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ダダ、シュルの百年
二十世紀末、或は二十一世紀も前半四半世紀終極に差し迫った今、頻りに思い、考える事に「詩運動の一世紀間的循環回帰現象‐論」というものがある。 百年前(敢えて「子供の頃」、とは記述をすまい)言語に拠る言語の破壊‐創造を担っていたのはチューリッヒを拠点とするトリスタン・ツァラであった。 彼の時代の大衆メディアとは、新聞紙であった。其処に編纂者=詩人主体の鋏と糊に拠って判型化‐詩文化された散り散りの印刷文字が半ば無意味に、 或は思わぬ意味を伴って「詩の解体」と「詩の再定義」を繰り広げて行く様は何処か生命的であり、 有機的生命体としての「言葉」の本来のエネルギイを再顕現させて行く、その出鱈目且つ奔放な創造力に充ち満ちていたのだったが。 「現代詩」を振り返る時、其処に同質の「意味から言語を解放する試み」は垣間見えるのでもあるが、 何処か――さこそ「時代性」の為せる触感、手触りとしてのざらざらとした機械性、電気性、金属製の無機物的性質を感受する事も頻りなのである。 現代言語詩が、言語詩たらんとする爲には、例えば「一輪の菜の花」と謂う修辞が存在する時、それは「一輪の菜の花」の自明の指示標識‐表象であってはならないのだ。 「一輪の菜の花」はインクであるかも知れないし、或はビスケット罐の砂糖菓子の一片であるかも知れない。 言葉の性質とは本来比喩的なものであるが、比喩と比喩が交歓する處、比喩と比喩が交換可能性を附帯する處としての詩‐文学に於いては、 それらは単なる現実表象の記録でも、心情吐露の記録でも非ず、言葉が言葉を礫殺し、焼殺し、射殺する行為でなければならないのだ。 今、きみの記述した「.」、それは詩の次元に於いては「.」として自明に機能をするものであろうか。 自身の書言葉に爪をたてよ。書言葉を壊乱し、別‐空洞へ向って振動させて見せよ。 少なくとも、此の詩作者にはその水準の記述が十全に可能である(或は到達している.)と感受し、上記の様な似非詩論を展開したくもなった所存である。 人は――少なくとも詩人は――自身の言葉の自明性にもっと懐疑的であるべきなのだ。
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ダダ、シュルの百年 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 631.4
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投票数 : 2
作成日時 2025-03-09
コメント日時 2025-03-15
詩は僅かに暗闇を照らす生命の発光である。 「消えずの火、不滅の灯り」として燃えつづけている有名な場所が我が国には二カ所在りますが、もう一カ所広島に在ります。「平和の灯り」ご存じの平和記念公園ですね。 一度放たれれば誰もが地獄を見ることになる「核兵器」 いまや人類の希望を打ち砕くように核抑止論が再燃し拡大しようとしています。 持てる国に対して、核を持たない国はどんどん妥協を迫られてくる。 どこでどう取り違えたのか、強い力で領土を奪われた人々が殺される。 見ていられない周辺諸国は仲裁の提案を示し停戦を訴える 殺された、弱い国の目の前にぶら下がる平和をという妥協案 しかし強い国にも死者の血が多数流れている。領土を簡単に返すわけにはいかないでしょう。元々この地域は我々のモノだったと主張するのでしょう。 納得のいかなかった和平で、領土を失った人々の気持ちは収まるでしょうか。収まるはすがない。 それは言葉を捨てて忘れてしまえ、ということでしょう。 詩は暗闇を照らす生命の光 詩の言葉とは小さな抵抗でなければならない。 それは強い圧力に対して 権力の逸脱という暴挙に対して 「詩運動の一世紀間的循環回帰現象論」 急かされるように近年AI革命が勃興してきています。 生命の言葉 果たしてどこまで抵抗を続けられるでしょうか。 そうですね。「見る夢の数を教えて」 読み解いていくうちに独自の世界観に入ってしまいました。 当然あり得ることですが、まさか、まさか解釈していくうちに愛の世界観。ファンタジーに陥るとは思ってもみなかったのです。 メタ思考メタ感覚を感情移入に転換させた。わたしも素晴らしい出来の作品だと思いますよ。
1「見る夢の数をおしえて」~教えて。と漢字で書いてしまいましたが、これは漢字ではいけない。ダブルミーニングとしても読めてくる。(推し得て)教えて。どちらが正解なのか。それは作者でしかわからない。
1おはようございます。 ダダ、シュルで悩みました。 ダダイズムとシュールレアリズムと理解すれば、 その後の推薦文も、読みやすくなりました。 ありがとうございます。
0レスポンスを賜り、允に有り難うございます。 「詩」は政治言語に接続してはならない、とは当方の敬愛致しますトリスタン・ツァラの辞(言回しは異なりましたけれども)に御座いました様に記憶を致して居ります。 反戦も、抗戦も紙一重の思想に他ならないと考えます時に、われわれは「個」の幻想‐物語へ回帰するべきなのか、 それとも大‐状況を、「共同」の幻想‐物語の裏を掻くべきなのか、非常に困難な時代を迎えております様に、感受をせられます。 最早、連続テレビ小説的戦後‐観、(つまり「戦争は終った」と謂う共通了解)が音を立てて変容して行くかの様な時代を真向にし乍ら、 さでもなお、各各個人の幻想の強度が試されていると、実感を致して居ります。 われわれが政治参加の詩的思想を掲揚致します時には、 現実との折衝、統治者‐政治参加者の思惑、歴史的正統性‐同士の衝突等のアポリアに頭を悩ませなければならないでしょう。 個人に深く沈潜をします事、其方の方向性に寧ろ時代‐社会超越的なる可能性を見出す、それが今、詩作者、詩人に希求せられる態度である、と考えて居ります。 勿論、大‐状況をなおざりにしては為らない、とは感受を致して居ります。 其処で肝要と為りますのが、現実事象‐物象の比喩、暗喩と致しましての「詩語」であると覚えております。 批評をさせて頂きましたこの度の作品に於きましては、その「個」から「全体」を射撃し、その背景さえ透徹し得る可能性を、感受致しました次第でございます。 政治主体、とう実存社会の桎梏をも突破し得る言葉をこそ、詩とも呼びたく。 長々と、失礼を致しました。
1レスポンスを賜り、允に有り難うございます。 「金網」が或る時には「鐡条」であり、「ケージ」であり「格子」であり「鳥篭」とも為り得る、斯様に言葉とは不思議なものでございますね。 (見当違いのお返事かも知れませんので、先に謝罪をさせて頂きたく存じ上げます。允に申し訳ございません。) ありがとうございました。
1すてきな批評文、ありがとうございます うれしいです
1レスポンスを賜り、允に有り難うございます。 「ネット詩」の耐え難い「実存」「言語」の重さ――或は軽さ――、の只中に於きまして、 御作の様にストイックな作品を審美、拝読させていただけます事は、一縷の僥倖であると、覚え、感受を致しております次第でございます。 これからも、頑張って下さいませ。
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