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灰
昨日、昨日のことを思うたびに、どこか海の匂いがする。吸い込まれそうな気分になって、あらゆるものが波の色に染まっていく。とりとめがなくて、掴みどころのない、昨日の全ての姿。昨日の自分が、私を見つめている。私もまた昨日の私を見つめ返している。波の色に染まったもう一人の私の姿がゆらゆら揺れながら、私の全てを飲み込んでいくんだ。 切り裂かれた肉片を繋ぎ合わせて作った、一輪の薔薇よ。血管を束ねたのだろう茎が、所々膨らんでいる。私はその姿に、愛のようなものを感じていた。愛のようなものが痛々しく佇みながら、少量の血を花びらから滴らせている。時々薔薇から聞こえてくる小さな悲鳴に私は耳を塞いでいた。助けを求める声のように、私の耳の中にこびりついてきて、何もかも違うんだ、と私は言った。 何が違うの? と壁掛け時計が口を開いて呟いた。――だって全ての姿はあなた自身に他ならないでしょう? 倦怠の内に微睡む全ての姿はあなたの生き写しでしょう?――灰まみれの窓、灰まみれのベッド、灰まみれの洗面台、灰まみれの全ての姿が、私そのものなら、私もまた灰まみれにならなければならない。そうなった時に初めて私は全ての中に溶け込めるような気がしていた。私だけが一人、鮮明な姿でいるのは、自分自身に嘘をついているからではないか、と……。 アルバムの中は黒塗りの写真でいっぱいだった。思い出したいのに忘れたい記憶の集合体として、私の両目の中で一つになろうとしていた。黒塗りされたもう一人の自分が私の中で溺死している。それなら私も溺死していなければ嘘になるだろう? 私は昨日のことを思い出していた。昨日のことだけが色鮮やかに、波の色を纏いながら、ゆらゆらと私の内側から溢れ出てくるからだ。昨日の昨日が漆黒の闇に張り巡らされていても、それ以上先に行かなければそれで済むことだった。全てが海の匂いを放ち始める。全てが波の色に染まっていく。私の内側から指先へと波の色が流れていく。私はもう私が分からない。分からない私が私を見つめている。 もう一人の私の首を、私は両手に絞めていた。掴みどころのない、波の感触の首を絞めても、もう一人の私は私を微笑ましく見つめている。その時、私も微笑んでいなければならなかった……。そして、自分の首も絞められてならなければならなかった。喜びも、悲しみも、混ぜ合いながら、帳尻合わせをしていくものと私は知ったが、きっと昨日の私も知っていただろう。彼女は消え、全てが流れ去っていく。花のない花瓶も、冷蔵庫も、テーブルも、傘立ても、全てが等しく流れ去っていく。全ての波が私を押した。私は押し流されながら今日のベッドの上に舞い落ちていく。昨日の私が死んだのなら、これから始まる365日の全ては灰にまみれていなければならない。私は、……。
灰 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1288.0
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2021-08-04
コメント日時 2021-08-15
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
最後の部分を私の想像でいくと、青く鮮やかな海が全ての色を拭い去って、「私」自信も均質的な灰になった、だからもう言葉、思考という鮮やかな行為は出来ない(もう語れない)ということかな、と思いました。 血管とか肉片とか、私がよくやっちゃう自己満足的な詩と似たところがあるけど、この詩は哀愁が漂っている感じがあって好きです。
0ありがとうございます。 概ねその通りです。昨日の自分に勝つことが、今日の自分を生きることとすれば、昨日の自分に勝つことは、ある意味では、今日の自分は明日の自分に負けるだろうということです。結局、昨日とは今日の延長線上にあって、昨日の自分と向き合い続ける限り、そして勝とうとし続けることは、明日の観点からすれば、常に自己否定という負の連鎖しか生まないかと。逆説的なアプローチをしてみました。
1使われているモチーフが好きだなあと、惹かれました。記憶と海の匂いの結びつき、波及び波の色、アルバム、つまりは、記憶と海に関することが書かれているとつい目がいってしまうんですね。 それで、内容は何について書かれているのかと。「もう一人の私」≒「昨日の自分」との対面。その「もう一人の私」は「私の全てを飲み込んでいく」のです。そもそも「もう一人の私」というのは、「私」が想定して生み出したものであり、所有物としての主従関係がありそうで、逆に「もう一人の私」に飲み込まれてしまうという逆転が起きています。 「愛のようなもの」という何気ない表現が気に入りました。そうした不確かなもの、形にできないものを不確かなままにしておくということ。 3連目でいよいよタイトルの「灰」に絡めた描写が出てきます。「私もまた灰まみれにならなければならない」という表現。この「なければならない」という使命感は、自らが自らに課したもので、誰かに背負わされたものではないでしょう。いや、強いて言うなら、「もう一人の私」がいるから背負わされたのかもしれません。 「アルバム」について、「思い出したいのに忘れたい記憶の集合体」という矛盾した表現も何気ないですが、気になる表現だなあと。本心は「思い出したい」のに、「忘れたい」ものとして錯覚しているのでしょう。 ところで、「昨日のこと」とは何なのでしょう。この語り手に何があったのでしょう。それもまた「愛のようなもの」のように(二重「ように」)、不確かなものでありながらも、「灰」や「黒塗り」にされたものとは別に「昨日のことだけが色鮮やかに、波の色を纏」っているのです。その内容がわからずとも、語り手に対して変化をもたらした出来事であろうということは、読み手へ確かに伝わってきます。 最終連の「私も微笑んでいなければならなかった……。そして、自分の首も絞められてならなければならなかった」という、改めての使命感。やはり、こうした使命感は「もう一人の私」がいるからこそ生まれたものなのではないでしょうか。 ラスト、「昨日の私が死んだのなら、これから始まる365日の全ては灰にまみれていなければならない」ということ。よほど「昨日のこと」や「昨日の私」というのが、「今の私」に重要な意味があることが繰り返されているのですが、「昨日の私」が死ぬのは、いや、「昨日の私」を殺すのは、「今の私」次第であるということでもあるのだろうと。 「今の私」が「昨日の私」を生かさなければならないという主従関係があるようでいて、「昨日の私」がいることで「今の私」の世界が灰にまみれないで済むという、お互いの少し歪な結びつきが見受けられて、どうすることもできない、少しもどかしくも感じてきてしまいました。
0ありがとうございます。ニヒリズム、それも不完全なニヒリズムの作品には勿体ない程の読解を読み、嬉しくなると共に今すぐにでもこの場から逃げ去りたい気持ちになりました。「思い出したいのに忘れたい記憶の集合体」それは、黒塗りのアルバムが示すように、一種の自己防衛としての忘却が作用していることを言いたくて、そして、昨日のことだけが美しく感じるのは、思い出の美化のことであり、自分自身に対する悲しい嘘なのであります。灰色の自分とは、感性が鈍くなっていく倦怠の、それも不完全な惰性の姿であり、この上なく惨めで弱い存在を描いたものです。昨日の自分を殺すとき、昨日の自分もまた今日の自分を殺す。この極めて負の連鎖的な生の不条理な在り方を、私はニヒリズムと名付け、そのニヒリズムの中に溶け込もうとしていたのです。昨日と今日が絶えず相殺しながら明日を迎える、それも灰色に死にながら生きていく、こんなに愚劣な生き方を私は諦めの感情に似た失意と共に書きつけてしまいました(それもヘラヘラと!)。しかしながら、やはり人間は希望を持って生きるべきです。灰まみれの人生であろうと、灰色を憂うことなく、喜んで明日もまた灰にまみれてやろうという気概を持って生きていこうと思うのです。やがていつか汚れきって真っ黒になったときに、最高の美を手に入れるんではないか、といった理想……。最悪を知った時に最高を知ることができる、といった希望……。とにもかくにも、人はやはり動き続かねばなりません。動き続かねば、理想も希望も静寂の中で葬られてしまうからです。私は、自分の弱さを美化してしまったと思います。それでいてややもすると顔も分からぬ他者に同情を求めていたのかもしれません。迂闊にも隣人愛を求めてしまったのです、そして絶望を拡大してしまったのです、エアコンの大変よく効いたこの広いリビングで! 使命感、というのは、あなたの優しさです。正確には単なる強迫神経症的な弱音に過ぎません。しかしながら、使命感は大切なものであると思います。それは生きる責任であるとも言えます。生きる責任、即ち、夏季休暇が終わって明日から仕事が始まるのを嫌がるのではなく、喜んで明日を迎えて、喜んで仕事をしようと思えたのなら、もう全てを言い尽くしていると思います。――これ以上の弁解は不要でありましょう。酔っ払いの戯言として切り捨てて下さい。
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