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トウモロコシ
僕を畑へといざなう女性の声は若い 彼女はもう還暦を通過しているのに僕より元気だ 「トウモロコシ見に行かない?」とか 「トウモロコシとりに行かない?」とかって ちょっとした体験が未来を変えることを知っているから 暑くて疲れていたけれど僕は彼女について 渡された麦藁帽子をかぶって 初めてトウモロコシのできた畑に行った よれよれの雌蕊の下が太い幹みたいになって そこの緑の皮に包まれて あの黄色いトウモロコシの実がなっていると言う 炎天のもとで彼女は「これなんかはとっていいかな」と言った ボキッと彼女は何か剥がすように実をとった 僕も彼女に倣い同じ要領で実をとった 植物って不思議だな 食物を僕たちに差し出してくるような力を感じる トウモロコシは僕たちに 批評精神のない有無を言わせぬ関心を喚起する 横にではなく空に向かってまっすぐ立つその姿 そして還暦を過ぎた元気な指導者が眩しかった
トウモロコシ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1078.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-08-30
コメント日時 2023-09-03
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
こんにちは。 トウモロコシについての、 「批評精神のない有無を言わせぬ関心を喚起する」 という感想は独創的ですね。 ただ、全体的に改行詩の形をとっていますが、内容はほぼ散文に近いです。 トウモロコシや還暦を過ぎた友人の元気さを、詩として描きたいのであれば、もう少し上記のような独創的な表現を入れたほうが良いように感じました。 またちなみに、植物に「食物を僕たちに差し出してくるような力を感じる 」のは、それが作物として品種改良されたからで、そのへんのことを入れてみても面白いかなとも思いました。
1感想です。 ストレートな現代詩、という印象でしたが、とりこぼすこともあって まず、この話者と女性の関係性が不明瞭なんですね。 それは多分、敢えてというよりは、後述される「トウモロコシ」への言及が 活きるので、敢えて作者は細かく書かなかったのだろうと思いましたが・・・。 まあ何かその敢えて「書かれなかった」ことの方が気にかかる私の歳頃!36歳! そうして、思索はトウモロコシへ向かうのですけれど トウモロコシって考えてみるに不思議で、その、むかないと食べられないじゃないですか。 そうして、まあ、他の動物などもそれは食べると思うんですけれど まるで人間様に食べてもらうが為に、ああいった形になったのではないかと思う。 >そして還暦を過ぎた元気な指導者が眩しかった という、ところからイメージが飛躍して「人間」になったのですけれど 何か、清々しくもあり、不思議な読後感になりました。
1コメントありがとうございます。 散文から詩への昇華や、もともと詩という形に向いているがための詩的表現ということはあり得ますね。今回の私の拙作の場合、散文としては書けないという感じが最初からあって、書き始めたのですが、詩として結晶できたかというとそうでもなく、なんか形式として中途半端になってしまったことは自覚しています。 品種改良や独創的表現をもっと捕まえるには、もっと制作に時間をかけなければならないとも感じました。
0還暦を過ぎたと言うと数えで60歳を超えた人と言うことかと思いました。トウモロコシ畑が印象的ですね。情操教育以上の意味があると思いました。 「ボキッと彼女は何か剥がすように実をとった 僕も彼女に倣い同じ要領で実をとった 植物って不思議だな 食物を僕たちに差し出してくるような力を感じる」 植物の力。差し出してくるような。「不思議だな」と言う感覚。これがあれば人は成長できるでしょう。センスオブワンダー。詩を外から支える力ですね。
1コメントありがとうございます。 今作は、夏のワンシーンをざっくり書いたものです。トウモロコシも、初老に入った女性指導者も、「眩しかった」という結び。この女性指導者の人物像と「僕」との関係については想像におまかせしてもあまり誤ったものにはならないと思います。まあ、直属ではないけれど、遠い上司部下の関係にあるといった感じです。 読後、気持ち良さ、清々しさが残ったならば、それだけで良しです。ありがとうございました。
1※やすなさん、ごめん。ちょー辛口です。異論は認めるっ! *** 《ちょっとした体験が未来を変えることを知っている》そのちょっとした体験が、トウモロコシを《還暦を過ぎた元気な》女性と収穫することであり、収穫されたトウモロコシは《批評精神のない有無を言わせぬ関心を喚起する》。 非常に明快で、分かりやすい文章(コンテンツではなくテクストが)であると思う反面、あまりに叙述に偏っているため、散文形式で書かれなかったことの価値が見出しにくい。作者はもちろんこのテクストを詩として提示したかったのだろうが、その詩を感じさせる部分、特に発見の部分が、叙述によって論理にすり替わってしまっているのが、残念だと思う。 ある詩人は「詩を書こうとするその前段階が最も詩に近く、文字として記述されたそれは詩の抜け殻である」といった。作者にこの作品を書かせようとしたポエジーは確かに存在したのだろうが、そのポエジーはこの記述によって霧散してしまっているように感じる。すなわち、抜け殻、そのものだ。 人物の説明に関しても気になることがある。 《もう還暦を通過しているのに僕より元気だ》《還暦を過ぎた元気な指導者》「還暦」を過ぎていることが、話者より年上である以上の機能を果たしていないこの文の構成で、果たして「還暦」を過ぎていることを二度の表記に渡って強調している視点の持ち方が理解できない。 また《もう還暦を通過しているのに僕より元気だ》 に関しては、「還暦を通過している人物は(話者より)元気ではない』ことが逆転的に描かれていることになる。 この描写にリアリティを感じられないのは、「還暦」を過ぎても元気な人々が現代日本には多数いて多方面に渡り活躍しているということに起因する。とすればこの描写から見出せるのはファンタジーあるいは過去の日本社会の様相だろう。 しかしそういった舞台設定は《批評精神のない有無を言わせぬ関心を喚起》することに寄与してはおらず、その人物との関係性が、話者からの一方通行の情報でしか語られないため、なかなか物語性も帯びにくい中途半端なものとなっている。 内容に関しても《植物って不思議だな/食物を僕たちに差し出してくるような力を感じる》という感興はごく一般的な発見であり、そのことをより強く実感したであろう話者に関して共有される情報や描写が薄いため、やはりごく一般的な発見にとどまってしまい、それはいわゆる認識の自動化をもたらしてしまう。 きっと作者が最も詩を感じていたであろう部分に関して、作者自身がその描写を怠ったために起きたこの自動化は、作品を没個性化させ、かつ些細な語の不備にも目を向けさせてしまう悪循環をもたらす。 詩とはなにか、詩を書くことはどういうことか。 今一度、自らに問いかける反面的なきっかけとなった
1眞島脈博さん、おはようございます。 詳しく読んで下さった上、読みごたえのある批評ありがとうございます。返信はあらためて日曜日に送らせていただきます。よく読ませていただきたいので。過度に厳しいとか、辛口であるという感などはまったくなく、その反対で、このようなまっすぐな批評が書かれるということで、ビーレビの掲示板は生きているなと感じました。私からの返信が長いものになるか短いものになるかは分かりません。ただ少しお待ち下さい。
0コメントありがとうございます。おそらくエイクピアさんは自然に察知されているかと思われますが、「ちょっとした体験が未来を変える」、ここの「体験」という語は、作中に出てくるすべての人や物の動作や状態を感じることという意味で使いました。全体に掛かります。 今作も、私らしく、日記、体験談、観察記録、写生文の混合されたようなものが詩として提示されているように見られるかもしれません。人間というもの、一瞬一瞬、一字一字、次から次へと何かを体験しています。センス・オブ・ワンダーは誰にとっても休むことがないものだと思われます。
0あらためまして、批評ありがとうございました。返信としましては、私の最も書きやすい話し方で書かせていただきます。 実はこの作品『トウモロコシ』を読んだ二人の詩人の方がいて、眞島さんの批評を読む前に、感想とまではいかない短い反応をオンラインによる音声で聞くことができました。一人は、《彼女はもう還暦を通過しているのに僕より元気だ》の箇所の《のに》に疑問か違和感を感じたようで、「のに……、がね」と言い淀んで首を傾げたようでした。 もう一人の詩人の方は、「やすなさんの書き方は僕とは違う」と言いました。これを聞いて私は、この『トウモロコシ』は詩ではないのかもしれないと察知しました。 二人の詩人両者の反応を合わせ思ってみると、ほぼ眞島さんの批評の眼目に重なってくるかと思います。そしてこの眼目は、偶然ではない、詩を読む多くの読者が抱く、明瞭な問題点であるのだと考えられます。 私は自覚として、日本の口語自由詩や現代詩について知らなすぎであるという思いがありながら、どう書こうと詩として提示すればそれは詩になるのだという横暴な考えを持っているのを知っています。触れてきたのはほとんど外国の詩であり、対訳詩集を好み、表現そのものよりは、言わば意味の札がくっ付いた文字列に馴染んできました。たぶん、日本語詩をある意味甘く見ていると思われます。それに、昔は詩には旋律が付いていたと聞きます。私のこの『トウモロコシ』に旋律を付けるのは無理に近いと思われます。なぜなら、指摘されたように、叙述に偏っているために、まるで歌詞の解説のようだからです。でも、叙述がポエジーに満ちるということもあると考えてもいます。抜け殻ならぬ記述というものも詩としてあり得るのではないか。このあたりの事情が、詩とは何かをたやすくは答えられない問いにしていると思います。しかしながら、先に話したように、詩人の人に「やすなさんの書き方は僕とは違う」と言われてしまったので、やはり『トウモロコシ』は詩とは異なるものなのかと考え込む事態になっている次第です。 次に、《彼女はもう還暦を通過しているのに僕より元気だ》、《還暦を過ぎた元気な指導者》という二度の記述の問題です。私としては、この女性指導者が単に年上であることだけを言うのでは不十分であると感じられたこと、また私的な体験に基づく作であることにより、《還暦》の語は入れたかったのです。しかし、二度も書いたことで、詩を、歌を、殺してしまっていることは認めざるを得ません。 また、還暦を越えることで人間が何か弱い者になるかのように受け止められるニュアンスを私の書き方が持っていることも認めざるを得ません。確かに人間は年を取れば弱くなる領域がありますが、反対に強くなる領域もあります。私としてはこの指導者の強さをあらわし、話者の弱さもあらわしたかったのですが、《のに》という接続が誤りであったことは明らかです。その誤りを少し正す表現手法として、作品最後に、トウモロコシの《横にではなく空に向かってまっすぐ立つその姿》と《還暦を過ぎた元気な指導者》とを並置したことが機能していればいいのですが。 上の、エイクピアさんへの返信にも書いたように、この作は、単に《植物って不思議だな》というような月並な発見を伝えたかった文ではなく、ここに書いたことすべてに《体験》という語を掛けています。全部が話者の「発見」です。私の書き方がどこかで焦点を見失ったためか、《植物って不思議だな》という箇所が、言いたかったことであるかのように読めてしまう仕儀に立ち至ったようです。 眞島さんへの返信として書きながら、さまざまに考えさせられることが多かったです。ひとまずはこれで返信とさせていただきます。
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