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ここにあって
口からは薄茶けた泡だった汁が流れ 尻からは液状の便が溢れ出る 目は鈍く光る なんとも言えない悪い臭いが鼻につく 身体は固まっているようだ わずか数時間の事 引きずり痛みを与えても反応がない そうか こうなるのだ 自分もまたこうなるのだ 得る事のできた生と名 守らねばならない命と心と財 だが執着しない 『われらはここにあって死ぬはずの者であると覚悟しよう。 そうすれば争いは鎮まる』 思いは通らず 望み断たれ もう終わるかも知れないと ただ 自由であれ 汁が流れ続ける口と鈍く光る目の顔に 覆いをかぶせる 草をはみ続けた数年 乳を出し続けた数年 君は苦しかっただろうか せめて今は安らかであるように
ここにあって ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 783.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-01-22
コメント日時 2018-02-01
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「死」が身近にあった時代から、「死」は忌むべきものとして退けられた時代へ。 私たちは、死の間際の断末魔の苦しみを、ごく身近な者の死という衝撃と共に、人生で数度、出会うか出会わないか・・・そんな頻度でしか「体験」しなくなっています。 食育、として、屠殺場を見学させたり、写真集などで生きたものが食肉となるまでを「学ばせる」ことの是否が問われたこともありました。 進化の系統樹上で、人間に近い生き物であるほど、その死の衝撃は大きくなると思ったこともあります。 そんなことを思いながら、生理的なインパクトと共に、目前に動かしがたいような事実として迫ってくる迫力に牽かれました。 、
0まりもさん、こんにちは。 死んでしまった、または死ぬ瞬間を見る機会が比較的多い職業をしております、牧場の従業員です。 さまざまな要因で死んだ牛を見、また安楽死される瞬間を年に何回か見てしまうのです。 ついさっきまで搾乳していた牛がそうなってしまうのは、悲しいというより不思議な感覚を覚えます。 また、連れて行かれた先で、屠畜される牛を何度も見送っています。 一連目と二連目が死んだ牛の様子になります。 生き物が死ぬということをまざまざと見せてくれます。 そういう職業だからでしょうか、『われらはここにあって死ぬはずの者であると覚悟しよう。そうすれば争いは鎮まる』という言葉が自分が生きる上での覚悟となりました。 ダンマパダ(法句経)の釈迦の言葉ですね。 この言葉を胸に牛の世話をしていきます。
0HAneda kyouさま わたしは数年前、牧場からトラックに積み込まれていく牛の眼を見たことが忘れられません。 生きてきた空を、なんども見上げてきた斜め上の空を食い入るように見上げていました。 冬の終わりでした。 近くに居る方だけが分かることが、おありだと思います。 そういう視点の詩を、これからも読ませていただきたいと思いました。
0ぐっすりゆうさん、こんにちは。 もしかしたら最後に空を見たのかもしれませんね。 大型の家畜として、そのようなことになるのは仕方ないのですけれど。 何を考えたのでしょうか? この手の良い作品書けたら、また投稿します。
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