神の庭 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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神の庭    

1 この庭では神様の声だけが聞こえる 兄が私にそう微笑みかける。何度目の光景だったろうか。ヤマモモの木のちょうど良いところで別れた木の股に座って私にはわからない文庫本を読んでいる兄。夾竹桃の陰に隠れて軒先からは視線の届かない絶好の場所。 2 母の庭 私の生まれた日に母は亡くなった。それをきっかけに兵庫に住んでいた家族は岡山のはずれの庭のある家へと引っ越したと聞いた。それが何を目的としていたのか私にわかるはずもないが、結果として母の代わりにその庭が兄と父に与えられたことは事実だろう。 3 阪神タイガース 私の最も幼い頃の記憶は、無邪気な子供がやるように父のお腹を叩いている兄の姿だ。兄は私が泣き出すといつも酒に酔った父を私から遠ざけてテレビの方に引っ張っていった。テレビでは縦縞模様のユニフォームの選手がバットを持って立っていた。兄はしきりに野球の質問をしていた。父に甘えるように発せられる言葉とは裏腹に、脚はテレビに映っていた選手のように明確に何かの意志をもって身体を支えていた。その対比はとてもアンバランスだった。父が眠ってしまうと、血の混じる唾を洗面台に吐くように促され、頭を撫でてもらった。母さんが死んだのはお前のせいじゃない、という言葉には何百通りものバリエーションがあることを教えてくれたのは兄だった。 4 気持ち悪い 私が風邪で学校を休んだ日、家の外が騒がしかったので玄関口まで出ていくと、兄と同学年くらいの男の子の複数の笑い声が聞こえ、足音に気付くと奇妙な声を出し遠ざかっていった。郵便受けには一枚の便箋が入っていた。 「あきら君 私はあきら君のことが好きではありません。ごめんなさい。 君が教室で誰もいないのに独り言をしたり、笑いだしたりするのが気持ち悪いです。」 と綴られた手紙の最後に手書きの顔文字が歪んでいた。同性として、最後にその名前が記された女性の書いたものとはとても思えなかった。何かを考えるよりも先に、私は部屋に駆け戻って、手紙をびりびりに破いていた。そして隣の兄の部屋から一番遠い位置にあるベッドの奥、一番深くに一刻も早くそれを投棄してしまいたかった。 5 べっちょない いつもは兄が座っていたヤマモモの木にその日は私が座っていた。兄は私のふたつの膝の間に座って、優しく私の脚を開いた。「べっちょない」消え入るような声で呟いて、兄は私のスカート中に顔を突っ込んで、私の性器を下着の上から舐めた。最初は下着の上からだったが、日を置いて何度か繰り返すうちに、直接私の性器を舐めた。そのとき心と身体が金属に貼ったシールのように、つるっと剥がれていくのを感じた。 6 罪と罰 ある日、朝自室で着替えをしようとして戦慄を覚えた。下腹部から太ももの付け根にかけてまるで戦車にでも轢かれたかのように赤黒く発疹をおこしていた。そのことに気付いた兄はいつもより丹念に私の性器を舐めながら、「べっちょない」という言葉をか細い声で誰に言うでもなくいつまでも繰り返していた。 7 イシス 最初は家に入り込んだ犬の声かと思ったが、そのあまりにも人を不安にさせる音を辿り軒先に着くと、血に染まった枝切鋏が転がっており、その近くには赤黒くぶくぶくに太った蛭のようなものが落ちていた。何が起きたのかを察した私は丁度庭先に干してあった白いハンカチをつかみ取りそれを拾い、丁重に包みポケットにしまった。ヤマモモの木のそばには兄が倒れており、夾竹桃の赤い花弁と白い花弁が多量の血に染まって口からぽろぽろと零れていた。 8 告白 私は私たちに起きていたことを誰にも話すつもりはなかった。待合室で今にも死にそうな顔をしている父に母はなにを語り掛けるのだろうか。もしその言葉がわかるのなら、私はその言葉を唱えてあげたかった。日々酷くなっていく発疹を目の当たりにして兄が偽りの神の声を聞いたように。 9 たとえば首の短いキリン、あるいは鼻のつぶれた象 あんなに雑多に生えていた木や花をすべて刈り取った庭は随分と狭く感じられた。それは過ぎた歳月のせいかもしれない。父の様子からこれから何を切り出そうとしているかは容易に察せられた。もうそろそろ一緒に暮らすのも、と言いかけたとき、私の身体は震えだし、「怖い...」と発声した。 釈然としていない父を後目に逃げるように滑り込んだ自室のドアを後ろ手で閉め、目から分泌されているだろう涙を拭こうとした指には意外にも少しの湿り気も感じなかった。そのときだった。床に膝がついていることに気が付き、腕はいつの間にかうつぶせに崩れそうになる身体を支えていた。靄がかかったような意識の中で唯一自由に動かせる頭部で左右をゆっくりと眺めた。やがて視線はベッドの奥の隙間に注がれ、便箋はもうとうに処分したはずではあるが、まだそこに何かを忘れているような気分になった。すると、頬を伝うものがあることに気付いた。それは涙だった。その涙の理由に思い当たる節がなく、ゆえにとめる術もなく、この貧血のような事態に対処するにはしばらくこのままの姿勢でいるほかない、と高を括ってしまおうとする意識をかき消すように嗚咽がとめどなく聞こえてきた。 涙も涎も鼻水もぼろぼろと零しながら、胸の奥底からはい出てきた獣のような悲鳴をあげ、私は生まれて初めて泣いていたのだ。


神の庭 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 23
P V 数 : 6253.8
お気に入り数: 1
投票数   : 0
ポイント数 : 1614

作成日時 2019-05-06
コメント日時 2019-05-26
#テキスト #REIWAビーレビCUP参加作品 #酷評OK #受賞作
項目全期間(2024/12/27現在)投稿後10日間
叙情性330315
前衛性224220
可読性381379
エンタメ117115
技巧234219
音韻9290
構成236221
総合ポイント16141559
 平均値  中央値 
叙情性41.37.5
前衛性282
可読性47.62.5
 エンタメ14.63
技巧29.37.5
音韻11.50.5
構成29.57.5
総合201.838
閲覧指数:6253.8
2024/12/27 01時47分23秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
※自作品にはポイントを入れられません。

神の庭 コメントセクション

コメント数(23)
かるべまさひろ
(2019-05-07)

感想です。 僕は最初、「私」が切り殺したけど自覚がない、のだと感じました。 読み進めると、いかような解釈でも大丈夫なように調節されている、と感じました。 女性作者が女体を書くとき「女詩的」な表現を用いる(凡庸か凡庸でないかで表現への僕の好意は全く変わりますが)ので、この詩の視点は男性だな、と感じました。 ただそこは意図で、「心と身体」が「シール」のように離れている描写なのだと思いました。ただ初っ端から「心と身体」が離れている気がして、そこは疑問に感じました。あと「シール」は正直、きれいに剥がせないもの、と僕の心は連想したので、つるっと剥がれるのは気持ちいいよな、と感じました。多分「読解」としては間違ってるんですが、僕は気持ちいいことはいいことだと思います。 9番目のシーンが感動できませんでした。なんでかなぁ、としばらく考えて、いろいろ泣きの描写で感動したものを読み返したり思い返したりしました。(根本的に涙もろくて、最近はミュウツーの逆襲の予告だけでもうるっとします。) おそらくなんですが、このシーンを役者が演技したら、僕はそれを見て、死ぬほど苦しんで泣けるとこまでは想像できた(声を漏らさないのが難しい)ので、テキストから実際の表情や目線ほど僕が情報を読み取れていなかったから感動できなかったのだと感じました。 ただ、それはきっと9番目のシーンで心と身体は結局くっついてるって気付かされるorくっついていくんだべ、っていう凡庸な期待を持たされて読んでしまったからなんです。この詩がいわゆる王道を行くのなら9番目が推敲されて、もっと泣けるようになったらいいなと思うのですが、いわゆる邪道を行くなら、結局心と身体はつるっと剥がれたままなのだという描写なのだと思います。 気持ちよく読みたい読者としては10番目のシーンが欲しいんですが、心と身体の問題意識の再確認としては9番目のシーンまでで充分感じられるな、と思い読みました。 その上で、僕は何を感じ得たのか、ということを更に感想として述べると、 自分はとにかくあたたかく生きようと思いました。

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fiorina
(2019-05-07)

樹木(ヤマモモ、キョウチクトウ)の毒が効果的に使われていると感じました。 それぞれの毒性と癒やしがひびきあって生き物を生かし、 育てる庭という場所に死角があると言うことも。 弱々しい「べっちょない」が通奏低音のようにきこえます。

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芦野 夕狩
(2019-05-07)

鈴木 海飛さんへ お読みくださりありがとうございます。 >ゆがんだ「癒」 >兄妹の密かな儀式というものが頭に浮かびました。 >ゆがんだ「癒」が、 >密教的なの儀式の秩序が >時に不条理な環境を生き延びさせる とても鋭い解釈をしてくださって、嬉しい限りでありますこと、どうかお伝えさせてください。 「癒」という漢字、不思議な字ですよね、ヤマイダレでありますから、病気がなおる、ということから、癒し、というような言葉も生まれたのだろうと想像します。 同時に「癒着」という言葉がありますが、辞書を引くと「本来は分離しているはずの臓器・組織面が、外傷や炎症のために、くっつくこと。」と、全然癒しではない、傷や炎症、そういう外からのものに対して、そのままではだめになってしまう器官、組織が「治ろう」としてくっつくのでしょうかね。 そういう意味で、鈴木さんの仰るゆがんだ「癒」という言葉を読んでおりました。 僕はあまり美しいものを美しいと思わない性質なのですが、その愉は淫靡で美しい。これを書く前に、ジブリの「火垂るの墓」を見たのですが、あれも今この歳になってみると、押井守の言うように(近親相姦、カニバリズム等)相当に気持ち悪い映画でしたよね。それ故に美しい。 作品から離れましたが、美しい評にハッとしました。ありがとうございます。 この詩を書くときに「決して汲みつくせない泉を書きたい」と思っていました。どんなに大きな桶で汲み続けても枯れない物語を、と。それと同時に、それは汲みうる泉であらねばなるまいとも考えておりました。汲み取った桶にはちゃんとなみなみの水が注がれてなければならない、と。ですから、もし鈴木さんが男性器は間違いで、舌だろうと、ある種の「正解」の持つ力に、強制されるようなことをこの詩に感じられたのならば、それは僕の力不足以外の何物でもありません。汲み取ってくださった方の桶にすべて等しく、与えられる詩というものをいつの日か書くことが出来るだろうか。 そんなことを考えていました。 繰り返しになりますが、お読みくださりありがとうございます。

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芦野 夕狩
(2019-05-07)

かるべまさひろさんへ お読みくださりありがとうございます。 >「心と身体」が「シール」のように離れている描写なのだと思いました。ただ初っ端から「心と身体」が離れている気がして、そこは疑問に感じました。あと「シール」は正直、きれいに剥がせないもの、と僕の心は連想したので、つるっと剥がれるのは気持ちいいよな、と感じました。多分「読解」としては間違ってるんですが、僕は気持ちいいことはいいことだと思います。 仰る通りでシールって実は簡単にはがせないものなのですよね。僕は以前「屑拾い」をしてたことがあるのですが、(あれは嫌がらせもあったと思うんですが)アルミ缶についているシールを一つ一つ剥せ、と言われるのですよね。なかには簡単に剥せるものもあるのですが、僕としても、シールは簡単にはがれない、というイメージが強いです。 ですから、その部分を書いているとき、かなりの背徳感を感じました。もしかるべさんが、僕のそのような束の間の淀みを感じてくださったのなら、幸いであると思いました。ええ、つるっと剥がれたほうが、気持ち良いですよね。 >この詩がいわゆる王道を行くのなら9番目が推敲されて、もっと泣けるようになったらいいなと思うのですが、いわゆる邪道を行くなら、結局心と身体はつるっと剥がれたままなのだという描写なのだと思います。 実のところ仰ることはほぼ理解しているつもりなのですが、このような鋭いご指摘をいただいてなお、倫理/非倫理の外側に向かう「文芸という泉」であることを作者である僕が願い、それをかるべさんの内に実現することが出来なかったことを申し訳なく思います。 お読みくださりありがとうございました。

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芦野 夕狩
(2019-05-07)

fiorinaさんへ お読みくださりありがとうございます。 >それぞれの毒性と癒やしがひびきあって生き物を生かし、 >育てる庭という場所に死角があると言うことも。 僕自身、鈴木さんに頂いた評に引っ張られていることを自覚しておりますが、なんとなくですが「母というもの」を想像しました。あれは僕も経験したことがありますが、本当に人を育むものであると同時に、人を殺しうる毒であるというような奇跡だと思う時があります。 これは明確に後付けになりますが、そのようなものをもし書けているのであれば、それは僥倖であると思います。 「べっちょない」ですが、私は播州弁とは何のかかわりもない地域に住んでおります。ですからそのようなことを仰っていただけてとても安心するような気持ちです。 どうもありがとうございました。

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芦野 夕狩
(2019-05-07)

訂正 鈴木 海飛さんへのレスですが その愉は淫靡で美しい。 → その喩は淫靡で美しい。  です。

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三浦果実
(2019-05-09)

芦野夕狩さんはこんなのを書いていちゃダメだ。自己治癒なんてやってちゃダメなんだ。読んだやつらが憎悪するものを書かなくてはいけない。芦野夕狩さんこれは良いですねえなんて言わせるな。君が抱えてる残念さは誰もわかってたまるかよなものじゃないか。

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芦野 夕狩
(2019-05-09)

みうらさんへ お読みいただきありがとうございます 今朝仕事前になんとなし、twitterを見ていたら三浦さんが僕の名前を出して謝っていらしゃる、いったい何のことか、と思って聞いてみたら、こちらのコメントのことであるとのこと。みうらさんの言によると「すみません、中原中也が夕狩さんの新作にコメントを書かせてたんです。」 ああ、つまりみうらさんのお友達か何かの誤ってみうらさんのアカウントを使ってこちらに書き込んでしまったということなのであろうが、「中原中也」この名前には僕もいささか思うところがある。 もし、みうらさんのお友達があの中原中也本人でなかったとしたら、大変な失礼に当たるかもしれないが、こんな機会またとないであろうから、僕はこのタイプをやめることが出来ないだろう。先に謝っておく。大変申し訳ない。 先ず、中原君、君の言ってることは本当に尤もだと思っている。僕としても、日本の詩の現状の袋小路を考えると、果たしてこれまでの詩というもの文学というものを大きく刷新する文章を書かねばならない、と本気で思っているんだ。 >芦野夕狩さんこれは良いですねえなんて言わせるな。 その通りだ。でもひとつわかってほしいのは、僕はそんなつもりでこの詩を書いたわけではもちろんない。結果として君の中でそうなってしまっているのは僕の力不足であることは否定しようのない事実なのだけれどね。 >自己治癒なんてやってちゃダメなんだ。 これに関しては、おいおい、君は自分が書いた詩を忘れたのか、と吹き出してしまった。ユーモアのつもりだったら、もう少しわかりやすく書いたほうが、いいと思うよ。何しろ今はネットですべてが完了する時代で、君のいるその時代の、常に相手の顔が目の前にあって、表情でだいたいのニュアンスが伝わるようなわかりやすさは現代にはないんだ。春日狂騒の最初の二行でもコピペしてくれていれば、ちゃんと10割笑えたんだから。 >読んだやつらが憎悪するものを書かなくてはいけない。 これに関しては、「君は一度だってそんな詩を書けたことはなかったではないか」と、ちょっと語気を荒げてしまうのを許してほしい。僕も君がいる時代に思いを馳せると、君は君なりに、まだ詩というものが根付いていないなかで必死に何かを残そうとしたことは想像に難くない。けれど君の時代にもすでに多くの文学は花開いていたはずだ。偉大な才能が、その才能のままに、人間という深い闇の中に侵入していくさなか、 なぜ君はあんな表層的な言葉を弄って、それを詩と呼んでしまったんだい。 それがすべての悲劇の始まりではないのかい? 今僕が生きている時代、詩は日本では、メインストリームから外れて、偏執狂的な細部へのこだわりのみが、まるで詩であるかのように語られているよ。 >トタンがセンベイ食べて >春の日の夕暮は穏かです 君の書いたものを多くの人がありがたがっている。こんなくだらないものであるにも関わらず、だ。あるいは >汚れっちまった悲しみに >今日も小雪の降りかかる 君から始まった、そのひたすらに自分の性器だけを撫でているだけにすぎないくだらない自意識を、まるで詩の手本のように真似したがる輩の責任は、僕に押し付けるだけではなく、すこしは君自身も感じてほしいと思うわけだ。 君はボードレールを知っていたはずなのに、どうして、詩にはもっと偉大なことが為せる、と信じなかったのか。凡ての価値を転覆させるような文学は、詩から生まれるべきだったのではなかったのか。物語という、人類史上最も優れた発明でさえ、詩からは今追い出されようとしているのだ。人の生きるということに、それ無しでどうして迫れよう。朝の光や木の花なんかを、洒落た言い回しで喩えて、それでどうして人間という奈落について書くことができるのだろうか。 実のところ僕は君を恨んでいる。君がひねり損ねた糞を拭いてやっているのに、君を持ち出して僕のやり方は正統ではない、などという人たちが多すぎてうんざりしているのだ。 恨み言を言いすぎてしまったが、君は君一人で多くのことを為したと思っている。君もたぶん文学の神に「今はまだ無法図すぎて」と自分の無力を嘆いたことであろう。それは十分に理解している。そのうえで一つ言わせてくれ。君が為し得なかったことを、あたかも詩の正統として語りだす人間に、君が為そうとしたことをどうか語ってやってくれ。 そして、もう少し待ってくれ。

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白犬
(2019-05-09)

ごめんなさい、三浦さんのこめに釣られてこめ。先に言っておくと、disです。 下品な人間の書く詩だと思います。 理由としてあげるのは、作者が男性であると言うこと。そして作中の「兄」を、私は作者の精神的排泄物の象徴ような人物として読みました。 自分自身の性欲を含む「排泄物」を、「精神障害的な傾向のある人物像」になすりつけ、自分はのうのうと詩人面をしている。 そのような詩に読めました。神の庭?どこがやねん、ざけんな、と思いました。 てめーの性欲は自分で責任取れや。 酔っ払ってるので、挑発的なこめになってごめんなさい。芦野さんのきゃらは好きです。

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芦野 夕狩
(2019-05-10)

白犬さんへ 仰る通り、僕は下品な人間です、決して上品な類ではありませんよ。なんてずるい逃げ方をしてしまうと、白犬さんだけではなく多くの方が、そういう言い逃れができる類のものではなく、いわば魂の高潔さの問題として、下品である、と仰りたいのだと思いますが、それについても特に否定するつもりはございません。 実のところこの批判には多くの示唆があるわけですが、それについてあまり饒舌になるのは宜しくないので、一点だけ。 白犬さんのご批判、換言すると、「ある精神障碍者が、彼の汚れなき魂のあるのに関わらず、生得の彼を苦しめる影が、彼の運命を掴み、やがてその無垢なる魂もろとも握りつぶした」と口上されるようなテンプレートな感動劇、いわば24時間テレビの感動ポルノの逆バージョンといいましょうか、そういう見世物として受け取られた、ということかと思います。 色々と悩み、昨日の段階では、あろうことか汚い言葉を吐きかけました、未遂とはいえお許しください。 一晩経ちまして、今はむしろそのような下劣とすら呼べぬ汚物を想起させてしまった自らの文章力の無さを恥じるばかりです。 不快な心持にさせてしまって大変申し訳ございませんでした。 真剣にお読みくださりありがとうございます。

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柴田蛇行
(2019-05-11)

 この作品のコメントを書く前に、作者が中原中也宛てのなんか長めの手紙みたいなのを書いていて、それを何の気なしに読んでしまったのだけれど、そのことを後悔している。ああいう立派なことを書かれたあとに何か物を書くのは本当にしんどい。それ分かっててやってるのか、天然でやってるのか気になるけど、個人的には前者じゃないかなと思ってる。ただでさえレビューが苦手で大したことも言えないのに、もうどうやって後に続けばいいのかわからない。くだらないことを書いて「ああコイツ、俺よりくだらないことを俺の後に書いていやがるな」と思われるのも癪だけど、そうするほかないから、いろいろと全部許してほしい。  この作者の作品って「一読してめちゃくちゃわかりやすいもの」と「あえて分からせないように作ってあるもの」に二極化しているなと感じていて、これはきっと後者にあてはまる作品だと思う。  このあえてすぐに分からせないように作ってあるものって、「これってどういうことなんだろう?」と考えさせることで、作品そのものを好きになってもらおうとしている目論見を感じてしまう。それって、ちょっと気になる女の子が意味深なことを別れ際に言って、家で考えているうちに知らず知らず好きになってしまう、みたいな心理状況に近い。個人的には、その手には乗らないぞ!と思って突き放してしまうことが多いのだけれど、作品にフックが仕掛けられていて、ちゃんと突き放さないような仕掛けができているんだから、そこらへんの手の込みようは憎いなと思う。  そしてそのフックを元にたどれば、なんか答えが見つかるんじゃないかと読者は思う。その「俺の人生の答え、ここにあるかも感」って詩において割とキーだなと思っていて、学問も宗教も、結局はそれに尽きるんじゃないかと思うと、この作品は人間の心理をよく理解して作ってるんだろうなと思ったりもする。まあきっと作者は他者の人生の答えなんて知ったこっちゃないし、勝手にやってろと思ってるんだろうけど。  さて、この作品の最大のフックは「感情の不在」だと思う。ヤマモモ、兵庫、阪神タイガース、あきら君、べっちょない、戦車、枝切鋏。こんなにたくさんもの具体的な固有名詞に囲まれながら、ここで登場する兄も私も父も死んだ母も、誰ひとりとして感情が読み取れない。その感情の不在に、読者は「このひとたち、いったい何を考えているんだろう?」と考え出す。そのまるで人形のような登場人物がセンセーショナルな行動を次々起こしてしまうんだから、(父の酒乱ぶり、兄の自傷行為、わたしの理由なき涙など)読み手としては「どうかしましたか!?」という驚きにつながり、そのストーリー展開のスリルさに酔いしれる。  個人的にはこういう飛躍の仕方は好きだし、それこそ話の楽しみどころというところもあるが、読み手によって(おそらく起承転結がはっきりしていて、感動モノを欲している人たち)はいささか置いていかれている感を抱く人はいるのかもしれない。それはかるべさんもコメントとして残しているが、散文形式ってもしかしたら、最後に何かあるのかもしれない、と期待する人がいるのかもしれないなと思う。だけど、その「感情の不在」の穴は「神の声」が埋めているように思う。それで、この話を読み終わった後に自分の家族を振り返り、その神の声が自分の声にいつの間にかすり替わり、人生の意味を考え始める。こういう構造って本当に美しいなあと思う。よく出来てるなあ。やっぱりすごいなと思う。  まあ、みんなどうせ心温まるお話が読みたいんでしょ、と読み手を舐めてかかって、てきとうにお涙ちょうだいやっているのが私なんですけど、それをやれというのも陳腐だし、そういう定型は書けない人間が仕方なくやることなので、気にしないでほしいと個人的には思う。だけど、読み手の幅を広げるということを視野に入れるとしたら、もう少し感情を描いてみても良かったのかもしれない。いちばん感情を書きやすかったのは死んだ母だと思う。亡くなった人はそこにいないから、いかように失敗してもまあまあ修正がきく。母には、兄の文庫本のカバーでも適当に手縫いさせておいて。  この手の作品、近親相姦を軸にしたものに対する賛否とか、性器を舐めるシーン、自傷行為などに対する生理的な快不快に関するコメントは必ずつくことを、作者は想定済ということを踏まえて、わたしはこういったことを言及することはスルーしたいと思う。別にいいんじゃない、というわけじゃないけど、こういう難しいことは頭の良い人で勝手に話し合ってくださいという感じ。社会的なことをここで話し合う必要性を感じないんですよね。たかだか数人で話し合ったとしても、出てくる答えなんてもう目に見えてるし、そんな時間あったらもっと楽しいことしようよと思う。  ひとつだけ言えるとしたら、詩として書いちゃいけないことってあるのかなっていうこと。もし、詩として「書いちゃいけないこと」があるとしたら、それはどうして書いちゃいけないのか、本当に書いてはいけないことなのか、限りなく神経質に、それは懇切丁寧に、根拠を明確にしたうえで話を切り出さなければならない。わたしは、ものすごく怒られるかもしれないけど、書いちゃいけないことなんてないって信じてる。読み手の生理現象に配慮した文章が詩であるならば、もうわたしは詩を書かないだろう。最初一読したとき、わたしは「こころに染みが残るような作品」と口に出したことを覚えている。悪口を言わず、くだらないことを言わずして人に嫌な気持ちを抱かせることは難しい。それをやってのけて、まるでワインをこぼすかのように、過去の記憶に染みを作ってしまうんだから、それって一万円より価値があるんじゃないかっていうはなし。  

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エルク
(2019-05-12)

体調がすこぶる優れないので気合の入ったコメントはできないのですが、 芦野さんの作品をこうして読めるということが何故かうれしく思います。

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芦野 夕狩
(2019-05-14)

柴田蛇行さんへ お読みくださりありがとうございます。 中原さん、いや三浦さんへの返信に関しては必ずしもふざけていたばかりではないですが、やるなら別口でやるべきであったな、と少し思っています。せっかくの機会であったのと、人の作品になんだかそれっぽい挑発を入れておきながらtwitterでは冗談だったことをほのめかすようなやり方には御忠告いたしたかったので、あのようなこと書き申し上げた次第です。僕は酷評は今までずっと正面から真顔でやってきた人間なので、何を言われてもいいですが、裏で握手を求めるようなやり方は流儀に合いません。 別口でやるべきであったな、というのは、そのことで読んでくださる方、評を付けてくださる方に対してノイズになってしまうのは避けられない、というデメリットと、三浦さん本人が感じたであろうご意見をないがしろにしている点です。三浦さんの仰りたい旨は別個でちゃんと受け取っておりますので、ご安心いただければ幸いです。 この詩に関してですが甚く丁寧に読んでくださり、誠にありがとうございます。仰っていただいたことひとつひとつに僕が思ったことを書き連ねたいですが、それではあまりにも無粋になってしまいますので、かなわぬことどうかお許しください。 >まあ、みんなどうせ心温まるお話が読みたいんでしょ、と読み手を舐めてかかって、てきとうにお涙ちょうだいやっているのが私なんですけど これは僕のような書き手からするとちょっとした皮肉きこえる 笑 少しひねくれすぎですかね。というのも、僕だって書けるものなら読み手の心を「満たす」ものを書きたいですよ。でもそれが出来るのは、「書いたものが詩になってしまう」一部の書き手だけなんですよね。残念ながら僕はそういう文章を書けない。そのうえで色々な試行錯誤のをして出来上がったものです。お褒め頂き本当にありがとうございます。 感情の不在というものは、まぁこれだけ露骨にしてあるわけですから、殊更に作者の意図を隠すつもりもないでしょうね。たぶんヌーベルバーグあたり、実験的な文学運動ではすでに試みられていることでしょう。アンチ物語、とまでは申しませんが、仰られるような「こういうの読みたいんでしょ」というものへの反感は少しあるのかもしれません。それは別に頭の中で理屈だてて考えられたものではなく、元からそういうものが好きなんですよね。人様の文章にあれこれ申し上げるつもりはございませんが、自分の書くものくらい自分の趣味で書くわけで、「わかる」ってとてもしんどい時があって、僕はどちらかというと、いや、どちらか選ぶ隙もなく、誰かと分かりあうことなんてもうとうの昔に諦めたような顔をしていたいんですよ、いけすかないでしょ? 全然関係ない話なんですが、小さいころ狭いところだとか、暗いところが好きで、押し入れとかずっと入ってることがよくあったんですよね。こういう話すると、出た、詩人エピソード! って言われちゃうけど、僕はそうすることによって、なんか耳とか鼻みたいな感覚器、新しい感覚器が背中の後ろから生えてくるんじゃないか、とまじめに思っていました。それは音とか臭いを近くするんじゃなくて、ただひたすら暗いことを知覚するためのなんか触手みたいなもので、後ろ向きで、腐ってて終わってて、どうしようもないものだけに反応するそれでいつか、誰かと巡り合えるような気がしていた。でも巡りあってもそれは普通の出会いじゃなく、なんか憎しみに近い感情で、その感覚器を触れ合わせる、それで終わり、みたいな。 え、これなんの話だろう。わかんないけど柴田さんの感想読んでいて、わかんないこと、について考えてたら色々でてきて自分でもびっくりしていて、そう、「わかる」ってしんどいよねって話だ。僕はたぶんここにいるみんな嫌いだよって話。柴田さんに至っては一周まわって好きかも知れない。え、これなんの話だろう。 とにかく読んでくださってありがとうございます。うまくレス返せてるかわからないけど、すごく時間かかっちゃって申し訳ないです。 エルクさんへ お読みくださりありがとうございます。 季節の変わり目ですのでどうかご自愛くださいませ。 昔は多作だったのですが、ここ最近チキンなんですよ。何がチキンかっていうと駄作を書く度胸がないんですよね。 駄作を書けないやつに傑作をかけるわけがないだろう、っていつも思うんですけど、チキってしまします。でもそういうふうに仰ってくれているってことは、きっとなにかとてもホッとさせてしまったんだろうな、とちょっと罪悪感。次はなにか少しでもホッとさせないようなものを書きたいな、とか思っています。 どうもありがとうございます。

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芦野 夕狩
(2019-05-14)

訂正 殊更に作者の意図を隠すつもりもないでしょうね。 → 殊更に作者の意図を隠すつもりもないです。 それは音とか臭いを近くするんじゃなくて → それは音とか臭いを知覚するんじゃなくて

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tOiLeT
(2019-05-19)

『背徳感』がキーポイントのように感じました。 関係性が希薄にも見える作中家族を関係づけていた要素の一つに、この背徳感があるのでしょうか? それにより人間の業というものを浮かび上がらせているようにも・・・ 最後主人公はなぜ泣いたのでしょう? よくも悪くも家族を関係づけていた要素(行為と人物、それによる背徳感)を失ったことによる喪失感でしょうか? 失ったことにより神に近づいたのでしょうか、それとも遠ざかったのでしょうか? 個人的には遠ざかった、もしくは神との埋めがたい距離が決定づけられたようにも思います。 そしてそういうときこそ、人は神にすがるのかも知れませんね。

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stereotype2085
(2019-05-19)

読むのに時間がかかりました。体調、詩の分量併せて鑑みて。読んだ感想を一言。「暗い」。三島由紀夫が、来日したビートルズに熱狂する若い女性を指して「どこか暗い」と表現したということですが、その「暗さ」に通じるものがこの作品にはあると思います。性的な敗北、挫折が描かれていて、尚且つその敗北を招いた当事者である「兄」が精神疾患者だとは。これ以上に苦く、暗澹とした描写、構成があるでしょうか。まるで敗戦後、性の価値観を欧米諸国に上書きされた日本という国そのものに通じるようではないですか。その点も含めてどこまで筆者様が、この性の敗北についての物語を記されたのかは分かりませんが、やはり「暗く」「陰鬱」としている感は拭えません。「神の庭」というタイトルに甘美なペシミズムを感じると評したことがありましたが、そうではなかった。甘美であるどころか、苦く、辛く、鬱蒼としている。ここで語られる神は迷妄の産物ではないかと感じました。以上が感想です。しかしこれほどの反響を呼ぶ筆者様の詩書きとして実力は、やはり無視出来ないものだと思います。

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芦野 夕狩
(2019-05-20)

(すみません前記事の訂正ですが 柴田蛇行さんへの返信 ヌーベルバーグ → ヌーヴォーロマン です) tOiLeTさんへ お読みくださりありがとうございます。 ちょっと実は読んでくださる皆さまに申し訳ないな、と感じていることが一つありまして、それはなにかと申すと、あまりにこれまで付けてくださったコメントに対して、雄弁に答えてしまった(僕なりの必死のサービス精神だと思っていただけると幸いですが)ため、まるで「作者である僕がこの作品について一番何かを知っているかのような空気感」というのを出してしまったな、と。 つまり、言い換えると、作者が作品のこと知っているとは僕は思っていません。一般論的にもこの作品においても。 ですから、 >最後主人公はなぜ泣いたのでしょう? という問いに、僕は答えを当然のようにもっていないのですね。 意外なことと思われるかもしれませんが、作者が書いたものと、今ここに書かれてるもの、って決定的に異なるんですよね、ってことをうまーく >個人的には遠ざかった、もしくは神との埋めがたい距離が決定づけられたようにも思います。 というお話に繋げたかったんですが、そんなオシャレな真似はできないということに今おののいています。 つまり、神に近づくということ、これを詩を読む行為において、「正答」に近づく行為、と仮にした場合、 「作者の意図」というのは「神の声」であるな、ってことをですね、もっと洒落乙に言いたかった... いや、まあ直感なんですが、大変興味深い示唆をいただき嬉しく思っております。 ありがとうございます。 stereotype2085さんへ お読みくださりありがとうございます。 ちょっと趣向を変えてお返事書かせていただきます。 と言うのも、さすがにこの詩、何度も皆様のお目に触れさせてしまうのは申し訳ない。せめてコメントくらい気の利いたこといえや、という皆様の心の声をがっちりキャッチしていく所存です。 鈴木 海飛さんいわく >ゆがんだ「癒」が、 >密教的なの儀式の秩序が fiorinaさん曰く >樹木(ヤマモモ、キョウチクトウ)の毒が効果的に使われていると感じました。 >それぞれの毒性と癒やしがひびきあって生き物を生かし、 柴田さん曰く >この手の作品、近親相姦を軸にしたものに対する賛否とか、性器を舐めるシーン、自傷行為などに対する生理的な快不快に関するコメントは必ずつくことを、作者は想定済ということを踏まえて、わたしはこういったことを言及することはスルーしたいと思う。 tOiLeTさん曰く >『背徳感』がキーポイントのように感じました。 そしてstereotype2085さん曰く、 >「どこか暗い」 共通して、やはりどこか、「負」のイメージを皆様持たれている。そのこと自体僕が否定すべくものではないのですが、 それは何故だろうか? というのは意外と根源的な問いのように思われるわけです。 そう申し上げるのも >性の価値観を欧米諸国に上書きされた日本という国そのものに通じるようではないですか。 という視点を新たに取り入れると、とてもわかりやすく。日本という国は、夜這い文化とかを調べているとわかる通り性に関してはとても奔放でタブーの少ない民族であったことは想像に難くないですね。 「欧米諸国に上書きされた性の価値観」というものを禁欲主義的な、厳粛な結婚制度と性、というものの輸入と考えたとき、それまであった、奔放さはいったいどこに消え失せてしまったのだろうか。 或いはキリスト教が普及する前の、各ヨーロッパ地域に分布していた「神々」の末路。あるいは仏教が日本を覆う前に各地にいたであろう異形のものたちは? という問いと似ているのかもしれません。 おそらくstereotype2085さんが仰りたい、「どこか暗い」という言葉は、行為の後ろ暗さや、表面的な人の悲劇ではなく、その背後にある「なぜ負の認識を持つのだろうか」ということを自らに発したときに気付く、その「失われたもの」へのうしろめたさ、なのでしょう。 >ここで語られる神は迷妄の産物ではないかと感じました。 かつで神であったものが迷妄になり果てる、というと文意をかなり変えてしまうかもしれませんが、そのようにご批評拝受し、大変自らの内に興味深い発見がありましたことをここにご報告させていただきます。 ありがとうございます あしや

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エルク
(2019-05-21)

人の触れ得ぬものを禁忌として遠ざける、または理解の及ばないものに畏怖する、ということは自己と対象との距離を(漠然とであっても)再確認することであると思います。再確認という言葉を「再定義する」と言い換えてもいいですが、ここでは兄と神様との関係、兄と私との関係、父または母と子たちの関係、などがタブーとして一般的には認識される事柄として触れていく。触れているかのようにみせかけて本質を語ることを回避していく、ということに「再定義」されていく事柄が関係性を強化されていき距離が生まれていく。距離とは人と人の物理的な距離から関係性といった精神的な距離感も含んでいて、それがそのまま禁忌(畏れ)との距離感をあらわしている。 何が言いたいかというと、禁忌に触れているようでいて触れ得ぬままにいる登場人物たちの関係性が書かれた物語であり、禁忌に畏怖し、必要以上に畏れを肥大化させ、禁忌という怪物を自ら育ててしまった家族の物語でもあるのかなと読みました。

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芦野 夕狩
(2019-05-24)

エルクさんへ ご返信遅くなってしまい大変申し訳ありません、 再び、お読みくださりありがとうございます。 >禁忌という怪物を自ら育ててしまった家族の物語でもあるのかなと読みました。 後ろから読みますね。 これは実感としてよくわかります、例えば、幼いころ育った街では入ってはならないとされていた路地があったんですが、蓋を開けてみればなんてことない、ごくありふれた人種差別だったりするのですよね。 ただ、家族という閉ざされた空間においてはそういうものは往々にして怪物的な力を得てしまう。それを踏まえて >ここでは兄と神様との関係、兄と私との関係、父または母と子たちの関係、などがタブーとして一般的には認識される事柄として触れていく。触れているかのようにみせかけて本質を語ることを回避していく、ということに「再定義」されていく事柄が関係性を強化されていき距離が生まれていく。 実にハンサムな評ですね。とどこから目線なのかわからない言葉を投げかけさせてください。僕も「自分の作品」というものとの距離を測りかねてじりじりしているこの庭の住人であることに今更ながら気づいているウスノロなので僕がもはや「どこから目線」なのかもうわからないんですよね。 そして、「禁忌」の本質は対象の侵しがたさではなく、その距離であることに僕も同意します。 >何が言いたいかというと、禁忌に触れているようでいて触れ得ぬままにいる登場人物たちの関係性が書かれた物語であり、 話はそれますが「北九州監禁殺人事件」の概要のみを書きだして、その事件について何かを知りうると思いますでしょうか。 僕はそれを何度も繰り返した過去があるのですが、何度やっても無理でした。たぶんそれは禁忌の持つ距離に対して俯瞰できる位置から覗いても、何もわからないということ。 あるいは、そこに一つのフィクションを置いてみることはできます。ある登場人物の人生観、これまでなめてきた辛酸、どうにも弁護しがたい性格、そういうものを置いた途端、すべてがわかるような気がすると同時に、すべてがフィクションになる。その過程として置かれた存在は「首の短いキリン」なんですよね、どこまでいっても。 このお話で果たして応えることができているか、少し疑問ですが、作品の心臓を貫くような評をいただき大変うれしく思います。 ありがとうございました。

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芦野 夕狩
(2019-05-24)

訂正 その過程として → その仮定として 失礼しました あしや

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ふじりゅう
(2019-05-26)

拝見しました。  これは素晴らしい作品です。まず注目したのは数字を振って詩を展開している点です。そのひとつひとつのエピソードが「思い出」のフラッシュバックのように断片的に思い出している様を、「数字」によってわかりやすく表現していると思いました。  次にタイトルとの連動です。主人公にとって、(病的であろうと)兄との思い出は神格化していると読みました。まるで幻のような兄を、庭を振り返る形で進行していきますが、その詩文はあまりに陰鬱であります。しかしタイトルに「神の」「庭」とあることで、ただ暗いだけではない、そこに神秘的な雰囲気を孕ませることに成功していると感じました。  具体的な感情をあまり書かず、「情景」の描写によって読者に主人公の感情を想像してもらおうとする技術に圧倒されました。  すごくお気に入りの作品です。楽しく読ませていただきました。

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芦野 夕狩
(2019-05-26)

ふじりゅうさんへ お読みくださりありがとうございます。 さてさて皆さんこの作品さすがに見飽きたと思うし、ビーレビューを開くたびにこの詩がトップにあるのにそろろそろ嫌気がさしてくる頃合いでしょうから、僕としもここは気を引き締めてレスせねばな、と思っています。つまりちょっと煽っていきます。(ふじりゅうさんをじゃないよ) > 具体的な感情をあまり書かず、「情景」の描写によって読者に主人公の感情を想像してもらおうとする技術に圧倒されました。 柴田さんへのレスと少し重なるところもあるかもしれませんが、僕はこういう詩をよく書きます。 >「わかる」ってとてもしんどい時があって、僕はどちらかというと、いや、どちらか選ぶ隙もなく、誰かと分かりあうことなんてもうとうの昔に諦めたような顔をしていたいんですよ、いけすかないでしょ? 僕が書いた柴田さんへのレスですが、これをHIPHOP風に言うと「お前らそんな安易に分かりあっちゃえるもん書いて何が楽しいんだ? YO マザーファッカー」ということになるのですが、はい、最近この虚勢はりすぎて疲れてきてるんで、一端こちらのレスにて、僕がこの詩を改めて読んで(もちろん皆様のご批評も踏まえて)今現在思ってることをアウトプットしておきたいな、と思うわけです。 >アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。 とか言ってたのはアドルノという人ですね。僕は最近まで、「んなわけあるか」と思っていました。別に確たる信念があってそう思っていたわけではなく、「それは日本の文脈には当て嵌らないだろう」って思ってましたし、むしろそういう言葉を振りかざしてくる人間に嫌気がさしてたっていうのもあります。 文学史的にはたぶん別にアドルノが突発的にそういうことを言い出したわけではなく、僕の知っている限りでもアランというフランスの思想家は詩を「どこかに連れ去ってしまう芸術」とし散文を「どこまでもそこにとどまる芸術」ということを『定義集』だったか、言ってます。ヴァルターベンヤミンとかは『ドイツ悲劇の根源』の序文にて「トラクタート」というスコラ哲学において重視された叙述方法を以下のように書いています(蔵書を全部うっぱらってしまったのでネットで拾ってきました、今村さんの訳です >迂回路としての叙述ーーこれがトラクタートの方法上の性格である。その第一の特徴は、意図の中断なき進行を断念することにある。根気よく、思考はつねに新たにはじまり、そのつど廻り道を経て事柄の核心へ立ち戻ってゆく。この不断の息継ぎが、観想の最も固有なあり方なのである。というのも観想は、同じ一つの対象を考察しながら様々に異なった意味段階を追うことによって、その絶えず新たな始まりの動因と、その断続的なリズムの正当性証明とを受け取るのだ。 特徴的なのは「息継ぎ大事だよ」と言っているわけではなく、その叙述される「観想そのもの」が不断の息継ぎという特徴を備えている、というふうに捉えていること 僕はこの序論をベンヤミンの理想論だと思っています。簡単に言うと、読み手と書き手の関係とは、素潜りで、書き手の表現したものに潜って、むんずと掴み取ってくるものではない、 迂回(思考の息継ぎ)を何度も重ねながら、モザイクアートのように浮かび上がる何かこそが「書かれるべきもの」であり、その断続的なリズムによって結ばれた関係こそが理想なのだ、と。 ちょっと何言ってるかわかんないですが、要は前述のHIPHOPと同じです。「そんな安易に分かりあっちゃえるもん意味NE-YO」です。 さてここまでざっくり書くともはや僕の魂胆はスケスケかもしれませんが、 僕は最近「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とか真顔で考えてます。はい。 最近、詩を読んだり、それについて書かれたものを読んだりしていると、芸能人が炎上したのをよってたかって袋叩きにするメディアでの人の心理/行動と一緒だな、と思います。 詩を書くことも、炎上した有名人を集団で袋叩きにすることも根底には「わかるでしょ? My heart」があるんだな、と。 こんなことを書くと、いやいやそんなことはない、と多くの方が仰るだろうし、或いは、「わかりあうこと」をそんな糞味噌にいう君の方こそ野蛮(或いはサイコパス)ではないか、という声が聞こえてきます。 最近出た本にhttps://www.amazon.co.jp/dp/B07HXKLFX5/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1反共感論、というとても面白いものがありました。内容はもし興味があれば読んでいただきたいな、と思うんですが、要すると、一般的に共感というものは思いやりや、優しさ、利他的行為に結び付けられ、それを欠いた人間が人を騙し、歴史的な残虐行為というものを引き起こしもする。と思われがちだが、それは違うんじゃないか、と。 アウシュビッツにユダヤ人を送り込んだ人たちは全員サイコパスであったか、T4作戦はいったい誰が起こしたんだ。日本のらい予防法は、草津の重監房は、とても美しい社会のハーモニーが生み出した交響曲だったような気がするんですよね。 宮尾節子さんという詩人が「明日戦争がはじまる」という詩を書いてバズったのは記憶に新しいですね。 この流れで、この名前を出すと勘違いされそうですが、僕はあの詩改めて読んだら結構好きだったんですよね。なんか勝手に反戦詩だと勘違いしてましたが、全然そんなことなくて。 ただ受け取り手が一様にそれを「軍靴の音が聞こえる」と叫び、それを批判するものも間髪入れずに「気持ち悪いw」と反論する。「一様に」と書いたのは語弊があったと思うのですが、みんながみんなそんな反応をしているわけではもちろんないが、SNSというのは微かな音は社会全体が生み出すハーモニーの前に全くと言っていいほど意味を持ちえないシステムである。 そういうシステムの上に立った今世代の「詩」というものはやっぱり野蛮だな、という話。 さて、せっかく頂いたふじりゅうさんのご批評にちゃんとお応えしなければなるまいな、と(すみませんありえないほど遅くなりました)「主人公の感情を想像してもらおうとする技術」がもし、「思考の息継ぎ」に成り得ていれば嬉しいな、と切に願います。 ありがとうございました。 あしや

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芦野 夕狩
(2019-05-26)

訂正 成り得ていれば嬉しいな、と切に願います。 → 成り得ていれば、と切に願います

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