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輝きは祈りのなか
* 旅に酔うわれの頭蓋を飛びながら夏を知らせる雲の分裂 寂しさを指折りかぞえ駅まえの自販機のみに告げる憂愁 苦悩とは愚者の涙か森に立つ告白以前の影法師たち 雨がいう──おまえは隠者 かたわらに水を抱えて眠る仔牛よ わが魂の未明を照らす犀おれば祈りのすべて忘れ去るかな 堤にて吼える仔犬よきょうはまだ月が見えない夜の始まり しめ鯖の腐る真昼よ夏がまたおはようするんだ樹木のなかで 煉瓦焼も眠れる夜よ教会の尖塔に屯する死者がいる 墓地を歩く墓地を歩む われの墓標なきことへの恐怖もあり 夢に棲む だれかがいったさよならがきょうも聞える雨季の終わりは この真昼 この悔恨をもてあますおれの天使をみな撃ち殺せ やがてまたきみの刹那を満たさんとひとり演ずる一幕劇や 闇が舞うマントのなかで急行の新開行きが参ります 史を読む女のひとり席を立つ やがて始まる戦のために ここでまた逢いましょうとはいえはしないぼくの不在を知らしめるため 長夢のなかでひとりの母に告ぐ「おまえなんかにわかってたまるか」 輝きは祈りのなかにあるものとかの女は告げる滴る電話 *
輝きは祈りのなか ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2016.7
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-07-21
コメント日時 2023-08-06
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
うーん、くそ長い。そもそも日本の自由詩って呼ばれるものは翻訳文学から派生したなにかであって”なにか”以上のものではないんだよ。所詮はものまねでしかない。短歌こそが日の本の、本流本元の詩文学だぜ。ツッコミ待ちなのかも知れないけど、”われ”や”とは”なんざ文語の文章読んでりゃ、いくらでも突き当たるっての。それとも文語が解せないのか。あんたは無駄口叩くまえに澤あづさ氏に謝って来いよ。あのひとはわざわざ金払っておれの短篇小説を評価してくれた恩人なんだよ。
0作品への純粋な感想は後に回すとして、一応指摘だけ 室町さんは、色々ネットで調べているみたいだけれど、情報の過ちが多い ◆「和歌だけでなく長歌・旋頭歌・仏足石歌それから沖縄の古謡もあわせてここではあえて”短歌”と総称してもいい」 ↓ 逆。和歌と呼ばれるものの中に「長歌」「旋頭歌」「仏足石歌」「短歌」があるのであり、短歌を総称として用いることは不可能 だから中田さんがおっしゃっている《短歌こそが日の本の、本流本元の詩文学だぜ》も明確に間違っているんだけどね。 でもこれは《短歌と和歌は違うものだがその区別もしないきみにあわせて》と枕があるので、まあしょうがないかなとも思う。ご自身でおっしゃっているように《短歌をちゃんと理解できないし読めないし関われない》人が、付け焼き刃としても一生懸命書いたものを笑うことはできないよね。 《関われない》って表明しているのに関わってくるのは、以前室町さんがご自身に関しておっしゃってたことを踏まえれば、《自閉スペクトラム症候群》であり《PTSD》であるその病症の発露であり、かつまた自分で宣言したことをよく忘れる《健忘症》でもあらせられる所以だろうと推察する。病院にこの病症に関しては相談してほしいものだけれど、まあ、ぼく個人がどうすることもできないわな。早い回復を願います ◆《意図的政治的制度的にこの音数律が飛鳥時代に突然出現して貴族たちに強要されている》という一文の《貴族たちに強要されている》のエビデンスはどこにあるのだろう。仏教伝来と仏教政策に絡めて、和歌がこの時代に誕生したことを言っているのか 《諸説あるとしても》としてその諸説に触れずに都合よく自論を展開するのはちょっと乱暴すぎて目も当てられない 和歌の形式は中国から輸入されたという説もあるし、また俗謡から自然発生的に生まれたという説もあるし、また和歌的韻律は文字が持ち込まれたことによって初めて分類されたという説もあるし、現在まだ明確な歴史的な証拠が発見されていない分野に関して、エビデンスを提示できないのであるならば明言しない方がいいと思う 元々の日本の歌謡がアクセントによる韻律を持っていただろうということには納得がいく そも、七世紀に書かれたと言われている難波津の歌は、最古の和歌と言われているが、その時点で漢詩と呼ばれるものとは韻律も音数律も異なっている。当然難波津以前にも歌はあったことが推測されるし、難波津ももちろん記述されたものだから、色々変遷(改変)はあったのだろう言われている。ここらへんに関してはまさに《諸説》あって、書籍も論文もたくさんあって紹介できない、。(飛鳥時代にはまだ音数律は確定されていなかった、ということだけは言っておくけれど)専門家もまだ発見していない事実に関して《短歌をちゃんと理解できないし読めないし関われない》人が、明言できる内容でもないと思う ◆「小野十三郎はじぶんがどうして短歌の形式を嫌いそれを"奴隷の韻律"と呼ぶのか自分ではわからなかった。」 ↓ これは明確に間違っている。小野十三郎読んだことがないんだろうね。彼はなぜ短歌をそう評したか、自分の詩篇の中で明確に語っている。探して読んでご覧よ。そも短歌と和歌を混同している。小野十三郎は和歌批判をしていないよ。和歌批判をしているのは、ってまあ調べればわかるか、これは。 ◆「飛鳥王権の進出によって土着の日本の豪族が片っ端から新王権の制度を強要されたのだからまさに”奴隷の韻律”だよ。」 ↓ 非論理の上に、誤った情報を重ねてこう結論づけるのはもうなんていうか、笑ってしまう こんなとこかしらん 中田さんごめんなさいね、上にも書いたけど作品の評はまた今度書きますね。ではー
0横から失礼を致します。 短歌の息苦しさと、伝統性。 万葉集原文を読んでおりますと、当然万葉仮名つまり漢字の羅列を読むことになるのでございますが。 此処からは、憶測。 よもや七五調の形式は、大陸の五言絶句と七言絶句を組み合わせたものなのかしら、と。 天皇大陸由来説と併せますと、出来過ぎた帳尻合せとなってしまいますが。 少なくとも、定型を考えることとは、私のなかでは。天皇制の亡霊と膝を突き合わせることなのでございます。 それが君主制への反吐であろうとも、支配者への礼讃(此方は嫌だな)であろうとも。 天皇制は空洞であるがゆえに、いはば張子の虎として機能する(つまり天皇機関説)こけおどしの絶対性を付帯している、と。昭和天皇崩御から三十幾年後かの夏に、考えているのでございます。 誰か、象徴天皇制と護憲九条を至上命題とした、「紫の党」でも立ち上げないかしら、と妄想を逞しく致しております。 話が逸れまして、失礼を致しました。
0部分的に、関係者的なる邪魔くさい存在ですので、出来得る限り客観的に読後感等を。 先ず、多種多様な方向性の読み口にしみいりつつ。 短歌であろうとも、詩であろうとも、独立した作者像が顕ちあがって来ます。つまりは、独自の文体を獲得していらっしゃるということでしょう。 如何に振る舞おうとも、抒情の純粋性がそこかしこに光彩を放っているようにも感ぜられます。これは、得難い美質です。 文語体なのか口語体なのか、に付きましても当世風の口語に崩れ過ぎず、かといって堅苦しい文語体の旧守にも走らず、丁度良い塩梅であると。 夙に気に入りましたのが >苦悩とは愚者の涙か森に立つ告白以前の影法師たち >雨がいう──おまえは隠者 かたわらに水を抱えて眠る仔牛よ >輝きは祈りのなかにあるものとかの女は告げる滴る電話 孰れも、絵画的イメージがくきやかに表現されており、心象の凝縮度に甚く感銘を受けました次第でございます。 贔屓はしていない心算でございます。
2詩論ではなくて詩篇だってば。ほんと読めないね…読む気ないのか。 せっかく文学大学校、行ってもこういう人もいるのね。まあ、僕には関係ないけど あと 「きみの投稿にもいっさいコメントしないようにする」とした『きみ』とは「中田」さんの「この投稿」のことも含まれるんじゃないかな 早速ご自身でおっしゃってたことを健忘されていらっしゃるようなので、ご指摘申し上げます
0史を読む女のひとり席を立つ やがて始まる戦のために 旅に酔うわれの頭蓋を飛びながら夏を知らせる雲の分裂 わが魂の未明を照らす犀おれば祈りのすべて忘れ去るかな 堤にて吼える仔犬よきょうはまだ月が見えない夜の始まり 上記四首をいただきます。《わが魂》のお歌に関しては《犀》の読解によって価値が変わる歌として、予選的な位置としました 逆選としては 長夢のなかでひとりの母に告ぐ「おまえなんかにわかってたまるか」 をいただきます ◆◆◆ ○史を読む女のひとり席を立つ やがて始まる戦のために 一席として採らせていただきました 《史》は「ふみ」と読み、編纂された歴史を読んでいるという解釈をしました。 些か二次創作的な読みですが、史とは度重なる《戦》の前と後を為政者(権力者)側に近しいものが書き表したものであるというその事実を知って《女》という非征服側に常に置かれていた立場の人間が行動を起こす、そのような解釈ができると思います。 《席を立つ》という行為に象徴がまぶされ、それが参戦するものなのか、それとも忌避するものなのか、あるいは戦を止めんがための行動なのか、それは思い計ることはできませんが、象徴を設置しその行動を明示する手法は神話的な書法ともいえ、塚本邦雄や寺山修司なんかを想起せざるをえません。素晴らしい作品だと思います ○旅に酔うわれの頭蓋を飛びながら夏を知らせる雲の分裂 二席として採らせていただきました。 紀行的な歌は過去にいくつもあるものの、旅という状況のみ提示し(旅という概念を断絶している)、その後作中話者の《酔う》感覚のまま《雲》が分裂していく様を写生することにより、逆に抒情として提示することに成功している、とてもいいお歌だと思いました 特に《われの頭蓋》は《われ》ではあるが、物質的いわば客体として《頭蓋》を提示したことにより、抒情に作中主体自体が寄り添わないことを明示しており、そのことが読者に手渡された時の爽やかさに起因していると思います。 気になったのは結句で、これは《雲》を末尾においた方がよいのではないかと思います。《飛びながら》と用言が先に提示されていますので、末尾用言だと景が混じりやすく、また印象がボケてしまっていると思いました。ここは体言止めの方が効果的だと思います。 他に予選として ○わが魂の未明を照らす犀おれば祈りのすべて忘れ去るかな ○堤にて吼える仔犬よきょうはまだ月が見えない夜の始まり の二首を興味深く採らせていただきました。 特に《わが魂》のお歌の《犀》の象徴性に関しては中田さん自体が詩人であることも踏まえるとイヨネスコを想像しないわけには行きません。もちろんこれはコンテクスト読みであり、可能性にしか過ぎないのですが、個人的に深く心に沁みました 《堤にて》はとても綺麗な写生で、ロマンチシズムを強く感じるものの、連作全体の中でこう言った小さな詩を丁寧に歌い上げるお力があるものとして、とても素晴らしく思いました 個人的に、中田さんはこう言った写生が向いてらっしゃる気もして、他にも読ませていただきたくなりました 逆選としては ○長夢のなかでひとりの母に告ぐ「おまえなんかにわかってたまるか」 を採らせていただきました。 これはまんま寺山パロディですよね。笑ってしまったw 素敵な点は《ひとりの母に》だと思います。《母》という存在は通常一人である訳ですが、恩義や縁などによって「母のような存在」というのは得てして人生には存在してしまいがちです。《ひとりの母》はそうした母群の中のひとり、「真実の母」「事実の母」に向けて言っている訳ではない可能性も捨てきれません。 《母》の願う教条的な立ち位置や文言に対する反発する姿勢を「」に括り一喝する興味深い作品だと思うのですが、《告ぐ》といった言葉の選び方がこれから下句をあらかじめ準備してしまい、その部分に関して面白みを感じなかったのが、逆選の理由です 全体を通じて感じたのは寺山、塚本と言った前衛短歌の影響です。社会的不安定さは確かに前衛短歌の黎明に現代は似ているかもしれませんが、そこで語られるモチーフや印象が前衛短歌そのもので若干古臭い価値観を更新せずに使っている点(通例化した言葉と言葉の関係性)が残念でした せっかく現代を生きているのですから、作者の感性で書かれた、現代社会を切り捨てるような短歌をぜひ読んでみたいものです 連作としては二句切れのお歌が多く、同じ技法、同じ修辞が続くと飽きてしまうのが正直なところです。また重複的な語の使い方が重複を武器とせずいささか説明的に働いてしまっているのが残念だと思いました。 昨今の連作の連作性に依拠した作りの作品ではなく、伝統的な連作のありようで、そこには好感を持ちます。 長くなり、また駆け足で書いたために乱文や誤字があると思います。 ご容赦くださいね
0いつもありがとうござます。ではがやはりおなじ歌誌をつくっている関係としてはあまり此所でなれ合いのようなことをするのは不公平なのかともおもいます。ご健在を祈ります。
2わたしの短歌の出所についてみじかく述べます。前衛短歌については若い頃に触発されて現在に至っています。塚本邦雄はあまり深追いしてませんが、寺山修司について熱を上げるあまりに孫弟子(=門下生・森忠明の弟子)になってしまったので、まあ、影響されるのは仕方がないと割り切っています。イヨネスコ?──残念ながら『禿のプリマドンナ』を伊丹十三経由で読んだまでです。詳しくはないです。むかし『新アララギ』で活動していたのですが、どうにも写生一筋のあの流派には馴染めませんでした。わたしはあまり短歌の読解、分析が得意でない。論理めいたものがあって詠んでいるわけではなく、どちらかといえば視覚的な効果を狙ってつくっているからです。前衛短歌、そしてライトヴァースのハシリであった平井弘、村木道彦にも影響を受けました。いまは手元にある、村木の34年ぶりの第2歌集があります。価値観を更新するために必読な本がありましたら、是非教えてくだい。今後のヒントにしたいです。
2ありがとうございます! ぜひ、僕にも今後絡まないでいただけると助かります! 室町さんがいらっしゃる場において、室町さんから「からまないでくれ」「もうコメントしません」の発言を頂かないとまともに言論展開できないので、まずはこれが前提という悪しきネット詩習慣 笑笑 これらの言葉を導き出すのも大変なんっすよ いただいたところで軽々飛び越えてくる自分ルール大好きな方で参っちまいますが まあ取りあえす、本当にありがとございます! さあて、運営さん。 運営召喚文言が出されましたよー! お忙しいとは思いますが、警告でもなんでもしてください そして「お互いに」これから「関わる」ことを禁じてくださいね! 禁じているくせに、他のコメ欄の文脈において引用してる場合も今は放置しているようですが、それもちゃんと見張っていてくださいね 勧告を出した側にも、もちろん責任は常に付き纏うことお忘れなく ボランティアである苦しみと日常の繁忙は理解いたしますが、人の感情を揺さぶった後に、なんの責任もとらずフォローもしないのは単なるDVですからねー あともう少しで終わりなのですから、頑張って!
0お世話になっております。運営の沙一です。 諍いを避けるため、お互いに合意の上で今後は直接関わらないように気をつけていただけたら、それに越したことはありません。 ユーザー間の話し合いによって折り合いをつけていただけたら、運営としても助かります。 というわけで、眞島脈博氏と室町礼氏は、これ以上コメントし合わないようにお願いいたします。
1返信遅くなりました 寺山の直系でいらっしゃったんですね、それはすごい! 僕は同人誌『極』のメンバーの中では、塚本と春日井を好んで読みます 僕は新風十人の中の佐美雄、佐太郎、史が好きで、自分の歌の系譜としては山中智恵子から水原紫苑、佐藤弓生、大森静佳の流れにあるものと認識しています(ちなみに結社には無所属です) 前述した二人の系統も好きで、春日井からは水原紫苑、堀田季何、黒瀬珂瀾なんかを、塚本の系譜でいえば笹原玉子、西田政史なんかを読みます。これらは中田さんにはあまりおすすめではないかもしれませんね。 村木、お好きなんですね!第二歌集をお持ちだなんて、なんて羨ましい。 僕も第一歌集『天唇』に心酔し、その後の歌なんかもいくつかは辿りましたが、第二歌集が出た時にきちんと買うべきだったと後悔しています 『存在の夏』の評論はそんなに多くを見かけませんが、引かれている歌をみると、落ち着いた観察にしっかり詩性を滲ませて、なにより「わたくし」性に大きく変化が見られるのが特徴ですね 前回、写生のお話をしました。写生はつまらないとおっしゃるのであれば、生活実感の歌はいかがでしょうか?というわけで、吉川宏志をおすすめします。 村木の『天唇』『存在の夏』と吉川の『青蝉』と『夜光』を比較して読むのはかなりスリリングな体験となると思います。いずれも「わたくし」に他者性を取り込むまでの葛藤が描かれています また、これも同じく生活実感になりますが、最近話題の小池光はどうでしょう?『サーベルと燕』は一読の価値ある歌集だと思います。あまり触れられてはいませんが、「家族」というある種本質的なもの(の喪失)に対する身体的なアプローチが、美しい詩として結実していると感じられました。短歌研究も八月号から三ヶ月に渡って小池光特集を組むようですし、小池光を理解するのに良いタイミングかもしれませんね。 生活実感といえば、その元祖たる窪田空穂も一読をおすすめします。『まひる野』は現在無料で読むこともできますし、一回読んでおくのもいいかもしれません(茂吉の『赤光』も無料で読めます) これらとは別に、中田さんの好みに合うのではないかと思われる現代歌人は、藪内亮輔じゃないかとも思います。『海蛇と珊瑚』は岡井隆の作風が息づきすぎて歌壇では賛否両論の嵐を巻き起こしましたが、前衛短歌の種子をしっかり身に宿しながら、現代の詩情を汲み上げた稀有な歌集だと思っています。 あとはアンソロジーですが「はつなつみずうみ分光器」。 多分、というかかなりの確率で、お好みには合わないとは思いますが、2000以降の歌集を瀬戸夏子が一望するというスリリングな構成になっています。僕は瀬戸夏子を信頼のおける論客と感じていますので、かなり面白く読むことが出来ました。大きな書店の詩歌コーナーには大体置いてあると思いますので、お暇な時に立ち読みなんかしてみるのも面白いかもしれません。 こんなところでしょうか?お役にたてたのならば幸いです
1ご丁寧な回答、誠にありがとうございます。当面の作歌を中断して、挙げられている作品を読み、勉強しようとおもいます。立ち止まって短歌について考える時間が必要であると感じました。村木の第2歌集は『日本の古本屋』で偶然知りました。値段は¥5,000ちかくで、著者謹呈本でした。われながら運がよかったとしかいいようがありません。 ちなみにわたしは歌集と歌誌をだしています。お時間ありましたら読んでみてください。リンク先に無料の立ち読みデータがあります。全文読めます。 第1歌集「星蝕詠嘆集」 https://www.seichoku.com/item/DS2003458 歌誌「帆(han)」2022 夏 《初号》 https://www.seichoku.com/item/DS2003577 歌誌「帆(han)」2023 春 《第2号》 https://www.seichoku.com/item/DS2005291
2他の方のコメント読まないで、書き込むので、ちょっと失礼かなと思いつつ その、「青春歌集」ですよね。話者っていうか、読み手がね、三島由紀夫の「金閣寺」の 主人公の内面世界?とこれリンクしているし、その、金閣寺文庫本でも金閣寺って小説は 青春小説と「再定義」されておりました。 で、作者にとって青春ってどういう位置づけなのか気になりましたね。 僕の場合は、よくもあり、悪くもあり、いいえ、悪かったかもしれない。 でも、今、歌、詠めるかわからないけれど、詠んだとしてこういうアプローチじゃない と思うんですよね、青春時代から、一周してますけれど。 執着かなぁ。ただ、年を経つごとに、この作家のピュアネスって上昇しているような。 それって、執着、執心でありつつ、いいことなんじゃないでしょうか。
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