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小説『恋の罪、至上の愛』
1 彼は、詩人で、いつも最高に知的で、宝石で散りばめたような言葉で私を魅了してくる。今まで付き合ったどんな男もかなわないほど、なんともセクシャルだ。たとえそのしなやかな肉体に触れることなくとも。私はバーで甘くエスコートされ、指を絡ませ、腰に手を回され踊りたいし、その後のベッドも期待している。 それなのにだ。今のところ、出会って三ヶ月、週に二回あっているのだが、彼はベッドの上での秘密の共有、お互いの性器を用いた新たな生命をもたらすかもしれない共謀には誘ってはこない。 私はそう思いながらため息をついている。満たされない性欲に対する期待への度重なるおあずけ、こう言ってよければ優しい裏切りと、これから一時間もすれば、バーのカウンターで二人で並んでいる確実な喜び––––そう、いつも通り私より早くデートの場に現れる彼––––現実の愛する男への期待なのだ。 できれば来月––––八月は私の誕生日で、今は盛夏の七月だ––––性の悦楽を覚えた19歳の夏以来、ずっと、最も性欲が昂る季節までには告白を、できれば彼のとびきりの、今までで最高の言葉で愛の真実を告げて欲しいと思う。 2 そんな私は今デートの前で、駅のトイレに座り生理が来ていないことを確かめ、右手にピルケースを待て遊んでいる。中身はピルつまり経口避妊薬ではない。頭痛薬でも、それを兼ねた生理痛薬でもなく、あまり他人には言いたくない精神安定剤と睡眠薬だ。 彼に会うカフェにはまだ一時間もあるし、大好きな駅ビルの書店で本を物色して、同じく読書が趣味どころか、職業人でもある言葉による表現者と、トークの最高のお供––––私たちが好きなオリーブ以上の夜の始まりの嗜好品として、私にはかなわないだろうけど、何かまだあまり知られていない、精神の知的なスポットに心地の良い詩集でも見つけようと思っているところだ。 心を落ち着けるには、予め私たちにとってデートのとびきりの醍醐味である、詩的な修辞とスノッブに陥らないように絶妙にコントロールされた文学的教養によるパロール––––彼に言わせれば言語コミュニケーションのために、多少戦略的な予習をするか、仕方なしに打算的に合法的(!)なドラッグに頼ろうかと私は悩んでいる。 そう、私は常に薬を、あらゆる薬の中で最も依存性の高い最悪の「ドラッグ」–––それはアルコールよりも私の大嫌いな下品な日本の男の象徴でもある––––私にとって人前でタバコをふかす男は明白の軽蔑の対象だ!––––臭いだけの代物や、ひょっとしたら、確実にイリーガルである––––言っとくけど私は大麻反対論者だ!–––麻薬よりも中毒性のある抗不安剤とベンゾジアゼピンを服用しているのだ。 こうやって言葉を発しているだけで、私はなんともなさけない気持ちなってくる。いつも通り私は精神的に不安定だ。しかし今夜はアルコールを嗜む日、ヤクの作用も副作用も––––どちらも危険なのだが––––増幅させるわけにはいかない。人前でお酒を嗜むのは構わないけど、酔っ払って自分の醜態を晒してはいけないと、あの人に教わったことを忘れるものか! そう!彼は受験勉強くらいしか通過儀礼を体験していない私のメンターのようでもあるのだ。詩の、文学の先生でもあり、人生の導き手、そして精神のトレーナーでもある。単なる色恋を超えた尊敬の対象なのだ。そこらへんのくだらない男たちと一緒にしないでもらいたい。誰にとっても愛する人は特別だろうけど、今の私の最愛の人はそんなありふれたレベルには収まらない人生で格別の存在なのだ。 3 ドイツ文学とフランス文学に挟まれた、私の身長より高い、この書店の文学の領域に前にして私は静かな興奮と、程よい緊張感と、確かな幸福感に囚われている。私は物語と詩の虜だ。ゲーテとプルースト、あるいはノヴァーリスとランボーに両手は掴まれた囚人である。 スマートフォンで時間を確認し、待ち合わせのカフェバーに向かうにはまだ大分時間がある。PrinceとRosie Gainesのデュエット曲 Nothing Compares 2 Uのサックス・ソロの位置まで止めイヤフォンを外した。 iPhoneをジャケットのポケットにしまう時に、あなたには頼らないわ、と心の中でつぶやいた。本との出会いは文字通り一期一会だよ。彼の言葉が私の意識の言葉の領域に浮かんでくる。人間は利便性の良さを確かめるために生きているんじゃないんだ。田舎の高校生がいつも漫画雑誌を買う近所の書店ではなく、休日に一人で都心の大型書店に赴き———我々の現実のロールプレイング・ゲーム———美しい装丁の———書の内容の想像を掻き立てる———ジャン・ジュネの『泥棒日記』を見つけるだろう。これは私———彼は常に自分を「私」と言う———の経験でもあるのだけれどね。彼から語られる美しい青春の名場面は同時に私の文学を知り始めた頃の過去の現実だ。あ、あのね。わ、私。彼はそこで話をやめ、じっと私の目を覗く。私のなかにめずらしい色彩の魚がいるかのように。私はそのお互いにとっての記念碑のタイトルを口にする。ゆっくりと興奮をおさえながら。『泥棒日記』。私も知っています、せ…。彼にたいして先生と呼びそうになって少し慌てる。彼は穏やかに私の目を見つめたままだ。私は続ける。私も知っています。犯罪者のジュネによる同性愛者の物語。それから彼のデビュー作『花のノートルダム』。彼は頷く。この二冊は今でも私の部屋の本棚にあります。ベッドから手を伸ばして時々寝る前に読むともなく読みます。詩集を読むみたいに。 そして彼は口を開く。彼は何と言ったか。それは美と罪の告白の言葉。悲劇の始まりの言葉———囚人たちの服は薔薇と白の縞になっている———。ジュネの言葉は私の愛する男、私の欲望の対象の現存の詩人によって語られた。『泥棒日記』の始まり。それはまず文学的青春の始まりであり、私自身が肉体と精神で体験する現実世界で繰り広げられる文学的体験からもう抜け出せなくなった証でもあった。 ジュネの引用の後、まさしくジュネの後継者たらんとする、アジアの東のはずれで、私たちにとって手頃な言葉、日本語で詩を書き、これから物語を綴らんとする美貌の表現者はこのように語った。読書とは最終的に合理性という名の神を信じない無神論者———作者と、最も理不尽な我儘を口にする権利を持つ読者という個人の間の共謀による喜びなんだ。私たち読者は作者の不合理な情熱に付き合おうとする時、表現者というこの計算高い魔法使いは、凡庸な人間には窺い知れない合理性と理性により支えられた修辞と言葉のトリックで、あるときはペデたちが愛しあう牢獄に読者を案内し、地獄巡りの見学者の心理を、心理!———このthe societyの心理学者は、言葉の共謀共同正犯として、読む者の欲望と感情を操ろうとするその瞬間、自らの書かれたエクリチュールが自分自身を裏切りつつあると気づき始めるだろう。何故ならあらゆる芸術は最高に用心深い、用意周到な批評家をも裏切ろうと企まれているからだ。読書における究極の感動は作者の無意識であり、同時に語り部をも裏切っている。わかるかな?文学が我々の人生における誤配だと。一つ一つの作品との出会いが奇跡なのだと。その文学がもたらす感動と同じようにね。 ここで彼は私の前で指をパチンと捻り———擬態語、現実的で、世俗的であまりに凡庸なパチンと捻り———ギャルソンを呼びメニューを頼んだ。 詩人は私に書物が書店に自ら赴き、足を使って探すものだと伝えるために、これだけの言葉を費やしたのだ。そして人間は簡単には物事を相手に伝えられないことも。 メニューを受け取りながら彼は言った。文学の最高度の可能性とは個人的な感情を、全くの個人のうちにある体験を、個人的な響きを伴う言葉で他者に伝えることなんだ。私がこうしてあなたに自分の記憶を伝え、そして共有したように。言葉の限界に打ちのめされ、そこから言語の可能性を信じること。世界を肯定する不断の努力なんだ。
小説『恋の罪、至上の愛』 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 692.1
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2023-08-10
コメント日時 2023-08-10
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
最高ですね >PrinceとRosie Gainesのデュエット曲 Nothing Compares 2 Uのサックス・ソロの位置まで止めイヤフォンを外した。 からのジュネのくだりからの最期のカタルシス。 >言葉の限界に打ちのめされ、そこから言語の可能性を信じること。世界を肯定する不断の努力なんだ。 めっちゃエモいです。
1ありがとうございます。細心の言葉の注意を払いました。
0小説だけれど、一気に読めました。文体が、格調高くいけるのに、エモーショナルにしたのが一気に読めた要因だと思います。面白かった。
1ありがとうございます。ジュネの『泥棒日記』の冒頭を意識しました。
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