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わたしはあなた/ぼくのきみ
伊織は、それを名指すことができなかった。支配欲、性欲、孤独を和らげるための何か。どれも当たり、そのどれも外れている。いつもストーブの前に陣取って朝を過ごした記憶。妹はそれを見て、ズルい、と言った。妹——楽器をプウプウ吹いていたばかりのその子とは、もう数年会っていない。両親は、お前が烏賊なら食いごろだ、とストーブ前から動かない自分達の子どもを見て揶揄した。しかし、子からは、うんともすんとも返ってこない。そして、その子は、ストーブの前から、少しも動かなかった。両親は次第に飽きて、何も言わなくなった。伊織には、意志があった。自分という像があり、それを維持するために、己を律することができた。そうむずかしいことでもなかった。ただ、自分の心地よく感じるように振る舞えば、それがそのまま正しいことだった。伊織は、強く正しい子どもだった。勉強にも運動にも、何にも困らなかった。度々の家の雨漏りには気が滅入ったが、雨音自体は好きだったから、それほど気にやまなかった。物事は大抵、伊織の思うように動いた。それは伊織がいつも正しかった証左だった。しかし、その胸の内には、欲望がなかった。同時に悩みもなかった。では、若い伊織の頭の中には何があったか。そこには、たったひとつきりだが、確固とした概念があった。伊織はそれを瞼の裏に思い浮かべると、満たされた。知らない世界に飛びたつような心地さえした。それが、一般に何と呼ばれるのかわからない。 私には、分からない。 イヅミはそればかりだった。 分からないのよ。イヅミは言う。それはイヅミの口癖だった。好きな食べ物、音楽、色。ああ、本だけは言えた。『限りなく透明に近いブルー』。イヅミ自体が、限りなく透明に近い何かだった。無味無臭。伊織はイヅミをそう評した。限りなく透明に近いブルーって、結局何色のことなんだろう。伊織が聞くと、イヅミは、わからない、と答えた。わからないだろうな、君には。伊織がそう口にすると、イヅミは、唇を一瞬だけ歪めるのだった。まるで、どこかが痛むみたいに。 「どこか痛い?」 伊織に聞いても返事はなかった。イヅミは仕方なく、ひとりでコンビニへ行き、ヨーグルトといちごジャムを買った。帰り道には猫を見て、ああ、伊織に似ていると思った。 もう昼の一時を過ぎていた。パンを食べる時間でもない。伊織が起きれば昼を食べに行くのだから。仕方なく、ヨーグルトにいちごジャムを加えて食べた。味気なかった。自分には、味なんてわからないから、良い。イヅミはそう思ったが、伊織がいつまでも狭いベッドから動かずに半日を潰してしまったことには苛ついていた。ときどき、感情が迫ってくる。足音もなく、しかしこちらをぐっと掴むそれをイヅミは嫌っていた。感情なんてなくなればいい。イヅミはしばしばそう思った。しかしそれを口にはしなかった。それが正しい主張か、そして、それを主張するのが正しいのか、わからないからだ。 「イヅミ、ここの文変じゃないかな」 伊織の手から、プリントを受け取り、灰色の蛍光ペンで線の引かれた箇所の英文に目を通す。問題はなかった。 「和訳は出来ても英語を話せないんじゃ、宝の持ち腐れじゃない」 イヅミは、それでもいい、と言った。珍しく、はっきりと。「別にこうやって伊織にする以外に使う場所ないし」。「あ、そう」。伊織は呆れたように言った。イヅミに意志があればね。伊織はいつもそう思う。 自由意志について論じなさいという小論文の添削をイヅミはしていた。イヅミの所属する教室はオレンジと白を基調とした明るいイメージだった。志望校絶対合格! だなんて紙があちこちに貼られている。 自由意志について、高校三年生の書いた小論文は、残念としか言いようがなかった。まあ、まだ夏だから。イヅミは生徒にも自分にもそう言い聞かせた。でもさ、自由意志について、そもそもあなたはどう思っているの? それはあるの、ないの? 生徒はにっこりした後、黙ってしまった。その瞬間、サッと血が上り、そうしてそれはイヅミの中から去っていった。血は満ち引きを繰り返す。波のように。 イヅミも、何度か、伊織に好きだと告げた事があった。へえ、そうなの。と返されたきりで、イヅミはそれ以上は踏み込まなかった。自分と伊織には、二人にしか分からないことがあって、伊織は自分からは逃げないし、逃げたとて、きっと帰ってくる。それはイヅミの人生における唯一の確信だった。イヅミは伊織のいうことを聞いているのが気楽だった。たまに自分で何かの正しさについて考えると、頭が痺れた。頭が痺れる感覚は、きもちがわるいから、イヅミはいつも伊織に託した。伊織本人にそれを馬鹿にされても、何とも思わなかった。一心同体ってやつ。そう解釈していた。この一体感は、親とも、友人とも味わったことがない。 とは言え、イヅミには友人がちゃんといた。上面だけの仲の良さではなく、もっと本質的な会話のできる友人たち。みんなとてもかしこくて、でも、何も言い切れない、煮え切らないイヅミのことを馬鹿にしたりしなかった。イヅミが一度、伊織とのことを話すと、皆笑った。イヅミの作り話だと思ったのだ。だが、それは何一ついつわりのない話だった。切れかかった電灯の下でべたべたくっついて歩いていたら、伊織に、二人の関係を弁えるように言われたこと。その後に、イヅミが謝ったら、今のは自分に言い聞かせた、と伊織は言った。伊織がカラオケでスナックごっこをしたがることも、伊織の身体の隅々までイヅミがミントの石鹸で洗っていることも。どこにも嘘はなかった。それはイヅミだけの、真実だった。 「ロミオとジュリエットみたいだった」 伊織はドアを開けて、開口一番にそう言った。イヅミは笑って聞いていた。雨の降る中、伊織が視線を感じて見上げたアパートの五階。イヅミがそこの窓から顔を出して、伊織を見つめていた。「ロミオとジュリエット……」。イヅミはすこし黙り込んだ後、その自己陶酔に笑ってしまった。笑って、そのあと少し泣いた。陳腐な例えをする伊織が愛おしかった。 やはり伊織はよく眠った。左耳に黒子があって、それがピアスのようでどうしようもなくかわいらしかった。伊織、伊織……。それは、イヅミ以外には聞かれないささやきだった。イヅミはそのささやきを何年もやった。とても長い時間、伊織が起きるのを待ち続けた。 ささやくような音。血が満ち、そして引いていった。伊織は、また夕方の夜まで寝汚く寝過ごして、イヅミを待たせ、その癖、喫茶店ではカレーライスを頼み、お冷のグラスが壁に映った青い影を楽しんでいた。しかし、イヅミが何も言わないことに気づいたときには、イヅミはもうぽろぽろ泣いていた。イヅミは笑おうと努めたが、それに何度も失敗した。伊織は、泣いて良いんだよ、と思わず口にした。そうしてイヅミは激しく声を上げて泣く。のではなく、静かに涙を拭き、口を真一文字に結んで、さようなら、と言った。さようなら? 伊織は言った。 「伊織、昨日は私の誕生日だったの。いつか言おうと思っていた。でもそんなものはどうでもいいと、伊織は言うだろうと思って、言えなかった。伊織、あなたは素敵よ。でも、あなたは誰も愛せない。伊織、ならばあなたは誰からも、心からは、愛されることがない。私はあなたを好きだったし、愛していた。ねえ、伊織、このままでは、あなたは真に生きることも死ぬこともできない。……ここ、私が払うね。じゃあ、さようなら」 「イヅミ、みっともないよ。どうせ戻ってくるのに。こんな人前で、それもあてつけるように」 「戻らない、さようなら」 「……気が済んだら、連絡して」 「さようなら」 イヅミが去ったあと、伊織はしばらくブルーのグラスを傾けてみたが、もう壁には何も映らなかった。ポタ、と雨垂れがして、伊織は天井を見た。雨垂れだよ、イヅミ。イヅミが身体をあらってくれなくては、僕はびしょぬれのままになるじゃないか。伊織は、自分の意志というものや、自己を律する心が激しく揺れ動く気持ちの悪さを生まれて初めて感じ、それを耐え難く感じた。
わたしはあなた/ぼくのきみ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1416.3
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2023-04-09
コメント日時 2023-04-26
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
前半中盤までまったく隙の無い文章 もしかしたらこの人ゼンメツさんなのかもしれないと思ったら 違ってた 過去の作品で彼が結構称賛のコメント入れてた 俺の判断的にはゼンメツさんよりも上手い感じ (・・・うーんどうかな ちょっとこの判断は保留しとこ) 商業的にも耐えうる文章だと思った 最後、終わらせ方が緩い感じがしたが今月のお題ではないが卵みたいな 作品、満ちて生まれるみたいな 王下七武海
0コメントありがとうございます。一度書いたら、送信できずにネット界の藻屑となりました。 中盤以降は完全に集中力が切れて、ゆるゆるでした。そこをご指摘いただけたのがありがたいです。最初から最後まで一気に書き終えるやり方の限界ですね。推敲も苦手でしないままになりがちなので、そこは改善したいです。ありがとうございました。
0伊織とイヅミが、相互いに透過しているような印象を受けました。これは僕の読解の力のなさなのかもしれないけれど、短編小説として読んだので、そうなるとある程度の手掛かりが必要に感じます。これを一編の詩、として読む。というのでも良いのかもしれないけれど、それでも(詩なら詩と)ある程度の手掛かりは担保しておいて欲しかったなと思います。
0『透明感』これで作品の魅力は言い尽くせると思う。何を描いているのかを、読み取ろうとするのは少し違う気もしてきました。追記です。
0>短編小説として読んだので、そうなるとある程度の手掛かりが必要に感じます。これを一編の詩、として読む。というのでも良いのかもしれないけれど、それでも(詩なら詩と)ある程度の手掛かりは担保しておいて欲しかったなと思います。 二件もコメントありがとうございます。こちらのコメントが的確でした。読み手のことが頭からすっぽぬけてる節があるので、次回以降に活かします!
0すみません。私の幻聴と比較するのは失礼だと思うのですが伊織とイヅミの関係が私の中で心当たりがあって詩を拝見させて頂きました。平凡な言い方ですが素晴らしい詩だと思います。
0この作品は、この短さでは追求するべきではないテーマを書いてしまっているような気がしてなりません。
0ありがとうございます。
0コメントありがとうございます。その通りだと思います。もっとテーマに誠実に向き合うべきでした。
0内容的には非常に面白いのですが、だからもったいないのです。 えっ、本気で書くならば、これは短編小説、紙媒体とかじゃないでしょうか。 今後のご活躍をお祈りいたします。
0ありがとうございます。 > 本気で書くならば、これは短編小説、紙媒体とかじゃないでしょうか。 わたしもそう思います。気力が充填されたら、短編にするつもりです。コメントうれしかったです。ありがとうございます!
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