作品投稿掲示板 - B-REVIEW

眞島脈博


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※やすなさん、ごめん。ちょー辛口です。異論は認めるっ! *** 《ちょっとした体験が未来を変えることを知っている》そのちょっとした体験が、トウモロコシを《還暦を過ぎた元気な》女性と収穫することであり、収穫されたトウモロコシは《批評精神のない有無を言わせぬ関心を喚起する》。 非常に明快で、分かりやすい文章(コンテンツではなくテクストが)であると思う反面、あまりに叙述に偏っているため、散文形式で書かれなかったことの価値が見出しにくい。作者はもちろんこのテクストを詩として提示したかったのだろうが、その詩を感じさせる部分、特に発見の部分が、叙述によって論理にすり替わってしまっているのが、残念だと思う。 ある詩人は「詩を書こうとするその前段階が最も詩に近く、文字として記述されたそれは詩の抜け殻である」といった。作者にこの作品を書かせようとしたポエジーは確かに存在したのだろうが、そのポエジーはこの記述によって霧散してしまっているように感じる。すなわち、抜け殻、そのものだ。 人物の説明に関しても気になることがある。 《もう還暦を通過しているのに僕より元気だ》《還暦を過ぎた元気な指導者》「還暦」を過ぎていることが、話者より年上である以上の機能を果たしていないこの文の構成で、果たして「還暦」を過ぎていることを二度の表記に渡って強調している視点の持ち方が理解できない。 また《もう還暦を通過しているのに僕より元気だ》 に関しては、「還暦を通過している人物は(話者より)元気ではない』ことが逆転的に描かれていることになる。 この描写にリアリティを感じられないのは、「還暦」を過ぎても元気な人々が現代日本には多数いて多方面に渡り活躍しているということに起因する。とすればこの描写から見出せるのはファンタジーあるいは過去の日本社会の様相だろう。 しかしそういった舞台設定は《批評精神のない有無を言わせぬ関心を喚起》することに寄与してはおらず、その人物との関係性が、話者からの一方通行の情報でしか語られないため、なかなか物語性も帯びにくい中途半端なものとなっている。 内容に関しても《植物って不思議だな/食物を僕たちに差し出してくるような力を感じる》という感興はごく一般的な発見であり、そのことをより強く実感したであろう話者に関して共有される情報や描写が薄いため、やはりごく一般的な発見にとどまってしまい、それはいわゆる認識の自動化をもたらしてしまう。 きっと作者が最も詩を感じていたであろう部分に関して、作者自身がその描写を怠ったために起きたこの自動化は、作品を没個性化させ、かつ些細な語の不備にも目を向けさせてしまう悪循環をもたらす。 詩とはなにか、詩を書くことはどういうことか。 今一度、自らに問いかける反面的なきっかけとなった (トウモロコシ)

2023-08-31

ああ、こういう作品、好きだなぁ。 《善意のスコップ》の主張とか《固い》《硬い》とか、《埋めてもらわなくていい》《埋められなくていい》の結局他動詞的な用法だとか、短いからその意図がうまく伝わらなくて、逆に傷になってしまっているところもあるんだけど、やっぱり最後の《嬉しくなるだけでいい》というところに、話者の(あるいは話者との関係がとても近い作者の)面はゆい願いというか祈りを感じられて、素直に「ああ、これは詩だな」と感動することができました。 詩のテクニックというか、文章の修辞なんかは不慣れな感じで、モチーフもよくあるどこかで見たことのあるものだけれど、でも確かにこの文章を書いたのは人間で、ちょっと照れくさそうにもしかすると憮然とした表情で、こういった言葉をここに書かざるを得なかったんだ、と思うと、これらの言葉がとても美しく宝石のように思えてきてしまう。 タイトルが『無題』なのも、これから芽生えていくその地面の固さ(硬さ)を思わせてとってもいい。 「タイトルがない」って意味の無題ではなくて「これから咲いていく花に名前はまだない」みたいな。 忘れかけていた詩に対する大切な気持ちを思い出させてもらったような感覚があります。 僕のこの拙い感想が、どうか尾木さんにとって綿毛でありますように。 次の作品も楽しみにしています。 (無題)

2023-08-26

とりあえず本文よりも浦桐さんへの返詩の方がずっといいのに吹いた ざっと読みで申し訳ないけど、女性の裸を初めて見た童貞がガンギまった目でぐるぐるベッドの前で儀式を始めちゃった、みたいな作品で、BBA受けとか同属性受けしそうねって思った。(他意はない 詳しく読んだ感想はまた。 うん。ポエム力、あげてこーぜ笑 (ブルーエンハンサー)

2023-08-25

ネット詩の良心ことコーr、、、天才詩人2さん 対話を大切にされる姿勢はとても素晴らしいですね(偉そうにすみません ところで、こういった大切な「お知らせ」を作品のスレッド中に投稿してしまうと 流れてしまった時(掲載順位が下がったとき)、伝達に支障が出ませんか? 固定化できればいいのだけれど…… (ビーレビがハッキングされた件について)

2023-08-20

あづささん、返信遅くなりまして申し訳ありません。 過分な評価をいただき、感謝申し上げます 僕も、ちょっとは成長したのか、な…? ●批評対象の批評対象の読解について、について 『私たちもこのロスト・ハイウェイの先を急ぐ』の読解の一助となりましたこと、とても嬉しく思います。 《「闘いつづけることを受け容れる」》に関しての視点、とても興味深く拝読しました。 《「闘いつづけることを受け容れる」》。この繰り返される文言の強さは、自分に向かいながらも、他者にも向かっているところにもあると思います。成長した次のステージへの属意識的な。 これは作品の冒頭にあるような映画から得た感興だけでなく、日々の暮らしの中で(老人介護施設のスタッフとして)被介護者が亡くなった際、その家族が見せる《「またあなたと会いたい」/(…)/似ている人に出会うということは/(…)/似姿を夢見ることだ/(…)/こうやって祈りの手の形をして/懐かしさを形づくる》といった行動から喚起されているようにも感じます。 (《祈りの手の形》とか使い尽くされている陳腐な表現かもしれませんが、僕はこの関係性の中での設置を、とても美しく思いました) 生きることに意味をなんとかみ出そうとする青年が、映画と自分の日常を照らし合わせ、手の届かない概念を思弁的に必死に捉えようとする。その行為にはある種の「懐かしみ」が生じ、一定の読者の支持を受けるでしょう。(ここの読者、とかです) この作品に対してあづささんは「抑揚も凝縮も展開もない平坦な詩」とおっしゃいます。確かに、詩を詩とならしめる「何か」に対して僕も、そこは弱点のようにも感じます。ただ、この作品に込められたことをレイアウトする手法として、この助長さと散漫さは必要なことだったようにも思うのです。 手に触れようとすれば希薄な、でも一生つきまとってくる「幸せ」だとか「愛」だとか。それらを徐々に獲得し、自己の中で濃縮していく、そんな「過程」を生きたわたくしの一連の思考として、隠すことなくあるがままに描いたということで、僕はこの作品を評価します。 ●批評対象への評価について、について うん。僕も大人になりました笑 お返詩に関しては……ごめんなさい (『私たちもこのロスト・ハイウェイの先を急ぐ』におけるCeremony氏の「よい旅」)

2023-08-20

《ふたりは なかよし》と結論するのに、《ふたりは なかよし》である事を証明する描写が一切ないのが面白かったです。 これは文体の力で、一見すると童話や童謡的な雰囲気を醸す中で、その雰囲気を認識と誤解させ最終的に情報のみで落とすという手法が珍しく、フットインザドアと言った詐欺師の手法を思い出します。 (ケンとガク)

2023-08-16

テクニックに関してより、どちらかというと叙述の方向性というか、そういったものに違和感を感じました 僕にとってこの作品は不快感を呼び起こす以外のなにものでもなかった訳ですが、それは既存の社会構造の歪んだ権威構造を考察なく受け入れまたそのことによって人称的な存在を人形的に操作することで二次加害しているように読めてしまったからです。この作品が当該対象のカリカチュアライズであったとしても、安易な「少女」性に依存している部分に批評性を感じることはできず、やはり価値や共感を得ることはできませんでした。 なに言ってるか分かんないですよね、申し訳ない 技術的な部分においていうと、主体と客体の距離感が分かりにくいというのが難点であると思います。それは「僕」と「彼女」の描写にのみ注力しているからで、この作品のドラマは格差から起き得るものなので、同一のもの(オブジェクト)を見た時の描写の違いなどを挿入すれば、より伝わりやすくなるのではないかと思ったりもします 先行する文体を一旦押しとどめ、関係性をより明確にするために、丁寧な描写を入れてみるのも、また面白いかもしれません (氷の少女)

2023-08-16

電車に乗っている様を《ゆりかごに揺られているよう》と発見したことから生まれた作品として読みました。 電車を擬人化して《明日からもよろしく》と語りかける部分には戦友に対する信頼のようなものも感じられて、微笑ましく感じられもしました。 欲を言えば、もう少し《ゆりかごに揺られているよう》であることが、なぜ起きているのか、と言う視点などを持つことにより、あくまで例ではありますが「ゆりかごを揺らす手」の存在や「ゆりかごに眠っている<私>を見ている誰か」と言うように世界を広げていくことも可能だと思いました。(《繋ぐといえば人をも繋ぐ》と言う発見もこの詩に力を与えていると思うので) (電車)

2023-08-16

長崎の鐘広島の鐘擦れ違ひはじめたる夏時計草 こちらを頂きます。 雑感で申し訳ないのですが、短歌という型の有用性に関して、あまり考察をされていらっしゃらないように思われました 短歌も詩である以上、その詩の発生をどこに求めるか、ということが重要になると思います 鷹枕可さんがどういったことに詩を見出されているかは分かりませんが、語りたいことの「叙情」ではなく「情報」が三十一文字を超えるようでしたら、散文を書かれた方が良いのではないかと愚考します。 前衛短歌や破調が何よりも短歌の韻律感を大切にしていたからこそ生まれたと言う歴史を考慮すべきだと、自戒と共にお伝えしたいと思います (短歌:『灰と雨』)

2023-08-16

私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。私が知りたいのはどうふるまうべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのようにふるまい得るかを知りたいのです(アルベール・カミュ) * テクストも宣言もとても素晴らしく思いました。 たくさんの動物の声の中でも、天才詩人2さん(笑)の声がしっかりと響いてくる。 それは新しく目指すビーレビの姿を体現しているようで、まさに詩でした。 たくさんの声を殺さず、そのなかで抽きんでた声を響かせる そんな運営を楽しみにしています。 僕もほんのりお力添えしたく思います (なぜ閧をあげないか本当に自由になると今すぐ誓え)

2023-08-16

色々ツッコミどころ満載なんだけど、気持ちの伝わる演説でした。 組織の頭の役割って、ずっと夢を見続けること、だと思うんだよね。 どんな苦境に陥っても、どんなに失敗してもずっと夢を見続けること。 そしてその夢は具体的じゃなきゃいけない。もしくはその夢を具体化してくれる仲間がいなきゃいけない。 (動画中で具体的に言うと、って言ってたけど、ぜんぜん具体的じゃなかったのはご愛嬌) 子供じみた理想論だけど、それがやっぱり根本だと思うな。 ライティングとメイク頑張ったり、お疲れ様でした。 新しいビーレビ(?)、がんばってね。ほんのりお力添えしたいと思います。 (ビーレビュー運営就任の挨拶)

2023-08-15

返信遅くなりました 寺山の直系でいらっしゃったんですね、それはすごい! 僕は同人誌『極』のメンバーの中では、塚本と春日井を好んで読みます 僕は新風十人の中の佐美雄、佐太郎、史が好きで、自分の歌の系譜としては山中智恵子から水原紫苑、佐藤弓生、大森静佳の流れにあるものと認識しています(ちなみに結社には無所属です) 前述した二人の系統も好きで、春日井からは水原紫苑、堀田季何、黒瀬珂瀾なんかを、塚本の系譜でいえば笹原玉子、西田政史なんかを読みます。これらは中田さんにはあまりおすすめではないかもしれませんね。 村木、お好きなんですね!第二歌集をお持ちだなんて、なんて羨ましい。 僕も第一歌集『天唇』に心酔し、その後の歌なんかもいくつかは辿りましたが、第二歌集が出た時にきちんと買うべきだったと後悔しています 『存在の夏』の評論はそんなに多くを見かけませんが、引かれている歌をみると、落ち着いた観察にしっかり詩性を滲ませて、なにより「わたくし」性に大きく変化が見られるのが特徴ですね 前回、写生のお話をしました。写生はつまらないとおっしゃるのであれば、生活実感の歌はいかがでしょうか?というわけで、吉川宏志をおすすめします。 村木の『天唇』『存在の夏』と吉川の『青蝉』と『夜光』を比較して読むのはかなりスリリングな体験となると思います。いずれも「わたくし」に他者性を取り込むまでの葛藤が描かれています また、これも同じく生活実感になりますが、最近話題の小池光はどうでしょう?『サーベルと燕』は一読の価値ある歌集だと思います。あまり触れられてはいませんが、「家族」というある種本質的なもの(の喪失)に対する身体的なアプローチが、美しい詩として結実していると感じられました。短歌研究も八月号から三ヶ月に渡って小池光特集を組むようですし、小池光を理解するのに良いタイミングかもしれませんね。 生活実感といえば、その元祖たる窪田空穂も一読をおすすめします。『まひる野』は現在無料で読むこともできますし、一回読んでおくのもいいかもしれません(茂吉の『赤光』も無料で読めます) これらとは別に、中田さんの好みに合うのではないかと思われる現代歌人は、藪内亮輔じゃないかとも思います。『海蛇と珊瑚』は岡井隆の作風が息づきすぎて歌壇では賛否両論の嵐を巻き起こしましたが、前衛短歌の種子をしっかり身に宿しながら、現代の詩情を汲み上げた稀有な歌集だと思っています。 あとはアンソロジーですが「はつなつみずうみ分光器」。 多分、というかかなりの確率で、お好みには合わないとは思いますが、2000以降の歌集を瀬戸夏子が一望するというスリリングな構成になっています。僕は瀬戸夏子を信頼のおける論客と感じていますので、かなり面白く読むことが出来ました。大きな書店の詩歌コーナーには大体置いてあると思いますので、お暇な時に立ち読みなんかしてみるのも面白いかもしれません。 こんなところでしょうか?お役にたてたのならば幸いです (輝きは祈りのなか)

2023-07-25

ありがとうございます! ぜひ、僕にも今後絡まないでいただけると助かります! 室町さんがいらっしゃる場において、室町さんから「からまないでくれ」「もうコメントしません」の発言を頂かないとまともに言論展開できないので、まずはこれが前提という悪しきネット詩習慣 笑笑 これらの言葉を導き出すのも大変なんっすよ いただいたところで軽々飛び越えてくる自分ルール大好きな方で参っちまいますが まあ取りあえす、本当にありがとございます! さあて、運営さん。 運営召喚文言が出されましたよー! お忙しいとは思いますが、警告でもなんでもしてください そして「お互いに」これから「関わる」ことを禁じてくださいね! 禁じているくせに、他のコメ欄の文脈において引用してる場合も今は放置しているようですが、それもちゃんと見張っていてくださいね 勧告を出した側にも、もちろん責任は常に付き纏うことお忘れなく ボランティアである苦しみと日常の繁忙は理解いたしますが、人の感情を揺さぶった後に、なんの責任もとらずフォローもしないのは単なるDVですからねー あともう少しで終わりなのですから、頑張って! (輝きは祈りのなか)

2023-07-22

史を読む女のひとり席を立つ やがて始まる戦のために   旅に酔うわれの頭蓋を飛びながら夏を知らせる雲の分裂  わが魂の未明を照らす犀おれば祈りのすべて忘れ去るかな  堤にて吼える仔犬よきょうはまだ月が見えない夜の始まり  上記四首をいただきます。《わが魂》のお歌に関しては《犀》の読解によって価値が変わる歌として、予選的な位置としました 逆選としては  長夢のなかでひとりの母に告ぐ「おまえなんかにわかってたまるか」  をいただきます ◆◆◆ ○史を読む女のひとり席を立つ やがて始まる戦のために  一席として採らせていただきました 《史》は「ふみ」と読み、編纂された歴史を読んでいるという解釈をしました。 些か二次創作的な読みですが、史とは度重なる《戦》の前と後を為政者(権力者)側に近しいものが書き表したものであるというその事実を知って《女》という非征服側に常に置かれていた立場の人間が行動を起こす、そのような解釈ができると思います。 《席を立つ》という行為に象徴がまぶされ、それが参戦するものなのか、それとも忌避するものなのか、あるいは戦を止めんがための行動なのか、それは思い計ることはできませんが、象徴を設置しその行動を明示する手法は神話的な書法ともいえ、塚本邦雄や寺山修司なんかを想起せざるをえません。素晴らしい作品だと思います ○旅に酔うわれの頭蓋を飛びながら夏を知らせる雲の分裂  二席として採らせていただきました。 紀行的な歌は過去にいくつもあるものの、旅という状況のみ提示し(旅という概念を断絶している)、その後作中話者の《酔う》感覚のまま《雲》が分裂していく様を写生することにより、逆に抒情として提示することに成功している、とてもいいお歌だと思いました 特に《われの頭蓋》は《われ》ではあるが、物質的いわば客体として《頭蓋》を提示したことにより、抒情に作中主体自体が寄り添わないことを明示しており、そのことが読者に手渡された時の爽やかさに起因していると思います。 気になったのは結句で、これは《雲》を末尾においた方がよいのではないかと思います。《飛びながら》と用言が先に提示されていますので、末尾用言だと景が混じりやすく、また印象がボケてしまっていると思いました。ここは体言止めの方が効果的だと思います。 他に予選として ○わが魂の未明を照らす犀おれば祈りのすべて忘れ去るかな  ○堤にて吼える仔犬よきょうはまだ月が見えない夜の始まり  の二首を興味深く採らせていただきました。 特に《わが魂》のお歌の《犀》の象徴性に関しては中田さん自体が詩人であることも踏まえるとイヨネスコを想像しないわけには行きません。もちろんこれはコンテクスト読みであり、可能性にしか過ぎないのですが、個人的に深く心に沁みました 《堤にて》はとても綺麗な写生で、ロマンチシズムを強く感じるものの、連作全体の中でこう言った小さな詩を丁寧に歌い上げるお力があるものとして、とても素晴らしく思いました 個人的に、中田さんはこう言った写生が向いてらっしゃる気もして、他にも読ませていただきたくなりました 逆選としては ○長夢のなかでひとりの母に告ぐ「おまえなんかにわかってたまるか」  を採らせていただきました。 これはまんま寺山パロディですよね。笑ってしまったw 素敵な点は《ひとりの母に》だと思います。《母》という存在は通常一人である訳ですが、恩義や縁などによって「母のような存在」というのは得てして人生には存在してしまいがちです。《ひとりの母》はそうした母群の中のひとり、「真実の母」「事実の母」に向けて言っている訳ではない可能性も捨てきれません。 《母》の願う教条的な立ち位置や文言に対する反発する姿勢を「」に括り一喝する興味深い作品だと思うのですが、《告ぐ》といった言葉の選び方がこれから下句をあらかじめ準備してしまい、その部分に関して面白みを感じなかったのが、逆選の理由です 全体を通じて感じたのは寺山、塚本と言った前衛短歌の影響です。社会的不安定さは確かに前衛短歌の黎明に現代は似ているかもしれませんが、そこで語られるモチーフや印象が前衛短歌そのもので若干古臭い価値観を更新せずに使っている点(通例化した言葉と言葉の関係性)が残念でした せっかく現代を生きているのですから、作者の感性で書かれた、現代社会を切り捨てるような短歌をぜひ読んでみたいものです 連作としては二句切れのお歌が多く、同じ技法、同じ修辞が続くと飽きてしまうのが正直なところです。また重複的な語の使い方が重複を武器とせずいささか説明的に働いてしまっているのが残念だと思いました。 昨今の連作の連作性に依拠した作りの作品ではなく、伝統的な連作のありようで、そこには好感を持ちます。 長くなり、また駆け足で書いたために乱文や誤字があると思います。 ご容赦くださいね (輝きは祈りのなか)

2023-07-22

詩論ではなくて詩篇だってば。ほんと読めないね…読む気ないのか。 せっかく文学大学校、行ってもこういう人もいるのね。まあ、僕には関係ないけど あと 「きみの投稿にもいっさいコメントしないようにする」とした『きみ』とは「中田」さんの「この投稿」のことも含まれるんじゃないかな 早速ご自身でおっしゃってたことを健忘されていらっしゃるようなので、ご指摘申し上げます (輝きは祈りのなか)

2023-07-22

作品への純粋な感想は後に回すとして、一応指摘だけ 室町さんは、色々ネットで調べているみたいだけれど、情報の過ちが多い ◆「和歌だけでなく長歌・旋頭歌・仏足石歌それから沖縄の古謡もあわせてここではあえて”短歌”と総称してもいい」 ↓ 逆。和歌と呼ばれるものの中に「長歌」「旋頭歌」「仏足石歌」「短歌」があるのであり、短歌を総称として用いることは不可能 だから中田さんがおっしゃっている《短歌こそが日の本の、本流本元の詩文学だぜ》も明確に間違っているんだけどね。 でもこれは《短歌と和歌は違うものだがその区別もしないきみにあわせて》と枕があるので、まあしょうがないかなとも思う。ご自身でおっしゃっているように《短歌をちゃんと理解できないし読めないし関われない》人が、付け焼き刃としても一生懸命書いたものを笑うことはできないよね。 《関われない》って表明しているのに関わってくるのは、以前室町さんがご自身に関しておっしゃってたことを踏まえれば、《自閉スペクトラム症候群》であり《PTSD》であるその病症の発露であり、かつまた自分で宣言したことをよく忘れる《健忘症》でもあらせられる所以だろうと推察する。病院にこの病症に関しては相談してほしいものだけれど、まあ、ぼく個人がどうすることもできないわな。早い回復を願います ◆《意図的政治的制度的にこの音数律が飛鳥時代に突然出現して貴族たちに強要されている》という一文の《貴族たちに強要されている》のエビデンスはどこにあるのだろう。仏教伝来と仏教政策に絡めて、和歌がこの時代に誕生したことを言っているのか 《諸説あるとしても》としてその諸説に触れずに都合よく自論を展開するのはちょっと乱暴すぎて目も当てられない 和歌の形式は中国から輸入されたという説もあるし、また俗謡から自然発生的に生まれたという説もあるし、また和歌的韻律は文字が持ち込まれたことによって初めて分類されたという説もあるし、現在まだ明確な歴史的な証拠が発見されていない分野に関して、エビデンスを提示できないのであるならば明言しない方がいいと思う 元々の日本の歌謡がアクセントによる韻律を持っていただろうということには納得がいく そも、七世紀に書かれたと言われている難波津の歌は、最古の和歌と言われているが、その時点で漢詩と呼ばれるものとは韻律も音数律も異なっている。当然難波津以前にも歌はあったことが推測されるし、難波津ももちろん記述されたものだから、色々変遷(改変)はあったのだろう言われている。ここらへんに関してはまさに《諸説》あって、書籍も論文もたくさんあって紹介できない、。(飛鳥時代にはまだ音数律は確定されていなかった、ということだけは言っておくけれど)専門家もまだ発見していない事実に関して《短歌をちゃんと理解できないし読めないし関われない》人が、明言できる内容でもないと思う ◆「小野十三郎はじぶんがどうして短歌の形式を嫌いそれを"奴隷の韻律"と呼ぶのか自分ではわからなかった。」 ↓ これは明確に間違っている。小野十三郎読んだことがないんだろうね。彼はなぜ短歌をそう評したか、自分の詩篇の中で明確に語っている。探して読んでご覧よ。そも短歌と和歌を混同している。小野十三郎は和歌批判をしていないよ。和歌批判をしているのは、ってまあ調べればわかるか、これは。 ◆「飛鳥王権の進出によって土着の日本の豪族が片っ端から新王権の制度を強要されたのだからまさに”奴隷の韻律”だよ。」 ↓ 非論理の上に、誤った情報を重ねてこう結論づけるのはもうなんていうか、笑ってしまう こんなとこかしらん 中田さんごめんなさいね、上にも書いたけど作品の評はまた今度書きますね。ではー (輝きは祈りのなか)

2023-07-22

もじゃおさん、聞いてくださってありがとう! 圧と話のポイント……なんだかすごく腑に落ちる。確かにそうですね。ありがとうございます! 抑揚は、正直これでもつけ過ぎたかな、と思ってたのですが、やっぱりあった方がいいのか……。声優読みにはしたくなくて、どちらかと言えば0年代の野田地図だったり、90年代後半のつかっぽさを出したくなってしまってた。あれは身体が台の上にあることを認識することがまず大前提ですものね 室町さんも仰ってましたしね。録音を聴いてもらうという条件において、次回はもっとテクストを立てるように読んでみようと思います。 ミックスに関してはほんと恥ずかしい出来で、てか録音もiphone純正のイヤホンマイクで録ったから音割れちゃって、そこら辺はガチで慣れないとな、と思います 「小さいハコでやる演劇」ぜひ観に行ってください!僕ももう随分と木戸を潜ってないや (からっぽえむ)

2023-07-12

コーリャさん、ありがとう! トルコライスもトルコアイスもうまいよね ゼンメツくんに今度……奢ってもらおう! (からっぽえむ)

2023-07-11

運営が荒らしてんじゃねーよ…トホホ 収まりかけてたの、説明もきちんとせずに煽ったら、さすがにこうなるわな 忙しいのは分かりますが、ユーザーそれぞれが人間で、感情を持ってるんです。それを受け止めて頂きたく思います。 再度申し上げますが、晩節を汚さないようにしてくださいね (からっぽえむ)

2023-07-11

※指摘される前にお断りしておきますが、今回の朗読に使用したテクストは原作を改変、編集したものです このことに関しては作者様のご快諾をいただいております 今回、朗読をさせて頂きましたことに関して、作者であるゼンメツ様に心より感謝申し上げます (からっぽえむ)

2023-07-11

まずもって、お耳汚しな朗読を前向きに評価してくださりありがとうございます。 声に出しての読みは、詩を身体そのもので味わうのにとても適した方法だと愚考します。 情報を脳で理解しつつも、いざ声に出そうとしたその時、身体が拒絶すると言うこともあり、その思考と身体の断絶をいかに埋めていくかという所作は、ある意味批評的にならざるを得ません。 録音という形式上、第四の壁は明確に存在しますし、こうした形式での発表はあるいは適さないのかも知れませんが、お付き合いくださいまして、ありがとうございました リズムに関してはやはり呼吸が関係してくるものと思います。黙読の際も、もちろん呼吸の模倣を行うわけですが、実際に吐かれる息の量、そして肺に残しておく息の量などがありますので、変わってきます(もちろん声量に関しても、です) 今回は、こういったビートを選びこういった発話となりました 2つ目のコメントに関して 澤さんの擁護してくださるお気持ちは嬉しいのですが、煽るような言葉でわざわざ表明する必要があったのか、疑問です(でもお気持ちはすごく分かりますし嬉しいです、あ、重複) こちらのサイトでいくら貶められようと、実生活にはなんの影響もない訳ですし、気楽に行きましょう 情報を伝える言葉の選択を誤られると、今回の対象者と同じように思われてしまいますし、それは本意ではないでしょう ですので、煽りに軽々しく乗るのはおやめくださいね (重ね重ね、お心遣いには感謝しかありません) (からっぽえむ)

2023-07-11

なにをどう書いたらマナーガイダンスに抵触しないか考えたんだけど、結局読む側が受け渡した情報をどれだけ咀嚼できるかって話もあって、なかなか難しいものですね。 まず、初めのコメントに関して 人間存在の源、まで考察してくださって、どうもありがとう。 境界的存在という発想が飛び出してきてとても興味深かった。ラカニアンかしらん? でももう一歩踏み込んだ思考までいくと、もっと楽しいのにって。 例えば、この提示された文章(「」によってまとめられた文章)は、そもそもダイアローグなのか。なぜ「」で囲われているのか。とか 人間存在とその源という、おおきな主語を語って批判するには、その背景と文章の解釈(仮説)が示されないとちょっときついじゃないか、と思うんだ。まあでもめんどくさいし、そこまでやりたくないよね、こんな文章に対してさ。だから、無理して考察してくれなくても大丈夫。気持ちは嬉しかった。ありがとう。 2つ目のコメントに関して 室町さんが指摘されてることが錯綜してて、ご自身も多分よくわかってらっしゃらないのだな、というのが一点。 んで、発生と書かれているけど、これは発声のことよね。 発声に関しては「メソード」と「バローメソッド」それから日本で考えられたいくつかの発声方法に基づいた訓練を受けていました。これでいいかな。(期間とどこで訓練を受けてたかを言うと身バレ&マウントになるかも知れないから、とりあえずナイショね) 「アレキサンダーメソッド」は受けたことないけど、いつかやってみたいな、とは思ってる。 抑揚に関しては発声で制御表現するものだけれど、制御できる人間から言えば演出の発想ね 身体に言葉を通した時に、どう反応して声が出るのか、またメソード的に考えればどこにセンターを移動するのか、それによって変わってくる。 今回はテクストが0年代的だったと感じたので、その当時によく使われていた発声や抑揚の付け方になったみたい。録音も悪いんだけど、室町さんのお気に召さなかったみたいですね。確かに聞き直してみると滑舌だったり唾液の貯め方だったり、力点の移動だったりが出来てない。ブランクは確かにあって、まだまだですね。色々学びになりました。 ポエトリーを本格的にやってる方で、きちんとした発声方法を学んだ方にはお会いしたこと、ほとんど無いな 詩人の朗読って、素人そのまま、人生の負荷しかかかっていない身体で詩を読むことが美徳とされているイメージで、確かに「詩の朗読」は「リーディングアクト」なんかとは別ジャンルだ、みたいなことを思うんだよね。だからそこにそもそも観点を置くこと自体僕はしなくて、屈折した身体から出される声と詩の断絶を楽しんでいたりする。 固定した概念に支配されていると、場を楽しめないからね。勿体無いよね、それって。 ところで、1コメ2コメみた概観なんだけどさ。 年長者はよく大きな主語を使ってマウントを取ろうとするけど、僕らの世代ってそういうのにはそろそろ飽きてきちゃってて、あんまり騙されなくなっていると思うのよね。それを「かっけーな…」って思うのは勝手だけど、推して知るべし、かな。 でも何回も聞いてくれてありがとう 3つ目のコメントに関して あんまりキャンキャン吠えない方がいいと思うよ。雰囲気悪くなる。まあでもそれって室町さんには関係ないか。今後コメントしないようだから解決したということで。めでたしめでたし。 以上、たくさんのご意見を頂きまして、改めて御礼申しあげます お言葉を胸に今後とも研鑽、精進を重ねてまいります。 (からっぽえむ)

2023-07-11

蚤一匹箱のなかにて震へをり始めて智慧の実齧りたるゆゑ こちらを頂きます。 全体的に意欲的な比喩修辞が多く、塚本的宇宙を想像させますが、どちらかというと意味に身を捧げ、韻律あるいは調べといったものを削ぎ落としてしまった感覚がありました。 意味的なものを強く挿入するとどうしても散文性が勝り、破調であることの価値も下がってしまうように思え、となれば代償として差し出されている韻律や調べの価値が相対的に上がっていってしまいます。 短歌のモダニズム、前衛短歌の風を模した手法とも読めますが、それらは韻律の再発見、近代的自我の確立等々を遠巻きにしながら作られていったものです。現代に生きる我々がそれを模した時にどんな価値や軋轢が生まれるのか、それを明確に引き受けていると思われる点が、残念ながらお歌の中にあまり見つけられませんでした それに加え、歌を構成する要素が多く、やはり詩性よりも情報伝達性が強く強調されているように感じられ、そこが残念ながら疵として見えている気がしました。取り上げられた情報に関する主体の感情的な部分(詩として発生している部分)も、その情報量によって薄められてしまっている感覚があります 60年代の澁澤龍彦や、ロシアフォルマリズムに影響をお受けになったと思われる筆致は、非常に興味深く、その表現形式を現代に使っておられる方は少ないと思います。 稀有な作風に加え、今現在SNSで発表されることの多い、短絡的かつ主体をもミーム化していくかのような短歌の筆致に強く対抗するような、意欲的なご自身の作風が確とあり、見据えたい社会的問題や権威性、それを身を持って感じていらっしゃる身体性など様々な魅力的な部分が垣間見えるお歌と思いました。 (短歌研究新人賞落選作「犯行」,)

2023-06-26

構造としてはブコウスキーなんかがよくやる絶え間ない自白なのだけれど、それよりもさらに他者性が薄い。自己撞着が基底にあって、それをイロニーとして提示することで、ってようは自己愛高いポエムってこういうのをいうんだよ、って技術で見せつけられているような、そんな感じを覚えた。 >こんな状況でもなければ冒頭は出来る限り大事にしたい部分だ。 明らかに詩というか読まれるための文章書いてますよワタクシ宣言が冒頭に来ることで「うわー」って思う人と、なんにも感じない人がいるんだろうけど、まあその事をメタに指示する事で、これから始まる私vs私の生活をちょっとした嘘とポップさで甘く飴がけすることに許しを得ている気になっている、ってそこは批判的に見ちゃうな。 徹頭徹尾言い訳で、詩の中でさえも言い訳して、それを饒舌体とよく練られた文体、構成できちんと料理して出せるのはとても興味深い。観念的な理屈なんてくそだ、って言ってる人がいたけど、この作品はそういう意味でとても観念的で、もしかするとくそなんだろうけど、そもそも言葉ってものが観念であることをこの作者はわかっている気がする。 「みなさん」に関する概念の提示は安倍公房みたいで面白かった。この時代に再度そこを発見し、表明し共有することの意味。ネット詩ならではのテーマでそれも撞着として提出できてるのは上手いと思った。 コンテンツの出し惜しみもなく、ネット詩として読むんだったらちょうど良い長さ。褒めたいところは他にもいくつかあるけど、ここのレスにしては書き過ぎな気がするから、やめておきます。 この作者が、他のテーマで書く何かに期待しちゃう、な。 あーあと。近所の公園に金銭感覚のお墓作って、きちんと成仏させた方がいいって、僕も思ったりする (空っぽの詩)

2022-12-22