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さえずり
朝の光が差し込む 少し埃っぽい乾いた小部屋で 囁くように歌ってくれ 昨日巣から落ちたひな鳥のこと 雑草の中に咲いた花の名のこと 誰かと生きることと愛すること 腹が空いたら街に下りて 安っぽくてうまい屋台で 飢えに見合うだけ食べて 物静かな指先が細工した 小さな金の指輪を買って 鎖を通して首に掛けよう 朝の光を浴びて 美しい神の色に染まる小部屋で もはや夢も現も境はない 節くれだった大きな手に包まれる このか細い朝の光を 傷付けないように温めてやって欲しい
さえずり ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 888.2
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2022-10-28
コメント日時 2022-11-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
きらめくような『幸せ』の表現をとても美しく感じました。ささやかな、けれど確かに愛おしいものたちへの眼差しが暖かく、とても素敵な作品だと思います。
0日々の中のなにげない幸せの瞬間、のようなものが とらえられていて、心惹かれました。 「昨日巣から落ちたひな鳥のこと 雑草の中に咲いた花の名のこと 誰かと生きることと愛すること」 という2連目は、まるで「さえずり」のように響きました。 温かみを感じる最終連も、とても素敵だと思いました。
0暖かいものを書く時は、その影も書かなければ深さが表現できない、 というのはなんとなくぼんやりと感じている作法のようなもので。 この作品はそれがないので、ちょっと不自然な感じが作者にはします。 でも、そういった影がないことを「幸せ」というのかもしれません。 そんなことを思いました。有難うございます。
0理由はないのですが、 私も二連目はうまく書けたと思いました。 埃っぽくて乾いた屋根裏や、使用人部屋の乏しい光を浴びて、 床に座って肩を寄せ合って他愛ない話をする。 そんな時間を過ごせたら、きっと幸せなんじゃないでしょうか。
1「飢えに見合うだけ食べて」この詩行がいいと思いました。 「もはや夢も現も境はない」この詩行に不安を感じました。
0書く時、どんな言葉を選ぶかは気分次第です。 結果読まれた時に形を取る思いは様々ですが、 作者より多くを感じ取っていただけたようで嬉しいです。
0陽射しは太陽の愛情である。一人で過ごしているとそれを強く感じる。陽射しは確かに、友達以上恋人未満の暖かさを伴っていると思う。途中、陽射しとは少し離れた連があって、それでテーマがぐらついたと思う。もう少しテーマに絞って書かれたらもっと良かったのではないか。それは自分にも言えることで、テーマに絞れば絞るほど短くなってしまうし、物足りなさを自分でも感じてしまうのだが。詩人は言葉の王様だろうか。或いは、言葉が王様であり、詩人は命令され続ける奴隷であるだろうか。毎日生きているだけで勝手に言葉は生まれる。是が非でも、言葉に指を動かされるだろう、僕はここにいるよと言葉が紙の上に現れるように。詩人とは、言葉に寄生されたカマキリのようなものではないか。水に浸けてやれば、寄生してきた言葉が這い出てくるような感じの。陽射しを暖める、という逆転の発想が良かった。本来、陽射しには暖められてばかりだから。逆に、その陽射しに対して慈愛の眼差しをもって応える最終連が特に良かった。しかし、それだけにもっと主題に忠実で、研ぎ澄ましても良かったのではないかと思う。個人的な見解に過ぎないのだが、一意見として述べておきたい。だからと言って、迅速に過ぎるのもどうかと思う。もっと思考の涯に触れてみたかった。そこまで行き着いて出された答えがシンプルだったら最高だ。これは勿論、自分にも言えることである。何にしても作品が縺れてしまうので、もっとシンプルな形状にまで研ぎ澄ますことはできないかと模索している。作品に宿るもの、作品に宿るものとは何だろう。言葉、それだけではない気がする。無論、詩の中には、言葉しかないはずなのだが。作品に宿るもの、それは何だろう。叙情とか音楽性とか、頭韻だの脚韻だのでもない、比喩でもない。作品には何が宿っているのだろうか。作者の思い。そう言い切っていいのだろうか。いや、やっぱり、作品に宿るものは、叙情性か音楽性か比喩か、というよりは“言葉の使い方”それなのかもしれない。
0安っぽくてうまい屋台で 飢えに見合うだけ食べて 屋台の魅力ってありますよね。
0詩というものの本質は、言葉を縛り付けるすべての糸を断ち切って、ありのままの世界を描くことかな、とふと思いました。そこにないものを書いてもいいし、あるものをあると言い切ってしまってもいい。それが作者にとっての世界の姿であったなら、本当のことを書いて伝えなければならない。技巧を使って言葉で遊ぶのも楽しそうで羨ましいのですが、私がするべきことはそういった、愚直と言われるまでに生きることへ対しての肯定かもしれません。見えたものから言葉を使って生まれてくるものを、私は詩と呼ぶのかもしれない。といって、分かったような気がしても書ける訳ではないのですが。 言葉ってほんと不思議ですよね。自分の中にこんな言葉がなぜあるのだろうと思うことがしばしばです。それこそ朝の光のように誰か(最近私はそれを神と仮定して使っています)から与えられるもので、自分の中で奴隷や王様といった捉え方はしたことがなかったので、面白かったです。文章としては違いますが、なんとなく類さんと同じことを考えられているような気がしています。寄生され、命じられ、こき使いながら、これからも付き合っていくものなんだろうなと思います。良いものとも悪いものとも、食事や排泄と同じように生活の一部として。言葉の使い方は作者の生き方そのものを表しながら、また次の詩に変わっていく、繰り返す内に研ぎ澄まされていく。 やっと他の方の詩を読もうという気が起き始めた所です。まだ読み込むことは出来ませんが、共感はするようになってきました。主題についてももう少しよく考えてみます。時々顔を出すと思いますので、これからも良かったらお付き合いして下さると嬉しいです。
0屋台でご飯を食べることへの夢が詰まっている連です。 実際には全く縁がないので。 そういう思いを書いた時の方が伝わりますね。
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