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夕暮れ
窓から暮れなずむ夕日を見ていると、やりきれない感傷のようなものが湧き立ち、私は財布も鞄も持たずに家を後にした。誰も止めるものはいなかった。生温い風が、囁くように頬を撫で、私をいざなった。 時おり、夕暮れどきに、このような衝動に駆られる。根底にあるのは、あの夜の記憶である。十五年も前の話になる。 十二時を回っていた。私はなかなか寝つけず、暗い裸電球をじっと見つめていた。母のいびきが微かに調度を震わせていたほかに、音はなかった。 不意に、凄まじい衝撃が家をつんざいた。むしろ私は音ではなく、裸電球の揺れ、あの慄きのような不穏な動きに驚いた。私はすかさず布団から飛び起きて、戸を取っぱらい、庭の裏にあった小高い丘に駆け上った。 私が見たのは、見慣れた田園風景の彼方で、夜空に向かって昇ってゆく太い煙の筋であった。輝かしい天の川も、まるで墨汁が混濁しているような有り様だった。 その夜、発電所が爆撃された。父は夜間そこで当番をしていた。翌日訃報が届いた。真っ赤に色づいてゆく地平線を眺めていたときすでに、私は、父を囲んだ火炎を想像し、熱を身体に感じた。父の断末魔がくっきりと、脳裏に描かれたのだった。 夕暮れは、たびたびあの赤みを帯びた地平線を連想させた。 村の上に立ちはだかる入道雲は、精緻な立像のようである。夕焼けの中で、細々と陰影をつけながら、それは焼死する父の姿を模した。 私は、空から地に視線を落とし、足取りを速めた。勢い余って、往来の人々に幾度かぶつかることもあった。彼らのうち何人かは見知りであり、私の狂乱ぶりを心配してか、呼び止めようとしたものもいた。だが私は挨拶とも詫び言ともとれない返事をし、先を急ぐのだった。坂道を下って、道路を渡り、無人の水田に出ると、ついに走りだした。虫の音が、ぶくぶくと田んぼの中から膨れ上がるように響きわたった。斜陽は刻々と赤みを深めながら降り注いだ。 爆撃の翌日、役場の待合い室にも、この不思議なほど赤い光が差しこみ、人々の暗い表情を紅色に染めていた。 「跡形もなく焼けたんだ」と役人は言い、死体は引き渡せないと説明した。 母は泣き崩れた。 「どんな無様な亡骸でも構いません、どうか捜し出し、お見せください」と母は哀訴した。 周囲にいた人々はみな、苦渋に満ちた彼女の顔から視線を逸らした。私も目を伏せざるを得なかった。 母の表情には、いかなる亡骸よりも根深い醜さがあったと、当時の私には思えただろう。自身が心の中に長年涸れることのない醜さを抱えているとも知らずに。 力が尽き、歩調が遅くなる。周りを見ても、すでに農家など一人もいない時分ではあったが、いっそう人の目から遠ざかりたい心持ちで、私は道のゆくがままに、山間を歩き、林へと入った。木の葉の隙から、まるで血の滴りのような光線が、夕空から差し入っていた。 ただ韜晦のために私は歩き続けた。どこに向かえば救われるのか分からず、答えを探そうとする空虚な立ち回りでさえ、腹立たしく思えてならなかった。 今も昔も、私の世界を見る目は常に不整で、行動はさらに無意味なものだった。父の死も、実感として身に迫るまで、ずいぶん時間を要した。 炎を見たときも、いざ訃報が届いたときも、私は泣くことができなかった。戦争という不安定な岬に踏み入った以上、くびれが崩れるのも時間の問題だと、私は世相に屈服していた。爆撃があってから一週間経つと、生活は平静に戻ったとさえ感じられた。 何事も無かったかのように、私は卓に着き、粗末な朝食を口に運んだ。御椀を口もとにかざし、味噌汁を呑もうとしていると、まだ一歳にもならない妹が揺り籠の中からとつぜん泣き声を上げた。 そのとき、耳から入ったその泣き声が、頭蓋でこだまし、増幅し、私は脳裏を引き裂くような痛みに悶えた。耳を塞ごうとすると、御椀が手からすべり、畳に味噌汁がこぼれた。 ほんの一瞬のことだった。妹はすぐにあやされて眠り、私は母に叱責されただけで、味噌汁を片づけ終えた頃には、頭痛も治まった。だがその隙に、私は初めて、父の死の恐ろしさを理解した。 妹は父という人格を知らないまま育ち、母はそれを誰よりもよく知る。いっぽう私は、その二つの状態の狭間に放り出されたのだった。私の中にあった父というまだ定まらぬ人物像が、あの炎を見た夜に不確かなまま固まり、その巨大な異物を心に抱えて生きていくことになるのだと、私は悟った。 朝食を終えると、家の裏に隠れて二時間も泣き続けた。 異物と私は互いに削りあった。十五年の歳月は、異物を消滅させるにはあまりに短く、不十分だ。私の負った傷が広がっただけである。 蜿蜒と道は折れ曲がり、深く這入るほど樹冠は鬱蒼と茂り、あるときから一切の光が断たれたほどだった。薄暗い密林で、獣の気配がつきまとう時間がしばらく続いた。 樫の枝葉が地面までカーテンのように延びていたところをくぐると、木々の退けた空間がひらけた。 すでに空は暮れ、月の淡い光があるばかりだった。先に道は続いていないと知り、私は倒木に腰を下ろした。居心地の悪さを、陽だまりの残余らしい、暖かい空気が和らげた。 私はしばらく膝に手をつき、頭をうなだれ、治まらぬ鼓動に圧倒されていた。呼吸を含めた無限の体内の反響を振りほどくように、背筋を伸ばして頭を上げた拍子に、少し離れた暗がりに小屋があるのがうかがえた。だいぶ廃れた様子で、窓は板で塞がれ、壁の木板の隅にはそばかすのように青いペンキが残っていて、トタン屋根には押しつぶされんばかりに大きな小楢の幹が被さっていた。 私がうらぶれた小屋に同情の念を抱いているうちに、その憂いは異物にわずかな動きを与えたらしい。妙な恐怖と興奮とこもごも、急速に父との記憶が浮かび上がったのだった。 まだ戦争が始まる前の、ある日のことだった。父が愛してやまなかった競馬が終わり、汽車の待ち時間、私たちは小さな町をあてもなく歩いていた。幼い私の目に入ったのは、雑居ビルに貼り出された、映画の巨大なポスターだった。主役は剽軽な目が印象的なトム・ソーヤのような子で、彼の背後に蔦だらけの廃れた舘が映っていた。父にその映画を見たいとねだると、彼はしきりに髭をしごきながら、私の気を逸らすように、言った。 「大きくなったら、父さんの秘密基地を見せてやるよ。あの舘ほど立派ではないがな、子どものときからずっと遊んでたやつだ。どうして今教えないかって、それは大事な場所だから、簡単には教えられないんだ。まあ待ってろ、きっといつか教えてあげるさ」 映画はそっちのけで、私は帰路のあいだずっとその秘密基地について父を問いつめた。しかし彼は、それが村の近辺にあると、思わせぶりに話す以上の秘密をもらさなかった。 父の死から一度も思い返したことのなかったその言葉を、私は小屋を眺めながら、幾度も頭の中で繰り返した。あの小屋は、その秘密基地ではないだろうかと、幼稚で傲慢な希望がきらめいた。もはや私はその希望にとらわれ、確固とした現実の因果としてそれを見た。 私は小屋の裏手に回って、入口を捜した。外れた扉が立てかけられ、上からいくつかの板で塞がれている。一枚の板に手を置くと、それはいとも簡単に崩れ、残りのも軽く叩くだけで潰えた。扉をどかして暗闇に入ると、黴の匂いが鋭く鼻を突いた。 片腕で口もとを塞いで、私は探り当てた木片で壁を叩いた。窓を壅塞していた板を突き破ると、小屋の陰気な空気に、清浄な月の光が注ぎこんだ。 壁も床も黴の模様に侵食されていた。窓の下の、床板が剥がれて覗く地面にはムカデやダンゴムシが気忙しく這っていた。 隅に机と椅子が備わっているほかに、家具も農具もない。蜘蛛の巣を避けながら、机に歩み寄ると、ワニスが塗ってあるためか、そこだけは黴で覆われていない。 引き出しの中には、錆びついた金槌とドライバー、それに小さな紙片があった。紙片を月光に当てて観察するが、新聞の切れ端に過ぎず、金槌とドライバーは柄が微妙に折り曲がっている以外にこれといった特徴もない。 私はもう一度、小屋の壁や床を、つぶさに詮索した。それが父の言った秘密基地であるという証拠は、何一つなかった。私は椅子に疲れ切った身体を下ろし、机に突っ伏した。 私は父の御伽噺を無意味に信じ、失望していた。それでもなお望みを託し、手掛かりを父との記憶の中に求めた。 鼓動に聞き慣れない音が加わるのが分かった。異物がしだいに揺れはじめたのであった。しだいに振れ幅が増し、大きく傾いた途端、転落し、何かを引き裂いた。奇怪な痛みが、心身に響きわたった。 ぽつぽつとトタン屋根を叩く雨音が耳に入った。 私は小屋を飛び出し、冷たい雨を感じながら、痛みでおのずとこわばる身体で、小屋に突進し、幾度も壁を蹴り上げた。雨脚は重くなるばかりで、発作をいっそう強めた。角を思いっきり打つと、小屋は悲鳴のような、か細いきしみを上げてから、一気に崩壊した。すると小樽の幹が、小枝を撒き散らして落下し、地面を震わせた。 雨は散乱した小屋の残骸の上にも降り続けた。濡れて困憊した私の身体が、傍に立っていた。痛みが引いたあとも、私は長いあいだ立ちつくし、静かに泣いていた。
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夕暮れ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 349.7
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-14
コメント日時 2024-10-15
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
この作品が、物語を伝える目となって、ときに親しみ深く、そのまなざしが胸へ滲んでいきました。滋味で胸のなかが満たされてもなお、滾々とわきでる湧水のように。
0手堅く丁寧に書かれている、読ませる作品。内容は申し分ない。ただ文末表現が単調なので、変化をつけるだけで 読ませる から、引き込む文になるとおもった。でもこのかたさも作者さんの味ですよね、どう見ても書きなれてらっしゃるので。
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