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非─詩のベタである、生活描写
山本やまさんの、(いいペンネームですね)夜の散歩という作品を読んだ。 一読して、カジュアルな、生活感の溢れた描写は、先行する作品は、それはあった、ネット詩にあったと思うけれども、そのカジュアルという点、生活感という点。 ここまで露骨(言いすぎか)、過度に書き込んだ作品は、他の詩群と、ちょっと趣を異にしているのではないかと思われた。 まずコンビニエンスストアの挿入がある。ビールの挿入がある。そうして、今、夜の散歩をするというのもこれは珍しくないであろう。 その現実をそのままに写しとります、というのであれば、それはじっさい、「ベタ」な書き方なのであった。 現実をそのまま写しとる、という手法であるならば、古くは正岡子規の写の論、が挙げられるけれども、私はその子規が創作していたという「新体詩」というのは存じない。 だから、その関係性について論じることはできないけれども、子規が「詩人」であったということに否定的な立場をとる人もいたと思う。確か・・・北原白秋がアルス社から子規全集が出版されるときに、「子規は詩人ですか」と問うたことがあったという記事を読んだ気がするけれども。浅学と資料の見当がつかないクローゼットの現状を許して欲しい。 そうして、その子規を詩人とみるか、どうか、その根底に、白秋の場合、「詩情」「ポエジー」の問題があった筈なのである。 私の書くものには詩情がないらしい 言葉の組み合わせは謎めいている方がイケているらしい 単語×単語の薄い本、上手く作れませんな その「写生」は眼前にあるものの、そのままを書けば句になる歌になるという教えであるけれども、新体詩の場合、その、例えば「言葉の組み合わせ」の妙、比喩のような「謎」を早々、導入して、その後、近代詩として確立していったと見える。 私が言いたいのは、この作品を読んでいると、じっさいは、「ベタ」である筈なのだけれど、沢山の言葉の技巧を凝らしたネット詩に日々触れていく中で、その技巧を凝らした詩の方が「ベタ」であって、この「夜の散歩」という作品は寧ろ、「非ベタ」に読めるし、それを作者は自覚的になって突いて、書ききっているという点である。 その確かにこういう作風はあったのだけれども、作者が自覚的に書いて「非ベタ」を狙っているという点、エポック・メイキングといっていいのではないか。 上記、三行、引用した点を意識して、全行読みかえしていただきたい。批評性がある。 加えて書けば、この手法、半無尽蔵に書けるし、この路線で極める道筋もありますね。
非─詩のベタである、生活描写 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 750.0
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作成日時 2023-11-29
コメント日時 2023-12-02
すいません、推薦文中、脱字ありました。 >古くは正岡子規の写の論→古くは正岡子規の写生の論
0「写生」は眼前にあるものの、そのままを書 けば句になる歌になるという教えであるけれ ども 詩歌でいう「写生」というのはそういう意味じゃないよ うな気がします。すくなくとも正岡子規や斎藤茂吉が考 えていた「写生」とはかなり違うのじゃないかな。 おそらくぼくらがよく小学生のころやったような校外で の図画の授業を思い出して、あれを「写生」だと考え、 そう語っているのでしょうけど、あれだって「眼前にあ るものをそのままを描いて」いるのじゃない。このあた りは実は大人より子どものほうが「写生」というものを 自然天然にわきまえているような気がする。 大人は画用紙に縁がないと思っている。つまりキャンパ スを無限の空間と想定しそこにどう世界を描くかを考え る。だけど小学校初年程度に成長した子どもたちは純粋 というか、単純で曇りがないというか、ちゃんと四方の 縁が見えている。画用紙の四方の限界を知っている。 だから子どもにとって写生は「眼前にあるものをそのま ま描く」ことじゃなく、まずは構図を決めることからは じめる。だから画用紙を縦にするか横にするかで散々悩 んでいる姿をよく目にする。ダイナミズムをとるか平穏 さをとるかの選択が無意識に決定される。 そして樹なら樹を描くとき子どもたちは樹を描いている のではない。 樹に向かって樹を描くのはある程度世界観や常識が固ま った大人であり、実はそれが”写生”を妨げる。 子ども達は樹ではなく抽象的な線や色や形を描いており 結果として樹になっていると考えていると見たほうがい い。だから必ずしも樹を上から下へと描かない。真下か ら段々上に描いていく子もいる。しかしこんなことはも う頭の固まった大人には無理だ。しかしわたしが知って いる詩人ならそれを言語を使って容易に成し遂げる人も いる。(ネットでは見かけないが詩誌寄稿の詩人にいる) これを写生というならば、写生とは「眼前にあるものを そのままを書く」ことではなく、むしろ生の感覚や精神 そのままで限定された空域に眼前を掴み取ることである といえるような気がする。 ネット詩に日々触れていく中で、その技巧を 凝らした詩の方が「ベタ」であって、この 「夜の散歩」という作品は寧ろ、「非ベタ」 に読める。 長いあいだネット詩見てますけど技巧をこらした作品な んて千に一つもなく、また、たまにあっても一切理解さ れずに無視されてるのが実情です。いかにも詩誌なんか に掲載されている「それらしき現代詩」よく見かけます がわたしにいわせればそれこそが「ベタ」?の ように個人的には見えるのです。ですからこの対象作品 もわたしからすればそういった「ベタ」詩の類のバリエ ーションひとつなんですけどね。 それから対象作品を「写生」とか「生活」とかいいますが それなら批評などいらないわけです。 『夜の散歩』も一連は「飲めないから」という理由で散歩 しており。二連は「便秘薬が切れたから」買いに行き、 三連目はスニーカーが「合わない」といって嘆き、 四連目は「足が痛い」「カッコ悪い」と愚痴をいい、 五連目では私には「詩情がない」と居直り、追記では 何かが「消えている」。 つまり何らかの欠損の感覚が書き手を「夜の散歩」? へと誘い出している。 缶ビール、便秘薬、スニーカー。坂道、アニメという 小道具にも書き手の無意識が反映している。そういうものを わたしたちのような詩の読めない凡愚に示して解体してもらえる のが批評というものではないかと思うのですが最近の投稿 をとりあげた様々な批評文は批評どころか作文にすらなって いないものが多かった。 小中学生の作文より味気ないし独創性も感性もないものが 連続して批評として投稿されて、かなり参ってしまった。 小説と詩の違いのひとつは写生についての見解で個人的意見 を書いていますが、 この投稿サイトに投稿される詩のほとんどは詩ではなく ただの文章です。わたしの詩”もどき”を含めてね。 現代詩フォーラムのようなあんな糞サイトを真似ることは ないけども まずは詩をどうやって書くか、書けるかそこがこのサイトの 大事な節目じゃないでしょうかね。
2うん。失礼ですがなるほど。 その、斎藤茂吉は彼の論で、所謂「口ごもり」のようなものを起こしていて 彼の主張する、実相観入、というもの、あれが分からなかったのですけれど むしろ生の感覚や精神 そのままで限定された空域に眼前を掴み取ることである といえるような気がする。 と平たく仰られたとき、それでいいと思える。私はそれでいいと思えました。 しかし、無意識・・・。この無意識というのが厄介でしょう。 何かその提出された事柄に対して、無意識レベルで欠損の感覚があり それを反映している、として どうも、私はそこまで、作者や作品にタッチしたくないという感覚があるのです。 仮にそういったものがあって、それを、こうじゃないか、と指摘する 確かに、批評はそうあるべきなのですが 何か私の拙い流行感覚?がもっとラフに、もっとラフに と要請してくるのを感じます。情けないことです。また反省です。 長文に対してもですね、それはありがたいことなのですけれど 風潮として、人と人の間で、非接触、デタッチメント、でしょう。 この返信にしても、なにかそれはラフに、ラフに、というこころの要請があり それは・・・まぁ失礼なのかも知れないですけれど 勉強しますといったところで、口を封するがいいと思えます。 それは本当に申し訳なく、情けないのですけれども。 コメント、ありがとうございます。
0わわわわあ! ありがとうございます! 批評を書いていただける日が来るとは……。嬉しいです! 「これが詩だァ!」みたいな作品も読む分には好きなのですが、自分で書くとなんだか珍妙なものが出来上がってしまうのでこのまま投稿しました。非ベタとのお言葉、嬉しいです。天邪鬼でよかった。笑 この路線で行くのもありですね。 ありがとうございます!
2こんな返事を返されるならスルーしてもらったほう がよかった。 わたしも詩歌の書き手としてはここに投稿される方 々の技量を見下したのだから不遜な態度で返されて も当然かもしれませんが、しかし 前の投稿でも三人でさんざんコメント欄を蹴り散ら かして挨拶も謝罪もなく消えたが、 蛾兆とかいう尊大な男にはあれだけ卑屈に平身低頭 する。いくらままごととはいえ運営の片割れなら、 もう少し真面目にやってほしいね。 ま、いろいろ病気を抱えているようだから仕方ないが。
1こんばんは。 気分を害されたようで失礼しました。 そのですね、私自身、その運営の片割れなのですけれど 一方で、その詩論について真面目に激を入れて取り組まなければいけない といことは、仰る通りで確かにそうです。 しかし、私の現在の立場として、掲示板の自治という役もあり よって、熱を帯びた詩論のぶつかり合うところ、というものを これは避けなければならない、という要請も働いております。 ほんとうのところ、正岡子規の写生、その語の、これは氏のいう作文の技法 でいいでしょう、というものと、斎藤茂吉の写生は、これはアップデートしたものである この二つは違うような気がする、ということ。 そうして、この詩作品は、きっと私の読んだ限りでは、写生には適っていそうであるが 正岡子規や斎藤茂吉とも、表層の部分を掠めて、違うような気がする。 そういった意味で、takokyoさんの意見には賛成する立場にありますが どうしても、私はこの作品は写生の詩の範疇で読んだ、と。 そういったことを書きたかったのですけれども、その、私はせっかちですし takoyoさんに対して、わーっと、自分の意見をバーストしてしまう危惧があります。 それは失礼に当たるので、やめにしたいと考えた。 上記、書きましたけれども。 その、運営の片割れであることで、やはり、言えないことが増えました。 そういったことも、takoyoさんはお見通しで、またレス下さって 叱咤激励していただくことは、私にとって、たいへん、ありがたいことであります。 どうなのでしょう?私は逐一、激を入れて批評をすべきかどうか。 ラフに、ラフに、として、書いたのもそうです。 激を入れて批評を展開したのであれば、それは摩擦を生みますし その、時代性を鑑みて、且つ、takoyoさん基準の利便性に合わせるのであれば これは私は回心しなくちゃならないレベルの問題です。 このスレッドをもう一度上げますが 皆さん、本気で、文学でも、ブンガクでも、したいのかなぁ? takoyoさんに限らず、これは聞いてみたいんですね、ほんとに。 takoyoさん、本当にありがとうございます。 本当にですねぇ、参ってしまいますよ。 ほんとうに、私がどうすればいいのか、説いて下さるのはありがたいですし その、先のレスで残念がらせてしまったのならば申し訳ありません。 今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。 でもですねぇ、僕、ブンガク、やっぱりしたいんですよ。
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