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タモリと小田和正
いい人間、いいリーダーの条件。それは己が胸に問うているかです。 例えばアドルフヒトラーや金日成。それを歓迎する大衆と言うのは、合わせ鏡で、多く欲得の世界に生き、己が胸に問うたりていない人間だと思うのです。 大多数の人間は、良心を持たないと芥川龍之介が語った通り、大抵の人は、そこまで己が胸に問うて生きているわけではない。百姓と言うのは、大根や人参が丈夫に育てばいいと言うのが基本ですから、そこで己が胸に問うて、農薬を使うことが、その後の影響を考えていいかどうか? なんてそこまで考えない。優れたリーダー、未来設計が出来る人間の指導があって初めて、体にいいか悪いか? なんて真剣に考えるわけで、おかげで、この日本は、世界一の農薬大国、添加物大国。みんな、その後の子孫のことなんか考えてない。これが戦後ペリー来航以来、農民に極端な人権を与えた結果だね。 いい人間、悪い人間と言うのを考えた時、80年代にタモリが言っていた、オフコース批判と、ネアカネクラ問題について考察したい。 タモリは、戦後ハナモゲラ語という、意味合いより、語感や響きを重視した言語を、お茶の間に普及させ、意味の解体のような前衛運動によって、日本そのものを文化伝統をひっくるめて、ちゃぶ台ごとひっくり返した、戦後最大の罪人だとも言える。 なにが罪かというと、タモリのいっけん、毒のある言葉を放った後、上手く自分でフォローを入れて、ノーリスクを選ぶ、芸人特有の姑息さ。責任を取りたがらない現代日本人の姿の見本とも言える。その姿空気感を、日本社会全体に蔓延させたということ。 タモリは、デビュー当時、いい人間悪い人間を、ネクラネアカで分類したが、それは字句通りの意味でなく、己が胸に問うている人間は、根は暗いように見えて、楽しいし、明るいと言うもっと複雑な意味合いを孕んでいると思う。 真面目な人間は、言葉を字句通りに受け止める。それは生き物本来の、躍動感のある世界観ではなく、ガソリンによって動く、寂れた機械のような生き方を自らに課しているという点で、ネクラだと思う。それでいてその人は特段、悩まないからネアカにも見える。 オフコースの歌の中で、小田和正がテーマにしているのは、他者特に異性への理解。そして懇願。 「君を、抱いていいのか?」 と彼は、抱く前に断りを入れて、異性に問う。その他にも、こうしていいのか? ああしていいのか? と禅問答のように問い続け、更に 「振り返らないで」 こうしないで、ああしないでと懇願が続く。 そこに、今の時代に問題になるような合意なき強制はない。小田和正には、タモリ的な無責任リスク回避よりも、戦前の日本人にあったマナーへの愛がある。 それに気づいたからこそ、あれだけ忌み嫌っていたタモリが、毒抜きされた老後を経て、小田和正批判をやめてしまったのではないか? 「暗い」とタモリが語るように、小田さんの歌に会ったのは、異性へのナイーブでセンチな思い。タモリの中にある異性への想いは、もっと直接的な性愛であり、セクハラもなんぼのもんじゃいで押し切り、女もそっちの方が喜ぶけんのお、な世界観なのだ。 しかし、時代は現代にあって、小田和正型の内向き型に表面的に偏る。 社会全体の臭い物に蓋をする表現のホワイト化によって、小田和正的合意あってのナイーブで生真面目な愛が社会全体でもてはやされる風潮が広がりつつある。 「空を見て考える。君のことを守れるか? 愛せるか?」 と問う小田和正。 相変わらずのスーダラ節を老後の寝床に持ち込み、過去やったことは今の時代にはあってはならないことです、とそれでのし上がったことさえ、否定し始めて、表彰台の上に立つタモリ。 現代日本人の近視眼的な生き方と、冷感症的生き方を見直すには、双方の中にある悪と偽善、いいところは見習って生きるといった在り方しかないのではないか、と思う。 小田の歌には、規律への愛がある。しかし、それが米国型戦後の道徳教育の中で育った規律だと、現代に置ける少子高齢化や男女間の問題は、うまく解決出来ないと思うのである。
タモリと小田和正 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 842.5
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-06-14
コメント日時 2024-06-15
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ずいぶん図式的だなあ、と、最後まとまんなかったんかなあ、という思いでしたね。これだと、詩とも批評ともつかないんじゃないかな。詩ならもっと人の感性に訴えかけるものが欲しいし、批評ならもっとグーッと急な坂を上るような根性がないといけないというか。
1>おまるたろう様 鋭い感想です。批評文。文化を論じる。そこで二つの表現者の対比が出てくる。考察を深めていくと、もっと坂を登るような根性が必要。それはあると思います。 個人的にですが、もう少し人の心が判らないといけないとは思いつつ、他者に対し、充分にものを考えて行動しているのかという不信に悩むことが多く、その苛立ちが図式化を招いているような気がします。そこを掘り下げるともう少し暗くなる。リアルな心情が浮かび上がる気がします。
0ずいぶん透徹した論考ですね。タモリ批判を、僕は考えたことがなかったので、確かにそうだよなあ、 と自分を振り返りながら読みました。まあ普通の人間は、自分だって理解できるけど、自分は それが正しいと思わないから、そうはしないな、と考えて行動していくべきですよね。 そこには、価値評価と、信念と、直観がある。微妙な判断を下すならば、それは恐らく そのことに考えをいたすことが、まだできないからでしょう。万太郎さんは、少し前まで、 絶望の底にいて、生活もフラフラで死にそうだったようにお見受けしますが、よくここまで、 帰ってこられましたね。人間というものには、火事場のクソ力を使う力がありますね。 あなたのこの文は、美しい批評文と言っていいと思います。これからの人生で、きっと 万太郎さんは大成功をおさめ、ご自身で決して手放さなかった夢を、叶えられると思います。
1>黒髪様 ありがとうございます。 私は、実はモテてないことはなかったようなのです。女性の方に聞きましたが、私のことをとてもいい身なりなので、女の人から話しかけづらいと言われました。 私自身は女性というものがよくわかっていなかったので、好きなら気になるなら相手から声をかけ、好意を寄せてくるものだと錯覚していました。 女性から声をかけられたり、数人で追いかけられたこともあったのですが、逃げてしまったり、鈍感なことが多く、ものにすることが出来ませんでした。 それも我が家がとても厳しい、米国的道徳教育に縛られた家庭だったため、私が女性に対し、奥手だったことが原因だと思います。 私は実際は、ジャニーズ事務所に入れそうな風貌をしております。タモリ的な屈折を表現するのは限界がある。とすれば、タモリと小田和正の中間のような在り方が私には相応しいように思うのです。 芸能界は私の夢ですし、ここ数年で天才としての自覚、己の才能への自覚も芽生えから確信へと変わりつつあります。事業所通いから履歴作りに成功した暁には、一般就職を果たし、念願の芸能界オーディションを二、三年後には改めて受けたいと思っています。 クロマニヨンズも歌っていますが 「どん底ならば上がるだけ」 最近の私は、周囲の人たちにも魅力を認められつつあります。実は結構認められていたのですが、私が良くない謙遜をしていたので、周りも持ち上げづらくなっていたようです。
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