩を、加藤さんはきっと求めておられるのでは、と感じました。
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