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甘夏と蟻
甘夏の香りに誘われて一匹の小さな蟻がやってくる 甘く透明な香りの底を泳ぐように甘夏のまわりを廻っている 庭に置かれて丸いテーブルの上に乗せられた甘夏は太陽の光を受けて輝いている 黄色い皮をより鮮やかに、空の青さを実に溶け込ませて 欅の葉がゆれて光がゆれて、木製のテーブルの上で舞っている 二階からは娘のぎこちないピアノが聴こえて風が薫る リルケの詩集を膝に乗せて甘夏をながめる 忘れたいことがあまりに多いものだから僕は過去に蓋をする 一匹の蟻が二匹になって甘夏のまわりを廻っている 「甘夏を運ぶことなんて君らにはできないだろう」 蟻に言葉が通じるわけではないが、蟻は動きをとめて僕を見上げる 二匹の蟻が並んでじっと射るように僕を見上げる 甘夏が腐るまで見ていようか 甘夏が溶けるまでほっておこうか 「紅茶でも飲んだら、あなた」 妻が庭に運んできた紅茶は甘夏の香りを吹き消すほどに甘い 「あま夏、むいてあげましょうか」 「いや、このままでいい」 首を振る僕の肩に手を置いて、妻はかるく頭をなでる 「はやく良くなるといいわね」 一匹の蟻が甘夏を登っていく、一匹の蟻は廻りつづけている 甘夏の頂上に登った蟻は立ちあがり僕に向かって口を動かしている 「何が言いたいんだ」 僕に蟻の言葉はわかるわけもないが、蟻は気にせず話してくる 「笑っているのかい。それとも怒っているのかい」 遠くで猫の鳴き声がきこえてくる 僕と蟻は甘夏と紅茶の甘い香りに包まれながら見つめ合う いつの間にか娘が降りてきて僕の顔を覗きこむ 「なんだ起きているんだ。寝てるかと思った」 「もう練習はいいのかい」 娘は頷いて、スキップしながらテーブルの周りを回りだす 「パパが元気になったら一緒にお出かけしたいな」 「どこに行きたいんだい」 「ないしょだよ」娘は笑って家の中に駆け戻っていく 甘夏の上にもう蟻はいない 甘夏のまわりを廻っている蟻もいない 曇ってきた空、光も薄く、影は淡く、風は生暖かい 白いペンキの剥げ落ちたテーブルの上、甘夏が乗っている 甘夏をとって鼻に押し当ててみれば想い出の蓋がそっとあく 忘れたい想い出が甘酸っぱい香りに包まれて浮かんでくる
甘夏と蟻 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1100.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-06-04
コメント日時 2018-07-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
丁寧に書かれていて切ない気持ちになりました。
0かるべまさひろ様 コメントをいただきありがとうございました。 きっとこのまま、誰にも読まれず埋もれてしまうのだろう、と思っていたところなので、コメントをいただけて嬉しかったです。重ねてありがとうございました。
0たんたんと描かれていますが、とても完成度の高い作品だと思いました。 リルケが、伏線となっているか、どうか・・・誰もが死を種として持つ、死に向かって実っていく、充実していく、熟れていく・・・という流れかと思って読んでいたのですが、なるほど、ぎこちないピアノを弾くほどの年齢のお子さんがいる若い父でありながら、死を意識してしまうような病を得て、自宅療養中、あるいは、入院先から一時帰宅中、というシチュエーションなのでしょう。 黄色と青の鮮やかな色彩、緑の芝生と白いテーブル(のイメージ)。 少しわかりにくかったのが、最終連の時制。ここだけ、現在で、それまでの連が過去、なのか。あるいは、最終連もそれまでの連も、同じ時間の中にあるのか。 あま夏には、忘れがたい、しかし忘れてしまいたい思い出を喚起させる何かがある、として・・・あま夏を巡る「思い出」の内容が、病は得ていても、幸せに満たされていたあの日、という風に読めてしまう。 最終連も幸福なあの日(あま夏をむきましょうか、と妻が声をかけたり、娘が一緒に遊びにいこうね、と声をかけて来た日)の内にあるとするなら、あま夏が喚起する「忘れたい想い出」は、いつの、どのような思い出、ということになるのか・・・ 時間をゆっくり追っていく、隙のない作品であるからこそ、最後の詰めを大切にしてほしいと思いました。
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