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ホイール
ベランダの白いプラスチックの植木鉢にまっすぐ日が射したからわたしはガラスの球根をきみに渡すと好きなところに植えてきてってお願いする。きみはそれを空色のサコッシュにくるむと次の朝の始発に乗ってわたしたちは生きてるけど死んでることについて書かれた本を読みながら西の方へと向かう。 車両にまっすぐ並んだ窓に流れる手がかりのない景色と見慣れた文字の組合せはトースターのダイヤルを指先で回すみたいにとても気軽にできてるからきみは心を許さないようにサコッシュの上に湿り気のない手のひらを重ねる。 違うラインが引かれた電車を乗り継いで代わり映えのない駅を数えていくけどきみは結局ひとりぼっちでその日の終わりに誰の思い入れもないホームに降りるとぽっかり浮かぶ夜行フェリーの甲板に立ってることに気がつく。 仄かな爪痕が瞬く海できみは潮風に吹かれながら切れそうな月にガラスの球根をかざしてみるとそこに映るのはどこか知らない赤色矮星。か細い光はガラスの面で屈折しながら夜空の片隅に向けて進んでいくからわたしは夜の底を平行して走る新幹線の窓からその一筋のフィラメントを見ている。 きみが乗る船は深い呼吸を繰り返しながら夜を超えて靄に浮かんだ朝焼けのターミナルにたどり着く。開いたばかりの売店できみはアイスクリームを掬ってがらんと空いたガラス張りの天井を見上げると伸び縮みする時間の中でいつかこの場所に来たことがあるような気がする。 わたしときみが出会う前みたいに空気が薄く広がる街をきみはガラスを素手で握って冷たい風に押されながらまっすぐ伸びた道を歩いていく。たまにすれ違う人の姿を球根はブランコみたいに揺れる視点で映すけどきみはいつものぶれないアングルで通り過ぎる。 起き抜けの商店街の長いアーケードを抜けて駅ビルの上の観覧車が見える小さな公園に通りかかると草臥れたベンチに黄色いスコップと赤いステンレスの水筒が忘れられてる。きみは少し迷ってからベンチに腰かけてガラスの球根を水筒の隣に並べてみるとその色合いはいつかわたしの擦り傷に浮かんだごまかしのない水に似ている。 きみはふと携帯をとりだしてわたしたちがこれまで心に削ってきたいろんな図形をぼんやりと眺める。ゆっくり立ち上がって滑り台の下の湿った土をスコップで耕してから洋梨くらいの穴を掘る。ベンチの球根をやさしく深みに下して上からそっと土をかぶせる。 水飲み場で入れた水を円を描くように水筒から落とすと辺りの土の色が変わる。きみは他愛のない自由をこらえながら時間を止めるように公園から歩きだす。 すっかり日が昇ってたくさんの人と行き交うけどきみは心を覆う空の隙間を埋めるように記憶を回す観覧車だけを見つめながら駅に向かって歩いていく。 わたしは視線の先にある古びた白いゴンドラに座って咲くか咲かないかわからない花のことを考えながらきみがわたしを通り過ぎるのをいつまでも待ってる。
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ホイール ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2694.9
お気に入り数: 1
投票数 : 7
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-17
コメント日時 2024-11-11
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
いいですね。ホイール。ホイールと言えば僕もイカしたお気に入りのホイールをクルマに付けて奔らせてる。モノとして言うならば、車輪。歯車の回転をタイヤに伝える役目がありますが、ここでは人生に置き換えられている。待てども暮らせども会えない相手(きみは)でしょうか。これだけ演出的な効果としての単語(言葉)が必要なのか、と思ってしまうが、必要なのでしょうね。イメージとして。 さあ~と眼を通しただけなので、また読み砕いて味わってみます。 大まかな印象としてこの演出効果は舞台芸術を思わせてしまう。 そう、あの不条理劇としての代表作。「ゴドーを待ちながら」S.ベケットですね。 ついぞや目的も叶わず永遠に回り続けるホイール。とはおそらく人生のことでしょう。
1佐々木春さんの佳い点は、壺の中に溢れたご自身のイメージを泉に少しづつ垂らしていく。そのような意図がはっきりと読めるので色々と書き込まれてある多くの言葉たちも苦にはならない。もう少し読んでみます。
1ちょっとびっくりしたな 勘が良いと思いましたね 俺は好きよこんな作品 いや、ある程度のレヴェルになると考える事を考え始めてるなと思いましたね 11個のパーツみたいな文章なんだけど コレ、読者に委ねてるというか 佐々木さんの前作にコメントしたんだけど ちょっと怖くなった 俺は少し頭がおかしいのでよくわかる この文章の楽しみ方と言うか だけど曖昧な言い方になるけどここまでは才能で何とかできるけど、ここから先があるからね、ここから先は才能を超えた何かちょっとバグみたいなものとかも必要になるかも いや、変な物言いになったけど 俺がハッキリ言うべきではないのはわかると言うか まぁアレよね強く感じたのはこの作品を 獄中のムルソーに差し入れしてあげたいみたいな事だな、彼なら1年ぐらい退屈しないのではないかなと思ったな。 この文章について初めて推薦文を書こうと思ったが、俺が書くべきではないとも強く思ったな、俺はやはり相応しくないな。
1>わたしは視線の先にある古びた白いゴンドラに座って咲くか咲かないかわからない花のことを考えながらきみがわたしを通り過ぎるのをいつまでも待ってる。 この一文に賭けてきたなと思いました。成功していると思います。
1佐々木春さん、こんばんは!コメント失礼します……! わたしは視線の先にある古びた白いゴンドラに座って咲くか咲かないかわからない花のことを考えながらきみがわたしを通り過ぎるのをいつまでも待ってる。 という最後の一文が、この詩の不穏さを包み込みながらも、わたしはきみを待っている(きみから来ることを)この詩全体のスタイル…?というのが汲み取れた気がします……美しく紡がれた言葉だと思いました
1メルモさん、ありがとうございます。 ベランダの植木鉢から球根のイメージが湧いてきたのでそのまま書いてみました。 書いた後で、自分でもここまで言葉が必要なのかと思ったのですが、おそらくわたしにとっては言葉がこういう形で存在しているんだろうと思ったので、あまり無理に削らないようにしました。 もはやこれはわたしが小さい頃に読んだ詩(そしてみなさんが書いている詩)とは全然違うものになってしまっているような気がしますが、言葉が多い分だけいろんな読み方はできる(逆に言えば確定的な読み方はできない)ような気がします。その多義性みたいなものがわたしにとっても救いになる部分はあるかなと思っています。 丁寧に読んでいただいてうれしいです。演劇の独特な空気感はわたしも好きです。
0佐々木氏はいいものを書いて当然だから読まなくてもいいのだけれど、なにか新しいものがないかはチェックはしておきたいと考える。
1おまるたろうさん、ありがとうございます。 おまるたろうさんに褒めて(?)いただくことはあまりないのでうれしいです!
0きみ、おもしろいこと言うね。以前僕が田中宏輔氏に言った言葉と同じだ。気に入ったよ。
0吸収さん、ありがとうございます。 今回の作品は最初のイメージから移動が続いていって自分でも書いていて不思議な感覚でした。 たぶん前作のハーメルンで「よくわからないもの」を書いた余韻が残っていたのかもしれません。 書き方としてはあまり変わっていませんが、読み返してみてなぜこうなったのかはよくわからないと言うか。でも前作よりは一貫しているような気がします。 >この文章について初めて推薦文を書こうと思ったが、俺が書くべきではないとも強く思ったな、俺はやはり相応しくないな。 そう仰らずにもし気が向いたらお願いします(もちろん押し売りはできませんが…)。推薦してほしいというよりは、この作品をどう読まれたのか知りたいです。
1ガラスがお好きですね。佐々木さんは。笑。あの透明なフォルムから透かしてみる感覚。あるいは磨り硝子のようにぼやけた感覚。そして隔たりという感覚でしょうね。 終わりの秀逸に一行に欺かれてしまうところだった。 ということで、もう少し噛みしめて読んでみました。 幾つかのキーワードを覚えるのですが、 ~わたしたちは生きてるだけ死んでる~手がかりのない景色~仄かな爪痕が瞬き海で~etc. このような表現に惑わされて、読み手は困惑してしまう。そう、困惑してしまうような作りに根を翳した詩なのでした。 キーワードは(きみ)それから度々出てくる(ガラスの球根)ですね。あなた「佐々木春」という作者が(きみ)と表現するときには語り手自身と交錯する場合が多いので特に気をつけなければならない。と認知します。笑。 そして~いつか来たこの場所に来たことがあるような気がする~という既視感でしょうか。 私が先のコメントで取り上げた演出表現関わる言葉たちの多さ。これは意味があってまったく無意味だったのだ。笑。つまり語り手の喪失感から想いを巡らせる不在感覚。わたしは過去のきみへと走馬灯のように。 ということたったのですね。 だからいつまでも座って待っているんだ。 この詩には記憶のなかでそんな過去を巡るきみと呼ばれるわたし。全体を覆い尽くす記憶のデジャブ。 宝物のような存在感に置かれた「ガラスの球根」これはモノではなくて実はそんな忘れ去られた「過去の記憶」ガラスという隔たりを置いて思い浮かべた自分自身のことだったのです。 なのでいつまでも経っても現れることはない。 まるで魔法のランド。のような言葉たちの応酬に、やあ、毎回手を焼かされますね。笑。お見事ですよ。
1まあ推薦文を書いても良いけど俺が書いてもうまく引き出せない可能性もあるからな ちょっと思った事を書くと 時間という概念 空間構成 円環 語り手の曖昧さ 解釈の必要性 みたいな感じかな それと文章の並びがこの並びで正解なのか?という事 少しの間 11の連みたいなものを入れ替えてみたな 感覚的には既にしっくりきているんだけど 現実が追いついていないと言うか 何か作者もわからない何かが不足している可能性と言うか レイヤーの重ね合わせと言うか 何かはわかっているんだけど何か重要なセル画が抜けている感じと言うか サザエさんで言えば サザエかカツオかワカメかタラオなんだけど 髪の部分が描かれてないので誰かわからないみたいな いや、絵とかは勿論直ぐに髪の部分のセル画が抜けてるってわかるんだけど この作品はそんな感じなんだよね だけどそれが悪いって訳でもないと言うか 意味がわからないではなくて解釈が一致しない事は悪いことではないよねって話だと思うんだけど。 いや、俺の超感覚もかなりこう何か掴んでいる気はするんだけどな 言語化の部分でアレだなダメだな 俺の能力的に。 まぁ推薦文とは書いたが 正直言ってやりたい事はツイキャスかなにかでこの方面に明るい人と話し合うと言うか 解釈と言うか美学に近いのかもしれないけど 香瀬さんとか芦野 夕狩さんとかに1時間程話し合ってもらった方が良い気がする 運営の誰かセッティングして下さい この作品にはその価値がありますよ
2時間という概念 空間構成 円環 いいところに気づかれたと思うよ。僕も今一度読んでみた。 だね。パラレルワールドだね。記憶のなかのパラレルワールドだ。走馬灯のように巡るだから既視感に抜けてて当然だよ。で、吸収さんが円環的なことを書いてて僕も気づいたんだけど、このホイールはあまりにも時間を超越し過ぎたメリーゴーランドだね。その中心にわたしがいて、わたしの中のきみを眺めてるんだな。だから記憶の中で景色だけが動き回ってる。じゃあなんでタイトルは「メリーゴーランド」にしなかったの?か。たぶん子供目線で終わる遊具を強く意識したくなかったのではないか。と思う。
2すごく素敵な詩でめっちゃ好きです。 二人の関係がどうなっていくのか、ストーリーを追うように読んで行きました。いつの間にか分岐した道をゆき、彼はその途中でガラスの球根を埋めてしまう。ここ、私は咲かせるために植えたのではなく、埋葬した感じがするのですよね。でもお水をあげている彼の想いもとても伝わって来る微妙さがすごく素敵な場面。 最後の、 >きみがわたしを通り過ぎるのをいつまでも待ってる。 わたしもきみが戻って来るのを待っているのではなく、きみが通り過ぎる(記憶から遠ざかる)のを待っていると読みました。咲くか咲かないかわからない花(きみの中に何が残るか)、その花に想いを馳せながら…そんな切なさが伝わって来る気がしました。
1ミカエル先輩に評価を頂いたのでもう少し考えてみると一読した時になんともしれない違和感があったのですがよくよく考えるとイメージ的にはマネキンと言うかキリコ的な世界観というか時間が排されている、存在しない様な。 人とはそもそも何かと言えば時間(記憶)とも言えると思うのですが、この作品には時間の感覚が希薄と言うか 凍りついている様な それとモンタージュ技法が使われてるのかな 何か主体がある感じなんだけど 掴めない、掴ませない技術が施されている様な感じなのです
1ごめん。勘違いしてた。いつもパラレルパラソルワールドだあ。って言ってるから間違えたよ。べつに異次元世界異空間でもじゃないじゃんコレ。指摘されるまえに気づいてよかった。記憶違いは私も同じく。記憶が交錯して描かれてるんだから、マジカルな趣向だよね。黒にマジックだ。笑。マジック的なリアリズムの描写だよ。語り手の時間差があるだけだ。
2二藤さん、コメントありがとうございます。 あまりこういうふうに書こうと思って書いてるわけじゃないので、自分ではあまり不穏かどうかもよくわからないのですが(あらためて読み返すとそんな気もするようなしないような…)、美しい言葉と言っていただきありがとうございます!
0お弟子さん、コメントありがとうございます。自分ではいいもの書いて当たり前みたいに思えるレベルにはぜんぜんありませんが、一作ずつ丁寧な書いていきたいと思います。 読んでいただきありがとうございます。
1ronaさん、コメントありがとうございます。 気に入っていただいてうれしいです。 >いつの間にか分岐した道をゆき、彼はその途中でガラスの球根を埋めてしまう。ここ、私は咲かせるために植えたのではなく、埋葬した感じがするのですよね。 あまり筋道を考えて書いているわけじゃないのですが、咲かせようとしているのかどうなのかあやしいですね。通りがかりの公園に植えてますしね…球根を「埋葬」するって素敵な考え方だと思いました。 >わたしもきみが戻って来るのを待っているのではなく、きみが通り過ぎる(記憶から遠ざかる)のを待っていると読みました。 記憶から遠ざかるのを待ってる、しかも観覧車から見ながら、自分からは決して離れずに。確かに意外と自分からは動き出せないかもしれません。球根渡したときからどこかに埋められてしまうことはわかっていたのかもしれませんね。むしろ知らないところに埋めてほしかったのかも(…書いた自分でもよくわかってないのですが)。 素敵な読み方をしていただいてありがとうございました!
1吸収さん、メルモさん、お二人のやりとり、とても勉強になります。ありがとうございます。 >時間という概念、空間構成、円環、語り手の曖昧さ、解釈の必要性 自分自身は特に意識して書いているわけではないのですが、確かに時間や空間については現実ではありえないことが起きているように思えます。それがメルモさんの仰るマジックという印象につながるのかなとも思いました。そうですね、おそらく実際には起こっていないというか、別に実際に起きていなくても、違うところで起きているようなイメージかもしれません。 また、円環というのはそのとおりだと思います。自分で球根上げておきながら自分でそれが植えられるのを見ている、しかも回っている観覧車から。どこかに向かっているようで向かっていない感覚はあります。 語り手の曖昧さや解釈の必要性については、そもそもわたし自身の問題というか、よくわからないままに書いているところが大きいことに関係しているのだろうと思います。書いたものを後から読んでみると「なんでここはこうやって書いたんだろう」って不思議な気持ちになることがよくあります。だから書いているんだろうとも思います。 最後に、メルモさんの仰るなんでメリーゴーランドじゃないのかについては、何か先入観が染みついている乗り物であることと、あまり普段目にするものでもないからだと思います。ライ麦畑みたいにNYのセントラルパークにあったりすると有効なのかもしれないですけど、日本だとあまりリアリティがないというか。あと、位置ベクトルとして高度を出したかったというのはあります、理由はよくわからないのですが。 あと、吸収さんのサザエさんのたとえ、とてもおもしろかったです。セル画の話や順番の話も考えさせられました。全然意識していないで書いているだけに、気が付くところがたくさんあります。
1みなさん主題について触れられているので、自分は別角度、「セカイ系」の観点からみたいと思います。 いわゆる「「わたし」と「きみ」が世界の中心」のような世界観で展開されるかどうか。最近他の方と話していて話題に上がったので、そこに注目しました。 本作品、「「わたし」と「きみ」が世界の中心」なのは間違いないと思うのですが、嫌な気がしない。なぜか? その理由は単純で、「「わたし」と「きみ」が世界の中心」と意識させないほど「社会」、「他者」が描かれてるということにあると思いました。それもリアルに。 新幹線や夜行フェリーという公的な空間。他人の書いた本を持ち歩きながら。「売店」や「商店街」も登場したり、幻想的な二人の空間ではなく、現実・生活感の中にこそ二人は存在できていたとも訴えてくるようです。多くの人とすれ違う、行き交う描写もあり、ああ、「銀河鉄道の夜」の現実感はこの要素だったんだなと、似た美しさを覚えました。 拙作と比べるのもおこがましいことかもしれませんが、「フォーク」で私は「私」と「君」は会えず、なんなら「君」がいたことの跡すら消してしまう勢いで、ありきたりな「セカイ系」に対抗したつもりでした。逆説的に、「私」と「君」の強い関係を意識して。しかし、佐々木さんは「私」と「君」をリアルの中に放り出し、「他者」との摩擦にあえて立ち向かった。「ガラスの球根」という、もろくも命持つものが生まれることになった。 実に好みが分かれそうです。私は、佐々木さんのその強気な姿勢を尊敬します。愛を探しにゆけない、苦しみのようなものを抱える作風の方は、しばらく私に任せてください、なんて……。
1もういないひとに渡された球根(求婚?)という魂はガラスだからきっと咲かないだろう。きっと咲き誇るだろう。ゴンドラにふたりで乗っていたのはいつの日か、読みかけの本を手向けて、知らない駅から知っている駅へと電車に乗りました。使わなかった二枚目の切符をポケットにしまい、わすれる。僕には書けないものが散りばめられて、お出かけ前にとてもいい気分です。
1宣戦布告を想起。
0ほばさん、コメントありがとうございます。 お出かけ前にとてもいい気分になっていただけたらならよかったです。 じっくりにらめっこして味わうような作品ではないと自分でも思っているので、読んだ方にそう言っていただけると励みになります。
0熊倉さん、ありがとうございます。 「セカイ系」という観点からのコメント、興味深く読ませていただきました。 熊倉さんって作品ももちろんですが、本当に評論の世界で活躍できるのではないのでしょうか。引き出しがとても多いですよね。普段からそうやって真摯に文学に向き合っているからなのだと思います。すごいです。 さて、わたしもいわゆる「セカイ系」は得意ではありません、というかたぶん一作も見たこともありません…(先入観もあるんだと思います…) でも、とはいえ、文学において「わたし」と「きみ」を避ける理由も別にないんだと思います。もっと踏み込んでいえば、生きていく上で「わたし」と「きみ」(「おれ」と「おまえ」、「ぼく」と「あなた」、そこらへんはなんでもよいですが)ってどうしても心の大きい部分を占めると思うし、そこから目を逸らしても独りよがりになっちゃうんじゃないかって何となく思ってます。 >拙作と比べるのもおこがましいことかもしれませんが、「フォーク」で私は「私」と「君」は会えず、なんなら「君」がいたことの跡すら消してしまう勢いで、ありきたりな「セカイ系」に対抗したつもりでした。逆説的に、「私」と「君」の強い関係を意識して。しかし、佐々木さんは「私」と「君」をリアルの中に放り出し、「他者」との摩擦にあえて立ち向かった。「ガラスの球根」という、もろくも命持つものが生まれることになった。 いえいえ、全然おこがましくなんてありません…。上に書いたことの続きで言えば、ここに投稿している多くのみなさんも日々やっぱり「わたし」と「きみ」のことでいろいろな感情を持っているんじゃないかと思うんです。そんな感情を作品にするかしないかということはあるんでしょうけど、わたしは読んだ方(もしかしたらわたし自身)が少しでもその(恋愛に限らず)「わたし」が「きみ」との関係から現実逃避するんじゃないんだけど、何か違う感覚を立ち上げられないかって思っているのかもしれません。偉そうなことを言いながら、うまく言えてないのですが… >愛を探しにゆけない、苦しみのようなものを抱える作風の方は、しばらく私に任せてください、なんて……。 わたしはあんまり「愛を探しにゆけない、苦しみのようなものを抱える」っていうタイプではないと自分でも思ってるので、全面的に熊倉さんにお任せします笑 今回も丁寧に読んでいただきありがとうございます。
1咲けばいいですね。
0田中さん、コメントありがとうございます。咲いてほしいのかどうかよくわかりません。
0少し長めのセンテンスに詩を読む気が湧いてきたのですが、何か摩擦係数ゼロ的な印象も強いのです。それは企みなのか、この詩の内容から来る必然性なのか、センテンスが途切れずに続いて行く様は壮観だと思いました。
1エイクピアさん、コメントありがとうございます。摩擦係数というか、あまり引っ掛かりはないようにしています。あまり一つの言葉で読んでほしくないという気持ちからでしょうか。あとは単なる個人的な好みかもしれません。
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