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心温かき地球人類
何をしていても考えていることがある 公然と言っても仕方のないことなので 口を閉じているけれども 人を讃えるために口はある そうしないと人が勇気を失ってしまうから 歌を歌ったりして人は間違いを許される気持ちになる そうでないと希望を失ってしまう人ができる 間違いを許すことも大きい愛情 子供を放り出すような親がいるわけがない 一番してはいけない事さえしなければ きっと親は育ててくれる それくらいは信じたい 信じられない事態も起こっている だけれどもそれを否定するのではなく 解決する力は心と頭の中にきちんとあるんだ それを実現する手と足も どんなに人生の達人になっても 胸の中に一つある動力源が血を巡らせる 血の温かさが心を温める だから遠い旅路でたまに人に会うとほっとする いきなりいさかいが起こったりしない 物事は血と心臓と頭の正しい働きに従って起こる 活力を持った子供たちもまだ頭が幼い それゆえに戦争ごっこに血を湧き立たせ 天辺に立って見下ろす 我こそが一番なりと 報酬や略奪を目的として戦争が起こるのであるが 血の熱さこそが戦争という現象 智慧ある大人ならば止められる 時代が変わったんだから あなたも諫めて下さい 正しくメッセージを送って下さい 救いを待つ子供が世界中にいる 大人もやっぱり不安げだ 地球中の全ての人が一人一人手をつないで 地球総員で一つの大きな輪を作ろう みんなで世界中のお花を囲んで踊ろうよ 海もさざめき山は笑い川は涼しく流れているよ 誰もいない森の中から抜け出した小鳥がさえずり サバンナはお昼休み 凍り付いた北極ではクレバスが割れて 南極ではペンギンが踊っている オーロラがかかった空に白夜も明けずに 日月がほほ笑んでいる
心温かき地球人類 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 577.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2024-06-01
コメント日時 2024-06-07
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
すごくいい。全面的に賛同します。お花畑なんてバカにする人は愚かです。
1ありがとうございます。きちんと書ききりました。眼が直って来て、記憶も正しくなり、 価値観がしっかりしてきたので、僕のずっと書きたかったことがやっとかけました。
1パウル・ツェランは戦時中、ジェノサイドで死ぬか生きるかという最中に、シェイクスピアのソネットを翻訳していたといいます。ソネットは、誰かに捧げる気持ちがあったり、そもそも、宗教や言語に対する信仰がないとまともに書けないものだと。バタ臭いジャンルだと思うのですよね。シェイクスピアは古代人みたいなものなので横に置いときますが、ツェランにあるのはまず第一に、強烈な死臭ですけど、あともうひとつが、郷愁ですが、黒髪さんの作品には、そういう田舎者の、血の匂いとか、土の匂いみたいなものは、あまりしないと感じます。これは才能というよりか、生まれや育ちの問題なので、よしあしではなく。たとえば、じゃがたらの江戸アケミなら、同じモチーフでも、もっと思いきりエグってくると思うんですよね。でも以前のハンマーの詩なんかは、リアルで、すごく心を打たれたのですよね。
1こんにちは。ツェランは、バタ臭いんですね。西洋が洗練されていないところもあると。 僕は、東京にかなり長く住んでいたので、田舎者っぽい感じは抜けたかと思います。 2、3歳のころは、アメリカに住んでいたので、外国の感じも目、耳にしていたとは思います。 アメリカって、バタ臭くないじゃないですか。なんというか、気性的には気が弱く、 理想主義なので、アメリカとの相性ばっちり。それと、日本が余りに好きなので、困っています。 ハンマーはですね、子供の頃実際ふるって遊んだことがあるので、よくわかるんですよ。 子供のころ遊びまくったことが、言葉上だけではない貴重な経験となっていると分かります。 おまるたろうさんも、子供の頃必死に遊んだ経験が大きいだろうな、とその文章から、 想像するところであります。子供には、特に外遊びを際限なくさせてあげないといけません。 それが、洗練されるということでしょう。田舎者の方が洗練されるんですよ。 東京なんて、田舎出身者がかなりの割合を占めています。下手に雅だと、逆にすっきりしない、 現在では。愛されることで、人は良くなるんですよ。ぼろは着てても心は錦で行きましょうよ。 我々日本の、魂の精髄をつかさどる詩人連としては。文化の中にあって心はその真実を話し出す。 話す声に心傾ければ、新しい物語が始まる。それを、眼によって、しっかりと記憶し位置づける。 話が展開しだしたら、どんどん面白くなります。終わりのない物語を、読んだ経験が、 人の感情を無限に増幅させる。銀河の中で生きている我々の祝福されるべきストーリーも、 まだ始まって四千年ほどしかたっていません。その貴重な一員である我々が、もうこれ以上、 一体何を恐れなければならないというんですか。
1こんにちは。その者の無意識が出ることが表現における「最低水準」だと思っていて、これはすべてのジャンルで共通しているシビアさです。今回は、そこをクリアーしてないのではないか?という気がしたということです。黒髪さんは常にあたたかみを志向しているが、本当は(おそらく)頭脳由来の怜悧さがあるということですね。今回の作品では、特に、なにかを隠しているという感じがした。
1いやー、かないませんね。無意識の中で隠していることに気づかれちゃった。 それは、むしろ自覚的なのですが、私自身のエゴと言うか、あたたかみは、与えてくれた人が、 いたから、あるのであって、一人では、一人ぼっちだとしたらそれは、頭脳的に怜悧に なってしまうんですね。怜悧なカミソリで、人を傷つけまくっても、みんなが怒り出すんですよ。 正直言って、みんな熱いことこの上ない。戦争を終わらせるのも、怜悧さと熱血さの 両方を使わなければいけない。傷つけることがなければ、悪人でも善人でもどちらでも いいんですよ。愚かさが救い難いのは、労力を無駄にするからです。身体がなければ、 心の事を考えられませんからね。心が正しく、無傷害を守ってさえいれば、どんなに自分の 心が傷ついても、次へ進むことができます。おまるたろうさんも、批評などしながら、 次のステージへと進んでいきましょうよ。過去の復習より、新しい可能性の詩を、 書けるはずですよ。
1批評的になってしまって申し訳ないです。わたしの近しい友人も、「お前の詩や小説はゴミ。いいのは短い批評文だけ」(全然嬉しくない...)とかいわれてます。 ないものねだりにならない程度に、自分も苦しんでいる最中です。何人か名前を出すと、谷川俊太郎や究極Q太郎とかは、わたしにとっては恐怖の対象でしかなく、でも、ああいうの書きたいとか常に思ってるんですよ。絶対に、かけないですが。自分的には、ビーレビには、ゴールドジムに通っているような感じでいるのですが、一人ではやっぱり限界があるので、みなさんの力も借りて、新境地を開拓できればなと思ってます。
1僕は、谷川俊太郎はそれほど好きではなく、大したことはないと思っています。入院中に、 かなりしっかり読んだんですけど、正直がっかりしました。新しさという点で、面白くなかった。 だいたい、表情が魅力的でない。チバユウスケとかとは大きく違っています。 おまるたろうさんは、しっかりとした論理的な言葉を書かれますし、直観は正しいので、 僕から一つ提案すると、だれでも、文法を守って心の動いたところをそのまま言葉にし さえすれば、いい詩が書けると、僕は思っています。 行分け詩は、その魅力、可能性において、余りに罪深いのです。チャレンジしましょー! もう一つ提議しますが、新井高子さんの最新刊『おしらこさま綺聞』を読まれると、 良い詩観に辿り着けると思いますよ。詩において、避けるべきことは、タブーから目を逸らし、 人工的なビルばかり建てることだと思っています。清潔な都会で、コンクリートジャングル(という概念)の中で 生まれる詩には、本来性も可能性も未来もないと思います。人間が生きるべき道を、 人は人と会う限り、求め続けますよね。都会では、様々な人と会えるということだけがよいこと、 百万ドルの夜景は、宇宙人に見せてあげたいものの中に入るでしょうか?
1ありがとうございます。新井高子さん著「おしらこさま綺聞」。さっそくポチります。 >僕から一つ提案すると、だれでも、文法を守って心の動いたところをそのまま言葉にしさえすれば、いい詩が書けると、僕は思っています。 自分の日本語のおかしさは意識するところです。ふりかえると、社会人になった後も、やんわりと、いわれ続けてきました。 私の母親はタバコをおいしそうにスパスパと吸いながら冷凍ピラフを焼くような、典型的なヤンキー人間でして、喋ってる言語が日本語のようで、じつは日本語ではないのかもって、一抹の不安を感じておりました。 そんな私の母にまつわる、子供の頃のトラウマをひとつ開陳しましょう。 自転車で幼稚園に行く途中、私は後ろの子供乗せに座っていました。 母は途中の子供たち、幼児や幼稚園児に声をかけるのです。「こんにちは、君―?」というように。 しかし、子供だからといって舐められません。子供は大人たちの井戸端会議の金棒引きをよーく聞いているものです。 「何だ?おまる太郎んちの、クソババアか?!」というふうに、子どもたちは母に容赦のない罵声を浴びせます。うちの母、近所の評判が最悪なのです。 「あ〜ん?餓鬼が、近くに来いよ...」と母は人が変わったようになって子供相手に、鬼のような態度で応酬していました。これはこれで、容赦なか人ばいと閉口させられます。 後ろの子供乗せ(リアチャイルドシート)に座っている私は、たぬきの置物のように黙っているしかありませんでしたが、非常にいたたまれない気持ちでした。 >行分け詩は、その魅力、可能性において、余りに罪深いのです。チャレンジしましょー! 突如、新境地が見えてまいりました(早い) >百万ドルの夜景は、宇宙人に見せてあげたいものの中に入るでしょうか? 宇宙の総体的真実は人間にははかり知れません。人間の真実なんぞはちっぽけなものです。人間の尺度で考える限り、宇宙の真実をひどく矮小化するという罪を犯すことになります。と同時に、人の真実をインフレ化します。いずれにせよ、罪ですね。
1おまるたろうさんは(に限らず)、のびしろがまだ大きいと思います。 理屈を誤魔化さない誠実さがありますね。健闘を祈ります!
1最近、映画「いまを生きる」を観ました。名作たる所以が分かりました、凄かったです。 「天辺に立って見下ろす 我こそが一番なりと」 ただ、天辺に立たないと見れない景色もある、と考えると、その天辺の景色の独占が血につながるんじゃないかなと思います。皆で天辺に立てればいいですね、時間をじっくりかけてでも。
1死せる詩人の会、ですね。僕も見ました。 「天辺~一番なりと」については、織田信長とかのことを考えて書きました。 もちろん、信長は好きなのですが、僕の人生で、中学の卒業式でそういう態度を取った時、 友達がヘッドロックをかけて来て、ふざけてきたんですね。大人になったら、 みんながそれぞれの道で一番を目指すのも悪くないかもしれません。 ただ、一番になろうと目指すと、他人との共存に支障が生じ、自由に自分がしたいことって こんなことだったっけ、と思うわけです。『ヴィンランド・サガ』という漫画を読めばわかると 思いますが、真の戦士とは、武器を持たず、自らとの戦いを行う人のことです。 自らと戦うには、智慧をつけることです。作中で、村の女の子が、盗んだ指輪を隠しに行って、 海賊たちの襲撃をたまたま逃れ、生き残った、このことは、海賊から逃げる智慧をつければ、 神様はそんな小さな過ちは許してくれるのだ、というエピソードなのだと思いました。 私は、一番になりたかったんじゃないのです。 人を幸せにして、みんなで幸せを目指すということをしたかったんです。そのためには、 さとりを得て、自分自身が幸せにならないといけません。生きていて、いっときの満足では ない深い満足を感じ、それを毎日維持して、何の後ろめたさもない楽しさ。 織田信長は善い人だっただろうと思いますが、戦国の世で、生ききった偉人です。 僧団の堕落に我慢がならなかった。 たまに、聖なる人に会うことがありますが、その記憶は大切です。 あらゆる文化芸術も、一番を目指すことより、その芸に秀でること、そして優れた心の 涵養によって、良くなると思います。熊倉さんも、智慧と心を大切にされてください。 一緒に生きてきたみんなより上に行ったとき、友達は、あなたの何かが変わってしまった、 と指摘するでしょう。その指摘にうろたえ、憤慨しても、友情を裏切ったのは自分なので、 後々後悔することになります。事実、行動として、そのこと自体はもう取り戻すことはできません。 熊倉さんは穏やかな方に見えますが、所属する組織は、友情にあふれていますか。 まず自分から変わらねば、何事も変わりません。
0後半の話について、 私は、「去るもの追わず、来るもの吟味」の性格なため、組織に属しづらい生活をしております。個と接していますね。そんな限られた親友たちはみな卓越した力を持っていて、私はその背中を追ったり、追わせたり、切磋琢磨している具合です。 ただ、今のではなく、子供の頃からの旧友は、逆に「変わってないね」と言って離れている感覚がします。子供の頃から、創作や芸術の夢物語を聞かせていたからでしょうか。時に、「変わらないこと」は「変わったこと」よりも衝撃が強いのかもしれません。 天辺、よりも、たとえば次元が違うだとか、遠くに行ってしまったと言われることほど、寂しいことはないですね。私の文化芸術の目標は、「誰もが話題に出したい人物」になることです。親しさと前衛性を持ち合わせながら、その道を進んで行きたいと思っています。
1そうですか、変わっていないと言われるのなら、熊倉さんにその点で恐れるところはないですね。 しっかりと自己認識されていて、すごいなあと思います。僕は、自分が天下一の果報者だ、 と感じることが多いです。世にある全てのものがありがたいなあという感じです。 僕は、無理をしたために、所属する団体を、裏切りながらここまで来ました。 B-REVIEWは裏切りません。ここが夢の実現に外なりませんからね。こんな、詩を投稿して 批評し合える場所、他に少しありますが、とても貴重ですよね。
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