作品を読む
完備『trace』嘆賞一例
詩には「やばい」以外に評言の思いつかないような作品が多々ある。この詩『trace』もそのたぐいで、どういう意味でもやばい。つまるところ痴漢被害の消えざる傷痕が語られているように、個人的には思われるが、だとしたらそんなことがなぜこうも美しく書かれてしまったのか。わけがわからない。だいたい心傷の余波ならぬスペクトラム(連続体)などの奇想に、わたしはこれまで対峙したことがあったろうか。 ──────── 可視光がスペクトルであるように、「きみ」と「痴漢」と「知らない人」と「彼」も、スペクトラムにすぎないのかもしれない。今夜きみに抱かれる体は、知らない人に痴漢された過去とも、かつて彼と積み重ねた日々とも連続していて、矛盾できない。痴漢を恐れながら望んでしまうことも。きみに抱かれながら彼を思い続けることも。 だから名を呼ぶ。白から赤や緑を分光するように、きみと痴漢と知らない人と彼を分離しようと企てる。その企ては、波打ち際の砂浜に字を書いては寄る波に消され続けるのと同じほど詮ないことだ。胸に刻んでも刻んでも、押し寄せる記憶のスペクトラムにまぎれてしまって見失ってしまう。きみも彼もわたし自身も、一過性の現象のつらなりにすぎないから。たとえば雨雲からこぼれ落ちた一滴の雨粒、かつて書かれた詩、痴漢の標的、そのように、すでに終わった過去の痕跡を、きみだ彼だわたしだと呼び求めているにすぎないのだから。 ──────── こうして暫定的な感想を適当に書きなぐってみるとよくわかるが、わたしが思うこの詩のやばさは、わたしには説明不可能だ。たとえば「痴漢を恐れながら望んでしまうとはなにごとか」と問われてもそれは、こんなところで軽々と言及できる話題ではないし。またたとえば「すでに終わった過去の痕跡」を胸に刻み続けることの意味などを、わたしが説いてなにになる。この詩ほど美しく書けるわけがないとわかりきっていることを、わざわざ書く意義がどこにある。 そもそも詩とはそういうものだろう。軽々と言及できること、容易に説明のつくことは、軽々と説明すればすむので、詩人も詩に書く甲斐がなかろう。だからこんなやばい詩の推薦文は、「やばい」の一言で終了させてくれ。 ※※※ この推薦文は筆者の自己表現であり、一切の責任を筆者が負う。この推薦文にある問題は、被推薦作品の問題ではなく、その著作者には責任がない。
完備『trace』嘆賞一例 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2955.5
お気に入り数: 0
投票数 : 2
作成日時 2023-05-10
コメント日時 2023-05-22
痴漢行為は犯罪であり、ほとんどの被害者にとっては思い出したくもない出来事であり、その後の人生においてトラウマになる人もたくさんいると思います。 確かにこの詩はその様な出来事であっても刺激的なモチーフとして上手に捌いていると思います。 しかしながらいささか男性目線に過ぎるのかなという杞憂はあります。 大変刺激的なモチーフなので、それが無かったらこの詩の魅力は半減していたかもしれません。 美しい出来事に昇華されることもあるのだなと誤解を生む毒を正しく認識しなければならないと個人的には思います。
2「美しい出来事に昇華されることもある」ではなくて、美しい出来事の一部のように昇華されることもある、でした。 訂正します。
2ご指摘ありがとうございます、身の引き締まる思いです。そのご感想は本稿が誘発したもので、被推薦作品とは無関係と思われますので、ひとえに本稿の落ち度へのご批判と受け止めます旨をご諒承ください。 ちなみにわたしはシス女性で、フェミニストではありませんが、ミソジニストでは断じてありません。痴漢が重大な犯罪であることも、痴漢被害のPTSDが深刻であることも理解しています。被推薦作品『trace』にも、その深刻なPTSDの片鱗(離人感や逃避など)が窺える旨を、文中に明言したつもりでしたが、説明不足がすぎました。 >(痴漢が)美しい出来事の一部のように昇華されることもあるのだなと誤解を生む毒を正しく認識しなければならないと個人的には思います。 その誤解への警鐘は、被推薦作品の作中には含まれていると思います。わたしの認識が甘かったので、本稿では伝達することができませんでした。力が及ばなかったことを自覚し、次作の糧にいたします。 本稿で用いた「やばい」という嘆賞には、読者の誤解を恐れない豪胆な筆致への感嘆も含めていますが、批評が誤解を恐れないのではただの論外。刺激的な話題に言及するなら、あたう限り誠実に説明するべきでしたし、説明できないなら「やばい」の一言で話を終えるべきでした。
2承知致しました。 誠実なお返事ありがとうございました。
2私は痴漢は、置換のことと思いました。私がひねくれてるだけかもしれません。あの作品は最終連にブルーライトが漂っていて美しかったです。
2誠意が伝わり幸甚です。改めて、重要なご指摘をありがとうございました。わたしは批評が批判されない環境を不健全と考えており、また拙評の向上を強く望んでおります。
1コメントありがとうございます。ご提案の「痴漢→置換」で鑑賞を試みたものの、もとよりぶっ刺さってた痴漢の件がきょうさらに深くめりこんだためか、ブルーライトとともに正直よくわかりません。詳述希望。
1いつになるかは分かりませんが、完備さんの『trace』の批評文を書きます。今週の日曜日に書き始めるので、早ければ今週の日曜日に投稿します。
3>そのご感想は本稿が誘発したもので、被推薦作品とは無関係と思われますので、ひとえに本稿の落ち度へのご批判と受け止めます旨をご諒承ください。 批評本文とは関係無い(三浦的にはかなり関係あると思ってる)コメント欄を読んでのことなので、ノーコメントでもいいのですが、一つ質問させてください。先に引用した澤さんが持っていらっしゃる被推薦作品と批評文との関係性についてなんですが、そのポリシー(批評文が批判されるのはいい、けれども被推薦作品を批判するのは的外れだと主張されてること)は以前からお見受けして、なんか違和感があるんですね。ご自身の批評によって被推薦作品が好評になるのは良いとするけれども批判されるのはNGだと。配慮する心情はわかるんですけど、批評による影響(というか、批評って対象作品を波及させる目的って自明の理だと思う)まで言及されるのは覚悟が無い批評だと思います。以前に澤さんがどこかでおっしゃってましたがこういうのって暴力が伴う。それは私も同感、というか、当たり前ですよね。澤さんには覚悟を持って欲しいと思う。その覚悟の無さが批評本文の本質的な欠落。私だったら、批評文へのコメントなどガン無視する。返したい時には返す。誤解するなら勝手に誤解しておけと放置する。わかるやつだけが一人いればいい。100人全てに好評なものなど、駄文でしかない。たった一人の読者の為に書いてみてはどうだろうか。
3すみません、で、質問は、なぜそういうスタンスを取っていらっしゃるのか?ということです。
3おおそれは楽しみです。投票期限を過ぎてしまったのは残念ですが、まあ、たとえばわたしは本稿を、投票期限に間に合わせるため最終日に20分で書きなぐって大失敗しましたからね。この実例を鑑みれば、批評の旬は投票期限を過ぎてからともいえましょう。首を長くしてお待ちしております。
1有益な物議のご提供ありがとうございます。もちろん便乗いたします。 >ご自身の批評によって被推薦作品が好評になるのは良いとするけれども批判されるのはNGだと。配慮する心情はわかるんですけど、批評による影響(というか、批評って対象作品を波及させる目的って自明の理だと思う)まで言及されるのは覚悟が無い批評だと思います。 そうですね、それは理念でなく、場に対する神経質な配慮にすぎません。推薦文を「被推薦作品が好きで書いても、その著者を迷惑をかけてしまう」ような代物に成り下げてしまったら、だれも推薦文を書けなくなるに違いないと杞憂しているだけです。その杞憂を、自分が文責から逃れるための口実にしているふしはわれながら否めず、覚悟がないとのご批判はごもっとも。ただ、 >そのポリシー(批評文が批判されるのはいい、けれども被推薦作品を批判するのは的外れだと主張されてること)は以前からお見受けして、なんか違和感があるんですね。 これはどうでしょうね。推薦文のコメ欄に被推薦作品の陰口を書き込む行為って、わたしからみると、自宅の庭でBBQしてるとこに街宣車が乗り込んできて肉食反対の演説を始めたくらいの違和感があります。つまり的はずれというより、場違いだと思うのです、被推薦作品への批判は被推薦作品のコメ欄で完結してほしい。よそまで出張ってネガキャン展開など、もはや政治的な思想活動としか思えず不快です。 不快なら無視すりゃいいだろとのご指摘はたしかにごもっともですが、「自宅の庭でBBQしてるとこに街宣車が乗り込んできて肉食反対の演説を始めた」のを無視するって妥当なの? ────ここまで書いて考えがまとまりましたが、つまりわたしは縄張り意識が強すぎるのですね。拙作コメ欄を私物と思っているからこういう発想になる、これは再考の余地が十二分にありそうです。 コメント返しについては、奇しくもけさTwitterでつぶやきましたので、抜萃しておきます。 ──────── 実際のところ読解は、ひとりで完遂するのが困難です。せめて合評、できれば討論がないと、誤解を修正できないし持論もかたまりません。憚りの多い投稿サイトにあって、討論の機会ほどありがたいものはありません。 https://twitter.com/adzwsa/status/1656788059046973441 ────────
3返信ありがとうございます。三浦にとっては興味深い内容の返信です。ネット詩(私の定義では現フォ、マイディア、無くなる前のメビ、ビーレビまで。Twitterも現代詩詩人会のネット上での作品応募はネット詩定義に入りません)の空間をどういう場と捉えるかによって人それぞれスタンスも違ってきますよね。ビーレビにはそれを合評の場と定義があるやろ、というのはもちろん認識していて。ネット詩空間の未来を考える観点から意義ある話題に思うのです。 ちなみにですが、三浦はもう作者宛てにコメントを書いているのは2割程度で、ほとんどのコメントは読者向けに書いていて、仮にこの場が合評会であれば、作者に自分の感想を伝えるのではなくて、椅子から立ち上がって合評会の外でコーヒー飲んでる人向けに感想を言うてる感覚です。拡声器使って。 それやってて何が嬉しいかといいますと、まったくビーレビに関係無い、詩にも関心なかった個人的な知り合いが三浦の批評文•コメントを通じて対象作品を読んで面白いというてくれた時ですね。 また、、最後に余計なことを言うてしまいますが、以前に現代詩手帖で活躍されてる大家がビーレビに現れここには批評など無いと言われ去られましたが、三浦からすれば本望です。そんな大家、ネット詩の楽しみわかんないだろうなと。別にその方、ネット詩に居てもいいけども。 なんか、最後に付け加えみたいであれですが、私は完備作品、すべて好みです。
3カジュアルウェアを着て対峙する推薦文では無いと思いました。 いえ、実際はウィンドウの前にいる自分は、だらしない恰好をしているけれど 今日はこの推薦文に対峙する為、二時間、思考したけれども 推薦者と意見を同時にして「ヤバい」にしか、結論が達しなかった。 それじゃ足らないというのなら、もっとする。 他にも何か作品でアプローチできる点はないか、探ってみました。 例えば、音律、語の配置、他の方の評。 さまざま思案したけれど、これは僕の中で、推薦者の提示した評 これを越えるものがなかった。 いや、主観に於いて、多くが、ほとんどが、優れているけれども だから反対に言ってしまえば、優れているものが多いがゆえに「ヤバい」に 辿り着けないのかな、と。 その、リリースされて、数回の通読に於いて、その「ヤバい」に到達でき コメントした方、これは推薦者しかいなかった。 なので、私は反省するに至った。その音律の美しさにとらわれて 書き手の切実さまで届かなかった自分を省みる。 その、詩は多義的である、という先入観によって 大切なものを見落としてしまう可能性があるぞ、と頬をはたかれたようです。
1たった今、身内が亡くなりましたので、批評文は書けません。申し訳ないです。大したことは書けないのですが、とにかく叙情的で知的だよねって、ざっくりまとめるとこんな感じになります。ブルーライトは、スマホの人工光と波打ち際の自然光が対比になっていて美しかったですし、痴漢が置換とは繰り返される「たとえば」のように置換されてるとかそういうことを示したかったです。痴漢は痴漢なのですけど、そこから展開される筆者の筆力に脱帽です。光の三原色についても触れてみたかったです。以上です。申し訳ありません。
2心よりお悔やみ申し上げます。置換とブルーライトの読解、どちらもいかにもわたしが勝手に思っている類さんらしい詩想で感服しました。類さんに詩が必要になったとき、またお会いできますように。
3私見がご参考に足りたのならなによりです。ネット詩の未来という大局について、わたしは物申せる立場にありませんが、どんな形であれビーレビに長く存続してほしいと切望している旨を。この機会にお伝えしておきます。長くネット詩評を趣味として、批評対象の投稿先が消えるという事態を幾多と経験しました。なん度経験しても、あの虚脱感には慣れません。 別の記事で申しました通り、いまビーレビがいかにあるべきかという理念は、サイトオーナーである三浦さんにしか示しようのないことです。サイトの改革によって多くのユーザーを手放す覚悟がいかに重いか、拙評の暴力性ごときも覚悟しきれずにいるわたしにも、想像にかたくはありません。 わたしは利用価値しか考えられない無責任なユーザーで、かつ、あなたの論敵に類する人間ですが、本稿の評言を再利用すれば、敵も味方もスペクトラムです。思うほど対立も、矛盾もしていないはずです。賛同できないと思いながらも応援したいと思っています。以上、マジレス失礼。
1コメントありがとうございます。拙コメ欄にはパジャマでお越しいただいて問題ありません。2時間もの対峙のすえ「やばい」以外の評言を失う領域にいよいよ到達していただけたとのこと、光栄の至りです。20分で書きなぐったことをますます反省しました。 まさにご指摘の、この詩のやばさが多くのレッサーに看過された事実にこそ、そのやばさの本質があると思いますね。痴漢というとんでもなくセンシティヴな語が、どストレートに書かれているにもかかわらず、多くのレッサーがその明白なキーワードを読み飛ばし、わーすてきな詩だなーと感心してしまうなんて奇天烈な事態が、そんじょそこらのコメ欄で起こるとは思えません。この詩が常軌を逸して美しいから、読者が正気を失うのです。もはや幻覚剤ですよ。詩は酒に近いから、極上のはガマの油にも近づくのですよ。 わたしだって初見はすっかり騙された。わーすてきな詩だなーとしか思わず悠長に読み進めてたら「最後に痴漢された日」っては、はァ痴漢????? あわてて戻って熟読したらすてきな初聯、たしかにいかにもPTSDだった。この驚きをわたしや田中さんに与えた時点で早くも、この詩は100点満点中300点ですよ。────なんつうか、きみと痴漢のスペクトラムとかほざくより、こういう与太話を書いたほうがよかったのかもね。 * 念のためお断りしますと、わたしはテクスト至上主義者で、作品評に際し作者の意図を一顧だにしません。したがって本稿は「書き手の切実さ」を一切考慮していませんが、「詩は多義的である、という先入観によって/大切なものを見落としてしまう可能性」は強く強く強く意識しています。 多義的であることとと多角的であることは、わたしの評言では異なる概念でして、ぶっちゃけ多義性のほうには関心がありません。その詩にどれほどの読解可能性があろうと、自分がそのときひとりで読める筋はつねに唯一無二と腹を括り、論点とともに観点をひとつに絞ることを旨としています。 あえてひとつの観点にしか立脚しない読解には、死角もあれば盲点もあります。ご覧のとおり本稿にも、紅茶猫さんにご指摘いただくまで見えなかった死角がありました。このゆえにわたしは合評、できれば討論を切望します。田中さんには別の被推薦作品のコメ欄でも、大いに助けられました、重ねて感謝申し上げます。
1まず、類様に対し、遅れた発言になりましたが、お悔やみ申し上げます。 そして、そのコメントを残された 詩に対する誠実な態度に、何と申したらいいか、、、すみません。 * そして澤あづさ様へ ちょっと安心致しました。 私は、その自分には、批評性がこれ少しはこれはあるだろうと思っていましたが これが、全く信用に足らなくなりました。 といって、今までコメントをつけた作品に対しては、これは誠実、行ってきましたが この作品を通じて、ガラリと変わってしまいました。 ほんとうの所、それに不思議なものを感じて、それをお酒やガマの油に 例えられる気持ちが分かります。アブサン、なんてものもあるでしょう。 その、詩人の眼、批評家の眼、これは違う。 多分、このコメントのやりとりをみても、詩人側からしたらちょっと 「田中恭平、八時間、思考しろ」、と不満があるかも知れない。 しかし、それは勘弁して下さい。 そしてもう一つ安心します。 その「これだけの作品を提出された作者には、もっと期待してしまう気持ち」、情ですね この人間の自然な気持ちを、テキスト至上主義は・・・どうなのでしょう 否定するも、しないもないのかな? だからもっと、伸び伸び書いてもいいし、あの、冒険してもいいわけでしょう。 しかし冒険をすれば、やはり、僕の経験則、これは250点くらいになるのかな、と。 その、澤様としましては 本音のところで、どうなのですか。やっぱり完備さんでも他の詩人さんの方でも バンバン、300点持ってきて欲しいのでしょうか。 すんまへん、意地悪じゃないんですよ。これは与太話の範疇で良いと思いますし 知りたい方も多いと思うのです。
1いや、250点? 完備さん、怒るかな、怒るだろうなぁ。 どういうスタンスで怒るかわからないけれども、すんまへん。 そういう意味で、私はテキスト至上主義には至れないのです。 といって、自分の眼は信用ならないから、今後はこのサイトでは「感想」の範疇にとどめて コメントします。
1ご質問ありがとうございます、テクスト至上主義者です。 「これだけの作品を提出された作者には、もっと期待してしまう気持ち」というのは、たとえば、前作を高評価したので今作は厳しく当たろうとか、この人は先月の大賞を獲ったのだから今月はもういいだろとかの、妥当とはいいがたい低評価につながるたぐいでしょうか。 そういうのもおそらく間違いではないのでしょうが、あくまで選者の発想であって、一評者のすることではないと思っています。すなわちわたしにその感情は(ついでにいえば銓衡の才能も)基本ありません。 * 「300点バンバン持ってきてほしいか」というのは、『trace』のような、一見(←ここ重要)読者の力量を試すかような(←ここも重要)挑戦的な作品の、隆盛を望むかということでしょうか。それについてはきっぱり「狙ってできることじゃないから全員やめておけ」と返答いたします。 美しすぎる詩に酔うも酔わないも、読者の問題ですから、作者には干渉できません(干渉できるとしたらそれは洗脳です)。作者様が『trace』をどういう目的で執筆なさったか、知る由もありませんが、さあ読者を騙してやろうと意気込んで書かれたとは到底思えませんし。 作者の意図など関係なく、魅力的な詩は勝手にこうなるのです。詩人にはぜひ、よけいなことを考えず、ただひたすら魅力を追求していただきたいですね。 * それとは別の、ぜひ追求する価値があると思う挑戦性は、奇しくも同月分の別の推薦文で紹介しました。 ・拙文『蛾兆ボルカ『青い空の下だと銀色の車は青い』読解一例』 https://www.breview.org/keijiban/?id=11050 下記も、わたしが思うには(作者様がたにそんな意図はさらさらなかったと思いますが)めざましく挑戦的な作品です。 ※どちらもコメ欄に好評を得た拙評がありますので、よかったらご参照ください。 ・紅月さん『セパレータ』 https://www.breview.org/keijiban/?id=101 ・ゼンメツさん(無題) https://www.breview.org/keijiban/?id=2010 しかしこういうのの隆盛を望むかと問われると、「わたし個人は自分の読解対象としてそういうのを求めています」としか返答できません。わたしがそれを読解できるとも、そもそも読むとも限らず、責任を取れませんし、ハイリスクローリターンを推奨する覚悟もありませんので。 ここでいうリスクは、読者の理解を得られない可能性ではありません(そんなことを悩む腑抜けの話など、田中さんには不要だと思います)。その姿勢が作品の質に寄与しない、高い蓋然性を危惧しています。 その危惧の仔細は、例文なしには説明できません。無関係な人の作品を悪例としてここに挙げるのは、さすがにルールに抵触するでしょう。ご興味かつ批判に加担するお覚悟があれば(わたしはもちろん批判を恐れませんので)別所で紹介いたします。
1納得しました。 熱いものを感じました。 >作者の意図など関係なく、魅力的な詩は勝手にこうなるのです。詩人にはぜひ、よけいなことを考えず、ただひたすら魅力を追求していただきたいですね。 これは私の言葉ですが、「道理」の極みであります。 私は「情け」も大切にするけれども、それが心にふっと湧くのは仕方ないとして もっと批評性を鍛錬、身に着けなければなりません。 ズドン、と胸を突かれました。清々しいくらいでありますm(__)m!!ありがとうございました。
1どうにもつくづく思いますね。詩は詩人にしか読まれていないと名高く、わたしのようないわゆるレス専は稀少ですが、そのレス専の意見を尊重なさる田中さんのようなかたは、さらに稀少だろうと。経験則から。 たとえばわたしはメビウスリングというサイトでレス専をしていたころ、詩を書けないやつの評は賛否いずれも信用しないと豪語するめっぽう魅力的な書き手に感化され、その人に自分の絶賛を信用させたくて詩作をはじめました。当時その界隈の魅力的な書き手は、多かれ少なかれみんなそんな調子でしたよ。 わたしにはもう詩を書く理由がありませんので、初心に帰った次第ですが、そうした奇特な経緯を持つ元詩人読解家として、田中さんにぜひ進言したいことがあります。詩はコミュニケーションの手段ではありません、人と対峙したいなら人そのものに対峙するべきで、詩評にかまけるのは的はずれです。詩人にとっての詩評は、ご自分の詩作を培う糧であるべきです、田中さんは才能のある詩人ですから当然その例に洩れません。拙文が田中さんの詩作に好影響を及ぼすことができたら、元詩人読解家として、これほど幸せなことはありません。
1それはその、レス専というのはこれは「読者」ですし 反対に、中途半端、詩人の眼を持ってしまったことに対する弊害もひしひし感じています。 あっ、文学の毒?が回っているな、と。 これは、ある程度書いてみないと分からなかったですね。 魅力、魅力ですね、大切なことは書いておかないと。 >詩はコミュニケーションの手段ではありません、人と対峙したいなら人そのものに対峙するべきで、詩評にかまけるのは的はずれです。 今から、 ・拙文『蛾兆ボルカ『青い空の下だと銀色の車は青い』読解一例』 を勉強します。 いえいえ、本当に、こちらこそ、幸せでございます。 それは作品で応えていこうと思います。 意外な展開(; ・`д・´)
1レス専について親密なご擁護ありがとうございます。まさにレス専とは「読者」です、これについては言いたいことが山ほどあるのですが、まあ。詩人の楽園で非詩人の無粋は、ひとまず遠慮しておきましょう。ではお話の続きは別記事にて。
1痴漢された体も彼に抱かれた体も外側から見れば同一体で、そこをどう描くかは書き手の色彩で、でも内側のプリズムは多面体であって、その光の色は多色でも動かし難いと思うんですよね。
1コメントありがとうございます。痴漢被害を語るのに「他人からみれば」という論点を持ち込むのは、二次加害に近いような的はずれにもみえますが、このPTSDには離人感が出やすいので無関係ではありません。この詩はその離人感を、2聯以降のスペクトラム(連続体)の列挙が象徴する通り、理性でみずから否定しているというのが、本稿の書けていない論旨です。 ニュートンのスペクトルでもゲーテの色相環でも、色の順番は決まっており動かせませんが、多色の比喩についての返答は、上で田中恭平さんのコメントに返信した内容で足りるでしょうか。 (再掲ここから) わたしはテクスト至上主義者で、作品評に際し作者の意図を一顧だにしません。したがって本稿は「書き手の切実さ」を一切考慮していませんが、「詩は多義的である、という先入観によって/大切なものを見落としてしまう可能性」は強く強く強く意識しています。 多義的であることとと多角的であることは、わたしの評言では異なる概念でして、ぶっちゃけ多義性のほうには関心がありません。その詩にどれほどの読解可能性があろうと、自分がそのときひとりで読める筋はつねに唯一無二と腹を括り、論点とともに観点をひとつに絞ることを旨としています。 (再掲ここまで)
0外側というのは、例えば、体を鏡に写して物体として見るように見たらという意味です。 痴漢被害がなんでもないという意味ではないです。 そして多色というのは、読みの多様性を指すのではなく、感情のことでした。 痴漢をされて嫌な気持ちも、彼に抱かれて(おそらく)うれしいという気持ちも、それはそれで書き方を変えても、嫌さは嫌さであるでしょうし、うれしさはうれしさとしてあると思います。 痴漢をされて嫌という気持ちが、うれしいという気持ちにはならないという意味です。 それと、僕の読みとしては、この「trace」という作品は痴漢被害の苦しみを訴えることに重点が置かれた作品ではなくて、彼への恋しさの作品だと思います。 彼に触れられることと、痴漢に触れられることの対比。 そこからあふれる「彼」への恋しさではないでしょうか。
1以下、物言いが冷たいかもしれませんが、悪意はありませんのでご寛恕ください。このところ語弊について考えるところが多く、お茶を濁さないよう努めております。 * 「きみ」と「痴漢」と「知らない人」と「彼」のいずれに主眼を置いても、読解は不充分であるというのが、本稿の主張です。これには根拠が(論述できていないので大問題なのだが)ありますので、ご反論はそれを踏まえていただきたく思います。 トビラさんは本稿あるいは筆者の認識のどこがどう悪いと主張なさりたいのでしょう。わたしは拙文の向上を切望しておりますので、本稿へのご意見は賛否ともありがたく賜ります。しかし『trace』のご感想は、『trace』のコメ欄かご自分の推薦文に書かれるのが、やはり適切なのではないでしょうか。
0『trace』に対しての感想は作品の方に書きました。 それと、論述されていないことに反論するのはちょっと難しいですね。 別に澤さんの評が良いとか悪いとか、そういうことが言いたいわけではないです。 澤さんの評を読み思ったことを書いたまでです。 ただあえて言うなら、主眼を置くなら作中話者ではないでしょうか。 数学には詳しくないのですが、traceというのが主体角成文の総和であるなら。
1そのご感想が本稿の内容を踏まえているとは、本稿の筆者であるわたしには思えないのですよね。上のコメントでは「主眼を置く」の意味が曲解されていますが、そのような点からしても、筆者への誠意が感じられません。より率直に申しますと、なめられているとしか思えず、返答に困っている次第です。 たしかに本稿はなめられる程度の代物です。そんなものを20分で書きなぐって投げたわたしがもちろん悪い。
0数学も物理もあまり勉強しなかったため、traceや連続体などの概念もほとんど理解していないです。詩を読みましたが、澤さんの読解が非常にヒントになりました。明らかに、この批評文とコメント群を読んだあと、完備さんの「trace」の見え方が変わりました。というのは、意識の連続が見えたのです。人間の(自己)意識はいつも孤独であり、身体を通じてつながることができる、ということ。愛することが、一「体」化への欲求であるということを、知人とのメールのやりとりで教えていただいたばかりです。ですから、意識の孤独は、身体を介することで愛される、そして愛する人というのは、やはり意識の中に登場する人であるということ。憎らしい人間が意識の中で愛されるわけはない。命の遣り取りをする戦争が憎しみを生むのも、体を通してです。だから、この「trace」は愛、愛の意識の詩に他ならないように読めました。僕の知人に教えてもらった、世界観の表れている詩だと思いました。客観的に捉えられた自己、の表現、がある、そして、痴漢を通じて自己の危機に直面したことの話だと思います。ひかり、と君と私、美しい愛の世界と言葉ですね。僕にはとてもまぶしい。
1コメントありがとうございます。本稿は投票投稿のための書きなぐりでして、できが非常に悪いのですが、連続体という概念が黒髪さんの鑑賞に一助を添えたのなら光栄です。 仏教において愛は煩悩、すなわち凡夫を一切皆苦の穢土に留まらせる力にほかなりますまい、愛着を去れば生きる理由もなくなるわけですから。現実的にみても愛着は大きな問題を内包していますが、それを美しいと感じる心があるから、われわれは生きていられるのでしょう。
1おはようございます。 トビラ様が、男性であるか女性であるか、又は男性・女性の中性であるのか 又はわからないのか、ここでは問わないけれども 私の視点としても「そういう風に捉えたかった」という側面がありました。 しかし私は男性で、典型的な今では揶揄されるストレート、ヘテロ つまり性はバリエイションである、これがなかなか頭ではわかっても 体や心の方で納得しないし、できないから、考えつづけているのだけれども。 踏み込めば、 その、この論では、詩のストーリーをこう読みたい、こういう視点で読むという 自由は、その「やばい」の語で、これ、要は筆を置かれた、ということで 反対に担保する、そういう見方もできるだろうと。 自分語りですが、私は男性ですが、痴漢をされたことが、あります。
1で、手前勝手な自分語りを。こういう自分語りを許すという意味でビーレビしか無いので。 その、「赤毛のアン」これを読みました。二度の通読ですが、いや、これが松本郁子氏の 訳で。 それで、私はマシュー・カスパートなのだな、と思った。 その、考え事に煮詰まったときは、妻に不道徳だと思われつつ 煙草を吸うところなんかは。 そして、妻が、私の妻がアンになるのだなと。 蛇足。それで、六月で桜が咲く、煙草を吸うというところで、稲垣足穂がこれ つかめた。わかったとは言わないです。ちょっとつかめた。 それで、性のバリエイションという問題を突くと、これは「赤毛のアン」が 非常にわかりやすいテキストであったから、その、読んで欲しいと思った次第で。 で、視差、作品に対する視差というものを考えたときに その、読者はこう読みたいという心の動きはあるだろうと。 私が「赤毛のアン」にマシュー・カスパートを見出して 最後まで、それは譲らなかった。 だから、たといその「痴漢」という語にひっかかって 私のようなマシュー・カスパートは、困惑するわけです。 それは、アンの魔法にかかるだろうと。 そして、その魔法に対しても、受け入れる気持ちと拒否したい気持ちはあるだろうと。 ともかく、最近は女性の時代になってきたけれども、そうすっと 私や、たといマシュー・カスパートに弟がいたとして これは非常に重要な宿題であったと。 ただ、ともかく私は結論を急いてしまって反省しているので スタンスとして早急な結論を避ける、意味でも一旦この スレッドを挙げておこうと。 キー:赤毛のアン
1コメントありがとうございます。まず私見を強調しますが、被推薦作品『trace』の作中に、語り手を女性と断定できる客観的な根拠はありません。その理由のひとつには、田中さんのおっしゃる通り、痴漢の標的がシス女性とは限らないこともあります。 根拠がないのにこの語り手を女性と断ずる読解の背景には、その読者が縛されているジェンダーロールがあるはずです。これについては別の推薦文で扱ったので(そしてこのことは、田中さんがマシューにお持ちのご感想とも無関係ではないと思うので)以下に自著から引用します。 ──────── ●拙文「ゼンメツ『飛べない』読解一例」より (前略)なにせこの作中には、語り手の性別を確定しうるような情報が、よくよく見ればひとつもないのだ。それを無理やり想定する必要も、よくよく考えればまったくないのだった。 にもかかわらずわたしが、語り手の性別を決定したい、語り手の性別が宙吊りのままではその立場を読解できないなどと考えるのは、おそらく自他が未分化だから。他者の身体を自身の延長物のようにしか認められていないから、自分が沿うジェンダーロールの型に他者まではめたがる。それはわたしがジェンダーに縛られ、依存していることの証左でもあろう。 https://www.breview.org/keijiban/?id=10356#head ──────── これを踏まえてわたしが主張したいのは、今回被推薦作品『trace』の文中から語り手の心情を汲み取ろうとする企ては、どうやっても下衆の勘繰りにしかならないということです。女性は別れた恋人への未練を引きずると思い込んでいる人は、痴漢被害を無視して恋バナばかり詮索するでしょう。逆に女性は別れた恋人をすぐ忘れると思い込んでいる人は、「彼」を語り手の元カレとみなさないかもしれません。 そうした感想には議論の余地も、討論の価値もありません。田中さんのおっしゃる通り、読者自身の内心を語り手に投影しているだけで、根拠も再現性もないからです。トビラさんの感想文をわたしが承りかねた理由は以上です。ああした下品で無責任な勘繰りには、関与したくないのですが、乗りかかった船ですので今回は言及しました。 * ところでわたしのあこがれの読詩人たる赤毛のアンですが、昨年末書いた好評の批評でも扱いましたので、ご関心があればご覧ください。 ●拙文『異化、漱石『夢十夜』第一夜より』内「異化すなわち赤毛のアン」 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-57.html#ANNE
1整理されてきました。 その実際生活していると、自分が非常にオーソドキシーといいますか 要は「普通」だと思いこんでいたことが そのインターネットなり、文学体験を通じて、変わってしまうことがある。 その魔法なり、それをええと、吉本隆明さんは「文学にも毒はありますよ」 と言ったけれども、アンの魔法にね、「薬」を見出しても良いのだし また、マシューのスタンスで驚嘆しつつ、「それは何かがわからないのだけれど」 見守ってみる、というのもアリなのかな。 しかし改めて、完備様も澤様も非常に「詩人たる赤毛のアン」されていますね(笑)。
1>しかし改めて、完備様も澤様も非常に「詩人たる赤毛のアン」されていますね(笑)。 あっ。つかめた。だからマシューはこういうこと言わない(笑)。書かない。 むつかしい・・・。
1誤解があるようですので附記します。上の「そうした感想には議論の余地も、討論の価値もありません。」というのは、わたしにその感想を押しつけないでくださいという意味です。本稿の主張もまた表現の自由の範疇にあり、議論の余地がありませんので。 男性が痴漢被害を軽視してしまうのはしかたない、女性は自身の痴漢被害より別れた恋人への未練を重視するべきである、わたしがそうした気持ち悪い偏見に賛同しないことは、本稿を読めばわかるはずです。にもかかわらずその迷惑な偏見をここに書き込み、無用な対立を煽ることに、なんの意義があるのでしょう。 以前そのような感想を客観的に「ハラスメント」と指摘した際、とんでもない難癖で粘着されたので、あえて主観的に「気持ち悪い迷惑な煽り」と、今回に限り表現しておきます。(当然ルールに抵触するでしょうから、以後は慎みます。)
1非常にむつかしい。ちょっとヘルプポーズをとりつつ。 その、女性性というものがある、赤毛のアンがいる、それは凄まじいエネルギーを 持っており、しかし人間というのは、性のバリエイションを超えて 各々、エネルギーを秘めており、それを詩なり表現なりにして 発露するわけだとして。 たとい、ちょっと前に読んだTwitterのコメントで 大学の教授が 「お前はボードレールしないのか?」というこれ、ハラスメントがあったらしいと。 ただ、その、痴漢されたことがある、ストレートとしては、絶対言わない。 こんなことは。 ただ、その女性の仕事、ワークを讃えたいときに、その「凄い!」でいいのだけれど 「やばい!」で筆を置く、その「清さ」がこの批評文が提出された「本丸」でないかと。 私は難癖とかでなく、ぱっと放った言葉が、あとから読んで ああ、不味かったと、反省していますが。 ですから、これは「凄いワークです!」で清く、去り、「考えつづけること」が 私の答えであります。
1うん。今自分の中で納得できました。
1本稿が誘発する話題は非常にセンシティヴで、ビーレビに適さないと判断しましたので、この記事での返信はこれで終了いたします。田中さんをはじめ心あるかたとは、別所で個人的な交流を続けられたら幸甚です。 ●以下、置き土産の余談。 わたしは父を保険金目当ての自殺で失った経験から、現今日本でジェンダーロールに苦しめられているのは、むしろ男性だと思っていますが。多くの男性を実際に苦しめている男性性という幻想の、対照として捏造された虚妄が女性性だと実感しており、ほとんど信用していません。 たとえば赤毛のアンには、アン以外の女性がたくさん出てきますよね。マリラもダイアナもアンのような女性ではない、アンのような女の子はほかにいないというのが作品の重要な前提であるのに、そのアンを女性性の象徴のように捉えてしまうのは錯誤です。ジェンダーロールに導かれた錯誤です。 で、痴漢常習の多くは精神疾患ですが、その大きな病因にもジェンダーロールがあるわけです。前述の通りビーレビはこうした話題に適さないので、ここでこれ以上は述べません。
1