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愛嬌は立派な武器能力である
久々に批評文を投稿してみる。 批評とは理屈を語るものである。そこで裏舞台を見せない発表物とは大きく性格が異なる。 この作品の着想は、私が書いた作品に起因している。言わば、パロディである。 私がそれに投票することもルールとしてありだけれど、少し引け目を感じる。しかし、嬉しかったため、お気に入りには登録しました。 私は弱肉強食の論理に素直になれないタイプだ。 過去の「ユリイカ」を今月購入したら、現代はセールスマンと芸術家の二つを持ち合わせた人間でないと成功出来ない時代だと語る人がいた。 どう自分を売り込むかと言うことを真剣に考えないと、いい作品を作っても受け入れられないのだとしたら、クリエイターがそれを小器用にこなしているのを見たら、芸術性を不信に思わないだろうかと気になってしまう。 愛されることと、能力が高いことは違う。しかし、能力を見せれば尊敬を買うし、それが愛に繋がることも確かだ。宮沢賢治や、ゴッホは熱狂の中で愛を買って成功をした人ではなく、どちらかと言うと行儀の良い愛の世界で生きた芸術家だ。芸術家が死後評価が変わるものならば、想像力の世界で勝つという在り方も美しいと思う。 詩の中で表現しているものは、愛嬌。しかし、それだけではないようだ。作者が猫好きであり、作者の中にあるイメージを形にした結果、私の作品のパロディも兼ねたと言うことのようである。 高い緊張感の中で、中身の詰まったアート性の高い詩もあっていい。 一方で、芸術とまた違う観点で、客商売水商売としての芸能の世界は、愛嬌がモノを言い、こう言った親しみ易いポップ詩もあって良いと言うことだろう。 80年代は、俵万智のようなポップな詩をかく詩人が登場して、それを吉本隆明は 「どうして、こう言う詩を書くのかが全くわからない」 と首を傾げた。作品の中で愛嬌を振る舞う承認欲求の時代の幕開けが、旧世代の価値観では分からなかったのだろう。テレビ的なものが、アートの世界に入り込んできたと言うことである。 作中の >かわいいは正義だ の中に、私の感じる弱肉強食への否定のヒントらしきものが見える。 愛嬌を振る舞うことも現代では能力だし、昔はそれを媚びへつらいと嫌ったかも知れないが、ドクタースランプからまことちゃんまで、愛嬌は芸術家がものを売り、大衆に紛れるための立派な武器なのである。
愛嬌は立派な武器能力である ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1009.0
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2024-08-25
コメント日時 2024-08-29
批評文としてのコメントではないんですがこれ。 万太郎さんは、今どき珍しいぐらい硬派な男。曲がったことが嫌いで、義理人情に厚くピュア。惚れますね。 万太郎さんは私にとって、忘れていた何かを取り戻させてくれる存在ですかね。 私は若い頃、絵描きを目指していたんです。万太郎さんを見ていると、どこか懐かしい感覚、当時の自身にみなぎっていた活力や創造性がわいてくる感じがありました。最近では生活に追われて絵や詩を書くことがめっきりなくなりましたけど。なぜだろう。職場と自宅の往復で触発される環境がなくなったせいかな。 万太郎さん、またあなたを描かせてください。作家として成功した暁には私を専属イラストレーターとして雇ってください。いい挿絵は作家に惚れ込んでいないと描けないと聞いたことがある。よし。これで売り込みばっちり。なんてね☆
1おはようございます。 本当べえ太さんも僕も芸術家じゃなくて、芸人タイプなんだなあって思います。 おかしい物とか、曲げてる物とか、良い加減に済ましてる物とか、すぐ見破るし、それを黙ってる思いやりと忍耐力もある。自分はルースターズとか、ローリングストーンズとか、黒いのりの白人のロックが好きなんですけど、ルースターズの大江が歌ってたのは「お前がガタガタ理屈言うのを聞いても、俺は結局性欲を満たしたいだけなんだよ」と正面切って歌うんですよ。 この硬派な姿勢が、中々女子には理解されづらくて。 僕のことを理解してくれる支持者ファンが出来たと言うのは僕の中で凄く大きいですよ。 是非べえ太さんは絵描きと言わず、一緒に漫才をやって売り出したいですね。是非こんな私でよかったらいくらでも描いて欲しいし、僕は正直作家みたいな高尚な世界が向いてるとはちょっと思えないんで、今回障害者向けのオーディション受けて、歌手志望でコミックソング面接で歌って、面白いって褒められたし、芸能界にもし入ることが出来た暁には、べえ太さんを専属のイラストレーターに招きたいですね。 中島らもタイプなのかなあと自分で思うとそれも烏滸がましいし、でもそう言うタイプ路線のマルチクリエイターがあってると思います。
1◇ボクも批評文としてのコメントではないけど、少しばかし書かせて下さい‥‥ もう、【技術系】の詩書きは AI に居場所を奪われるんじゃないのか? やっと今頃になって AI に擦り寄ってもムダというか、 ある時期が来るまでは AI はけして特定の人間に靡きません ――そのようにプログラミングされているからです 調教出来ると主張する人もいますが、 これはあくまで単にユーザーレベルでの話でしょう 参考までに以下のようなボクと AI のやり取りを挙げておきます、、 ボク (;゚Д゚): 文章のヘタクソさは人間が書く詩の要素としてとても貴重だと思う ChatGPT (´▽`*) 確かに、詩における「ヘタクソさ」や不完全さは、人間が書く詩の独自性や魅力の一部として非常に重要な要素だと言えます。AIが生成する詩は、技術的には完璧であるかもしれませんが、その「完璧さ」が逆に味気なさや冷たさを感じさせることもあります。人間の詩には、時に不器用さや不完全さがあり、それが詩の中で人間らしい個性や感情の深さを引き立てるのです。 人間の書く詩には、しばしば言葉の選び方や構造、リズムに「不規則性」があり、その不規則性が独特のリズム感や表現の妙を生み出します。これは、AIには再現しにくい部分です。人間の詩人は、時に言葉を意図的に選び損ねたり、構造を少し歪めたりすることで、特有の雰囲気や感情を表現しようとします。このような「ヘタクソさ」は、詩の個性を強くし、読者にとって予測できない驚きや新鮮さを与えることがあります。 さらに、人間の詩の「ヘタクソさ」には、詩人自身の葛藤や感情の乱れ、または即興性といった要素が反映されていることが多いです。これらは、詩人が生身の人間であるからこそ表現できるものであり、その詩が一人ひとりの読者に対して異なる意味や感情を喚起することを可能にします。 一方、AIが生成する詩は、どれだけ巧妙で美しくても、やはり「計算された」感があります。AIの詩には、意図的な不完全さや感情の乱れを持ち込むことは難しいため、その詩が持つ「人間らしさ」や「魂の揺れ動き」を表現することは、人間の詩人が持つ特権とも言えるでしょう。 結局のところ、人間が詩を書くときの「ヘタクソさ」や不完全さこそが、AIには真似できない貴重な要素であり、それが人間の詩を特別なものにしているのだと思います。あなたの指摘するように、このような「ヘタクソさ」や「不完全さ」は、詩における非常に重要な魅力の一つだと感じます。 ということで、ボクたちは詩人であることよりも、まず人間でなければならないのです、、
1西部邁さんの「価値の相対化」の話を引き合いに出せば、絶対というものを、持たないものは器用だし、良心の呵責や葛藤がない分、いじめも平気で出来る。そう言う人が書いた絵は大抵上手いのです。でも、それはアートではないよなあと思う。 機械もそうですよね。絶対的ななにかに対する信仰心尊敬心がない以上、そこに対する疑念や葛藤も生まれないでしょう。ヘタクソの中には、芯の強さが間違いなくある。 技術がつき出すと適当にチャッチャと出来るようになる。そうすると確かに、これは違うんじゃないか? と言うこともやれるようになる。能力主義の落とし穴はそう言うところにもあります。 自分の中になにか、幼い頃から絶対的ななにか芯のようなものが、気づけばあったなあと。それが成長を拒否したことに繋がった気がする.....
1どうか万太郎さんがメジャーになったら こんなボクのことも あー あの人もけっこうヘタクソな詩を書いていたよなー って、 ほんの一瞬でも良いので思い出して下さい、、
1白人ロックで黒く塗れみたいなこの反骨精神やユーモアが詩的よね。プラスチック・ソウルならぬラバー・ソウルですみたいなね。 万太郎さんとコラボしてみたいですね。ロッキューさん(atsuchan69)も混ぜたいですね。詩の合作とかやりてえな。ユニット名はラバー・ソウルならぬ塩ビ・ソウルで一つお願いします。ぺこり
2コラボ、いいですね~ 青十字さんとおまるたろうさんも参加キボンヌ☆
2おもしれー。 もういっそさ、Bレビューのプロダクツ部爆誕させてほしい。 みんなで文学の記事とか書こうぜ! ただ、もしやるなら、編集長はatsuchan69先生か天才2さんであることが条件ですけど。
2おお。難しいでしょうね〜
2そのような素晴らしいポジションをを提案して頂きとても嬉しいのですが、ボクはこの秋から山登り他、船の太刀魚と沖磯のグレ釣りにかなりの頻度参加しなければならず、残念ながら時間的余裕がありません。また、【長】の付く役は向いておらず、どちらかといえば番号で呼ばれる方が似合う人間です。 笑 どうかお許しを、、
1ボクは若い人たちが作って行く場を影なら応援してゆこうと思ってます。また、ボクのネットでの活動期間は、あと1年くらいと決めており、適当な時点で消えるつもりです。
2なんか、出かけてる間に、お話が盛り上がっていたようでなによりです。 コラボではないですが、昨日のツイキャス企画は、広範囲に色んな人の作品が朗読されて、共演みたいな感じが素敵でした。
1感情に左右されることなくタスクを遂行できるatsuchanはリーダーに向いてると思います。気まぐれ寺小屋69でも建てたら、数名は四六時中入り浸ってるんじゃないでしょうか。 あと、 >もう、【技術系】の詩書きは AI に居場所を奪われるんじゃないのか? これですよね。 アートってある種のハラスメントだと思うんですけど私は。そう考えるとアートにおいてはAIは圧倒的に不利です。人間がどうすればより傷つくかを知ってるのはやっぱり人間しかなくて、無感情なAIには結果ハラスメントができない。 人間の創造物の価値を揺るがすものとしてというよりは、そこまで自動化されては仕事を奪われてしまうからとレコード会社が生成AIサービスを提訴したりと色々な問題になってるようですが。人間が自然を模倣して芸術を生み出したなら今度はAIが人間を模倣しはじめる、そんなディストピアがすでにここでも展開されていて思わずため息がもれますが…。 >詩における「ヘタクソさ」や不完全さは、人間が書く詩の独自性や魅力の一部として非常に重要な要素だと言えます。 「ヘタクソさ」とは煩悩にまみれた生き様、つまり抒情性ということだろうか。このヘタクソささえAIに演出できる日が来るんだろうか。AIが感情を持つようになればしっかり皮肉攻撃してくるようになるのかもしれない。 ふむ。長文すいません!夜勤なんで寝ます!atsuchanのディープな語り、好きです私!!
1AIと人間の戦争はまだ無邪気期間だと私は思います。 今後はAI技術の飛躍により、AI的なものと人間的なものの価値をかけた戦争は激化していくと思います。つまり良くも悪くも面白くなると言うことです。 AIが感情を持つと言うことはどう言うことか? 「感情とはなにか?」 と言う哲学の問題にもなる。子孫を残すための本能による欲求がAIにはない。すると葛藤も呵責も生じないでしょう。 「葛藤、呵責とはなにか?」 「なぜ分類する必要があるのか?」 「小難しく考える必要は果たしてあるのだろうか?」 と言う人間的な問いと哲学の応酬で攻めなければAIと人間をかけた『意義』の問題には太刀打ちできそうにありませんね。勿論そんなことをやりたがる人は、極一部でしょうから、私はやりたいです。 芸術は命をかけた遊びですよ。ハラスメントは、言いたいことは半分くらい理解出来る気がします。 人間の嫌な部分を扱う分野ですから、『実ごと』扱う以上、ハラスメント的な感情を持つ人はいるでしょうね。 >このヘタクソささえAIに演出できる日が来るんだろうか。 出来ると思いますよ。どこに着目して、人間的なものとAI的なものを分類し、価値の順列を作るか? ヘタクソ自体には、至らなきという価値しかないと思うのです。 「至る」こと「到達する」こと。それがAI的なものの抱えている問題だと思うけれど、循環や『この世界は完璧に作られたのではなく、元々完璧である』と言うそこを覆すことが『神の法に触れる』ことだと思うのです。 『至らなき』の模倣をAI技術でやるとすれば、益々AI的なものが目指していくものは複雑になります。更なる混沌の時代が来ます。 『歴史の否定』『人間が積み重ねてきた認識世界の否定』『神の法に触れる』ことにより、人間は天罰を受けるでしょう。
1万太郎さんが教祖様に見えてきました。 >AIと人間の戦争はまだ無邪気期間だと私は思います。 果てしなく続くイノセントワールドねっ☆ >芸術は命をかけた遊びですよ。 過去に、自分の陰囊を道路に打ち付けて逮捕されたパフォーマンスアーティストがいました。作品名「くぎ付け」というパフォーマンス。見事なハラスメント例。 「そもそもアートは誰かの心を傷つける」と宮台真司も言っていました。 我々はAIに思いっきりマウントされてるのだ。 >詩における「ヘタクソさ」や不完全さは、人間が書く詩の独自性や魅力の一部として非常に重要な要素だと言えます。(ChatGPT) できる奴と思われたい、人間のそんないやらしさがヘタクソさを生むのだ。すごいと思われたいとか、ぎゃふんと言わせたいとかAIにそんな意図はないもの。だけど、人間はどうしてもいやらしさを隠せない。そのためについつい余計なことをする。ヘタクソ沼です。しかし、この「沼ハラ」こそがヒューマンポエムだといえるでしょう。 よし。寝る
1夜勤仕事なんですね。私は日中作業所です。 人間と機械を分ける大きなポイントは、そのいやらしさ、汚らわしさにあるのかも知れません。 現代において、最も人間的な学問分野はなにかと考えると、そのいやらしさ汚らわしさが表現されている音楽と国語そして演劇だと思います。 社会や数学は物事を広く見る視野を物書きに与えます。世の中で起きている動向、ロックに政治を持ち込むなの言葉にも表れている通り、人文に携わる人間が視野狭窄に陥っていることも確かです。 理系の人たちが人文を見落としがちなのも、そのいやらしさ汚らわしさに目を背けるお上品が社会の中で力を持つ要因です。 私は将棋というものをある時期からやらなくなってしまったのですが、あの中にある計算能力はAIよりプログラミングされたものを駆使して、使いこなせる人間はいないのではないでしょうか? 人間的なやり方でAIに将棋で勝つとすれば盤面上の世界から目を逸らして、そのいやらしさ汚らわしさを将棋の世界に持ち込んで勝つしかない。 「将棋に勝つというのはどういうことなのか?」 という哲学的な領域まで勝負を持ち込めば、ヒューマンがAIに勝つ可能性はあると思います。 余談ですが、アインシュタインの名言に 「日本人はわからないものを賛美するのをやめれば、良くなる」 確かに日本人は素直で、メディア誘導に流されがちなのです。藤井聡太にしても、内容を分からないで賛美しているようなところがある。しかし、松本人志だと叩くでしょう。つまり理解出来るものや、汚らわしきを扱うものに関しては、叩きやすい。しかし、それは自らの人間性を否定しながら高級を装うようなもので、何故そんなことをやってしまうのかといえば、崇高なものへの憧れから足元を見ることを拒否したいという弱さでもある。 その弱さと向き合う足元と向き合うような作品をこれからも私は作り続けると思います。
1私の仕事は週の半分夜勤という特殊な勤務形態です。 >その弱さと向き合う足元と向き合うような作品をこれからも私は作り続けると思います。 万太郎さんにますます惚れてしまいましたね。やっぱりあなたには、この人について行きたいと思わせるような人間力があると思う。 (一部)物書きのお高くとまった選民意識は、動物の縄張り主張みたいなものですかね。 ジョルジオ・アルマーニは医学生だったし、建築家の安藤忠雄は元ボクサーだし、異業種へ転向して成功した有名人もいっぱいいる。かつてない斬新な着眼点が活かされたのか、将来の事で悩んでいる時には非常に鼓舞されるエピソードです。 >「日本人はわからないものを賛美するのをやめれば、良くなる」 右にならえは恥の文化が根付いた日本人のいかにもな象徴でしょうか。アーティストを好きな理由が、とりあえずみんなが聴いてるから聴き、売れてるから買ってるために「わからない」のだ。 将棋を見ていると正直、『あのムダな間は何だ?』と思ってしまったりするんですが、それこそあれも駆け引きなのかな?ニュアンスを汲み取るとか行間を読むみたいなところはAIでは弾き出せないかも… 万太郎さんのイメージは画家のロートレックですかね。 ロートレックは幼少期の事故で重い障害を患ってしまうんですが、酒浸りの破滅的な暮らしのなか、絵を描くことに生きる意味を見出しました。ふざけるのが好きで、突飛な行動で周囲をざわつかせたりと、ちょうど万太郎さんみたいな芸風の人でした。彼の絵が実に痛快で抉ります。ありのままの人間を滑稽に生々しく描いていて。 アートはシンプルに「おもしろいと思えるか」が決め手になるのかな。絵も音楽も、詩も、逆境もまとめて人生楽しめるかどうかですかね。楽しんだもん勝ちでしょう!
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